2026年10月30日金曜日

株式会社青者 代表取締役 渡辺慎一郎氏登場。

 “飲食の戦士たち”で株式会社青者 代表取締役 渡辺慎一郎氏を取り上げました。

本文より~

高校までの渡辺さん。

両親ともに公務員という堅い家庭に、渡辺さんは長男として生まれた。
「父も母も北海道出身。父は元警察官で、言葉よりも先に手が出る昭和の頑固親父」と渡辺さんは苦笑する。
小学生の頃の渡辺さんは、感情と表現がうまく噛み合わなかったそう。
「だから友達もいなくて孤立していました。小6の卒業のとき、ふと『これじゃダメだ』って、性格を改造しようと決意するんです。それで、中学になって父親の勧めもあって野球部に入ります」。
「これがね」と渡辺さんは。もう一度苦笑した。
「今じゃ絶対アウトの、超スパルタな世界だった」とのこと。
「忘れ物にはローキックが、真夏のグラウンドを何時間も走らされて気を失ったこともあった」という。
「怖すぎて辞めることもできなかったんです」。
ただ、理不尽な恐怖と厳しさのなかで、性格は自然と矯正されていった。
そういう意味で、父の勧めは正解だった。
勉強のほうは?と聞くと、「大学受験で苦しみたくないと思って、中2から猛勉強を開始しました。なんとか、エスカレーター式の『明大中野高校』へ進学できました」。
「明大中野高校」はもちろん名門校だ。

新橋のお茶漬けと、飲食の世界。

高校時代、渡辺家に大きな転機が訪れた。
「あることがきっかけで家族がバラバラになって。大学時代は姉と都内で2人暮らしです。生活費も稼がなきゃいけない。姉に誘われ、新橋のお茶漬け屋『こめらく』でバイトをはじめます。これが、飲食との出会いです」。
まだ当時は2店舗目ができた頃だったそう。
じつは、大学卒業後も、渡辺さんは「こめらく」でバイトをしている。
「内定はほぼ決まっていたんです。大手の証券会社でした。ただ、研修のときから縦社会で、あからさまなおべっかをみんなふつうに使っていて。これは、あかんだろうと、4月1日の入社式の直前に内定を辞退させていただきました」。
―――それでフリーター?
「そうなります。バイトしながら舞台俳優をめざすんです。でも、そううまくはいかないでしょ。気づけば25歳。こいつはやばいってなって、大手定食チェーン出身者がはじめた定食屋に就職しました。舞台俳優以外なら飲食がいいと思っていたんです」。
「飲食がいい」が「飲食の世界は狂っている」に変換されるまで、そう時間はかからなかった。
「もう、むちゃくちゃなハードワークで」と渡辺さん。
「1日16時間労働がベーシックです。みんなボロボロになっていくんです。尊敬してた先輩が、飲食の世界から姿を消したときには、この世界は狂っているって」。
「でもね。飲食自体は大好きだったんです。だから、こうじゃなく、『正常な飲食の世界をつくろう』と。じつは、つぎの会社では、それが実現できると思っていたんです」。
「でも」と渡辺さん。 ふたたび、ピュアな心が傷ついた。
「共通の思いで、ある人と、飲食店を創業します。オーナーはその人です。10坪16席だったかな。お休みは月4日。給料は20万円。1日15~16時間労働。スタッフは採用しても辞めていっちゃうんで、ワンオペです」。
結婚してからも、ハードワークはつづいた。
「週6日、泊まりです。客席に布団を敷いてシンクでからだを洗って。たいへんだし、つらいし、妻にも迷惑をかけていたんですが、それでも、今の苦労は正常な飲食の世界をつくるためなんだって言い聞かせていたんです。業績は悪くなくって、2号店をオープンするくらいの資金もできているはずだったんです」。
「3年目くらいかな。若さゆえの間違った抗議が災いして、オーナーにクビだって」。
クビの一言に立ち尽くしたんじゃないだろうか。だれもが幸せになれる世界はもちろん、人を信じるというピュアな思いがいっしょに崩れ去ったにちがいない。

坪100万円のレシピ。

「それでも、飲食からは離れませんでした。お客様だった飲食店のオーナーさんに相談して、手伝わせていただきました」。
給料は3万円安くなった。
ただ、勉強はできた。「坪100万円」と聞いて、驚いた。
―――どうすれば、坪100万円に?
素直すぎる質問だった。だが、そんな質問にも、ちゃんと答えてくれるところに渡辺さんの性格がにじみでる。
「料理や、サービスといったことも大事ですが、何よりスタッフが高い水準意識を持つことなんです。600万円でいいと思うのと、1000万円いこうよというのでは工夫も変わってきます。予約管理ひとつ、追加の1杯に、こだわってみてください。売上は劇的に変わるはずです。大事なことは、スタッフみんなで共有することなんです」。
渡辺さんが独立を決意するのは、つぎの会社で。
その会社とは以前「飲食の戦士たち」にもご登場いただいている株式会社まんてんである。
「ある日、『こめらく』から数えて5社目となる、まんてんの阿部社長とごいっしょさせていただき、飲んでいたときのことです。阿部さんから、『なべちゃんは、もう独立しなよ。これ以上の給料はもう払えないからさ』って」。
―――これもまた、クビ宣言ですね?
「そう」といって渡辺さんは笑う。
「冗談だったかもしれません。ただ、僕のためを思って、応援しての一言だと私にはグッと刺さりました。いうなれば前向きなクビ宣言でした!笑」。
少し真剣なまなざしになり続ける。
「そして、思ったんです。もう、だれかといっしょじゃ無理だ。自分でつくるしかないんだって」。
つくりたいのは、渡辺さんが追いかけてきた「正常な飲食の世界」である。 2023年、コロナ禍。 渡辺さんは、大きな賭けに出た。
お子さんの学資保険を解約。借入金とあわせ1600万円。すべてを「理想」に投資した。

・・・続き

株式会社青者 代表取締役 渡辺慎一郎氏



「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで) 

2026年10月23日金曜日

1992.10.22設立した日から丸34年経ちました。

10月22日、キイストン設立から丸34年経ちました。

いつまでも現状が永遠に続くことはありませんが、

「継続は力なり」です。

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“iza(イザ!)“に「飲食の戦士たち」のバナー掲載(PC版)!!

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2026年10月21日水曜日

株式会社麺魚 代表取締役 橋本友則氏登場。

“飲食の戦士たち”で 株式会社麺魚 代表取締役 橋本友則氏を取り上げました。

本文より~

ゴルフと、DJと、アフロヘアー。

今回ご登場いただいたのは、株式会社麺魚を率いる橋本友則さん。
橋本さんは、1976年、千葉県船橋市生まれ。 お父様は外資系に勤めるビジネスマン。お父様は海外出張が多く家にいることは少なかったが、代わりに、こわい4歳上のお兄さんがいた。
「兄貴はからだが大きくて、今では193センチあるんですが、子どもの頃から何をするにしてもセンスがあって、私は生まれた時から完全に兄の部下でした(笑)」。
―――逆らえない?
「逆らうなんてとんでもない」と橋本さんは笑う。ちなみに、今、橋本さんはスキンヘッドだ。強面のようだが、笑うと、柔和な性格が現れる。
その父と兄の影響で、小学校から野球と空手をはじめ、高校は「東京学館浦安」に進みゴルフ部へ。「小さな頃から、父に打ちっぱなしに連れていかれたりしていましたから、多少は腕に覚えもあったんです。でも、プロゴルファーを何人も輩出している強豪校でしょ。世界がちがいました」。
「70台で回るバケモノがゴロゴロいた」と橋本さんは苦笑する。「かないっこないと、早々と見切りをつけた」と、笑う。ただし、橋本さんも80台前半で回ったというから、ふつうの人からみたらバケモノだ。
―――それでDJ?
「そうなんです。音楽とクラブカルチャーに惹かれて、夜な夜な六本木のクラブでターンテーブルを回す日々が始まります。頭ですか? そのときは、アフロでした(笑)」。
ちょっと想像がつかないと笑うと、「でしょ」といって頭をなでる。
頭のなかで、橋本さんのスキンヘッドにアフロヘアーをのせてみたが、やはりどうもピンとこない。高校を卒業してからは、六本木だけでなく、ロスにも渡り、レコードを買い漁っていたそう。
―――アフロを卒業したのは、いつ頃ですか?
「20歳を過ぎた頃です。ふと我に返って、『今のままじゃ、絶対にろくな人間にならない』って、悟りをひらくんです(笑)」。
音楽、クラブカルチャー、DJ、未来が好きなことで溶けていく。「そう、だからリセットしようと、今更ながら大学に進学するんです」。
―――どこの大学ですか?
「沖縄」といって橋本さんはニヤリと笑った。

沖縄の海。

―――はるばる沖縄ですか? 「完全リセットするなら、遠くがいいでしょ。でもちゃんと語学という目的もあったんです。沖縄では米軍基地のレストラン・バーで働き、米国人とも会話ができるようになりました。その一方で、サーフィンに出会って、以来、こちらとは25年以上の付き合いです」。
青い海と、サンゴ礁と、米国人。「そのまま沖縄でもよかったんですが、20代半ばで東京に帰還して、新たなページをめくります」。
橋本さんの話を聞いていると、とにかくいそがしい。東京にもどった橋本さん。今度は調理師専門学校に入学している。
「手に職だって思って料理の道に進もうと決めるんです。高校時代に寿司屋でバイトをしていた経験もあったんで。そういうのも頭にあったんだと思います」。
「料理も好きだったから」と橋本さん。ただし、インタビューのなかで「料理」の二文字がでてきたのは、これが最初。好きなモノも多すぎる。
そして、たいてい巧くなる。
―――何でもできる。才能ありってやつですね。
「いやぁ、そうでもないんです。ちゃんと計算しているんです」。
「和食の料理人になるのも、まず、専門学校で基礎でしょ。学校で習うのは知識がメインだから、つぎに築地の仲卸で1年間。目利きができても、さばけないといけないでしょ。だからつぎは大手回転寿司チェーンの加工工場です」。
ひたすら魚の目をみて、つぎにはひたすらさばいた。
「おかげで、ぱっとみただけで鮮度はわかるようになったし、魚の骨の構造も、からだに染み込みました。 そして、紹介してもらって、いよいよ最後の仕上げ、ホテルの和食・割烹の世界へ飛び込んでいきました」。
高級割烹で、新たに修行を開始する。
さばいた数なら、そんじょそこらの料理人に負けない。花形の世界へ駆け上がるプランは、そう、最終コーナーだった。

リーマンショックと。

「ターニングポイントは2008年のリーマン・ショックです。リーマン・ショックは高級割烹のビジネスモデルを直撃しました。接待がないでしょ。数万円のコース料理の需要がなくなっていくんです」。
ただ、橋本さんがいう、ターニングポイントはそのあと。
「麺屋武蔵ってご存知ですか?」。
頷くと、「麺屋武蔵の創業メンバーにサーフィン仲間がいて、『だったら、うちに来ないか?』って誘ってくれたんです。あの一言が、ほんとうの意味でのターニングポイント。私の運命が大きく動きます」。
―――高級割烹からラーメン店、落差は感じなかったですか?
「まったく逆です。和食や寿司っていうのは、どうしても食材のロスが生まれます。でも、ラーメンはちがうんです。仕入れた食材をスープや具材にあますことなく利用するんです」。
「ロスのない圧倒的な効率と爆発力に衝撃を受けた」と橋本さんはいう。和の料理人が、一杯のラーメンに、そしてラーメンビジネスに魅了されていく。
ラーメン店で修行を重ねたあと、親分からオファーがあった。
「兄はパチンコ店を経営しているんですが、多角化ということで飲食をスタートします。そのときに声がかかるんです」。
―――お兄さんに飲食の経験は?
「私より、何でもできる兄ですが、さすがにないです。だから、兄が資金をだし、私が運営するといったスキームです」。
―――いかがでした?
「おかげさまで、大ヒットしました。経営視点だとわかるんですが、ラーメンのパワーってやはりすごいんです」。
「旨いラーメン屋ができた」と、つぎつぎ客が来る。客足はとぎれない。
ところで、橋本さんには天性の才能が、じつはちゃんとあった。「一度食べた味は、頭の中でほぼ再現できるんです」とのこと。
この才能に、テクニックが加わるから、まさに、鬼に金棒だ。

・・・続き

株式会社麺魚 代表取締役 橋本友則氏


「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2026年10月14日水曜日

この3年間で達成させたい目標を上半期でクリアできました。

2026年度も上半期終え、 3年前に達成しようと掲げた目標を3年目の上半期で達成できました。

めちゃくちゃ嬉しく、とても大きな自信付きました。

なんでもそうですが、諦めず目標に向かってコツコツ地道にやっていけば必ずうまくいく。

キイストンは設立日が10月22日ですから、いよいよ創業35年目に突入します。

これからも業界のためにも、働く社員のためにも、周りのプレーンのためにも、いつまでもチャレンジしていきたいです。

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2026年10月13日火曜日

株式会社plow 代表取締役 久我耕輔氏登場。

“飲食の戦士たち”で 株式会社plow 代表取締役 久我耕輔氏を取り上げました。

本文より~

サッカーと、久我さん。

兄も弟もおなじサッカー少年だった。ただ、見ている世界は少し違っていた。
「兄は勉強もできて、サッカーも巧い。何をしても敵いませんでした」と久我さんがいう。
お兄さんは中学時代、三菱養和というチームでプレーし、日本一になっている。一方の久我さんは、澤穂希選手の出身クラブでもある、府中の『府ロクサッカークラブ』でプレー。
チームメイトには、あの日本代表にもなったサッカー選手「中村憲剛」さんがいたそううだ。
中村さんといっしょにピッチに立った。
「中村さんのプレーは、そりゃ、まったく異次元です。彼を至近距離でみていたので、プロになるなんて思わない。持久力をあげたくて、1人、朝練もしましたが、どれだけ練習しても、ああはなれないって」。
サッカーは高校でもつづけた。
「でも、高校生になって遊びに目覚めてしまって」と久我さんは苦笑する。
じつは、久我さん。監督からクビを言い渡されている。

何者でもなかった頃の、久我さん。

今回、ご登場いただいた株式会社plowの代表取締役 久我 耕輔さんは1981年、調布に生まれている。
小さい頃にご両親は離婚。
「母が女手一つで、私たちを育ててくれた」と久我さん。
今思えば感謝しかないが、学校も行かず母親を泣かしたこともある。 久我さんは「だらしないやつだった」と表現する。
「中学生のときから、大学に行くつもりもなかった。ただ、『高校くらいは』と進学して、サッカー部に入るんですが、そのサッカーもクビになって、始めたバイトもことごとく続かない」。
「将来についても何一つ考えていなかった」という。
「兄がサッカーで活躍する一方で、私はサッカーはもちろん、努力することから逃げ出します」。
―――今が楽しけりゃそれでいい?
「ほんとそうでしたね。高校を卒業して六本木のBarでバイトを始めるんですが、やはり続きません」。
―――焦りのようなものはなかった?
「感じていたから、そこから意識的に逃げていたのかもしれません。朝までマージャンをして、ヘラヘラ笑って」。
仕事に疲れ泥のように眠ることもない。堕落した人生は、刹那の快楽だった。

飲食の光に照らされて、見えてきた世界。

―――今の久我さんからは、想像できないです。
「高校を卒業したんで、仕事をしないと生活ができません。そんなとき、一つだけ、続く仕事があったんです」。
―――それが、飲食ですね?
「そう。ただ、最初は、ちょっと怖い先輩に紹介してもらったお店だったんで、簡単には辞められなかっただけなんですが(笑)」。
―――先輩が怖いから、続いた?
「エイジアンキッチンっていう、今も人気ですが、当時から100席が連日満席になるような人気店でした。スタートは時給1000円の皿洗いです」。
次々洗い物が運ばれてくる。手を少しでも休めれば、シンクのなかは洗い物でいっぱいになった。
「オーバーな表現をすれば戦場です。でも、その単純な作業が向いていたのか、何も考えられないほど忙しかったのが功を奏したのか3ヵ月が過ぎます。最長記録です(笑)」。
3ヵ月経っても、皿洗いは続く。
「続けられたのは、周りのスタッフのおかげもあったんです。スタッフ同士の飲み会とかもあって、心が通い合うと、今度はそれでなかなか辞められない。そうこうしているうちに6ヵ月が経って後輩が入ってくるんです。それで、ようやく皿洗いを卒業してドリンク場に昇進しました」。
―――違う世界が見えてきた?
「社員さんや、社長さんからも褒めていただくことが多くなって。今まで褒められたことなんてなかったから、もっとこうしようとか、これをできるようになろうとか。サッカーの朝練みたいに、無給覚悟で早く出勤して仕込みを教えてもらったり」。
―――今までのバイトとはぜんぜん違うんですね?
「大違いです(笑)。今まではコンプレックスを抱えたままでしたが、そういったものにまで立ち向かえるようになって。気づけば、がむしゃらに仕事に打ち込んでいました」。
「店に行くのが、何より楽しみになった」と久我さんは心境の変化を一言で表現する。

皿洗いの日々と、社員昇格と。

「最初はアルバイトでしたが、料理やサービスの勉強も真剣に始めます」。
休みになれば、勉強になると思った店を見てまわった。地道な作業だった。黙々と、継続した。
―――まったく別人ですね?
「いちばんびっくりしたのは、ぼく自身でした」。
ある日、上司と社長に呼び出された。
「鮨屋に連れていってもらうんです。アルバイトでしたが、もう時給もいちばん高くなっていましたし、社長とも距離がすごく近くなっていたんです」。
鮨屋に入る。上司の統括店長がビールを頼む。ビールがジョッキで現れる。
「私を真ん中に左に統括店長、右に社長です。2人が、ジョッキを私のほうに差し出してきて、『社員昇格おめでとう』っていうんです」。
バイトを始めて2年半、 22歳のときだった。

師の背中と、偉大な先輩たち。

「途中で離れた時期もありましたが、計11年、修行させていただきました」。
―――最初の怖い先輩のおかげですね?
「人って、やっはり一人じゃないんです。いろんな人との出会いがある。私はほんとにだらしない人間でしたが、出会った人のおかげで変わることができました。人との出会いが、私の最大の財産です」。
出会ったなかで師匠ともいえるのが、エイジアンキッチンの社長は吉崎英司さん。吉崎さんには2010年、この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。
そして、時間を見つけては通った様々な飲食店の先輩方。
「20代の頃にはたくさんのお店に勉強しにいかせていただきました。そこで出会った方々は、同年代の仲間も含めてですが、尊敬できる人が多く、今でもお付き合いさせていただいている人も少なくありません。エイジアンキッチン同様に、たくさんの刺激と学びを受けました」と、久我さんは嬉しそうに語る。
直接の師匠という関係性ではなくとも、そうした偉大な先輩たちや仲間たちとのつながりが、今の久我さんをカタチづくっている。
さて、久我さんはホームページで、「覚悟を持った一歩を踏み出せば必ず見えてくるものがある。」といっている。
その覚悟を改めて示すときがきた。そう独立だ。2014年。久我さん、33歳のときのこと。

大勝負。心がふるえた。街に灯りを。

「独立するといってから2年以上かかった」と久我さんは、苦笑する。
「やるやるサギだなんて言われました。やろうにも店がない。不動産会社が契約を進めてくれなくて(笑)」。
「今でも、忘れていない」というくらいだから、担当者にはイヤミも言われたにちがいない。 しかし、それが、奮起の材料になっていく。
「ついに契約できたのが、千歳烏山で21坪。中学校の隣で、岩盤浴だったところです」。
駅から離れていて、夜になると人通りもない。
「『やめておけ』ってみんなに反対されました。『さすがに、ここじゃない』って。でもね。デザイナーともう一人、英司さんだけ、『ここがいい』って。私とおなじ感覚で、背中を押してくださったんです」。
駅から離れていても繁盛店はいくつもある。
「ロケーションはたしかに悪かったですが、ピンと来たんです。自己資金だけでは足りなくて、借入もしましたから失敗はできません。でも、そこは、覚悟です。今までの、いくつもの覚悟を試すつもりで、オープンを決めました」。
「久我さんは、暗い街を明るくしたい」とも言った。その一言がいかにも飲食に育てられた久我さんらしい一言だった。
「飲食をはじめて、最初は『辞めたい』『辞めたい』の日々でしたが、だんだん楽しくなって、仕事の喜びっていうのを知って、暗かった私の人生が明るくなっていきます。独立って目標をもってからは、食べ歩く以外はお金も遣わなくなった。そして、がむしゃらにはたらいた」。
久我さんは10代の頃を振り返る。
「あそびまくっていたあのときも、ある意味でプラスになった気がするんです。人生に無駄はないんだって。ほんとうにそう思います」。
店名は「我ー喰う」。 スケルトンからの大勝負。自己資金700万円、借入1500万円。 もう、逃げ出すことなんてできない。

注ぎつ、注がれつつ。

大勝負の結果はいうまでもない。オープンは2014年12月。初月から600万円をオーバーする。2号店もおなじ千歳烏山で、今度は16坪の「酒場アカボシ」をオープンする。
「酒場アカボシ」も、のちにオープンする三軒茶屋の「赤星」も、生ビールを置かず、瓶ビールをコミュニケーションツールとしている点は共通している。
「『注ぎつ、注がれつつ』っていう文化。注いで、注がれているうちに、笑顔が咲いて明るくなっていく。瓶ビールはコミュニケーションツール。そういう時代がたしかにあったんです」。
そのうえで、三軒茶屋の「赤星」では、縄のれんやネット予約なしといった独自のスタイルを展開している。
三軒茶屋の「赤星」よりひと足早くオープンしたのが、これも話題の渋谷「タートル」。2023年のこと。
渋谷で勝負。
―――またまた大勝負ですね?
「コロナ禍を乗り越えて、街が少しずつ明るくなってきたとき。と言っても、うまくいくとは限りません。都内は、エイジアンキッチンのときの主戦場だったので得意なエリアです。ただ、独立してオープンしたのは、京王線のはるか西(笑)」。
今度は、資金も潤沢だった。
「タートルをつくるにあたっては、国内・海外のお店をたくさん見て勉強し、自分自身でもデザインや店づくりについて様々なアイデアを出した」と久我さん。
「とにかく明るいカラーにしたくて」。
久我さんの言葉通り、店内はカラフルに彩られ、オープンしてからは様々な雑誌にも取り上げられた。
業績はいうまでもない。「1000万円を下回ったことはない」という。 そして、同年、満を持して三軒茶屋に「赤星」をオープンする。
・・・
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株式会社plow 代表取締役 久我耕輔氏


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2026年10月7日水曜日

会社を存続させるのは大変。

サラリーマン時代、営業成績が悪くても一つだけ救いがありました。月が変わり、四半期が変わり、期が変われば、すべてが「ゼロからのスタート」にリセットされるからです。
しかし、経営者はまったく違います。赤字は決してリセットされません。すべてが重く「累積」されていくのです。赤字が続けば、目先の資金繰りに追われ、営業活動どころではなくなります。この足元から崩れていくような恐怖と、押しつぶされそうな苦境のしんどさは、自分で会社を背負う経営者にしか決してわからないものでしょう。
そして、逆境のときこそ人間の「本性」が現れます。ピンチの連続の中で、経営者はいつだって、その人間性を試され続けているのです。
だからこそ、会社を存続させるということは本当に大変なことだと痛感しています。
おかげさまで、10月22日で弊社は創業34周年を迎え、35年目へと突入いたします。
今日まで歩んでこられたのは、周囲で支えてくださった方々、そして何より家族や従業員が助けてくれたおかげです。心から感謝の気持ちでいっぱいです。
この年齢になってつくづく思うのは、嘘や見栄、傲慢な態度を取っていると、瞬く間に人は離れていってしまうということです。逆に、愚直にコツコツと積み重ねていれば、必ず良いご縁が生まれます。
最後に会社を支えるのは、やはり「人間力」ではないでしょうか。そのためにも、日々の自分自身を鍛え続けていかなければならないと、気持ちを新たにしています。

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2026年10月6日火曜日

株式会社UG 代表取締役 渡部雄二氏登場。

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本文より~

「自分は何でもできる」と思っていた少年時代。

小・中学生の頃は、スポーツに関して大きな挫折を経験した記憶がほとんどない。アルペンスキーでは全国大会に出場し、野球ではエースで4番。
「勉強は置いておいて(笑)、スポーツなら何でもできると思っていました」。
しかし、その感覚は高校進学と同時に大きく変わる。野球推薦で入った名門校には、自分より投げる、打つ、走る。そんな選手が当たり前のようにいた。
「背番号1をつけて甲子園で勝つつもりで入ったんです。でも周りを見た瞬間、これは簡単じゃないなと。最終的には背番号13でベンチ入りしました」。
それまでの「やればできる」という感覚から、「努力しても、うまくいかないことの方が多い」という現実を初めて知った。
ただ、この経験は後の人生にもつながっている。
うまくいかないことは、失敗ではない。そこから何を学び、次にどう行動するか。経営者になってからも、その考え方は変わっていない。

スポーツの世界から、まったく知らなかったビジネスの世界へ。

高校卒業後は、スポーツに関わる仕事がしたいとスポーツトレーナー専門学校へ進学。卒業後、六本木のパーソナルトレーニングジムに勤務する。
そこで出会った顧客から声をかけられたことをきっかけに、中国でのインターネットカフェ事業の立ち上げに参加する。
中国語も話せない。経営経験もない。
それでも「面白そうだ」と飛び込んだ。
事業は1年弱で撤退することになるが、帰国後は同じオーナーのもとで飲食店の運営を任される。
スポーツトレーナーから、海外事業、そして飲食業へ。一見すると一貫性のないキャリアにも見える。
しかし振り返れば、この時期に身についたのは、経験したことがないことでも、まずやってみる姿勢だった。

400万円で始めた「焼鳥なべちゃん」。

2014年、中野新橋に「焼鳥なべちゃん」を開業。開業資金は約400万円。焼鳥の修業期間は、わずか2週間だった。
当然、最初から順調だったわけではない。オープンしても思うようにお客様は来ない。
それでも、前職から一緒だった仲間と店に立ち続け、少しずつ地域のお客様に認知されていった。
その後、さまざまな業態・店舗へ挑戦。出店を重ね、一時期は店舗数を増やしていった。
しかし、すべてが成功したわけではない。むしろ、撤退した事業も少なくない。

店舗を増やすことが、会社の成長ではなかった。

かつては「次はどこに出店するか」を考えていた。店舗数が増えることを会社の成長だと思っていた時期もあった。
しかし実際に事業を拡大していくと、人材採用、教育、管理、利益率など、さまざまな問題が生まれた。
海外にも挑戦した。うまくいかなかった事業もあった。そして、この2年間で複数の店舗から撤退した。
一見すれば「縮小」に見えるかもしれない。しかし本人の感覚は逆だ。
「会社を小さくしたかったわけではなく、強くしたかった」。
店舗数を増やすことそのものが目的になってしまえば、働く人も経営者も疲弊する。
改めて、「自分は何のために会社を経営しているのか」を考えた。
そこで行き着いた答えが、「数ではなく、質」だった。

会社は、経営者一人のためにあるものではない。

現在、飲食事業の中心には長く一緒に働いてきたコアメンバーがいる。
渡部氏が考えているのは、「自分が全部やる会社」ではない。
一緒に働いてきた人たちが成長し、仕事を任され、やがて自分たちの意思で次の挑戦ができる会社だ。
「彼らがもう一度店舗展開したいと言うなら、もちろん支援します。ただ、店舗を増やすこと自体を目的にはしたくないんです」。
人を採用して、店を増やして、売上を伸ばす。もちろん数字は経営に欠かせない。
しかし、その先にいる人が幸せにならなければ意味がない。
会社が成長することと、そこで働く人が成長すること。
その両方が重なって初めて、本当の意味で会社が前に進んだと言える。

「不」を解消することが、仕事の原点。

渡部氏が仕事を考えるうえで大切にしているのが、「不」の解消。
不安、不満、不快、不便。世の中やお客様、そして働く仲間が感じている「不」を見つけ、それを一つずつ解消していく。
飲食店なら、美味しい料理を出すだけではない。
お客様が気持ちよく過ごせること。
スタッフが働きやすいこと。
努力した人が報われること。
将来に希望を持てること。
そうした小さな「不」を減らしていくことが、事業をする意味だと考えている。

・・・続き

株式会社UG 代表取締役 渡部雄二氏


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2026年9月29日火曜日

青木フルーツ株式会社 代表取締役会長 青木信博氏登場。

“飲食の戦士たち”で青木フルーツ株式会社 代表取締役会長 青木信博氏を取り上げました。

本文より~

アルキメデスと、ソフトテニスと、東北大学。

今回ご登場いただいたのは、青木フルーツ株式会社の青木会長。1947年生まれ。ご実家は福島県郡山市。創業は1924年(大正13年)。初代から数えて3代目。なんでも、青木家60年ぶりの男子だったそう。
会長に言わせると、「中学生になるまで一貫して引っ込み思案だった」とのこと。
―――意外ですねというと、「アルキメデスのおかげ」と笑う。
聞けば、小学6年生の時「アルキメデスの原理」をすぐに理解できたことで、先生にかわいがってもらい自信がついたそう。
「もう一つ勲章のような話をするとね。高校生でソフトテニスをはじめて3年生の時にインターハイに出場しているんです」。
 結果は惜しくも、3回戦敗退。でも、勲章はそのあとの話。
「高校から始めてインターハイに出場できたんですから、それで十分なんですが悔しくて、納得できない。だから、受験もあったし、ふつうはその大会で引退するんですが、私は勉強もそっちのけで、10月10日開催の次の大会をめざします」。
―――結果はいかがでしたか?
「今度は、最後までコートに立っていた」とニコッと笑われた。
「ただ、優勝したのは喝采ものなんですが、気づいた時には大学受験がもうそこで(笑)」。
戦略を練り、勉強方法、今風にいえば独自のメソッドをつくり、難関大学の受験を突破。目標だった東北大学の経済学部に進学する。
「おそらくですが今まで経済学部に進んだ先輩はいなかったのに、私が合格した翌年からはつぎつぎと受験するんです。たぶん『あいつが受かったんだから、案外ハードルが低いんじゃないか』って。先生たちが、そう思い始めたんでしょうね」。
そう言ってこちらを笑わせてくれる。
―――いい指標になったってわけですね、というと、会長は「そうそう」と言って大笑いされた。

昭和43年。1ドル360円時代の世界一周。

世界一周の旅にでたのは、大学3年生の11月。
「当時はドル/円が360円。外貨持ち出しは500ドル=18万円まで。シベリア鉄道で北欧に行って、それから南下。エジプトからスペインのマドリード。アメリカには大西洋を渡ってニューヨークでしょ。そして、西海岸からハワイに寄って帰国です」。
「これはね。岡崎って、ちょっとかわった奴がいて、そいつと途中までいっしょだったんですが、途中で別れて。お金がないから宿泊はユースホステルや夜行列車です。そうそう、ローマのテルミニ駅でその岡崎と待ち合わせをしていたんですが来なくて、その旨を日本への手紙に書いたら、心配した母親によって行方不明騒ぎが起きたこともありました。バルセロナの近郊じゃ、不審な2人組にホテルに連れて行かれて。机3台でドアを押さえて一夜を過ごした。北欧のおばさんは親切だった(笑)」。
―――当時、アメリカやヨーロッパは、今よりずっと遠かったんじゃないですか?
「そうだけど、行くか行かないかは、今もいっしょ。出発前の準備なんて、英語学校に2週間行っただけ」。
文字通り世界一周。異文化や異邦人との交流。東洋の小さな島国は、まだ世界に知られていなかった頃の話である。
その頃、青木フルーツも、大きな冒険を開始する。
「私が大学を卒業する1970年。万博があった年です。父が新しく整備された郡山市中央卸売市場に入場を決断するんです。青果卸業への挑戦です。フルーツショップを開業したのは祖父で、父は2代目。勤勉で、実直な人でした」。
初代のお祖父様は、郡山駅前・柳町商店街の会長として尽力された方で、東北初の天蓋式アーケードの建設計画を主導された方だったそうである。
さて、その青木フルーツと3代目の会長の話のつづき。

バナナと、担当スーパーと。

大学を卒業した会長は、業界では有名な『水信』に就職し、修行を開始する。水信は、1915年創業、横浜の老舗果物店であり、伝統あるバナナ加工卸売業者だ。
「ちょうど関西で勢いをつけていたスーパーマーケットが関東に進出してくるタイミング。私は運良くそのスーパーの担当になります」。
立川と八王子に巨大なスーパーがオープンする。会長が担当するスーパーだ。
「私の担当はバナナです。『関東の店舗のバナナはすべて水信で』という契約が交わされていたんです」。
―――当時、バナナは高級品でしたね?
「そう、高価なフルーツだったんですが、そのスーパーはほかより3割安く販売されていました。ちょうど自由化が進んだ頃で、スーパーのなかでも目玉商品だったんです」。
土曜に5トン、日曜には10トン。
「運ぶのも、たいへんだった」と笑われる。
その後もスーパーの出店はつづき、2年間の間に合計15店舗、そのすべてを会長が担当していたそうである。
会長も、土日となれば店にでた。まだ20代前半。あらゆるものを吸収する。「実体験で、小売のノウハウを勉強できた」とおっしゃっている。
「それでね。担当していたスーパーとの関係を軌道に乗せて、昭和47年の2月、24歳で水信を退社して実家に戻ります」。

フルーツの流通量の減少とライフスタイルの変化。

会長がもどってからの30年。青木フルーツの業績は拡大をつづけ、8000万円だった年商が30年目には60億円になった。ただし、会長は満足されてはいなかったようだ。
「たしかに大きな成長なんですが、いっても60億でしょ」と会長。
「それに気になることもあったんです」。
「その30年で、昭和は平成になって、人々のライフスタイルも変化をつづけているんです。そんななかで、農水省がフルーツの流通量を発表するようになって、それをウォッチしていたんですが、その資料だと年々、流通量が減っているんです」。
「人口が減っているわけじゃないのに、毎年、減っている。『なんでかな?』って、頭をフル回転させて、考えました。答えはね…」。
話は飛ぶが、2026年9月現在、青木フルーツはフルーツショップを5店舗、生搾りジューススタンドを190店舗、フルーツタルト&カフェを19店舗、オープンしている。
この成長は、当時の会長の疑問がスタートライン。
回答が気になる。
「私の回答は、こうでした」と説明してくださった。
「流通量が減っているのは、家庭で時間をかけて調理する時代から、すぐ食べられるものを買う時代に変化したからなんです。魚で想像してみるとわかりやすいんだけど、下処理がたいへんで時間がかかる。だから、刺身を買ってきて、パッパと食卓に並べるほうが楽で速い。パックの魚を買う人をみて、『そうか』って。当時、フルーツのパック詰めなんてパイナップルやメロンぐらい。だから、切ったり、皮を剥いたり。そういう時間がもったいないから手がのびないんだって」。
「要するに、魚じゃないけど『フルーツを食べやすく加工すればいい』って。発見ですよね。でも、どうすればいいか思案している時に『ジュースがいいんじゃない?』って、天の声が聞こえてきたんです」。
「それを聞いて。これ、じつはうちの妻の一言なんですが、いいアイデアだって思って。縮小するBtoBから、拡大するBtoCへ。そんな思いで『ジューススタンド』をオープンしたんです」。
「最初にオープンしたのは郡山のうすい百貨店。2002年6月1日の土曜日です。今でも忘れないです。オープン初日、レジを閉めたら170杯、5万4000円だったんです。これには驚きました。だって、よくいって50~60杯だろうって計算していましたから。その後も売上があがって、2号店は郡山のショッピングセンターに出店するんですが、そちらは日曜日には20万円。店員さんも目を回しただろうけど、経営者の私も目を回しました(笑)」。
「これでいける」と確信した会長は、一大勝負にでる。東京への出店だ。
「ショッピングセンターのバイヤーにね。『青木さん、郡山でこれだったら東京だともっとすごいことになりますよ』って一言に背中を押されてね」。
都内に複数のスタンドを次々とオープンさせた。
1杯400円。缶コーヒーの4倍。それでも、飛ぶように売れていくはずだった。

冗談はいうなよ。嬉しい誤算。

「商売っていうのは、ほんと難しいよね。ぜんぶだめだった(笑)」。
ふたたび「なんで?」と頭を抱えたそう。
郡山や仙台は計算通りだった。しかし、東京は、まったく計算外。
「なにがいけないんだろう。なにがちがうんだろうって。ところが、そんな時も出店のオファーがあって、つくばに『駐車場4000台の大型ショッピングセンターをオープンするから、出店しませんか』って。東京でお金を使いはたしていましたから、とてもじゃないが無理だって最初は断っていたんです。でもね、担当者が熱心に誘ってくれてさ。それで、出店を決めるんです」。
「また、お金をかき集めた」と会長は笑う。
300億円の大型ショッピングセンター、その一角に、ジューススタンドがオープンしたのは2008年11月3日。
「そりゃもうシーズンはとっくの昔に終わってます。だって、寒いんです。凍えて買物に来たお客さんは冷たいジュースを飲まないでしょ」。
―――「だめだ」と思っていたんですね。
「そうです。春にならないと売れないと思っていました。ところが、本社に電話をかけてきた担当者が興奮気味なんです」。
「会長、たいへんだって。『50万円売れた』っていうんです。『悪い冗談はやめてくれ』っていうと、『ほんとに、1700杯いったんです』って」。
「『よくやった』って言いたいでしょ。でも、また計算外で、余計にわからなくなった。それに『なんで東京はダメだったのに』って」。
―――答えはみつけられたんですよね?
「はい、答えはロケーションだったんです。東京は、駅前です。1人で買物に来て終わって、ジュースをのんびり飲んでいる時間なんてないんです。こっちは無料の駐車場があって、車に乗ってきた家族全員で買物を楽しめます。そこに、美味しいフルーツジュースがあったらどうです?」。
―――ちょっと飲んでみたくなります。
「そうでしょ」。
会長は、つぎつぎと難問を紐解いていく。
「それから、広域の商圏をもつイオンモールなどに出店を重ねていきます。ただね。全店がうまくいったわけじゃない。今はスクラップアンドビルドを繰り返していて。190店舗くらいになっています」。
その一方で、もう一つの柱になっている「フルーツタルト」の話も聞いた。
「こっちはね、逆転の発想なんです。たとえば、ショートケーキって、苺がのっかっているけど、苺がメインじゃないでしょ」。
「ショートケーキが悪いとは言わないけど、私らからしたら、そりゃ、フルーツをメインにしてほしいよね。だから、逆転の発想で、『フルーツメインのケーキをつくろう』ってスタートしたんです」。
「こっちも色々あったんですが、2010年11月3日に郡山郊外にフルーツショップとフルーツタルト&カフェの複合店をオープンしたら、これがうまくいったんです」。
「ジュースは衝動買い」だけど、「タルトは目的買い」だと、会長はいう。フルーツメインのケーキのカフェとショップの複合店。
「フルーツショップやカフェが一体となった世界観。行列をみて、『これだったんだ』って」。
会話がつづく。

・・・・続き

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2026年9月24日木曜日

「BS10プロ野球中継✖️応援メシ」9月21日で無事終了しました。


昨シーズン同様、株式会社 FIX JAPAN・堤社長とダック組んで「BS10プロ野球中継✖️応援メシ」の店舗選定からコーディネートを分担で担当し、9月21日で無事終了しました。

4月から9月まで36試合、36店にご提供頂きました。

このような機会を頂いたBS10プロ野球中継関係者の皆様には感謝申し上げます。


【4月】

海米山

バイロンベイミートパイ

Rice Platforme  おにぎり


【5月】

雷神油そば浅草店

割烹 樹樹

焼肉ふたご

オルニ

一石三鳥

ケンちゃんカレー

宮本むなし

らぁめん一撃


【6月】

三崎市場

元天ねぎ蛸

海虎

あかさか割烹和史

あさくま

とりいちず

うなぎの佐倉

鶏笑


【7月】

玉河

東京餃子楼

うまい鮨勘

鰻の成瀬

焼肉OGAWA


【8月】

回転寿司まるくに

加藤牛肉店

KIWAMI

田所商店

銀座三州屋

ヤマトサカナ

黒毛和牛焼肉 白か黒

マルシェ


【9月】

PAOPAO

にぎり長次郎

とんかつ小川

餃夢中

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