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2022年2月8日火曜日

中野Company株式会社 代表取締役 中野雄斗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏登場。

本文より~

ホットコーナー。

滑川市は「なめりかわし」と読む。
富山湾に面し、富山県の東部に位置している。ホタルイカの漁が盛んで、富山湾沿岸の「ホタルイカ群遊海面」は国の特別天然記念物に指定されているそうだ。
中野家から、その富山湾まで200メートル。じつは、中野氏の父親も数年前、長年のサラリーマン生活に終止符を打ちホタルイカの漁師に転身されている。
「祖父もサラリーマンをしながら山にはいって狩猟をしていましたから、そんな祖父の遺伝子が騒いだのかもしれません」。
父親は若い頃、もとレスリング選手でオリンピックを惜しくも逃がしたそう。
「そんな父親の影響もあって、私も小さい頃から格闘技を始めます。ハイ、柔道です。野球もしていたんで、柔道と野球の、二刀流です」。
ちなみに、中野氏は1992年生まれ。「野球1本にしたのは小学4年から。サードで打順は1~5番。スイッチヒッターでした」。
「あの頃は」と言って頬を緩める。
「正直、身体能力がずば抜けていましたからね。さすがに父親にはかないませんでしたが、学校では何をやっても負けることがありません。しかも、性格がこれですから、相当、エキサイティングな選手だったと思います」。
試合になると、サードを守る中野氏は、相手の三塁ベンチに向かって唸り声をあげた。打者がバントをしようものなら、狙ってこいとばかりホームに突っ込んだ。
三塁はホットコーナーと言われるが、中野氏が守っている限り、三塁以外でも、そこがホットコーナーだったにちがいない。
「中学ではキャプテンだったんですが、高校では、そういう私の性格がたたって。チームのムードメーカーだったものの、監督やコーチらが『あいつをキャプテンにしたらやばい』となって」。
「あの時、どうしてキャプテンにならなかったんだろうとよく思いますね。私がキャプテンだったら、もう少しちがう結果を残せていたと思うからです」。
中野氏が進んだのは滑川高校。ロッテの石川選手の出身校でもある。

めざすのは、大晦日のリング。

大学までのターニングポイントを挙げてもらうと、「甲子園に行けなかったこと」と一言。「チームで行うスポーツの限界を感じたのは、その時」とも言っている。
「それもあって、私には個人競技が向いていると思い、格闘技に転身します。今度は、大晦日の、テレビでも放映される格闘技の大会をめざします」。
 指定校推薦で専修大学の法学部に進んだ中野氏は、「新聞奨学生」となって、学生生活を送る。毎朝2時からかかさず新聞を配る。むろん、めざすのは大晦日のリング。
櫻庭和志選手の門下生になっている。
「ただ、1年のときの試合で完敗しちゃうんです。潜在的なちからでは負けてないと思いましたが、経験も技術もぜんぜんちがっていました。挫折と言えば挫折ですが、はじめて納得して、『挫折』を受け入れることができました。ただ、心が折れ、格闘技は1年で辞めてしまいます」。

飲食の道、始まる。

新聞配達の一方で、ほかのアルバイトにも精をだす。
「だんだん、そっちが楽しくなっていきます。大学の授業には興味がなかったし。なんたって、アルバイトすれば、お金が貰えますからね。ただ、まさか、それが未来につながっているとは思ってもいませんでしたが」。
大学3年、中野氏は一つのアルバイトを開始する。
「親友の紹介で、個人経営のラーメン店でアルバイトを始めます。老夫婦が経営する店だったんですが、店主がユニークで、お店に着くと、まずビールサーバーでビールを注いじゃう。で、ゆうちゃん、あ、ゆうちゃんと言われていたんですが、『ゆうちゃん、一杯いくぞ』って。大学生にしたら、無茶無茶、面白くないですか?」
給料ももらっていたが、時々、ポケットに1000円、2000円と突っ込まれた。「いいから。もらっとけ」が口癖だったらしい。そんな店主に魅了される。
いつのまにか常連さんからも、「ゆうちゃん」「ゆうちゃん」と言われるようになった。
「高校の時から『消防士』になろうと思っていたんですが、年功序列の縦割り組織でしょ。チームプレーにはむいてないですし、ちからのない上司の下につくのもいやだった。だからでしょうね。ラーメン店のオーナーをみて、独立すればオレがトップ、だれにも支配されない、と」。
どっちがいいか天秤にかけたら、答えはすぐにでた。
それで、ワタミに?
「じつは、そのラーメン店が好きすぎて、最初は、お店をつぐつもりでいたんです。ただ、店主と奥さんに『大学もでているんだから、おなじ飲食でも最初は大手で勉強したらどう?』と言われて。そりゃそうだな、と」。
案外、素直なところもある。
「それで、ネットをみて知ったのがワタミという会社でした」。
尖っているから、説明会に参加しても冷めてしまう。面接官をみても、「あいつより、オレが上」と思ってしまうから。「ところが、渡邉美樹さんは、ぜんぜんちがいました。説明会で、心をわしずかみにされちゃいます」。

トップオブトップ。

当時、ワタミのなかで日本一の売り上げをあげていたのが、都内にある西新宿店。中野氏は、次世代のホープとして、この300席の大箱店に配属される。
「キッチンに放り込まれたんですが、突っ立っているだけで何もできません。右往左往するばかりです。スピードがとんでもない。しかも、外国人ばかり笑」。
そのとき出会ったのが、バングラデシュ人のリーダーだった。国籍は違うが(むろん、それを気にする中野氏ではない)社会にでてはじめて尊敬した人である。
中野氏の人物評価は、ちからが基準になる。
その力を生み出す背景が何か知っているからだ。
「とにかく、すごい人だったんです。日本語もペラペラ。日本人より日本人の精神をもっているような人で。仕事も、当然ですが、無茶苦茶できる。私のなかでトップオブトップでした」。
馬が合う。感性がフィットする。そのリーダーも中野氏に惹かれたんではないだろうか。2人はいまも連絡を取り合っているという。

25歳で独立を果たす。

「ワタミでは、入社したときから高い評価をいただいていました。24歳の頃には、介護など、ほかの事業部の人からも『あれが、中野さん』と言っていただけるようになっていました」。
嵐を巻き起こすたびに、中野氏の名がとどろいたに違いない。
「当時は、『帰れ』と言われても帰らなかったですね。だって、仕事を学ぶためにワタミに来ているんですから。早く帰るなんて、もったない」。
時代に逆行しているほどの、尖りっぷり。「同期とはあまり交流がなかった」というのも頷ける。
結局、中野氏は25歳で独立を果たす。わずかワタミに入社して3年。むろん、最短記録。上司だけではなく、経営トップの渡邊氏も中野氏の独立には期待を寄せていたのではないだろうか?
業績は期待通り、急拡大する。

・・・続き

株式会社ビー・ワイ・オー 代表取締役社長 中野耕志氏

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2021年6月24日木曜日

株式会社ビースマイルプロジェクト 代表取締役社長 桑原 豊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ビースマイルプロジェクト 代表取締役社長 桑原 豊氏登場。 

本文より~

親会社はカミチク。その会社なら知っている。

最後の3年間は香港やカンボジアだったと社長も務めた事があるワタミ時代を振り返る。
「ワタミの社長を退任し、ワタミインターナショナル社長に就任します。むろん、渡邉とは情報を共有していました。ワタミグループを退社するのは香港から帰国し数ヵ月した時です。元々起業するつもりでしたので、それがこのタイミングになったと言う事です」。
「起業することをすかいらーく創業者の横川 竟さんに報告すると『やめておけ』と言われます/笑」。
「少なくとも『今すぐじゃないんだろうから』と、人材紹介のエージェントに会うよう勧められました。私も半年位はインターバルをみていましたし、尊敬する横川さんの勧めなので一度会ってみるかと割と気軽な思いでエージェントにお会いしました。その時に紹介されたのが、今私が社長を務めるビースマイルプロジェクト(以下、BSP)だったんです」。
「BSPと言われても全然ピンと来ませんでした。聞いた事も無い社名でした。ただ、親会社の話になった時には、逆にピンと来て『それってカミチクでしょ』って言ったら『そうです。よくご存じですね』と/笑」。
実は7年前に、桑原氏は「カミチク」と出会っている。
「皆さんもご存じだと思いますが、ワタミは1次産業も行っています。酪農・畜産もその一つで、私が代表の時も北海道で広い牧場を経営していました」。
いち早く短角牛の飼育も行い、牛は全部で900頭いたと言うからスケールもでかい。
「かなり投資もしていたんですよ。有機の牧草で飼料から吟味していましたので、チーズやアイス等の乳製品にも自信があった。当時肥育数の少なかった短角牛にしてもパイオニアです。A5ランクのサシ入りより、赤身系の体にいい、牛もダメージを受けていない牛肉がいいだろうと短角にいち早く目をつけたのがワタミです。短角だけで200頭はいたんじゃないかな」。
山の向こうまで続く広大な牧場。牧草は全て有機。牛達は、その牧草を食みながら育つ。「ただ、お金をかけると言っても、メイン事業ではない分限界がある。ワタミは1次産業に進出する事で、循環型のスタイルを作りたかった訳ですが、メインはやはり3次産業ですから」。
視察の度に苦笑する。
「牛舎が汚い」と桑原氏は笑う。
「屋根には穴が開いている。匂いもきつい。とはいえ、飼料も有機で育てて貰っている事からも分かる通り、『想い』がない訳じゃない。ただ思いだけでは収益は上がらない/笑。生産性も含めて、事業としてやって行くにはどうすればいいか、それが当時ワタミの経営者であった私の悩みでした」。
確かに資本力があっても事業化は難しい。それが農業である。
「その時、ある農機具メーカーさんに『お手本になる会社はないか?』と尋ねます。勿論、当社と同程度の規模で、尚且つ収益をきちんと上げている会社です。そうしたら『日本に1社だけある』って言うんですね。そう、その日本に1社の会社が『カミチク』だったのです」。

7年ぶり。縁は繋がっていた。

縁があるとはこう言う事なのだろう。
「カミチクは鹿児島の会社です。『早速、1泊2日で行きましょう』と言う事になります。初日に鹿児島の繁華街『天文館』で鉄板焼を頂くんですが、それがカミチクの牛肉との最初の出会いでした」。
いい肉だった。むろん、文句なしで旨い。
「翌日、牧場に行く訳ですが、その場に降り立って『え?』って首をかしげます。牧場に行く時はいつも覚悟して行くんです。匂いがきついでしょ。でも、カミチクの牧場は全く匂わない。微かに漂っている位で」。
当時、訪問した牛舎では、約3000~4000頭の牛を飼育していたそうだ。
「それ以上に驚いたのは多数の若い人達が働いている事。すれ違う度に『お元気様です』って、独特の挨拶をしてくれる。礼儀も正しい。同じ牧場なのに異なった世界を観ている感じでした」。
牛舎も綺麗に掃除されていて、これにも驚いたと桑原氏。
「正直、驚きの連続でした。視察が終わり、最後に社長(カミチクグループ代表 上村 昌志)にインタビューさせて頂くんですが、その話を聞いて絶句しました」。
飼料も契約農家にお願いして、自社で作っているとの事だった。「しかもね、耕作放棄地を使っているとおっしゃるんです。耕作放棄地を使って、牛の為の米やコーンを育ててもらう。しかも、年間契約で全量買い取り。その結果、耕作放棄地も蘇り、安定的に収益が上がるから後継者も育つ。牛の飼育は勿論ですが、土地も、農業も、人も蘇生する」。
「絶句」と言うより、「気絶」と桑原氏は表現する。生産性からしてまるで違う。お手本というより、理想。その時、もう一つ質問を重ねている。
「巧くいく秘訣は?とストレートに尋ねました。そうしたら『農業が難しいと思うのであれば、やめた方がいいですよ』って言われるんです」。
農業は難しい。片手間ではできない。ひょっとしたら上村氏はそう言いたかったのかもしれない。
「その後私も海外に赴任しますから、その後のお付き合いはありませんでした。ただ、酪農は勿論ですが、当時から海外に目を向ける等、先進的な会社と言うイメージは残っていました」。
「カミチク」と言う社名もインプットされた。
その会社に再度、出会う事になる。
今度は銀座で。
それが2018年の事。

上村氏と渡邉氏。

「『副社長』と言うお話でしたが、私は起業を計画していたので、顧問として携わりたいとお願いします。2018年7月の事です。色々とお手伝した中で、一つ挙げるなら、2019年12月渡邉さんと上村さん・・・つまり、ワタミとカミチクとで合弁会社を作るんですが、そのきっかけを作ったのが私です」。
2人は同い年だし、どこか似ていると両者を良く知る桑原氏は言う。経営理念やビジョンも近い。それで一度、セッティングしようと思ったそうだ。しかし、会って5分で合弁会社設立の話がまとまるとは、きっかけを作った本人も驚いている。
「渡邉さんが先に興味を持って、事前に上村さんには合弁会社の話を伝えてはいたんですが、さすが創業者同士ですね。会って5分。相手をみるなり『やりましょう』となり5分で構想が固まります。桁違いのスピードです」。
それが「かみむら牧場」ですか?
「そうです。合弁会社を作り、海外戦略も含めやっていこうとなります。いわば、生産のプロと飲食のプロががっちり手を握ったと言う話です」。
上村氏は事業化が困難な農業でいくつもの答えをだしている。一方の渡邉氏については今更言うまでもないだろう。
カミチクのホームページには「日本の農業に、答えを。」と言うキャッチフレーズが掲げられている。ただ、農業だけですべての解が揃う訳ではない。ワタミとの合弁会社は、新たな解の一つに加わるに違いない。
「すでに相乗効果が生まれています。元々渡邉さんも農業を憂慮されていましたから、積極的に動かれています。かみむら牧場は東南アジアを皮切りに北米にも進出予定です。それをきっかけに最終的には日本の畜産を向こうに持って行く。これが、お2人の構想です」。
壮大なスケールだ。
BSPでも、この「かみむら牧場」を運営している。肉の質は言うまでもなく文句なし。グルメサイトの評価も高い、高い。
ちなみに、カミチクでは2年半ほどあれば飲食店が売りたいスペック通りの牛が作れると桑原氏は言う。「ブランドにマッチしたオリジナルの牛肉ですね。餌と血統を組み合わせて作ります」。つまり、肉質は勿論、お肉の味も好みに合わせて作ることができるのだ。
「かみむら牧場」では、こうした上質の牛肉をリーズナブルな価格で提供する。
「回転ずしのしくみを採用する事で実現した生産性の高い食べ放題が、『かみむら牧場』の基本コンセプトであり、スキームです」。
肉は黒毛和牛をメインに、輸入牛もカミチクで加工し、使用する事になっている。
「私どもが今運営しているのは大阪の守口と深井の2店舗です。来春には福岡にも出店予定です。かみむら牧場の出店はフランチャイズをメインにするつもりです。カミチクにとっては肉を卸す先が拡大します。それ以外にも兵庫県の丹波にカミチクの新たな工場ができたのですが、元々はワタミの工場だったところを、従業員も一緒に譲り受けたものです」。
経営スタンスが近いからスタッフも困惑する事なく異動できたそう。カミチク、ワタミ、いずれにもメリットがあったと桑原氏。
桑原氏が落とした一滴の水は波紋をつくり、農業と外食の世界に広がっている。
ところで、社長に就任されたのは2020年の事ですよね?
「そうです。コロナ禍の最中です」。
一番難しい時だったのでは?
「大変な時はどこに行ってもある。大事な事は、どう乗り越えるかです」。

・・・続き

株式会社ビースマイルプロジェクト 代表取締役社長 桑原 豊氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2016年5月10日火曜日

株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏登場。
本文より~

関西大学。ボクシングクラブ。

3人兄弟の長男。父親は岩手出身で、新日鉄に勤務されていた。一流会社である。のちに千葉氏が「和民」に入社する時に、反対されたのも頷ける。
千葉氏が生まれたのは、1978年。愛知県の知多半島にある知多郡阿久比町で育った。中学、高校と水泳部に所属していたが、熱心に取り組んだという記憶はない。
1年、浪人し、「一橋大学」を受験するが不合格。滑り止めで受験した関西大学に入学する。「当時、ろくでなしブルースって漫画が流行っていて、それでボクシングに興味を持ち、経験もないのにボクシング部に入部します。ぜんぜん強くはなく、部員も10人くらいの弱小クラブでした。最初は、3部リーグ、私たちの最終年になんとか2部に昇格します。私自身も、3年までは勝てなかったんですが、3年になって突然勝ち始めました(笑)」。
51キロ以下のフライ級だった。ちなみにネットで調べてみると、現在は、当時より部員も増え、1部リーグにまで昇格している。千葉氏らの活躍が引き金になったそうだ。

「和民」に就職。

体育会系で、関西大学出身である。就職時には、15社から内定をもらった。
「大学時代のアルバイトは飲食です。最初のアルバイトは、ホテルの厨房。そこで料理にこだわるシェフの姿をみて、憧れを抱きました。飲食だけではなく、様々な業種の企業を受け内定ももらったんですが、『和民』の渡邊社長の話を聞き、また高杉良氏の『青年社長』を読んで、『和民』に入社を決めたんです」。
冒頭に書いた通り、父から反対される。すでに「和民」は上場していたが、すすんで「息子を飲食に」という時代ではまだなかったのだろう。
「しかし、結局は上場企業だってことで、納得させました」。飲食には、就職するにもカベがあった時の話である。

「和民」、そして独立。

400字詰め原稿用紙、10枚に入社理由を書いた。熱い思いを綴った。10年勤務し、独立するという決意も、そのなかで述べている。
入社8ヵ月目にして、店長になる。「荻窪店です。60坪、120席。スタッフは15名でした」。新卒社員が、わずか8ヵ月で店長になる。稀とは言わないが、千葉氏の実力が評価されたうえでの抜擢だろう。
「オペレーションを強化しました。オーダーから配膳までの時間短縮に取り組んだんです」。今思えば、楽しい時代だった。渡邊社長というキラ星がいて、周りにも尊敬できる先輩・上司がたくさんいたからだ。仕事にも自信があった。「この料理を、この価格で、という『和民』の強みに対する自信ですね」。連日、お客様が来る。予約を増やそうと、周辺のオフィスを回ったこともある。
「『和民』が、私のベースです。人間関係も、『和民』中心です。いまも、当時の先輩たちとはお付き合いがあります」。
「もともと、10年たったら独立すると宣言していたこともあって、32歳で独立しました」。もうひとつ理由がある。「当時、『和民』のオペレーションもずいぶんかわりました。料理も、いままでとは違った。何より数字が優先されました」。
「数字」はすべてを物語るといわれている。しかし、「何を優先すべきか」は経営者の意思でもある。「そういうこともあって、年齢的にも、タイミング的にも、ある意味よかった。でも、妻に『和民を辞める』といったら、大反対されました(笑)」。
32歳。会社のなかでもすでに中堅。給料も、悪くなかった。上司からも引き留めてもらった。それでも、「独立する」という意思を貫いた。

・・・続き

株式会社B・H・Cダイニング 代表取締役 千葉啓介氏
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