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2019年9月10日火曜日

珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。
本文より~

学生起業家、マクドナルドへ。

小さな頃から起業には関心があった。中央大学に進学すると、おなじ大学生でありながら、起業する人が現れる。いわゆる学生起業家だ。
「私が学生だった頃は、起業が流行っていました。私の周りにも起業する人が現れます。じつは、私も大学2年の時に飲食店をオープンしました。開業資金は、借金です/笑」。
卒業するまでつづけたが、なかなかうまくいかなかったようだ。
「就職すれば、さすがにつづけられません。それで、大学卒業直前にお店を閉める決断をします。残ったのは2,000万の借金です」。最初の起業は2年半で幕を閉じたが、むろん、いい経験ができた。
「私が就職先に選んだのは、日本マクドナルドです。マクドナルドって、最初はそう給料が高くないのですが、店長になると、ぐっと給料がアップします。店長になるには、平均6年くらいかかるのですが、借金があったから頑張らないわけにはいきません。/笑」。
ちなみに同期276人のなかで、いちばん最初に店長に昇格したのも友成氏だ。店長、昇格は25歳の時だったという。しかも、30歳でスーパーバイザーになっている。いっておくが、あのマクドナルドで、である。店長になるのも、難しい会社だ。早くて、10年かかると言われていたそうだ。会社からの評価が高かった証でもある。
そんな友成氏にアメリカへの転勤の指令が下りる。34歳の時だ。

シカゴへ行け。

「最初は『長野に行け』だったんですが、すぐに取り消され、『もう少し遠いところになった』って。それがシカゴです/笑」。
これから、友成氏のアメリカ生活がスタートする。
「最初の2年間は、シカゴの店舗で勤務していました」。仕事のかたわらで、じつはビジネススクールでMBAも取得している。
「会社からの指示ですか?」と聞くと「ぜんぶ自腹」と笑う。向こうの大学院は高い。数百万円かかったと聞いてびっくりした。ただ、この話を聞いて、友成氏という人物がイメージのなかで、はっきりと立ち上がる。まっすぐで、貪欲な人なのだ。
「3年目からは、アメリカの本社でプロフェッサーとして仕事をしました。世界のマクドナルドの本社ですからね。いい経験にもなりました」。友成氏は軽くいうが、むろん、異例の人事だ。世界でも数名しかいない抜擢だったともいえるだろう。 帰国したのは、友成氏が37歳の時。すでに、マクドナルドを代表するような青年に育っていた。

イギリスのサンドウィッチ店「プレタ・マンジェ」オープン。社長に就任。

「帰国した翌年ですね。私が38歳の時です。新たなグループ会社が立ち上がり、私がその会社の社長に就任することに決まります」。
社長になってオープンしたのは、イギリスのサンドウィッチのファストフード店「プレタ・マンジェ」。オープンは2002年7月。
「それまで遠い存在だった藤田田社長とも、この時いっしょに仕事をさせていただきました。会社は、2年半後に解散になりましたが、いい経験になりました。藤田さんっていうのは、とんでもなくすごい人です」。
2年半。この経験は、だれにもできるものではない。
「解散は、もちろん悔しかったですね。会社の指示だから、従わないといけないんですが。プレタ・マンジェのウリは合成添加物をいっさい使用していないサンドウィッチです。まだ、日本には早かったのかもしれません」。
従わなくてはいけない、と思ったものの、友成氏はあきらめ切れなかったのだろう。
「つくった組織の解散も忍びない。だから、思い切って私が会社を立ち上げました」。
このあと、新たなステップとして友成氏は、モスフードサービスの顧問に就任し関連会社の会長として、8年間、指揮をとった。
「いろんな愛着がありますね。起業した会社もそうですし、マクドナルドも、自分で立ち上げた会社も、もちろん、モスも」。
そんな友成氏が珈琲館に転職した経緯はこうだ。
「最初は、私の後輩を紹介しようと思っていたんです。ただね。話を聞いているうちにだんだんと興味がでてきてしまって。これは、私がなるべきだな、と。社長に就任させていただきました」。
・・・続き
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2014年6月3日火曜日

株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏が登場。
本文より~

福建省、出身。

藤井は1978年5月15日、中国の福建省に生まれる。福建省といえばウーロン茶の宣伝で知られた日本人の我々にもなじみがある。だが、CMの映像から勝手に内陸部だと思い込んできた。今回、藤井をインタビューするなかで「魚や貝を良く食べた」という話が出てきたので、改めて調べてみると台湾の対岸に位置する沿岸の都市だった。
「うちのお婆ちゃんが、残留孤児だったんです。私が12歳の時にお婆ちゃんが日本に帰国することになりました。祖母と叔父が私たちより1年早く日本に向かい、翌年の1990年に親族合わせて200人くらいで日本に渡りました。そうですね、当時の日本といったらバブルの真っ最中です。不安よりもむしろ凄い国に移住するんだという期待の方が大きかった気がします」。
「父は福建省ではタクシーの運転手をしていました。タクシーと言いましたが、日本のタクシーとは違って三輪車です。15人くらい乗れる大型の三輪車で、生活はそれほど貧しくありませんでした。それでも、経済大国の日本には憧れていました。大人たちは、我々子どもと違って不安もあったんでしょうが…。」
12歳。日本では小学6年生となる。
「日本に来て住んだのは、横浜の本牧というところです。来日して、しばらくは3階建ての住居の3階に3家族が住んでいました。ちょうど1Fと2Fが弁当屋で、親族そろってそちらでアルバイトをさせてもらっていたからです」。
当時、横浜の本牧には中国の方がたくさん住んでおられたそうだ。

12歳の少年、バナナに驚く。

日本に来ていちばん驚いたことはなんですか?という問いに、藤井は、可笑しげに「バナナ」といった。「当時、中国ではバナナは高価だったんです。年に1度食べられるかどうかという。それが日本に来たら食べ放題だったわけで、それがいちばん驚いたことです(笑)」。
バナナは腹いっぱい食べられたが、けっして裕福なわけではなかった。残留孤児といっても、国からの支援は何もなかったという。
「父は自動車関連の工場で勤務していました。工場内は、とても暑いといっていました。耐えきれず辞める人も多かったようです。ただ、中国人の父は辞めるわけにはいかなかった。お金を稼がなければいけないから、残業する人を募られると真っ先に手を挙げていたそうです」。
父は勤勉を絵に描いたような人だった。母も父も倹約家で、とことん切り詰めた生活。
「当時、いちばんたいへんだったのは、父が仕事の最中に誤って指を切断してしまったこと」と藤井。
母も仕事をしていたが、父が家族の生活を支えていたからだ。幸い、父は半年で復帰。話を聞いていると、父の頑張りが目に浮かぶようだ。交通費を切り詰めるため、1時間半かけ工場と自宅を自転車で往復されていたらしい。会社からの評価は高く、契約社員から正社員に昇格している。・・・・続き
株式会社ケンコー 代表取締役 藤井 健氏
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