2025年11月25日火曜日

株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏登場。

本文より~

祖父、父、そして。

今回、ご登場いただいたのは、株式会社豚ギャング・MーSTYLEの代表、松永 龍太さん。1994年生まれの31歳(2025年11月現在)。
口調が明瞭で、エネルギッシュ。お父様の若い頃と似ているのかもしれない。松永さんが小学生の頃に、お父様は映画のプロデューサーをされていた。
「最初こそお金の工面に苦労して、トラックの運転手もしてたみたいですが、結構売れっ子のプロデューサーだったみたいです」。
映画のプロデューサーだったお父様が、お祖父様の会社を譲り受けた。生活が好転する。
「祖父は、もともとホンダではたらいていて、ホンダのディーラーのネットワークをつくった一人です。そのうちの一社の社長に就任します」。
「その後、SYMっていう台湾のバイクの貿易事業で起業して独立します。父が引き継いだのは、この会社で、それを縁に、今は中国に飲食店を3店舗オープン。ある飲食店でも、父が大きな役割を果たしています」。
お父様のお年は、57歳。まだまだ現役。今では、親子とも同じ飲食の世界にいるが、資本の関係はない。コロナのときには、「親子ともに打撃を受けた」と笑う。

名門野球チーム。

松永さんは、小学生で野球を始めた。からだが大きく群を抜いていた。中学ではクラブチームで活躍する。先輩の一人は、プロ野球選手となった。「今でも交流がある」という。
「私が所属したクラブチームは、かなりの強豪チームで、トップ選手たちは推薦で甲子園の常連校に進みました。私は、常連校じゃない高校から、おまけのような形で、いったん推薦をいただいたんですが」。
松永さんは、苦笑いする。内申点と、素行の悪さで推薦が取り消された。
「中学生の頃になると、ほめられた話じゃないんですが、野球よりバイクとか、そっちが楽しくなって」。
だから、素行でマイナス評価となる。
「第一志望に通っていたら、もう一度野球をするつもりだったんですが」。
言い訳か、本心か、つぶやくようにいった。
高校でも、遊んだが、「やればできると思っていた」と明かす。
「でも、行けるだろうと高をくくっていた明治がダメで、桜美林は合格したんですが、けっきょく東京ではいちばん偏差値が低いと言われていた多摩大学に進みました」。
アルバイトは、たまプラーザの「ひものや」。飲食以外でも、警備員、コンビニでバイトをした。大学は、つづいたが、アルバイトは別。
「2ヵ月以上、つづいたことがない」と笑う。
「大学も、もともと進学するつもりはなかったんです。父親の『大学に行ったら、免許代を払ってやる』という甘い誘いにのって。じゃぁ、行くかって。だから、授業もでたり、でなかったり」。
「中学くらいから、将来は、父の会社を継ぐと思っていた」と松永さんは明かす。
バイトを転々としながら、車を走らせ、大学生活を謳歌する。そんな松永さんが、大学を卒業して2年経った24歳で独立するとは、だれが想像していただろう。

2ヵ月とつづかないアルバイト。

「大学を卒業して就職したのは、Googleの代理店です。配属は営業でした」。初の営業。天性の才があった。つぎつぎ契約を取ってきた。新人だが、実績はエース級だった。
「特別、なにかをしたわけじゃないんです。ただ、昔から相手が喜ぶことがある程度分かったんです」。
好成績を上げる新人に、上司はきつかった。
「たしかに、先輩にもフォローしてもらっていたんです。ただ、上司いわく、私の成績はすべて、先輩たちの手柄だと。それはない」。
新人離れした業績をあげた松永さんは、社会人になってもやはり半年ももたず、辞表を叩きつけている。
バイトにしろ、Googleの代理店にしろ、まるで辞めるために就職したみたいだと松永さんは笑う。
「2社目は祖父のマネではありませんが、ホンダのディーラーに転職しました。商材はぜんぜんちがいますが、セールスの基本はおなじ。ディーラーでの仕事ははじめてですが、昔からバイクや車が好きでしたから、それもまたいい成績につながったのもしれません」。
ただし、セールスはできても契約書類などのあと処理がよくわからない。「ある時、店長に頭を叩かれたんです。それでイラっときて」。
今度もまた、半年つづかなかった。
履歴書に、まず2つ、社名が載った。
「普通なら、そろそろ真剣に悩むと思うんですが懲りてなかったですね」と松永さん。
いよいよ飲食の世界へと入り込む。
アルバイト時代の先輩が松永さんに耳打ちした。「飲食は儲かるぞ」。

辞めると切った啖呵の未来。

先輩は「ひものや」を運営するサブライムではたらき、同社の独自のシステムを利用して独立されていた。つまり社長である。
大学を卒業して1年。松永さんは23歳だった。「飲食は儲かるぞ」。一言のキャッチフレーズが、心に響く。
社長にもなれる。悪くはない。
「サブライムを辞めるときは先輩のように独立するときだ」と腹をくくる。今までと違って、今度は早ければ、早いほどいい。
「最初の配属は、登戸にあった沖縄料理店でした。営業とはちがいましたが、いい成績を残したと思います」。
普通なら店長に昇格する成績だった。
「でも、そううまくいかないです。いつものことですが(笑)」。
タイミングが悪く「むちゃくちゃ評価が高い30代の人が転職してきた」と松永さん。
それでも店長はオレだろうと思っていたが予想が外れる。
やはり、イラッとした。
「独立したいから店長にしてくれ」と部長に直訴した。
「でも『まだ若い』って言われて。年齢でみるんだったらサブライムに入社した意味もないでしょ。だから『そんじゃ辞めます』って。面談の最中に席を立ったんです」。
頭のなかでは「またやっちまった」と思っていた。肩を落とし、会社をあとにした松永さんの携帯が鳴った。部長だった。
「『神保町の焼鳥屋の店長ならいい』っていうんです」。
「実力を示すには文句なしでした。月商150万円。損益分岐点にもとどかない。立て直しというのは実力がないとできません」。
「やります」。
「辞める」といったおなじボリュームで快諾した。

独立。

神保町の焼鳥店で実績を残した松永さんは店長を経て、サブライムのスキーム通り、独立する。もっとも賭けだった。
「サブライムはこの店をと手を挙げるんですが、私が手を挙げたのは赤字店でした。店長がかわればなんとかなるんじゃないかな、と」。
150万円のセールスがぎりぎりだった。もちろん、赤字。「とにかく、独立したかった。それに焼鳥だったら経験もありましたから12月まで神保町で実績を残し、1月に面談を受けて、2月に独立です」。
業務委託だったが、オーナーだ。
「家賃と、サブライムに支払うお金と合わせ45万円でした。もともと150万円ですから、なんとか業績を上げないといけません」。
松永さんのタレントの一つ。人が寄ってくる。
「特別何かをしたわけじゃないんですが、アルバイトも昔の仲間がやってきてくれて。最初はいろいろいわれたんです。若いですからね。まだ、無理だって」。
外野の声を一蹴する。
赤字店を70~80万円の利益がでるまで伸ばし、1年で3店舗をオープンする。松永さんの力量以外なにものでもない。
「それまでは、言っても小箱だったんですが、そのつぎに150席で家賃100万円の店舗の契約を結んでスタートします。橋本にある沖縄料理でした」。
松永さんは、思い切ってアクセルを踏む。しかし、踏んだときにコロナがスタートする。

・・・続き

株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏

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