“飲食の戦士たち”にホノルルコーヒージャパン株式会社 代表取締役社長兼CEO 萩原利貴氏を取り上げました。
山手線に揺られて。
大人たちにまじって、少年が1人、満員電車に揺られていた。少年というには、まだ幼い。「小学校にあがる前の話」と、今回、ご登場いただいたホノルルコーヒージャパンの代表、萩原さんが笑う。
1978年、萩原さんは杉並区に生まれる。
5歳で練馬区に引っ越したが、幼稚園はそのまま。だから、電車に乗った。
<園児の電車通学。たいへんでしたね>と笑いかけると、「そうですね」と相槌を打ち、話をつづけてくれた。
「小学校では、1年生からサッカーのクラブチームに入ります。通学もそうですが、小さい頃から割と自立していたように思います」。
お父様は大手外資系企業の取締役、お母様は保険会社のトップセールスウーマン。
「父親は、私が小学4年生のときに独立します」。
国際航空貨物の会社だったから、「うちにもしょっちゅう外国人がいらっしゃいました」と萩原さん。
外国人と、いっしょに食卓を囲んだこともある。
目の前で意味不明の言葉が飛び交った。萩原少年は、料理を口に運ぶふりをして、聞き耳を立て、大人たちの表情を盗み見していたにちがいない。
海外にも何度も行った。
「愛情は注いでもらっていましたが、子育ては、放置状態(笑)。おかげで、自立心が育った」と笑う。
サッカーと海外と。
小学生の頃から、「頭一つ抜きんでていた」という。こちらは、サッカーの話。小・中とチームトップのプレイヤーだった。
当時、Jリーグが発足。
三浦カズ、ジーコ、中山ゴンなど、人気選手が現れた。
小・中学生もサッカーに熱中。地元チームのトッププレイヤーだった萩原さんには、ファンクラブができた。
「あのときが絶頂期」と萩原さんは笑う。バレンタインデーともなれば、チョコを渡そうと自宅前に長い長い行列ができた。
その列をみて、世界的な企業で取締役まで務めておられた、お父様が目を丸くされていたそうだ。
ただし、萩原少年は、恋より、サッカー。
「カズさんを真似て、ブラジルへ」。
少年は、サッカーに心を奪われていた。
「でも、当時のブラジルは治安が最悪で、結局、行くことができなかった」と苦笑する。ただし、中学2年の時、北イタリアに1人で渡っている。3週間のサッカー留学。
<中学2年? ご両親からよくOKがでましたね?>というと、苦笑しながら答える。「そうですね。私だったら絶対行かせない(笑)」。
そういう萩原さんだが、本人は、高校生になって、今度はアメリカに留学している。
テネシー州と、少年と。
「テネシー州の日本人学校に留学するんですが、学校や寮を一歩でれば、差別が渦巻く世界だった」とのこと。それと同様に、洗濯が高校生の萩原さんにとっては、こちらも大問題だった。
「だって、洗濯なんかしたことがなかったから(笑)」。
<サッカーはどうしました?>
「アメリカはサッカー熱が下火。だから、メキシコ人とサッカーボールを追いかけたりして」。
<メキシコ!>と絶句した。
ブラジルではなかったが、今度は、メキシコ人とピッチに立ち、ゴールをめざす。まるで、サッカー漫画に登場する少年のようだ。
「でもね。その頃、私のサッカー熱も少しずつ冷めていたんです」。
<そうなんですか?>
「ええ。ただ、帰国後は、桐蔭横浜大学に進学して、大学でもサッカーをつづけます」。
桐蔭横浜大学はのちに、大学チャンピオンにもなりサッカーの名門校となる。
「当時は、日本中からトッププレイヤーを集めて、強くしていこうというフェーズでした」。
萩原さんも、その1人。だが、正確にいうと、同期は、トップオブトップばかりだった。
「元Jリーガーや海外でのプロ経験を持つ選手がふつうにいるんです」と萩原さん。「じつは、同じフィールドでプレーした仲間たちの多くはプロに進んでいます」。
<萩原さんは?>と聞くと、小学校1年生から始めたサッカーも大学の途中で周囲の選手に圧巻され完全に社会へ出ることに気持ちが決まったのかもしれないと苦笑する。
テネシーに渡ってから7年、少年は、もう大人になっていた。
歴代の新人記録を塗り替えた営業力。
「プロに進むなら大学名で箔がつきますが、一般社会で就職するとなると、当時の知名度はかなり低かったですからね」。
「でも、どこかで、プロになっていく同期たちに負けたくなくて、とにかく、いい会社に入らないと」。
猛勉強もした。対策も練った。
「ありがたいことに大学の知名度にとらわれず実力を見てくださる企業も多く、次々と内定をいただきました」。
難関のマスコミでも、最終関門まで残った。結果、40社以上から内定を獲得。
「入社した化粧品メーカーは約3万人の応募に対し、採用は145名という狭き門でした。化粧品メーカーですが、社員の約半数は男性でした。(笑)」。
入社前から新入社員に課せられた売上レースで1位を目指して結果を残した。
「私につぐ2位は、女性社員でした」。
<2位?>
「ええ、最初の2ヵ月、新入社員は自身で化粧品をセールスして売上を競います。私が1位の333万3400円で、2位の女性が約200万円だったかな」。
<145名中、1位?>
「それが145名中じゃなくって、じつは、このコンテストが始まって24年目だったんですが、過去入社された方の実績を全員、抜いちゃったんです」。
食堂のおばさん、夜の街で働く女性たち。
彼女らが援軍となって、萩原さんの売上をサポートした。1人で販売網を構築してしまった。萩原さんが、だれより人を魅了するちからをもっていた証である。
出世レースに勝ち続けていたけど、退職。
ベテラン顔負けの結果を残した萩原さん。最初に配属された大宮を皮切りに、青山、銀座、そして、盛岡、青森と転勤を重ね、青森で支店長に就任。
29歳の若き支店長の誕生だった。
その後も仙台、福岡、大阪、神戸と転々とする。
<でも、社長にはならなかったんですね?>
「じつは」と萩原さんは、当時の葛藤を口にする。
「出世競争にも疲れたわけじゃありません。ただ、海外赴任の内示をお断りしてから、急に、会社が遠い存在になってしまったんです」。
会社からの期待が、プレッシャーになったことは一度もない。20年間、どこに行っても社内記録を更新。
すべてに、結果を残してきた。期待と結果が、会社の経営陣と萩原さんを結びつけてきた。
誰よりも働き、結果を出し続けたが、今後先々まで、サラリーマンとしてたたかうことをやめた。
一人の少年が描いた大企業で社長になるという夢はここで断ち切れた。
でも、「もっともね。退職は決めたんですが、そのときはまだホノルルコーヒーを経営しようとは思ってもいませんでした」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
.jpg)

0 件のコメント:
コメントを投稿