2025年11月19日水曜日

株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏登場。

本文より~

熊本から東京、そして、ふたたび熊本へ。「だったら、今だろ」。

「はよ、こっちば手伝わんか!」
農園に遊びに行くと、そんな声が飛んできた。
農園とは、今回ご登場いただいた株式会社ユームスの代表、田尻 秀一郎さんの父が創業した、正確にいうと観光農園。名称は「優峰園フルーツランド」という。
「熊本ではそこそこのスケール」と田尻さん。
田尻さん自身は、熊本を離れ、東京で飲食店を経営し、現在では熊本でも事業を起こしている。
「熊本での事業は震災がきっかけでスタートします。熊本での創業店『テラス TERRACE』は、もともと著名なシェフがお店をオープンする予定だったらしいんです。ただ震災で、その話が流れ、代わりに私が手を挙げ『テラス TERRACE』をオープンしました」。
「なんとか支援をしたかった」と田尻さんはいう。
「私は、熊本をコンセプトにしたお店を東京で展開していましたので、熊本県人のお客様がいらして、『どうする?』なんて話を、お客さんといっしょにしょっちゅうしていたんです」。
「私にできることは限られていましたが、なにか支援できることはないか、と。それにいずれ熊本にも店をだそうと思っていたので。だったら、今だろ、と」。

「優峰園フルーツランド」を離れるまでの話。

話は、田尻さんが農園で走り回っていた頃に移る。
「私がちっちゃかった頃は、『みかん』と『なし』と『ぶどう』をメインに栽培していました。祖父が農家で、父の代で観光農園としてスタートします。農園と言っても、優峰園フルーツランドがあるのは、熊本市内です。都内で暮らす人には、市内というと驚かれるかもしれません。熊本といえばみなさん、阿蘇山をイメージされますが、そっちじゃなくって、島原のほうがちかいです」。
「優峰園フルーツランド」のホームページにあるマップでみると、熊本駅から西に向かっていくところにあった。
「市内ですが、周りは山。自然が残ると言うと聞こえも悪くないですが、今も実家の周りは昔のまま。ただ、一つ、かわったのは、電動付き自転車で子どもたちが坂を上がっていることですね。ぼくたちの頃は、坂がきついから、自転車なんて乗ることができなかった」。
田尻さんが笑うと、どことなく、空気がゆるむ。
じつは田尻さんは、お父様が経営する「優峰園フルーツランド」のあとを一度はついでいる。
「高校生の頃に、今はもう元気なんですが、父が病になって、ふだん、ぼくに何かをしろとは言ったことがない両親が、『フルーツランドをつぐのは秀一郎しかいない』と。それで、いったんつぐには継ぐんですが、じつは3年で弟にバトンタッチしてしまうんです」。
「オレに代わって、『優峰園フルーツランド』を引き継いでくれ」。
田尻さんが弟さんに深々と頭を下げると、兄の気持ちをわかっていたのだろう。「ええばい」という声が降ってきた。
「今はもう、弟の代になって、『いちご』もやっていますし、『釣り堀』や夏は『流しそうめん』をはじめて、人気のスポットになっています」と頬をほころばせる。
「2歳下の弟が入社したのは、私が入社して3年目の時。弟に了承してもらい、父母には、私が宅建免許の取得することと引き換えに、家をでることを許してもらいました」。
<宅建ですか?>
疑問をそのまま口にすると、優峰園フルーツランドでの葛藤が、田尻さんの口をつく。
「ぼくは、優峰園フルーツランドの仕事をしたくて、はじめたわけじゃありません。これが弟とはちがう点です。それに、農園のことになると父が、ふだん何も言わない父が、あれやこれや指示だすんです」。
「ぼくは、わがままっていうんでしょうか、やりたいことでしかエネルギーがでないタチなんです。親父に指図されるまま2年くらいのらりくらりやっていたものの、やっぱりだめで。それで弟が入ってきたのを幸いに、家をでていこうと画策するんです」。
「事業家だった父の背中をみてきたからでしょうね。ちっちゃな頃から独立志向がつよく、農園で、父の下ではたらいたことで、独立への想いが加速したんだと思います。もちろん、親を説得しないといけません」。
「幸い、父も回復していたんで、父と弟で農園の経営に問題ありません。『宅建』という高いハードルを越えたら、『オレの好きにさせて欲しい』とお願いします」。
「どうして宅建かっていうと」と言って、頭をかく。
「理由なく、宅建を取れば独立できるという思い込んでいたんです。一方、2人は高校までのぼくの成績を知っていますからね、まさか合格するとは思ってなかったんでしょう。『わかった、約束だ』って」。
ご両親の予想を裏切り、田尻さんは見事、合格。
「弟に2代目を譲り、晴れてぼくは福岡に向かいます」。
ふるさとからの旅立ち。田尻さん、21歳のとき。

Barとサーフィンと。

「宅建は口実で、無事、取得はできましたが、そっちの分野に進むつもりはありませんでした」と田尻さんは、正直に打ち明ける。
Barではたらく友人の姿に惹かれ、福岡でアパート借り、21歳の暮らしがはじまる。
「ともだちに紹介してもらったBarに行くんですが、2年間はトイレ掃除だと言われて」と苦笑する。
「それでも、お酒をマスターしようと酒屋さんでアルバイトをして、のちにちゃんとBarでもはたらきます。その一方で」。
いったん、言葉をためて「サーフィンに出会うんです」という。
まるでとっておきの一言を放つように。
波に乗ることですべてから開放される。サーフィンは田尻さんに開放感をもたらし、虜にする。
こののち、サーフィンとBarが折り重なって田尻さんの人生を織りなしていく。
「波をもとめて、オーストラリアでも暮らします。向こうではフルーツピッキンのバイトして、あとはサーフィン三昧です」。
帰国した田尻さんは、宮崎で1年間サーフィンしながらお金を貯め、上京することになる。
だが、最初に、降り立ったのは上野。思い描いていた東京とまるでちがった。
「東京っていえば、表参道でしょ。あのイメージが刷り込まれていたんです。それで、実際、表参道に行って、そこにあったBarではたらきます。赤坂のBarでもはたらきました。東京が、ぼくのなかにだんだんと染み込んでくるんです」。
異質で、格好いい東京の街並みが、見慣れた風景となる。
「そのあとですね。これも大きなターニングポイントなんですが、『恵比寿でもつ鍋をやる』という先輩から声をかけてもらって『博多もつ鍋 蟻月』で仕事をはじめました」。
当時、千葉の市原に住んでいた田尻さんは、恵比寿の白金に移り、仕事にどっぷりとつかっていく。
「けっきょく29歳から35歳まで『もつ鍋 蟻月』で勤務します」。
ちなみに、「蟻月」はグルメサイトでもとりわけ高得点の、もつ鍋店だ。
<蟻月を退職され、独立されたわけですね?>
「ええ、そうです。たいへんな道のりのはじまりです」。

あれ? イメージとちがう。

2010年、 田尻さんは、渋谷に「熊本バル うせがたん」をオープンする。「うせがたん」とはかわった名だが、何でも田尻さんだけが知るパワースポットの名とのこと。コンセプトは、熊本だ。
「16坪で、家賃29万円。借り入れ1000万円、自己資金300万円でスタートしました」。
「ぜんせんわかってなかった」と田尻さん。
「蟻月では、一日中、電話が鳴りっぱなしだったもんですから、そのイメージでオープンしたんですが」。
意に反して、客足はまるでのびなかった。
「電話もならない(笑)」
「月商500万円はかたいとふんでいた」と田尻さん。
「しかし、実際には200万円。営業時間ですか、18時から深夜0時です。『蟻月』では、マーケティングなんていらなかったから、広告もわからないです。それで、とにかくランチをはじめようと思って。夜も、昼も、休むこともできません。でも、ランチのおかげで、少しずつ認知いただくようになって」。
7月にオープンし、夜もにぎわうようになったのは10月。3ヵ月は、そこそこ長い。
「初めてですし、不安がないと言えばうそになります。それでも、なんとか軌道にのり、今度は『熊本ラーメン』だと2店舗目をオープンします。しかし、ラーメンはむずかしくって。それですぐに、餃子と麺の居酒屋に切り替えます」。
「とにかくぼくは、プランB」と田尻さん。メインのAじゃなく、サブのB。
「2店舗目も最初は、ラーメン。これがプランAです。でも、Aがだめで、居酒屋というプランBが動きだします。3店舗目も同様で、つぎは高級路線に舵を切ろうとアッパーな和食店をプランAとしてスタートするんです」。
「幸先よく、なだ万出身の料理人を採用できたんです。これで、いけると思ったんですが、彼はしばらくして、著名人に引き抜かれてしまって。それで、こちらもプランBとして、再スタートです」。
<それでも、3店舗、プランBもなかなかやりますね>
「ま、いまだからね。最初に『うせがたん』をオープンした時なんて、奥さんのお父さんが、ともだちを連れて毎晩のように来てくれて、それで、なんとかかんとかって感じだったから。休みもないし。それに、料理長がいなくなったときもきつかったですね。渋谷を歩いていても、ぜんぶ、脱色したようにグレー色なんです」。
<サーフィンのように波に乗るのは簡単じゃない?>
「そうですね。ただぼくのなかには、熊本人というアイデンティティがやはりあるんです。『うせがたん』も、熊本の名物料理である馬肉を食べてもらいたと思ってスタートしたんです。東京という大都会だからこそ、熊本というアイデンティティが光るとも思っていました」。
「しかし、熊本ならなんでもいいってわけじゃない」。プランAは、プランBにかわり、熊本というアイデンティテもまた東京に飲み込まれていく。
「そんななかで起こったのが、熊本地震です」。

・・・続き

株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏

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