in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。
神宮前で輝くアメリカンカルチャーの象徴。
グルメ、ファッション、カルチャーがカラフルに交差する神宮前。その一角にある、2007年のオープン以来行列の絶えない店――「THE GREAT BURGER」。
南カリフォルニアをイメージした空間に、アメリカンビーフ100%のパティと自家製天然酵母バンズ。アメリカンテイストなインテリアやグッズに加え、店内表示もほぼ英語のみ。「料理だけでなく、空間すべてを楽しんでほしい」というオーナーのコンセプトが、訪れる客の気分を引き立てる。
その仕掛け人は、株式会社LDFS代表取締役・車田 篤氏。一年の3分の1を渡米で費やし、“アメリカの今”を東京に持ち帰る男だ。
母から受け継いだ舌と鼻、父から受け継いだ感性。
専業主婦だった母は料理上手で、パンもお菓子も日常的に手作り。幼い車田氏は、母と一緒にパンをこねながら自然に料理の基礎と味覚を身につけた。10歳のころ母が喫茶店を開業、車田氏と飲食の絆はすでにこのあたりから芽生え始めていた。
「僕、味覚と嗅覚が異常に鋭いんです。喉を通った時に味が爆発するっていうか。友達には“鼻探知機”って言われてます(笑)。母からの最高の贈り物ですね」。
両親は高校の同級生同士。父は機械製造・販売会社から独立した合理派で、洋画やラジコン飛行機を始め趣味にとことんのめり込む人だった。
そんな父の影響か、子どものころから洋画に触れる機会が多く、ドライブインシアターではハリウッドのスケール感に心を奪われる。カラフルな街並み、自由なファッション、活気あるダイナーの雰囲気──これらの直感的な経験はすべて、自らの店をつくる際の土台になっているという。
迷走と挫折を経て上京。「東京、やべぇ!」
小学校までは野球一筋。中学では軟式テニス部でレギュラーを獲得するも、高校入学後に競技ルールが大幅に変更され、その違和感から帰宅組に。一浪して入った大学も、あまり興味が持てず2年の夏に中退。動物関連の専門校に進むため一旦帰郷するが、入学直前にその学校が倒産、21歳で上京し専門学校に通う。
「友達もいないし“東京コワイ”って思ってたのに、来てみたら『東京、やべぇ!』って(笑)」。
東京の専門学校でも、理想と現実のギャップに悩んだ車田氏は、就職への意欲も湧かず、卒業後はフリーター生活に。自分の未来図を描けずに、日々焦燥感だけが募っていった。
2000年のカフェブームが心に火をつけた。
そんな中、ミレニアムの幕開けと共に“東京カフェブーム”が花開く。その火付け役となったのは、専門学校時代に足しげく通った駒沢公園そばの「バワリーキッチン」だった。
「それまで飲食店と、インテリアやグッズ、カルチャーって言う概念は、ほとんどリンクしてなかったんですよね。それが全部ミックスされているのが“カフェ”で。『こういうの、いいよね。自分もやりたいな』って友達に言ったら、そいつが『やればいいじゃん』って」。
母は専業主婦から自分の店を始めた。父もサラリーマンから独立した。起業は何も特別なことではない。「自分だってやれるんじゃないか」。
アメリカ文化への憧れと自分の理想が心の中でやっと重なった。それからおよそ1年半の間、時給800円で月に450時間は働き、飲食の知識と経験を蓄えていった。
「親に、『店をやってみたい』って相談した時、賛成も反対もされませんでした。これまでのことから、どうせ無理だろうって思ったんでしょうね。これはヤバいって思って、もう一度事業計画を練り直しました」。
ある程度貯金も貯まったところで、再度親に自分の想いを打ち明けた。息子の変化を感じ取った両親は真摯に向き合ってくれた。父親が保証人になり、おかげで資金も調達できた。
原宿の地下15坪からのスタート。
2002年6月6日、原宿・京セラビル地下にカフェ「ease by LIFE」をオープン。15坪で家賃35万円のスケルトン、内装にこだわり開業資金1600万円をほぼ使い切ってしまった。運転資金ゼロでのスタートは想像以上に厳しく、どれだけ働いても一銭も残らなかった。オープン半年で資金はショート寸前、定休日をなくし朝9時から翌朝5時までぶっ通して働くという地獄の日々が始まった。
「朝9時に店に出て、家に帰るのが朝5時みたいな、そんな生活を365日続けました。それでも数万円残るかどうか。給料を払ってるスタッフに、僕が奢ってもらうような状態で」。
店から自宅のある曙橋まで、自転車で約20分。明け方、大型トラックとすれ違うたびに「このまま自転車ごと吸い込まれたら楽になるんじゃないか……」と思ったという。
─ そんなに辛かったのに、なぜ頑張れたんですか?
「やっぱりお客さんの反応ですね。『美味しかった』とか『ご馳走さま、また来ますね』とか、『頑張って下さい』とか。そういう言葉に救われました。仲間もいたし、スタッフもついてきてくれた。そういうのですかね」。
SNSや地図アプリもない時代。ビル地下の店は、その存在が認識されるまで時間を要したが、インターネットの普及に伴い、ブログで店を紹介してくれる人が徐々に増えた。来てくれるお客様の反応はいい。味や空間、接客の良さには自信がある。自分を信じ、仲間を信じて働き続けたことで少しずつ、しかし確実に店の評判は広まっていった。
・・・続き
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