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2019年11月22日金曜日

株式会社マニアプロデュース 代表取締役 天野裕人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マニアプロデュース 代表取締役 天野裕人氏登場
本文より~

韋駄天、駆ける。

平日でもなかなか予約が取れないそうだ。2017年、誕生した「GYOZAMANIA」のこと。「ミシュランガイド東京2019」では、ビブグルマンにも選ばれている。この「GYOZAMANIA」の創業者が、今回ご登場いただいたマニアプロデュースの天野裕人氏。天野氏といえば、エー・ピーカンパニーで役員になり、同社をリードしてきたことでも知られている。
「私は1981年、東京都八王子市に生まれます。父親の転勤で、幼稚園の年長から埼玉に引っ越し、高校まで埼玉で暮らしました。高校は春日部東高校です」。
中・高は、陸上選手だったらしい。400メートルが主戦場だったそう。全国大会にも出場しているというからすごい。
とにかく、早い。
韋駄天がグラウンドを駆ける姿は、女子生徒だけではなく、高校の教師の目も引いたのだろう。高校進学時には「推薦」の話が来る。
「推薦で進学校に進み、そちらでももちろん陸上です」。
これが高校の話。大学生になって、親元を離れ1人、八王子に戻る。
「大学は教師になるつもりだったんで、日体大に進みます。埼玉からだとしんどいので、八王子にあった祖父宅に住み、通いました」。
エー・ピーカンパニーとの出会いは、その時?
「そうです。当時、ダーツBRAが流行っていまして。八王子のダーツBRAによく通っていたんです。好きが高じてってわけじゃないんですが、4年生になってから、そのダーツBRAでバイトを始めます。ハイ。そのBRAを経営していたのがエー・ピーカンパニーだったわけです」。
エー・ピーカンパニーの、まだまだ創業期の話である。

ダーツBRAの神話。

天野シフトっていうのがあったんですね?
「そういうとちょっとおおげさですが/笑」。なんでも、天野氏のシフトは週3日。ダーツBRAの人気が陰りがちになるなか、すすんで路上に立ったそうだ。
今でいう呼び込みですか?
「そうです。当時、八王子にはいなかったですね」。月にして100万円を売り上げたそう。月商が400万円くらいだったから、1/3を天野氏がキャッチしたことになる。
「だんだん、私のシフトの時には、食材を多めに仕入れたり、スタッフを多めに配置したりするようになって、それが天野シフトと呼ばれました」。
天性の力があるのだろう。いうならば、ダーツBRAで生まれたはじめての「天野神話」である。「私の話が耳に入ったんでしょうね。社長の米山さんがやってきます。それまでは時給だったんですが、米山さんとお話してから歩合に変わりました」。 天野氏は、修士である。つまり、院卒。
「大学院を卒業する時に、米山さんに『一緒に働こう』と誘っていただきます。当時ですか? まだ2~3店舗で、社員数は10名くらいでした。親には、正直いうと猛反対されました。でも、米山さんの話を聞いて一緒にやりたいという思いが勝ちます。米山さんのようになるには、一緒にやるのが一番でしょ」。
米山氏に魅了される。
エー・ピーカンパニーというベンチャーに、天野氏が組み込まれることで、歯車がゴロリと音をたて回り始める。

こんなスープ、しょっぱくて飲めないよ。

天野氏のエー・ピーカンパニー在籍は、11年間に及ぶ。その間、「塚田農場」が生まれ、様々なサービスが脚光を浴び、同社は東証一部へと駆け上がっていく。国内だけではなく、海外にも進出。天野氏は、中国担当になる。
「2016年3月からですね。北京の『塚田農場』を担当します。当初は日本と同じメニューで勝負にでます。でましたが、受け入れられませんでした/笑」。
どうしてですか?
「たとえば、餃子です。日本では、鶏スープに餃子が入った『焚き餃子鍋』っていうのがヒットしていたんですね。ええ、お世辞抜きで旨かった。だから、オススメするんですが、クレームばかり。どうしてかというと、中国の人からするとむちゃくちゃ高かったんです」。
当時、屋台なら270円で25個くらいの餃子が食べられたそう。それに比べ、1000円する「焚き餃子鍋」の中に入っている餃子は5個だけ。「しかもね。中国の人って、日本の料理はしょっぱいらしくて、『スープがしょっぱくて飲めない』と言われてしまうんですね」。
この話は他でも聞いたことがある。食文化の違いという奴だろう。
「それで、すぐにそのメニューは中止した。最終的な決断をしたのは、米山社長だが、シンガポールで評価が高かった『美人鍋』をメインにして、サンフランシスコで運営していたラーメン店のラーメンを導入して。そうそれで、軌道に乗り始めます」。
売り上げアップの要因としてメニューもあるが、もう一つの要因は口コミだ。
中国人は中国の店を信用していないらしい。本当に客が入っているかや口コミサイトをよく見て決めるそうだ。
当時、まがい物が多い日本料理屋に本物の日本人がいると口コミで話題になっていた。中国では一日平均7件食べログのようなサイトで口コミが入る。その口コミのほとんどにサービスのいい日本人がいると書いてあり、それを見た中国人がたくさん来店した。
中国ではお金を払うと嘘の口コミがかけるそうだが、サービスがいい日本人がいるという嘘の口コミは、他の店は書き込めないので信頼性が高い口コミと判断された。
「日本でお客さんにモテた事はありませんが、中国ではジャニーズのような扱いを受け、一緒に写真を撮ってくれとか、メールの番号教えてとか、男女関係なく人気でした/笑」。
課題の明確化と改善、そして、スピーディーな決断。まさに、天野氏ならではの経営手腕だ。その結果、700万円だった月商が2000万円にはねあがる。これはもう一つの天野神話。しかし、この時、もう一つの神話がはじまろうとしていた。

リスクがあるから、しびれる仕事ができる。

「北京では当然ですが、日本と同じようにはいきません。すべてイチからです」。
それは、大変でしたね?
「そう、大変だったんですが、それが逆に楽しくて。日本にいると、もういろんな部署があって、業務も細分化されているわけです。それは、それでいいし、効率的なんですがね」。
入社した頃を思い出したそうだ。まだ、社員は10名程度。熱意はあっても、金はない頃のこと。
「そりゃ、イチからですからね。資金もバンバンというわけにはいかないし。だから工夫しなくっちゃいけないんですが、その工夫が面白い」。
いうならばPDCAなんだろう。プランを立て、実行して、検証して、改善する。面白くないわけがない。「それで、もう一度、チャレンジしてみたくなったんです」。
独立ですか?
「そうです。その時、頭に浮かんだのが、最初に中国で苦労させられた餃子です。だって、日本の餃子をもってきて敵わなかったんですからね。逆に言えば、それだけ、中国の餃子には力があるってことでしょ」。
たしかに、そうだ。決断すれば、なんだって早い。
「向こうで住んでいたマンションの下が飲食店があったのですが、ボロボロの屋台の餃子屋がありました。電気は電線からとり、ベニヤ板のうえで餃子を作ってました。その店をやっていた女性に餃子の皮づくりから教わります。本場ですからね。やっぱり違う」。
独立したのは35歳の時。
「米山さんには止めていただきました。『子会社でやれば』というお話もいただいたんですが、お断りしました。だって、子会社だとやっぱりリスクがないんです。もう一度、リスクと向き合い、ヒリヒリしながらやってみたかったんです」。
つけた社名が、株式会社マニアプロデュース。そして、店名が「GYOZAMANIA 西荻窪本店」。「マニア」が指すものとはなんだろう?
・・・続き
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2019年11月5日火曜日

株式会社ミナデイン 代表取締役 大久保伸隆氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミナデイン 代表取締役 大久保伸隆氏登場
本文より~

末っ子に、注がれる愛情。

「兄妹の愛情がすごかった」と大久保氏は笑う。姉と兄、計4人。大久保氏だけが、ポツンと歳が離れている。
「正直に言うとね。ちょっとほっといて欲しいなって思った時があるくらいです/笑」。
小学生の頃はサッカー、中学は帰宅部、高校でもう一度サッカーをはじめている。
ともかく、一番下の弟は、愛情いっぱいに育てられる。
「大学は、渋谷に近く、遊びにも苦労しないだろうって理由で『駒沢大学』に進みます。高校3年から、ボクシングも始めています」。
大学なかばまで、プロを目指していたそうだ。実際、ジムの関係者から「プロになれる」と太鼓判も押されていたという。「でも、だんだんビジネスに興味関心が移るんですね。だから、ここは就職だと。そうですね。あのままボクシングを続けていたら、どこまで行けるかわかりませんが、それなりにいい成績は残せていたんじゃないかなって思いますね」。
じつは長兄も、運動神経が良く、野球を続けていればプロにも行けたのではないかという。末っ子の贔屓目ではなく、大久保家の人は、だいたいが運動神経に恵まれていたようだ。

飲食と大久保氏をつなぐ決定打となった、その日の出来事。

ボクサーではなく、就職に舵をきった大久保氏は、「最初に内定をもらった」という理由で、とある大手不動産会社に就職している。
「その時には、すでに飲食に興味をもっていたんですが、すぐに飲食ではなく、いったん一般の会社に就職してみようと。だから、最初からずっとやっていくつもりはありませんでした」。
飲食に興味をもったのは、いつ頃?
「よくあるケースだと思うんですが、私も飲食に興味をもったのは大学時代のアルバイトです。『幸楽苑』さんや『マルバラーメン』さん、『しちりん』さんでもアルバイトをしました。どれもたのしかったですが、とくに『しちりん』さんですね」。
このしちりんで、初めて尊敬できる先輩にも出会った、と大久保氏。仕事の取り組み方から、遊びまで、全て教えてもらったそうだ。
そんな先輩が退職することになる。大久保氏も、就職が決まり、同じ日に店を辞めることになった。
その日、サプライズが起こる。
常連が次々とやってきて、その日はすぐに40席が埋まったそうだ。挨拶に立つと、花束を贈られ、名刺入れをもらったそう。頭を下げる大久保氏に、常連たちは、どんな言葉を投げかけたんだろうか。
「あの時ですね。心底、飲食って素晴らしいと思ったのは…」。この日の出来事を、飲食に入る決定打だったと大久保氏は語っている。

偶然の出会い。エー・ピーカンパニーと大久保氏と。

とはいえ、最初に就職したのは不動産会社だった。「結局在籍は、1年間だけなんですが/笑」。不動産といっても仲介などではなく、土地オーナーへの営業、会社の中でも一番ハードな部署だったらしい。
「1年間ですが、走りつづけたといっていいと思います。業績は同期で一番です。退職のきっかけは、1年目の2月ですね。ダイヤモンドダイニングの記事を読んで、飲食店の経営に興味がわくんです。もともと飲食はいいなと思っていましたからね」。
それで、退職?
「そうです。3月末には退職しています」。
「小さいベンチャー企業を10社ほど受けた」と、大久保氏。ある企業の採用担当者から、「グルメキャリー」という飲食専門の求人誌を読むように勧められた。そのなかに、エー・ピーカンパニーが載っていた。

エー・ピーカンパニー時代の幕開け。

「エー・ピーカンパニーには、第二新卒として入社します。それから11年間勤務します。取締役になったのは、2011年の27歳の時です」。
早い出世である。
「入社して、その7月に『わが家』葛西店の立ち上げに携わります。副店長を経て店長に就任。当時の上司は、今、『ギョウザ マニア』を経営されている天野さんです」。
大久保氏は、社長である米山氏はもちろん、この天野裕人氏にも影響を受けたと語っている。天野氏について補足すれば、エー・ピーカンパニーの黎明期から勤務され、中国進出統括部長や執行役員などを歴任されている。
「塚田農場がオープンしたのは、2008年です。八王子が1号店です。名刺のサービスや就職支援、アルバイトへの400円の権限移譲などは、私のアイデアです。そういう意味ではいくつかのことは、残せたかなと思います」。
控え目に語るが、大久保氏の業績は、エー・ピーカンパニー1社に留まらない。飲食店経営者には、「飲食店ができること」を再認識させ、アルバイトを育てるノウハウと戦略は、様々な企業の経営者にトレースされている。
ちなみに、大久保氏は31歳で副社長となり、様々なメディアで「カリスマ副社長」と語られるようにもなる。なかでもアルバイトに対する取り組みは高く評価され、「アルバイトをやる気にさせる」独自の経営モデルは「カンブリア宮殿」「ガイアの夜明け」といった有名なTVでも紹介されている。
話は違うが、私はいまだ「部長」止まりだ。部長まではスピーディーに駆け上がったが、最近、足が遠のいている。もちろん、こちらは名刺のサービスの話。私の周りにも部長級の人間が多い。まんまと、大久保氏の戦略にはまり、なおかつ、楽しませてもらっている連中だ。
我々が部長で立ち止まっている間に、大久保氏は、さっさと次のステージへと進んでいた。2018年6月、エー・ピーカンパニーを退職、同年7月にミナデインを設立し、社長に就任する。

独立、開業。「烏森百薬」、オープン。

大久保氏が独立し、新店をオープンするというニュースは、業界内外で注目を集めたに違いない。実際、様々なメディアで取り上げられている。
出店場所がまたいい。サラリーマンの聖地「新橋」。屋号は「烏森百薬」。
新橋を選んだ理由は?と質問すると、「この街が好きだから」というシンプルな回答だった。たしかに、この街の、雑然としていながらカオス的な表情には、隣町の銀座とはまた違った趣がある。
「うちの店があるのは、烏森神社の参道です」。
JR新橋駅、烏森口をでて広場を抜け、路地に入ると「烏森百薬」がある。シックな佇まいも「烏森」という響きに似合っている。
「今は新橋と、千葉県佐倉市のユーカリが丘で2店舗を運営しています。FCも3件決まっています」。
「烏森百薬」がカフェと居酒屋という2つの顔を持つのと同様に、この「里山transit」も、昼はファミレス、夜は居酒屋という2つの顔を持っている。二毛作といえばわかりよい。
「烏森百薬」にしろ。「里山transit」にしろ。大久保氏が打ち出す飲食店には明確なコンセプトがある。そのことをうかがうと、「お店の形態は出店する場所によって考えている」とのことである。
そういう意味では、最初に新橋を選択したもう一つの理由が浮かんできた。「新橋」という聖地でできること。それを、サラリーマンとOLたちと、そして愛すべき「のんべぇ」たちと、一緒に実現する。実際、大久保氏がオープンした「烏森百薬」には、面白い仕掛けが施されている。

今日もサラリーマンとのんべぇたちは、セレクトショップで、食と酒を堪能する。

「烏森百薬」に話を戻せば、食のセレクトショップなんだそう。最初は「セレクトショップ」と聞いてどういうことなんだろうと思ったが、詳しく聞いてなるほどと合点がいった。
「メニューのうち、うちが作っているのは、数点だけなんです。それ以外は、私がオススメのお店から仕入れています」。つまり、自前のモノが少ない。
「作業も効率的ですし、うちが頑張って作るより専門店が作ったモノのほうが旨い。それをセレクトして仕入れることで、いいサイクルが生まれます」。
もちろん、作り手が明記されているから、安心だし、仕入先の業績にも貢献している。エー・ピーカンパニーの六次産業的な発想とは異なるが、アプローチは似ていなくもない。
店の運営に関しては「少しだけ勝つこと」を意識しているという。定番の唐揚げや餃子にも、なんらかをプラスアルファするようにしている。それが少しだけ勝つことに繋がっているのだろう。
「料理のバリエーションもシレっと増やしている」といたずらっ子のように笑う。飲食の仕事が好きで仕方ないのだろう。
・・・続き
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