2026年1月28日水曜日

群馬県みどり市本社の株式会社サンフード 代表取締役社長 籾山大一郎氏登場です。

“飲食の戦士たち”群馬県みどり市本社の株式会社サンフード 代表取締役社長 籾山大一郎氏を取り上げました。

本文より~

『ステーキのどん』オープンまで。

「戦前のことですが、曽祖父は繊維工場を経営する有名な資産家だったということです」。
今回、ご登場いただいたのは、群馬で「ステーキ・ハンバーグどんさん亭」など複数のブランドを展開する株式会社サンフードの代表、籾山大一郎さん。
曽祖父は、日本国内はもとより満州や北朝鮮でも工場を経営されていたというから、かなり手広く運営されていたようだ。
曽祖父は、「ガチャマン(機織り機の音「ガチャン」で「万」のお金が儲かるという意味)」と揶揄されていた。ところが、戦後、農地改革や財閥の解体が行われると、籾山家も事業の縮小を余儀なくされた。
「そこにハーレーダビッドソンにまたがり、自由を謳歌する祖父の登場です。曽祖父が残した財産はかなりあったはずですが、繊維工場も当時の3億円の借金を抱えて倒産してしまいます。もっとも祖父のせいではなく、繊維が斜陽産業になるという時代背景もあったんですが」。
その頃のこと。大手ゼネコンに勤めていたお父様が、実家に戻られている。
「いよいよ倒産するってときになって実家に戻り、財務整理を行ったそうです。父に聞くと、貸借対照表からすべて真っ赤っかだったということです」。
もちろん、倒産はしても、籾山家を潰すことはできない。お父様は、繊維事業とは、まったく異なる飲食店をしようと、計画されたそうだ。
「『うなぎ屋』や『うどん屋』をしようと、家族会議にかけたそうですが、『バカにされた』そうです」。
当時の感覚としては、飲食で籾山家の復興はできないというのが、ふつうだったかもしれない。今のようなうどんチェーンもない頃の話だ。
「ところが、その話を聞いていた親戚の方が名古屋のステーキ店の『あさくま』さんを紹介してくれたんです」。
その方は、あのトヨタの名車「ソアラ」の設計士で桐生市の名誉市民だった。
「せっかく話をいただいたんですが、父はあまり乗り気ではなかったようです。父にかわって叔父が『あさくま』さんがある名古屋まで行って、仕事を覚えて帰ってきました。そして、前橋に『あさくま』さんでの修業をもとに『ステーキのどん』をオープンするんです」。
「ステーキのどん」は今、サンフードとは経営が異なっている。現在は「安楽亭グループ」が運営する一つのブランドである。
ただし、始まりは、これ。昭和51年のことで、籾山さん、6歳のときだった。

籾山家の跡取り。

籾山さんは昭和45年(1970年)生まれ。
「私が生まれた頃は借金取りが多く、私は母の実家の神戸で生まれたそうです」。
籾山さんは記憶にないが、当時の3億円の負債は大きい。
「結局、私が群馬に戻ったのは、小学生になってから。取り立ても一段落ついたんでしょうね」。
実家では籾山家の復興をかけ、ステーキ店の経営が始まっていた。お父様が桐生の実家を改造して「ステーキのどん」2号店をオープンしたのは、籾山さんが7歳のとき。
こちらが実質的なサンフードの創業店となる。
ところで、お父様はどんな人でしたか? そう質問すると、籾山さんは以下のように答えている。
「祖父に似て遊び人でした。ただ、祖父がつくった借金を整理して、叔父といっしょに籾山家を立て直したのは事実です。私たちにとっては怖い人で、いつだったかな、パンツ一枚で家を追い出されたことがあるんです」。
籾山さんは、昔を思い出したように笑う。
「裸で追い出されたんですが、夏だから、ちょうどよかった。でもね、公園のベンチで寝ていたら、藪蚊があっちこっちから現れて、刺されまくって、家に逃げて帰ったんです」。
籾山さんには悪いが、微笑ましいシーンは浮かんだ。昭和の牧歌的な話だ。
話はまだつづく。
「私が中学2年のとき、父に『国家公務員になりたい』って言ったら烈火のごとく怒りだして『お前は家を継ぐんだ』って。じつは、祖父も、曽祖父から早稲田に進学しようとしたときに、同じように言われているんです」。
籾山さんも祖父も同様に、その言葉を受け止め、ともにひねくれた。

アメリカ、ケンタッキー州にて。

お父様の一言で、未来への路線は決まったようなものだった。だからといって、籾山さんの青春が色褪せたわけではない。高校に進学した籾山さんは応援団に入り、声をからし、2年時には100人の学生といっしょにアメリカに渡っている。
アメリカですか?と驚いて聞くと、「そうです。2年のときに社会保険団体であるライオンズクラブで。父親に勧められたんです。もちろん、父に言われたら行かないという選択肢はありません。成田に行くと、学生が100人いて全員でアメリカに渡るっていうんです」。
壮大といえば壮大だが、まるで巨大なツアーだ。
「最初は、私もそう思っていたんですが、ロスで多くの人と別れ、私はシカゴに行くんですが、シカゴでもまた散り散りになって、私がジョニー・デップが生まれたケンタッキー州のオーエンズボロに着いたときは、たった2人です。もちろん、ホームステイ先は別々で、学校に行ったのは英検4級の私一人でした」。
アメリカで一人。
「私の人生のむちゃくちゃ大きなターニングポイントです」。
英検4級の英語はほぼ伝わらない。
「だからって無口じゃいけないんです。私はその頃、思春期ってこともあったんでしょうか、『無口が美徳』だって思っていたんです。アメリカ人はもちろん、無口が美徳だなんて思いません」。
「5月から8月まで、アメリカの田舎で過ごします。4ヵ月もいると、英検4級の私でも英語がなんとなく分かるようになりましたし、いつのまにか無口じゃなく、自己主張が強いアメリカナイズされた高校生になったと思います」。
それが今にもつながっている?
「そうですね。人間がどうあるべきか。私自身が外に向け、自分を主張する、そういうことが大事なんだと知りました。これはもちろん今の経営にも活きています」。
帰国し、のちに大学に進んだ籾山さんは、どこにでもいる大学生と同様に大学生活をエンジョイする。そして、就職。
「入社するならサンフードと思っていたんですが、父の命令で、愛知県の『物語コーポレーション』に就職することになりました」。
「物語コーポレーションもまだ小さくて3~4店舗しかないときです。私以外は全員高卒です」。
1年、料理とも格闘し、退職。その後、吉野家に転職している。
「吉野家のあと、会計事務所で会計を勉強し、26歳のときにサンフードに入社します」。

「じゃあ、好きにしろ」。父はサジを投げ、息子の闘争心に火がついた。

「中学のときから家業を継ぐものだと思っていました。会計事務所にも勤め、準備体操も終わったと思って、いよいよだと意を決してサンフードに入社します」。
ポジションは、専務だった。
親心か?実力を評価してのことか?
「たぶん、前者ですね。当時、上層部は私より年上の方ばかりです。従業員は70~80人。社長の息子といっても新参者です。専務という肩書がなければ、たいへんだったと思います。ただ、彼らと比較すれば経験が圧倒的に少ない奴が、いきなり専務ですから批判があったに違いありません」。
その批判が、かたまりとなって、籾山さんを襲う。
「2001年に、ステーキ店にとっては致命的な『BSE問題』が起こりました。とたんに、業績が怪しくなりますが、なすすべがありません」。
そのときステーキ店を担当していた者がBSE問題に耐えきれず退職、当時焼肉の新店に関わっていた籾山さんが、急遽担当になったそうだ。
「どうしようもないのに、やはり、陰口が叩かれるんです。業績は前年比マイナス70%。ステーキ以外の業態からすれば、『専務は何をしているんだ』と。もちろん、アメリカ産の牛肉が輸入ストップですから、オーストラリア産に切り替えるなど、打てる手は打ったんです。でも、それだけでは、どうしようもありませんでした」。
「できない専務」とレッテルを貼られる。
籾山さんを批判する声は、次第に高まり、ついに社長のお父様が、籾山さんにその声を伝えることになった。籾山さんにすれば、なじられる筋合いもない。ただ、お父様も、なんとかしないと、ことが収まりそうになかったから、引き下がれない。
お互い言いたいことを言い合った。
お父様は、籾山さんを守ろうとしたのかもしれない。従業員たちの声に押されたのかもしれない。話は平行線がつづく。籾山さんも父親相手に遠慮はしなかった。
お父様がついに怒ってサジを投げる。
「じゃあ、好きにしろ」。

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株式会社サンフード 代表取締役社長 籾山大一郎氏

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2026年1月20日火曜日

株式会社ざくろホールディングス 代表取締役社長 伊久間 哲氏登場。

 “飲食の戦士たち”株式会社ざくろホールディングス 代表取締役社長 伊久間 哲氏を取り上げました。

本文より~

教師一家に生まれた少年が選んだ道。

東京で初めて“しゃぶしゃぶ”を紹介した高級日本料理店「ざくろ」。1955年(昭和30年)の創業以来70年、多くのお客様に厳選された国産黒毛和牛の美味しさを伝え続けている。
今回ご紹介する“飲食の戦士”は、その代表取締役社長である伊久間 哲氏。歴史ある「ざくろ」の6代目社長に、その半生を振り返ってもらった。
1961年、群馬県伊勢崎市に誕生。両親はもとより親戚のほとんどが教職という典型的な「公務員一家」の次男坊として成長した。そのため、幼いころから「自分もきっと教員になるのだろう」と漠然と思っていたという。
スポーツが得意で小学校は野球、中学ではサッカー部に所属。もともとラグビーに興味があったことから、高校は地元でも有名なラグビー強豪校に進学した。練習は厳しく、新入部員20人のうち、最後まで部に残ったのは6人ほど。小柄ながらその俊足を武器に花園を夢見て走り続けた3年間は、伊久間氏の芯の強さと仲間への信頼感を育んだ。

初めて知った「接客の喜び」。

飲食との出会いは中学時代の夏休み。教員一族でただひとり、そば屋を経営していた親戚の手伝いをしたことがきっかけだった。お客様から「ありがとう」と言われる喜び。人生初のアルバイトは、伊久間少年の心に接客の楽しさを教えてくれた。
大学受験に失敗し一浪した伊久間氏は、予備校に通いながら近くのファミリーレストランでアルバイトを始める。職場の雰囲気は良く、店長や調理長にも可愛がられ、次第に「自分の進む道は飲食しかない」と確信するようになった。両親を説得し観光専門学校のホテル課に進学。サービスの基礎を体系的に学んだ。
就職活動が始まった2年生の秋、「ざくろ」の面接を受ける。当時の「ざくろ」は5店舗展開で、6店舗目オープンを目前に控えたまさに成長期。内定をもらった伊久間氏は赤坂・アメリカ大使館前店に配属され、接客や運営を現場で学びながらキャリアを積んでいった。
当時は労働時間も長く、従業員の入れ替わりは激しかった。同僚と切磋琢磨しつつ、接客の奥深さを学んでいった伊久間氏は主任、副支配人へと昇進。30歳で支配人に就任する。「出世のスピードですか?同期と同じくらいですよ」と謙虚に語るが、日々の努力が実を結んだことは明らかだ。

コロナ禍、試練の社長就任。

「ざくろ」の代表は基本的に世襲ではなく、現場を経験した社員が社長を務める伝統を持つ。2014年に専務に就任した伊久間氏も、5代目社長を支えともに経営のかじ取りを担った。東京オリンピックを目前に控えた2019年、世間は景気に沸き、同社の業績も好調だった。
明けて2020年、新型コロナウイルスが日本を直撃する。
「あの頃は本当に厳しかったですね。役員の間でも喧々諤々の議論がありました。幸い借入はほとんどなかったのですが、それでもこのままでは立ち行かない。“清算”という言葉すら出るほどの危機でした」。
突然の休業命令や営業時間の短縮要請で、会社は瞬く間に赤字に転落。その危機的状況の中で、社長就任を決意したのが伊久間氏である。
「自信があったわけではありません。ただ長年お世話になった会社に“恩返しをしたい”という気持ちだけでした」。
社長就任は名誉であると同時に、会社存亡の責任を一身に背負う重責だ。そのため無用な心配は掛けたくないと、元同僚だった妻にも一言も相談しなかった。創業以来初の危機的状況の中で「自分がやる」と手を挙げることは、並大抵の覚悟ではできない。

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株式会社ざくろホールディングス 代表取締役社長 伊久間 哲氏

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2026年1月13日火曜日

株式会社レインボーカンパニー 代表 松野 倫氏登場。

 “飲食の戦士たち”株式会社レインボーカンパニー 代表 松野 倫氏を取り上げました。

本文より~

1970年代の競争と、アメリカンフットボールと。

「貧乏だったよね」と松野さんは振り返る。小さな部屋で、父母弟の4人暮らし。
「世田谷の梅丘だったからね。お金持ちがたくさんいるでしょ。小学生でファミコンでしょ。ナイキのシューズでしょ。だから、付き合っていたのはうちと一緒で、借家に住んでいた、貧乏っていうと悪いけど、そういう連中でした」。
松野さんは1973年生まれ。第二次ベビーブーム。競争相手も、比較する相手も山ほどいた。
「スポーツでも、勉強でも、とにかく競争って、そういう時代だったね。部活は中学では野球、高校ではアメフトです。今になって思えば、そういう時代だったんだと思います。私が小学4年生になった頃から、母のなかで『受験』に火がついて」。
嫌々、進学塾に通わされた。
「小学5年生のときかな。入塾して初めてのテスト。開成中学の国語の問題で86点を取っちゃったんです。
ほかの教科はだめだったんですが、国語だけが天才的でね」。
褒められたことがなかったから、塾の講師に褒められただけで有頂天になった。結果を聞いて、お母様も喜ばれた。だが、それがかえって火に油を注ぐ結果となった。
「あれはだめ、これはだめ」。ときにヒステリックに繰り返す叱責に心が荒んだ。中学受験は失敗し地元の梅ヶ丘中に通い、高校で法政二高に進んだ。
「アメフトに救われた」と松野さんはいう。
高校に入ってからの話。
「中学では野球部です。中学でも練習はきつかったですが、レベルがまったくちがいます。アメフトだから、相手に猛烈な勢いでぶち当たるでしょ。上下関係は厳しく、水は飲むな。それで、あの防具をつけて、真夏の炎天下走り回りつづけるんです。今になってみればとんでもない世界です。でも、そのおかげで、何もかも忘れることができたんです」。
松野さんは、アメリカンフットボールに熱中する。しかし、その舞台は、高校時代で幕を下ろす。
「当時、法政二高はアメリカンフットボールの名門校でした。6度の日本一になっていて、私たちの頃が黄金期です。ただ、ぼくらの代は、春は関東で優勝したんですが、秋は2回戦で敗退。それが、むちゃくちゃ悔しくて」。
大学に進む道はたしかにあった。いや、進まないほうが稀だった。
「でも、ぼくは何かが切れちゃった。大学行って屈辱を晴らそうとも思わなかったね」。
「優勝」という目標がなくなると、急にちがう風景が目に映った。
フィールドでは、すべて対等だった。だが、フィールドを離れれば様子がちがった。大学に進んだ先輩たちは、ルイ・ヴィトンやラルフローレンといったブランドモノを持ち、親に買ってもらった高級車を乗り回し、金にあかして、女の子と遊んでいた。
「ふつうなら当然ですが、法政大学への進学です。でも、大学になれば益々、住む世界がちがうことを思い知ることになる。高校3年間、格差を感じながらも一生懸命やってきた自負がありました。だから、もういいかな、と進学を見送ったんです。そんなときに父がアメリカの大学を勧めてくれるんです。『知り合いが昔いた大学に、金さえ積めば入れるぞ』って」。

lice(ライス)と、深夜の口論と。

ミズリー州の小さな町だった。カンザスシティから車で数時間。初めての異国。
「昔から映画が好きだった。だから、アメリカにも憧れていた。でもね。国語はできるのに、英語は不得意じゃない程度。それも日本の勉強のなかの話でしょ。初日にね。学校の職員が、学校まで連れてってくれたんです。彼は、1時間くらいずっとしゃべりかけてくるんです」。
初めて聞く生の英語。
「わかるわけがない」と、両手を左右に広げる。アメリカ映画でよく観るシーンだ。
「学校のある町は、小さな町で、人口1万4000人です。そのなかで黄色人種は2人。学校を紹介してくれたアジア人のいとこのお姉さんと、日本人のぼくだけ」。
学校では松野さん、ただ1人。
「あのね。今もそうかもしれないけど、当時は、はっきりとしたヒエラルキーが存在していました。上から、裕福な白人、普通の白人、黒人、メキシカン、で、そのほかです」。
食堂に入ると、縮図が明らかになった。
「真ん中のいちばんいい席は、裕福な白人、その横にふつうの白人というような感じです。ぼくはたった1人の日本人です。めちゃめちゃ奇異な目でみられました。トレーをもってテーブルにつくでしょ。するとサァーと人がいなくなる。たぶん、バカにされていたし、いやなことも言われていたんでしょうね。でも、こっちは言葉がわからないからね(笑)」。
ある日、混雑した食堂で、松野さんは12人掛けのテーブルを独占していた。
「ぼくが端っこに座っていたらね。みんないなくなっちゃったんです」。
言葉はわからないが、目には映る。
食堂でオーダーするときも笑われた。
「ある日、『ライス プリーズ』って言ったんです。すると、給仕さんが大笑いするんです。繰り返すとさらに大笑いです。日本の発音の『ライス』は、『シラミ』なんです。だから、ぼくは一生懸命『シラミをくれ』って言ってたんです」。
たった1人の日本人に、救いの手は現れない。
「悔しさの発動」と松野さんは表現する。
「liceは、シラミ。もう、笑われたのが悔しくって、それ以来、だれとも話さないでTVばっかりみていたんです」。
現実逃避ではない。口の動かし方を徹底的に真似た。
そんな、ある日のこと。
「そのときは4人のシェアハウスに住んでいました。ぼくはだれともしゃべらない。でも、ある日、ぼくが『食器を片付けてなかった』と、1人が腹を立てて、真夜中2時にドアを破るほど叩いて文句をいうんです。こっちも腹が立ってね。言い返します。あまりに大声でやりあっていたんで、ほかの2人もやってきて。『うん?』ってだれかがいって、もう一人が、『あれ? おまえ、今、英語でケンカしているぞ』って」。
アメリカは、差別主義だったが、寛容でもあった。
「あのアメリカンカルチャーには、惹かれた」と振り返る。アメフトの試合をみて、俺のほうが巧いと思ったこともあった。バスケットボールの試合もみた。
ミズリー州で1年半。サンフランシスコでも1年半。お金がなくなって帰国した。

日本にもどって、詩人となった。

帰国して、松野さんは「地下に潜った」という。これは文字通りの話で「上野広小路」駅、大江戸線を作る現場ではたらいていた。
同時にバンドを結成し、ボーカルを務めた。歌を書き、歌をうたった。
2年間、暗闇のなかで詩を綴った。
「本をむちゃくちゃ読みました。宇宙物理学でしょ。生物学、進化論、心理学、哲学、啓発本も含めて300冊は読んだんじゃないかな」。
もともと深くのめり込むタイプ。
複雑なパズルの世界をさまよう。五感が鋭くなった。
「昼間はもちろん、寝るときだって耳栓をしていた」と松野さん。じつは、今も寝るときは耳栓がかかせない。
当時の松野さんにとって、無音の闇こそが安寧できる唯一の世界だった。そんな松野さんが、どのようにして今に至るのか。少しばかり先をいそごう。
26歳になった松野さんは嬬恋村のキャベツ畑でアルバイトをしていた。東京に戻り、有名なラーメン店で勤務。30歳でグローバルダイニングに入社する。
今まで何をするにしても結果をだしてきた松野さんだが、グローバルダイニングでは、何をやっても結果がでなかった。
「焦った。だって、初めての経験です。それまでは、思ったまま動くだけで、結果がでたんです」。初めてぶちあたったカベ。乗り越えるために、初めて人に頭を下げた。だが、それは、上を向くためだった。
「あのグローバルダイニングがなかったら今の私はない」と断言する。身体を覆っていた、ちっぽけなプライドが、ボロボロと壊れていく。そのなかから、純粋な青年が現れた。
闇を友としていた、心の弱さもそこにはなかった。
先輩を真似、キッチンから潜水艦のように頭をだし、遠くまで望む。目の前のお客様だけに目を奪われないためだ。ときに知人のような態度でお客様と接する。お客様の心を動かすためだ。
その一方で、人の5倍はたらいた。朝の11時から夜の11時まで。12時間は当たり前。シフトが終わっても帰らない。
「店が閉まってから、ぼくの掃除タイムです」。
柱に染み付いた長年の汚れを落とした。テーブル一つ、数時間かけて磨き上げた。
「ある時、いっしょに働いていた年下に言われたんです。『おめぇなんか人の2倍はたらきゃなきゃ、おれに追いつけねぇよ』って。そりゃそうです。そいつらは若い頃から、ひたむきに修業してきたんですから。それがわかっていても腹が立ち、言い返します。『バーカ、5倍やってやるよ』って」
すべてが崩れていく。だが、それにもきづかないほどがむしゃらだった。「あの時代があったから」というのは、頷ける。
「どん底があって。その底がみえたら、こっちのもんです。もがいても結果がでるなんて保証はない。でも、もう底なんだから。あとは、底を蹴ればいい」。
「あなたは、ずっと戦ってきたね」と言われたことがある。そう、ずっと戦ってきた。がむしゃらに。それが、松野さんの生き様。
だが、戦いの本番はこれから。36歳、松野さんはグローバルダイニングを退職する。

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株式会社レインボーカンパニー 代表 松野 倫氏

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2026年1月11日日曜日

「飲食の戦士たち」はAI検索の時代に強い!

「飲食の戦士たち」続けてきて良かった!とつくづく思います。

飲食業界のメディアで経営者の記事を100連載、しかもチェーン店中心の掲載となるとかなり大変です。

おそらく、業界の方なら誰でも知ってる旬の経営者や登場頂いた経営者からの紹介があると30〜50連載は可能だと思います。

ただ100連載に到達させるのは大変です。

それがなんと1,100連載超えてるんですから、我ながらよくやってきたと思います。

何よりもAIでも評価の高い信頼できるサイトのようで、それが嬉しいです。

また、同業のメディアの方々には独自路線の記事ですが、それなりに評価されてるのもありがたいです。

本当に続けてきてよかった!

「飲食の戦士たち」は私1人では出来ません。

取材先獲得のために携わってきた営業スタッフ、アルバイト、インターンの皆さん、またSさん中心にライターの方々、あと最初から「飲食の戦士たち」の運営、更新してくた国谷に感謝です。

さらに2026年は次の柱になるサイトも考えてます!


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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2026年1月7日水曜日

1月7日㈬、“zakⅡ” にサブスク大ヒット、町中華「福しん」「揚州商人」成功の秘訣の記事が掲載されました。

本日1月7日㈬に産経デジタルの“zakⅡ” 「 ここだけの外食産業ニュース  」(キイストン連載)  に~サブスク大ヒット、町中華「福しん」「揚州商人」成功の秘訣~が掲載されました。
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株式会社石橋正和 代表取締役 石橋正和氏登場。

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本文より~

店名の由来と“魚嫌い”だった少年時代。

「最初は『鮨 石橋』にしようと思っていたんです。でも、お寺で画数を見てもらったら『よくない』と言われて。それでフルネームにしました。フルネームの画数は、あえて聞かないことにしました(笑)」。
自身の名前をそのまま店名に掲げる――良いことも悪いことも、すべて自分一人で背負う覚悟の表明と言えるだろう。
今では江戸前鮨の伝道師として注目を集める石橋氏。しかし、子どものころは魚が大嫌いだった。その理由は、父の親戚が寿司屋を営んでいたから。父やその兄たちは埼玉県越谷市の店を手伝い、佐野で義父の世話をしていた母もたびたび加勢。夏休みには家族旅行よりも仕事が優先され、寿司と共にある生活に嫌気がさしていた。
小学4年生のころ。家の建て替えを機に、父は佐野で自分の店を開業した。自宅1階の寿司店はかなりの広さがあり、毎日のように手伝いに駆り出された。帰宅後は「牡蠣を剥け」「エビを処理しろ」と容赦なく父の指令が飛ぶ。寿司屋になんて絶対なりたくないと思うのも仕方のないことだった。

剣道の日々と目のケガ、アメリカへの憧れ。

小学生のある日、友人が投げた石が目を直撃。この事故が元で外傷性白内障を患った石橋氏は、大好きだった野球を断念、習っていた剣道も当時は諦めざるを得なかった。しかし、中学入学と同時に剣道の修練を再開。厳しい稽古と指導の下で心身共に鍛えられ、続く高校時代も迷わず剣道部を選択している。
武道に親しむ一方で、石橋氏はアメリカへの憧れを心に抱くようになる。音楽や映画を通じて知ったアメリカは、どうしようもなくカッコ良かった。高校留学は見送ったものの、いつかはアメリカへ。その想いは日を追うごとに強まっていった。
家に帰れば、相変わらず家業の手伝いが待っている。常連客に「ちょっと握ってみろ」と言われることもあり、上手くできないことへの悔しさから練習を重ねた。そうしていつの間にか魚の扱いを覚え、握りの基礎を学び、人前に立つ度胸も身についていった。

夢のアメリカ留学と現地での認識。

高校卒業1年後、石橋氏は渡米し、念願のアメリカ生活が始まった。
「嫌なことなんて一つもなかったですね。アジア人と軽蔑されることすら、むしろ面白かった」。
米国の大学で語学を学ぶかたわら、現地の寿司屋でアルバイトに励む日々。そこで気づいたのは、「アメリカは住むのは良いけれど、仕事をするところではない」ということ。現地の文化風習や国民性を見抜く力は、石橋氏の才能のひとつだ。

鮨を握ることは音楽と同じ。

アメリカ生活も5年が過ぎ、大学卒業を控えた石橋氏が就職先に選んだのは、銀座の名店「鮨一」だった。あれほど寿司屋を嫌っていたのに、なぜ父と同じ道を選んだのだろうか。
「言葉だけで意思疎通するのって、難しいじゃないですか。でも寿司って、お客さんが目の前にいて、自分の拙い英語にも耳を傾けてくれる。それって音楽と一緒だと思ったんです。僕、バンドでライブもやっていたので」。
エンターテインメントの国アメリカで培ったこの感覚が、海外出店を成功に導く鍵なのかもしれない。

経営方針の相違と独立への転機。

「給与面でも恵まれていましたし、独立という選択肢は頭にありませんでした。ただ、オーナーと経営に関する考え方が少しずつすれ違うようになり、あるとき「それならば自分でやろうかな」と思い立ちオーナーに伝えました。とはいえ、常務兼総料理長という立場で、海外進出に関する業務もすべて任されていましたので、実際には責任を果たしてからでないと退くことができませんでした」。
2017年3月。ようやく退職できた石橋氏は、実家のある佐野市に戻る。ところが父の店に往時の勢いはなく、これはまずいと直感。知人に打診され視察に訪れたロンドンでも、いまひとつピンとくるものがなかった。
そんな矢先、とある税理士が「融資を受けて独立しては」と助言してくれた。彼の後押しを受け銀行と公庫から計3,000万円の融資獲得に成功、新たな物件探しが始まった。麻布十番に手ごろな物件を見つけたものの、諸事情により断念。次に目を付けたのは銀座のビルだった。
「麻布十番の物件を見て『あ、ここだ!』って思ったのにダメだったときは、ショックでしたね。ここ(銀座のビル)は日祝は完全閉鎖だし、平日も夜中3時には絶対出ないといけないんです。でもノーチョイスといいますか。僕、わりと行き当たりばったりなんですよ」.
店づくりにこだわったため、融資はあっという間に使い果たしてしまう。こうして2017年11月、「鮨 石橋正和」は運転資金ほぼゼロの状態でオープンした。

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今年で9年目の福利厚生。

今年で9回目、福利厚生として従業員の家庭に「おせち料理」を贈らせてもらってます。
社長も新人も皆同じ。


 
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