2025年9月30日火曜日

株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏登場。

本文より~

小学生で、社長になった少年。

「小学生で、社長になった」と笑うのは今回ご登場いただいた株式会社雷神の代表、加藤裕之さん。1972年というから第二次ベビーブーム。小学生の数も多い。
「今とはぜんぜんちがいますね。子どもの人数は多いから、ぜんぶ競争だし、スマホもゲームもない時代ですから、ゲームだって、みんなでつくって」。
それで、社長ゲーム?
「ゲームというより、ごっこですね。社長ごっこ。なぜか、ぼくがいつも社長だったんです(笑)」。
「社長になりたい」と思ったのは小学生の頃。鉄板焼のお店を経営する父親の影響だそう。加藤さんが小さな頃はとくに商売繁盛。「同業がないのが、よかったんじゃないかな」と加藤さん。
小さなスタッフ、加藤さんは、お客さんに可愛がられた。野球では、1番ショート。小さな「社長」はとにかく足が速かったそうだ。中学から陸上部に所属し、高校では100メートル11秒を記録している。
バイクも速かった。チューニングして性能を高め、毎夜、ツーリングに出かけた。「高校時代は部活、バイト、バイクの4B」と加藤さん。
寝ることもなく、駆けつづけた。
勉強もできなかったわけではない。ただ、本人は「小さな頃から、社長になると決めていたんで大学進学はもともと頭になかった」という。

長野の山にこもった時の、副産物。

高校を卒業してはじめたのは、東洋経済新報社ビル地下のバーのバーテンダー。皿とグラスを洗いながらカウンターの向こうの会話に耳をそばだてた。
「新聞社の人間と上場企業の役員のヒソヒソ話です。今だったら絶対インサイダー情報です(笑)」。
もちろん、このバーに勤めたのは、この情報を狙ってのこと。頭の回転も早く、行動力もある証。
「うちは、父母はもちろん、祖父も祖母もみんな商売人。ぼくも小さな頃から現金で育ってきたでしょ。だからでしょう。子どもの頃から商売人気質だった気がします。だから、いつも社長だったのかもしれませんね」。
「商売人」×「社長」。
大人になると社会のしくみも知るべきだと、「株式に興味をもった」という。
もっとも、このあと東京のど真ん中、八重洲口から離れ、長野の山に籠もる。
「あれは20歳の時ですね。スノボーにハマって、今度は山に住もうと。雪が降ると山に入り、雪がなくなると麓に降りてラーメン店でバイトをします」。
「そのバイトがぼくの修業の一つ」と加藤さん。
「3年くらい山と麓を行き来して。夏の間はずっと、そのラーメン店です。その店でマスターした餃子が今の餃子のベースなんです」。
それにしても趣味のスノーボードやスキーと仕事。山を降りては、バイトと修業。
「3年くらいたって、そろそろ東京に戻らないと、となって。浅草の、ラーメン店で働きはじめます」。

ラーメン店で出会った女性に惹かれて。

「最初は、すごい人がいるなって」。加藤さんがすごい人というのは、そのラーメン店で働いていた2つ年下の女性のこと。
「めちゃくちゃ流行っているラーメン店です。彼女は看板娘っていうか、すごくきれいな人だったんで、お客様にも好かれていて。でも、ただの看板娘じゃないんです。ラーメンを次々と、すごいスピードでつくるんです」。
「尊敬していた」と加藤さんは大真面目に語る。
「はたらいているうちに、だんだんと距離が縮まって。いつだったか、一緒にラーメン店をやろうということになって。資金稼ぎのために深夜トラックに乗るんです」。
奥さんもトラックに?
「そう、1代ずつ2台で」。
思わず、答えを書いてしまったが、その彼女と結婚。加藤さんは2社かけもちで、18時間、はたらいたという。
そうして、結婚と同時に2人の念願のラーメン店がオープンする。もう一つ嬉しいことがあった。
「オープンしてすぐに、息子が生まれたんです」。
さて、なにやらめでたい尽くしだが、オープンした店は、どうだったんだろう。小学校では、ごっこだったが、今度は、リアルな社長業。失敗はしゃれにならない。

雷神ラーメン、オープン。

「貯金をぜんぶつっこみましたから、オープンしたらお金が全く無かった。だから、自転車操業です。業者さんには、その日の売上でお支払いしてね」。
ただ、金がないからといってひるむ加藤さんではない。本人いわく「最初からイケイケだった」そう。
「昔の後輩たちが、先輩が店をオープンするからって、チラシをボランティアで撒いてくれたりして。それも助かりました。いっしょにバイクで走りまわった仲間たちですが、案外、義理堅い(笑)」。
繁盛しましたか?
「おかげさまで」と加藤さん。
イケイケ店主は昼の12時からスタートして、日付変更線を軽々と越え、翌朝7時まで働く。もちろん、無休。
「長野の餃子とラーメン、そして浅草のラーメンをアレンジして。チラシの効果もあったんでしょうか。オープン初日からお客様の入りがハンパなかったです。もちろん、子どもができたばかりで、ワンオペ。それで、ぶっ通しですから、ぶっ倒れたりもしましたね」。
倒れたんですか?
「今思うと、25歳で若かったからできた。とにかく、やればやるほどキャッシュが貯まる。アドレナリンがでまくっていましたから」。
イケイケというものの慎重でもある。
「目標は、無借金経営までもっていこう、と」。
経営の羅針盤は小学生の社長ごっこ、と、父親の背中。
ところで、店名の雷神ラーメンですが、由来は?
「まぁ、思いつきなんです。浅草で修業させてもらっていたんで」と加藤さん。
雷門が、すぐ頭に浮かんだ。
2025年10月には念願の浅草に油そば店がオープンするそうだ。

餃子1本勝負。

ところで、雷神ラーメンだが、今はラーメンの文字はなく、社名も「雷神」である。「20年前に、ラーメンは競争が激しく、劣化しやすいと、ラーメンをやめ、人気だった『餃子』1本に絞ったんです」。
それが、今の卸売メインの事業に進化していく。
「餃子ってね。大手の中華料理店などは自社で製造していますが、それ以外の、たとえば、居酒屋さんやラーメン専門店は、餃子を業者から仕入れられているケースが多いです。ラーメンとちがって餃子はつくるのが難しいし、時間がかかるんです。だから、普通は買うほうがローコスト。もちろん、居酒屋に餃子はなくてもいいんですが、お客様からするとメニューにあったほうがいいでしょ」。
たしかに、あれば注文しちゃいますね。
「そう、そういう餃子のニーズを知っていましたし、ラーメンが長く続かないこともわかっていましたから。『餃子1本』、しかも、卸だと」。
餃子というと長野で修業された時の、餃子ですか?
「そう。長野で山にこもっていた時のバイト先、それに浅草の修業先のエッセンスをプラスして。そして、もう亡くなりましたが祖母といっしょに自宅のキッチンで、それこそ数千回の試行錯誤を繰り返して生まれたんです」。
味付き餃子で、醤油もいらないとか?
「発売当時は、そういう餃子がなかったから、とくにヒットしたんだと思います」。
たしかに、ホームページには「基本的には調味料を何も付けずにお召し上がりいただけます。もし何かお付けになるとすれば酢コショウなどがよく合います」とある。
そういえば、最近、酢コショウで食べる人をみかけることがある。酢醤油とラー油はもう、昭和の固定観念なのかもしれない。
とにかく、雷神餃子である。
餃子に絞って、卸を進めて、今や全国500店舗以上の飲食店に提供しているそう。
「うちは、鮮度が落ちるといけないから基本は小ロットで卸業者に渡しています。長期の保存もオススメしていません。だから、日々注文をいただきます」。
つい最近まで、自社工場で30人以上のパートさんたちで製造していたが、数が追いつかず、今は外部にも依頼しているそう。それだけ、需要がある証。
「まだまだいけるんじゃないでしょうか。餃子の隠れたポテンシャルですね。ラーメンみたいに、やみつきになるような人はいないが、浮き沈みなく、愛されつづける。サイドメニューっていうのがいいんです。脇役のような存在ですが、だからこそあきられず長く愛されるんです」。
長く餃子を売り続けている加藤さんがいうんだから説得力がある。餃子は、ラーメン同様、今やもう、日本の国民食でもある。

株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏

・・・続き

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)     

2025年9月27日土曜日

BS10、プロ野球中継にて限定で7月末から9月末まで)飲食企業様16社にご対応頂きました。 

BS10プロ野球中継にて、試合後 元野球選⼿の解説者とゲスト⼥性出演者に試⾷コーナーを設け食事を限定16社の飲食企業様より協賛頂きました。(7月末~9月末)。   
キイストンは、そのアテンドをしました。

BS10(https://www.bs10.jp/20241029_bs10/)   2025.1.10開局!
株式会社ジャパネットホールディングス(本社:長崎県佐世保市/代表取締役社長 兼CEO:髙⽥旭⼈) のグループ会社。
BS放送事業を担う株式会社ジャパネットブロードキャスティング(本社:東京都中央区/社長執行役員:佐藤崇充)

協賛企業は以下の通りです
7/26(土):プログレ様
7/31(木):KIWAMI様
8/02(土):鶏ヤロー様
8/07(木):マリノ様
8/09(土):ココロオドル様
8/14(木):ホイッスル三好様
8/21(木):FTG(焼肉ふたご)様
8/23(土):関内産業様
8/30(土):IFREA様
8/31(日):G-vision様
9/04(木):雷神様
9/12(金):オルニ様
9/13(土):長岡商事様
9/15(月):エレガントエース様
9/18(木):店舗ナンバーワンホールディングス様
9/27(土):マックスフーズジャパン様
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン







2025年9月23日火曜日

さあ、マジで人材補強するぞ!

現在も人材募集やってますが、なかなかキイストンに合う人材との巡り合わせがありません。
なので今回は、 ちょっと切り口変えて募集をしてみようと思い、自分なりの求人広告の訴え方を外部ブレーンの方と一緒に案をガッチリ固めました。
なんとしても勢いとパワー持った人材を2人採れれば…。
経験よりも原石を見つけて採用したいです!
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年9月22日月曜日

株式会社マリノ 代表取締役社長 水野由太佳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社マリノ 代表取締役社長 水野由太佳氏登場。

本文より~

1982年、「サンライズ」創業。

多士済済である。父方の祖父は陶芸家、母方の祖父は大学教授、祖母は琴の先生。そして、父方の祖母が飲食店を経営していた。「ほかにも父方には喫茶店を経営している親戚もいて、そういう意味では昔から食とつながりがありました」というのは、今回、ご登場いただいた株式会社マリノ、代表取締役社長、水野由太佳さん。4人兄弟の長男。
「父も祖母の影響もあったんでしょう。飲食の道に進みます。創業のサンライズがオープンしたのは、ちょうど私が生まれた1982年です」。
サンライズは人気の喫茶店だった。
「父は高校を卒業して、名古屋の『キャンティ』というイタリアレストランで修業をして、21歳で独立。その後、3店舗まで展開します。父は陶芸家の祖父同様、芸術肌のところがあって、料理のクオリティが高く、それが人気の理由でした」。
------マリノがオープンしたのは1993年ですね?------
「繁盛していたこともあって、サンライズを3店舗まで展開して、そう、1993年にマリノがオープンします。マリノは本格的な石窯焼きピッツァと自家製生パスタを看板メニューとしたイタリアンレストランチェーンです」。
当時、本格的な石窯があるレストランは数少なかった気がする。
「そうですね。とにかく、繁盛していましたし、父は仕事で忙しく、母は、私を含め4人の子どもがいましたので、どちらもたいへんだったと思います。私は、父の背中をみていて、いずれ父の跡を継ぐのかな?と思っていました」。
------長男ですもんね?------
「そう、でも、じつは私を含めた子ども4人は今、みんなマリノではたらいているんです(笑)」。

野球少年の日々と、大学入学まで。

今回の主人公、水野さんは1982年9月3日、愛知県の長久手市に生まれている。2005年の愛知万博の開催地の一つとなり、人口も急増したが、水野さんが生まれた当時は「何もなかった」と笑う。
原っぱも多かったにちがいない。バットとボールがあればどこでも遊べる。そんななか水野さんは、小学2年生からリトルリーグに入り、本格的に野球をはじめる。
「高学年になった頃には父といっしょにキャッチボールをしました。仕事が忙しい中で、付き合ってくれたんでしょうね。感謝しています」。
お父様は、水野さんのためだろうか、チームのコーチも務めておられたそうだ。愛知といえば、野球が盛ん。東京や関西同様、だいたいの人が中日ファンだ。息子はサードで2番バッター。
「中学もクラブチームです。結構、つよいチームで、私は試合に出たり、出なかったりで」。
野球は中学まで続け、その後高校を卒業、大学へと進学する。

イタリアンレストラン就職。マリノに転職する。

水野さんは淡々と話をつむぐ。大学4年生の時にカナダに渡った話も淡々と進む。「9月から3ヵ月、カナダのバンクーバーで暮らしました」。なんでも学んだ語学学校は、「日本語をつかうと罰金だったそう」。
そのまま、カナダからイタリアに渡り、2ヵ月間、生活している。
------イタリアは将来を意識してですか?------
「いいえ、多少は、あったかもしれませんが、そこまで大層なことではなくて、父のつながりで知人もいたもんですから」。
ただ、そのあとの話を聞くと、道はまっすぐマリノにつながっている気がしなくもない。
------大学を卒業されたあと、イタリアンレストランに就職されていますね?------
「そう、じつはイタリアから帰国して、イタリアンレストランでアルバイトをはじめます。その延長で、社員にしていただきました。その頃にはもう、はっきりとマリノを継ぐという意志を固めていましたので修業の意味あいもつよかったです。ただ、30歳まで、いろんなところで修業するつもりでいたんです。でも、実際には25歳でマリノに就職します」。
------どうしてですか?------
「きっかけは。そうですね。弟が私より早く入社していて。ある時、父から『長男のお前どうするんだ?』って言われたことですかね。父にすれば長男に対する期待というか、そういう思いがあったんでしょうね」。
------25歳と若い。イタリアンレストランも経験されています。いかがでしたか?-----
「そのイタリアンレストランはハイブランドで、うちはミドルですから、おなじイタリアンでも客層からして違います。ただ、当社はそことはちがったスタイルで繁盛していました。私は一般社員からスタートし、副店長、店長、エリアマネージャーとなって、35歳の時に代表取締役、社長になります。もっとも父も代表権のある会長でしたから、代表2人制です」。
水野さんによると、意見が対立したこともあるそうだ。
「父の言う通りにしたいという気持ちはあるんですが、当然、社員に対する責任もあるわけで。数字からみると、父の構想はなかなか厳しい」。
どんな会話をされたんだろう。
これは、お二人にしかわからない。
尊敬する父、キャッチボールに付き合ってくれた父、一代でマリノを育てた父。おなじ経営者として、父に対する尊敬と、水野さん自身の自我が葛藤する。

社長就任、「ごちそう 焼きむすび おにまる」リリース。

「2022年6月ですね」と水野さん。
これは今注目の新ブランド「ごちそう 焼きむすび おにまる」の話に移った時のこと。上の日付は、「おにまる」のオープン日。
「コロナ禍ということあって、なにかできないだろうかと模索していました」。
------おむすびがブームになりますが、それ以前ですね?-----
「ええ、そうです。ただ、おむすびで行列をつくっているお店があって。知人からも、お米をつかったメニューを勧められて。当時、お米は今ほど高くなかったですから(笑)」。
じつは「おにまる」は、水野さんにとって起死回生のブランドだった。
「『おにまる』の前に、一つ新業態にチャレンジして、そちらは失敗しています。だから『おにまる』は失敗できなかったんです。ただ、これだけ需要があるとは思ってなかった」。
「おにまる」1号店は、イオンモールの一角でスタートする。水野さんによると「月商200~300万円を見込んでいた」とのことだが、蓋をあけると「1000万円を越えてきた」そう。
・・・
続き

株式会社マリノ 代表取締役社長 水野由太佳氏

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2025年9月21日日曜日

求人に新たな試みを検証!

求人の募集に新たな試みをクライアント様で検証!
もちろん、検証と言っても自信のある試みで キイストンでも実施し、採用に繋げたいと思ってます。 
 さらに現在、AI使った新たな試みもやる予定で水面下で動かしてます。
 どこもやってないことにチャレンジすることこそ、キイストンの強みですからね。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年9月17日水曜日

“書籍出しませんか?“

“書籍出しませんか?“


売るための書籍ではなく人材採用・従業員研修のツールとして、
経営者の考え方や会社のこだわりや夢について知ってもらう、
また共感してもらうのに、とても強い武器にもなります。

もし検索して、知り合いの経営者の書籍が出てきたらどう思いますか?
しかも、自分よりも若い経営者、自分の会社よりも規模が小さい会社が出させてたとすると…

私は2004年に飛び込み営業の書籍を出版して頂きました!
それからリクルート式という採用関連の書籍も出版しました。
この書籍出版しただけで他人からのイメージってできるんですよね。

これは書籍を出したものしかわかりません。
人材採用をこれからも考えられるなら、是非書籍をお考えください!!

そんな意味も込め「キイストン出版」のページアップしました!!
https://www.keys.ne.jp/keystone-publish/

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株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。

本文より~

0勝、7敗。

「『味の民芸』は、サガミが東京にはじめて進出した際、モデルにしたうどんチェーンです。ただし買収時点ではブランド力が低下し、業績も落ち込んでいたのです」と大西氏は振り返る。
<原因はなんだったと分析されていますか?>
「小麦の質を下げて原価を抑えたことが最大の要因でした」。
<つまり、味が落ちた?>
大西さんは、深く頷く。
買収前にサガミの役員たちは「味の民芸」に覆面調査に出向いたそう。当時、役員だった大西さんも、その1人。
「おいしければ勝ち。その逆が負け。7店舗まわって0勝7敗。全敗でした」。
役員のなかでも大西さんの評価はもっとも厳しかったそうだ。その厳しく採点した大西さんが共同代表として経営に参画することになるのだから、縁とはわからない。
ミッションはV字回復。
0勝7敗の重みが、大西さんにのしかかる。
「当時、サガミは仲間という意識で買収に臨みます。ただ、現場では融和的とはいきません。仲間だからこそ、今までのやり方を否定しないと、ともに進むことができないんです」。
「実をいうと」と大西さん。
「最初は、私も客数が何人、うどんが何万食、サガミは生産ラインをもっていますから、うまくいけばその売上で買収コストを償却できるなと電卓を叩いていたんです。でも、二つの会社が一つになるのは、そう簡単なことではありませんでした」。
大西さんは当時を思い出しながら慎重に言葉を紡ぐ。
「私のミッションは『味の民芸』をV字回復です。現状を否定しないといけない立場です。ただ、従業員はみな『味の民芸』に誇りをもっていました。それ自体は、もちろん悪いことではありません。ただ、私からすると、それが大きな障壁でした」。
外様の代表に冷酷な目が注がれる。
「ただ、いつだったかな。サガミの社章を外して出社したんです。目ざとく気付いた、ある社員が『社章、どうされたんですか?』って聞くもんですから、『だって、オレはもう味の民芸の人間だから』と言ったんです。すると、その一言で、周りの表情がかわるんです。どうやら『数年でサガミに戻るんだろ』と思われていたようなんですね」。
それが一つのターニングポイント。
信頼という空気に包まれたことで、大西さんの言葉がスタッフの心に届くようになる。
「調査結果は0勝7敗。すべての店舗が期待を下回っていた。しかし、ここから新たに始めよう」と店長やマネージャーたちに伝えたことが、再生の出発点となった。

お金では動かない男。

じつは大西さんには、以前にも「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。2019年のことで、すでに「味の民芸フードサービス株式会社」の代表取締役社長に就任されていた。
当時のお話を思い出しながら、簡単にプロフィールをご紹介する。
大西さんは1962年、岐阜県の<徹夜踊りと城下町>で有名な「郡上八幡」に生まれる。小学4年生から夕刊の配達をはじめ、高校3年まで続けている。大西さんに言わせれば、数少ない自慢の一つ。
高校卒業後、名古屋にある専門学校に通いながらサガミでアルバイトを開始する。
大西さんの仕事ぶりを評価した創業者から「学費は出してやる。だから、正社員になれ、と誘われた」逸話をもつ。その創業者への返答も逸話の一つ。
「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。
大西さんは、まっすぐ創業者を見て、そう言った。
お金では動かないが、恩義では動く。卒業後、大西さんは何かと支援してくれた創業者に感謝して、サガミに就職する。
創業者の期待を裏切らず、出店攻勢をかけるサガミにとって、貴重な戦力となっていく。サガミ大型店1号店の店長を務め、そののちもマネージャー、運営部長、営業部長、子会社社長と要職を次々と経験。サガミの躍進に貢献する。
「味の民芸フードサービス株式会社」の社長に就任し、低迷していた業績をV字回復したのは、このあと。そして、現在はサガミホールディングスの社長を務めている。

復活の狼煙。

ところで、V字回復の経緯も、当時、詳しく語っていただいた。
「サガミが東京に進出したとき『味の民芸』はライバルでしたし、モデルでもあったんです。なかでも『手延べうどん』は『味の民芸』の象徴だったんです。つまり、圧倒的にうまい。しかし、私が覆面調査に行ったときにはその味はすっかり落ちていました」。
「原因は、簡単で原料の小麦です」と大西さんは当時もそう言っていた。
味の民芸の役員会議で小麦の仕入れの話になった。原価優先の話になったとき、温厚な大西さんが気色ばみ、猛然と反発する。
そのときの心境を前回、以下のように述べられている。
「あのおいしい『手延べうどん』がなくなっちゃ復活も再生もない。何より、従業員が自信を取り戻せない。でもね。『うどんだけで2000万円のコストアップになるんだぞ』って。でも、そんなので引き下がれない。だったら買わなきゃ(買収しなきゃ)いいわけでしょ。買ったからには、責任を持たなきゃいけない。お客様にも、そして従業員にもね」。
当初は、生産ラインが倍増するとコストメリットがあるとふんでいた大西さんに、2000万円が重くのしかかる。ただ、それでもひるまない。
「味の民芸」を守る。
その意志がこの会議ではっきりと示された。むろん、復活の狼煙でもある。

回復した「味の民芸」をコロナが襲う。

「おいしいうどんができない。涙を流してね。『悔しい』というスタッフがいた」と大西さん。原価をかけないからだ。「味の民芸」のうどんを誰より愛するスタッフだった。
「裏切れんでしょ。そう言われたらさ」。
大きな責任を背負ったが、同じ飲食人、気持ちは痛いほどわかる。だから、乗り越えてやると心を定めた。
「まず、メニューを変えたんです。それが私の最初の仕事だった。もちろん、原料の小麦を見直し、民芸自慢のうどんにリメイクです」。
原価を上げた分、メニューミックスで客単価を100円上げた。客数が減るのは、想定内。ところが、客数が10%伸びた。
「あれは、いい意味で計算外でした。それ以上に嬉しいこともあったんです」。
「スタッフがね」と大西さん。
「『お客様が『おうどんが、おいしくなったっておっしゃるんです』って、次々と報告に来るんです」。
喜びに包まれたスタッフの顔は今も忘れない。
「涙を流させていたのも、経営者だし、幸せなあの顔をつくるのも経営者。経営者の本質を知った気がします」。
ときは過ぎ、快走をはじめた「味の民芸」を、コロナが襲う。
この時の様子。
「サガミは愛知です。味の民芸は東京。東京と愛知でまったく温度差があったんです」と大西さんは笑う。
今だから、笑えるのだろう。
「私が、コロナだからっていっても、本部の人間は、そうですねぇくらいの返答なんです。 こっち(東京)は、小池知事が緊急事態宣言だってやっているのに、危機感がぜんぜん伝わらないんです。それで、もう、本部のメッセージを待っていられなかったので、私が民芸全店にビデオメッセージを送ったんです」。
「従業員の命を守る」と大西さんは覚悟を決める。
「家族構成を調べて、お年寄りと同居していたり、2歳までの子どもがいたりするスタッフは休業を申請しなさい、と。仕事は守るが、命は自分たちで守ってもらわないといけない、と」。
ところが、誰も申請に来なかったそうだ。
「みんなたいへんなのはわかっていたんです。せっかく業績がV字で回復して、誰もが仕事に誇りを取り戻していたときですからね。みんなもたぶんもう負けるわけにはいかなかったんでしょう。『休む』じゃなく、『店頭でお弁当を販売しましょう』『デリバリーしましょう』って言ってくるんです。こりゃ、やっぱりすごい組織だな、と。頼もしくもなり、だからこそ、私もコロナに負けるわけにはいかなかった」。
退職勧告はもちろんしない。
「ただ、深夜専任のスタッフには、先が見えないから辞めていただいた。それだけはどうしようもなかった」と、顔をしかめる。

・・・続き

株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏

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2025年9月16日火曜日

株式会社鶏ヤロー 代表取締役 和田成司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鶏ヤロー 代表取締役 和田成司氏登場。

本文より~

鶏ヤロー、このヤロー。

和田さんに、ご登場いただいたのは7年前。当時、メニューをみて、ビックリした記憶がある。実際、前回の記事には<角ハイボール50円、焼酎99円、生ビール280円>驚きの金額を挙げている。
念のため、現在、2025年8月のメニューも調べてみて、ふたたび唸った。レモンサワー50円、ハイボール99円、焼酎199円、生ビール299円。若干の値上げはあるものの、それでも圧倒的な低価格をキープ。物価高の今、激安スーパーでもこの金額はなかなかないだろう。
その一方で、型破りな加盟金はさすがに値上がりしていた。鶏ヤローの<加盟店募集のページ>には<FC加盟者募集!!加盟金200万円!!(加盟金調子こいて値上げしました!!ちょい前は50万、もっと昔は50円)>と赤裸々につづられていて、いかにも和田さんらしいと、笑ってしまった。
愛着込めて、<鶏ヤロー、このヤロー>である。
ちなみに、<勝率95%以上(実績)の激安FCシステム!>とつづく。
前回のインタビュー時は、加盟金、50円。比較すると、天文学的なアップだが、加盟金200万円、ロイヤリティ月10万円は、けっして高くはない。
社内独立組も18名となっていた。店舗数は格段にアップしていて、2025年8月現在、88店舗。前回比で4倍以上となっている。
時代に竿をさしつつ、呑んべぇたちのオアシスを守り、快進撃をつづけてきた鶏ヤロー。今一度、経営者の和田さんにスポットをあててみた。

「超貧乏」。野心と、船井論語との出会いと。

和田さんが生まれたのは、1982年12月13日。
<起業という目標を掲げたのはいつ頃から?>と聞くと「超貧乏だった」と、子どもの頃の話をする。
「うちは兄弟が3人で、上に姉と兄がいます。私と兄は小学校がちがうんです。体育の時間になると、いつも指をさされます」。
理由を聞くと、体操服を買うお金がなくて、和田さんが着ていたのは兄のお下がりだったから。当然、他校の名が入っている。
「お金のことでしょっちゅう父と母がケンカをしていました。だからでしょうね。母はいつも『お金持ちになりなさい』っていうんです」。
<刷り込まれた?>
「でしょうね。お金があることが幸せだと。つまり、幸せになるためには、お金もちにならないといけない。お金持ちになるためには、社長にならないといけない。だから、起業」。
シンプルな論法。
小学生、中学生では、空手に、キックボクシング。高校はバイト三昧。
「偏差値30の高校です。だからじゃないですが、バイトにも寛容で初めて飲食店でバイトを始めます。これが面白くて。起業と飲食が結びつくきっかけになります」。
和田さんは、高校卒業後、専門学校で調理を学び、焼肉屋「鳴尾」で修業し、27歳で独立している。結婚はさらに早く、21歳の時。独立の際には2人目のお子さんができた頃だそう。
ところで、専門学校の頃までと、今の和田さんを比べると、同じ匂いがするものの、ロジカルな印象が加わってくる。
「『鳴尾』の社長と出会って、根っこは同じなんでしょうが考え方はかわりました。社長とお会いするまで、本を読んだこともなかったです(笑)」。
和田さんが「鳴尾」に就職したのは21歳の時。なんでもできると信じる年頃。その社長から、いきなり「本を読め」と言われたそうだ。
推薦本は「船井論語の人生編」<船井 幸雄著、中島 孝志著>だった。この「船井論語」を「人生で一番読んだ本」という。上司に進められてもたいていの人は読んだふりをする。実際、「ちゃんと読んだのは和田だけ」と言われたそうだ。
「読んだって表現じゃ物足りません。あの本、3回、ループしてますから(笑)。読んで終わりでもない。31章の1章ごとに、読み終わると作文を提出しなきゃいけませんでした」。
<教科書以外の本としてはハードルも高いですよね?>
「教科書だってろくに読んでないんですから、そりゃハードルどころじゃない。内容だって頭に入らないし、ぜんぜんつまらない。でも、社長にそういうと『じゃぁ』といって赤線を引くんです。そして『赤線のところだけでいいから読め』って」。
21歳、仕事も忙しい。だが、仕事の合間に、仕事、終わりに、「船井論語」を開いた。「2回、3回目になると、俄然、面白くなってきた」と和田さん。
本に没頭すると、活字の世界が立体になって現れる。和田さんの行動も変化したはず。まさに、バイブルとの出会い。
「当時は、流行っていたEXILEも知らなかった」と和田さんは笑う。TVも、ネットもみなかったからだ。
21歳から修業を開始し、27歳で独立。起業に向け、400万円を貯蓄した。本にも没頭した。嬉しいことに「飲食の戦士たちも毎週読んでいた」そうである。
理論だけじゃない。起業へのつよい思い。
「ほんとうは、親友といっしょにやるはずだったんです。でも、あいつは高校卒業して亡くなった。だから、あいつのぶんまで、やんなきゃ殴られます」。

波乱万丈、それゆけ鶏ヤロー、の、その前に「鮭ヤロー」。

さて、さて。話を進めると、1号店、オープンである。
<焼肉からのスタートでしたね?>
「柏駅の西口、雑居ビルの3階。店名は『牛ヒレ』。25坪、家賃は25万円。月商300~500万円でしたから、利益は悪くなかったです。スタッフもやる気があって、それで半年後、亀有の牛角のあとに2号店をオープンするんです」。
そして、和田さんは苦笑いする。
「昭和の焼肉っていうか、レトロ感をだしたかったんです。でも、歴史があってこその風合いなんでしょうね。つくりもんで、タイムスリップ感なんてでるわけない(笑)」。
「それにね」といったん言葉を切って、「亀有はマーケットがきつい」と。詳細を聞くとたしかに「きつい」。毎月60万円キャッシュアウトしていったそう。
もちろん、それで凹む和田さんではない。仲間もいる。
「それで、どうしたらいいんだろうか?って。で、つぎにオープンしたのが、居酒屋『鮭ヤロー』です」。
<鮭ヤロー?>
「ええ、居酒屋はロースターがいらないから初期投資が少なくて済みます。だから居酒屋だと思ったんですが、じつは、調理の学校に行っているのに料理ができません。ただ、鮭は大好きで、鮭だったらさばけたんです。サーモンだったらなんとかできそうだとヘンな自信があって」。
<それで、2号店の失敗を含め、大逆転しようと、サーモン一本で勝負する『鮭ヤロー』がオープンするんですね?>
「ええ、」と和田さん。
<波乱万丈の幕開け>と見出しをつけたが、その幕は、鮭ヤローのオープンと同時に、開けた。
「サーモンは当時から人気だったんですよ」。
<でも、来ない?>
「いくら好きでも、サーモンだけじゃだめだったんでしょうね。追い打ちをかけるようにサーモンの値段が上がっていくんです」。
その時、和田さんはTVに初デビューしている。
「TVニュースにでたんです。サーモンの高騰で苦しんでいるオーナーとしてインタビューいただいたんです」。
毎月、家賃以上のマイナス。
ただそれだけじゃなかった。
「2号店は3ヵ月でクローズします。3号店もマイナス。唯一、黒字だった1号店の売上まで下がります」。
業績が悪くなると、仲間と思っていたスタッフが蜘蛛の子を散らすように去っていった。
もっとも信頼していた店長にも裏切られる。
「450万円、口座の有り金すべてが下ろされていたんです」。
決裁しやすいように通帳を渡していたそうだ。
「最悪でした。お金がないから給料も払えない。それで、姉と父にお金を借りて、それでも足りなかったんで、消費者金融に行って」。
スタッフのため、仲間のためだったが、ついには、お金もなくなって。「1号店を閉めて、鮭ヤローでワンオペです。ポテトフライや、からあげとメニューも広げたから、少しずつお客さんも来て、ワンオペなら25万円くらいは給料が取ることができたんです」。
その時、和田さんはどんな顔をしていたんだろう。
やりたかったのは、そんな仕事じゃない。もちろん、お母さまがおっしゃった金持ちとはほどとおい。借金だけは人並み以上にある。
「1年半くらいですね。お店に泊まり込みです。深夜、お客さんがいなくなると、急につらくなるんです」。
涙をぬぐう。でも、とまらない。
「フライドポテトでしょ。枝豆でしょ。からあげだってやって。で、オレは何をしてんだって」。
「そんな、あるとき」と和田さん。
「あるとき、ふと思いついて10年後の自分に手紙を書いたんです。そのとき、10年後を想像するんですが、逆に業績が悪くなったのも、スタッフがいなくなったのも、全部自分の責任だと気付くんです」。
「どうして売上があがらないんだ」と、スタッフを責め、怒鳴ったこともあったという。
「そう、そういうことも含めて。問題はオレにあった。じゃぁ、オレがかわればいい」。

・・・続き

株式会社鶏ヤロー 代表取締役 和田成司氏

2019年2月掲載 (旧社名)株式会社遊ダイニングプロジェクト 代表取締役 和田成司氏


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2025年9月10日水曜日

オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏登場。

本文より~

偶然の始まり。

高齢のご夫婦が営む一軒のラーメン店。その暖簾をくぐった瞬間から、物語は動き出した。
きっかけは、熊崎さんが尊敬してやまないSHOWROOM株式会社 代表であり、ベストセラー作家の前田裕二さんからの一本の連絡。
「熊くん、明日、愛媛に行ける?」
詳しい説明はなかったが、その声には不思議な力があった。「行きます」と即答。
翌日、松山の繁華街にある小さな店へ。カウンターの奥にはご夫婦、そして前田さんが連れてきた大手ラーメンチェーンの経営者らが集まり、店内は熱気と緊張感に包まれていた。
体調不良と後継者不足で、店は一週間後に閉店するという。
丼から立ちのぼる湯気、しじみの香り。一口すすれば、澄んだ黄金色のスープが体の芯まで染み渡る。
この味を絶やしてはいけない。
スープを飲み干すころには、壮大な構想が頭に浮かんでいた。

天才少年の、挫折と、大逆転と。

熊崎さんは、兵庫県の三田市で19歳まで過ごしている。地図でみればわかるが、三田市は兵庫県の南東部に位置するベッドタウンである。
自然が残るなか熊崎少年はサッカーに勉学に打ち込んだ。
勉強もでき、スポーツもできる。サッカーでは小学校から県選抜。才能だけで、ほかの選手に負けるとは思わなかった。「将来は、Jリーガーになるかくらいに思っていました。でも、人生、そううまくいきません」と熊崎さんは笑う。
高校に入ると様子がちがった。サッカーは2軍スタート。
「中学生の頃から知っている選手もいたんです。私より下と思っていた彼らが1軍にまじり、ぼくはまさかの2軍」。
「それだけじゃない」と熊崎さん。
「中学のときは、トップクラスだった勉強ですが、順位が発表されると、280人中、269番」。
「え? といって、固まってしまった」と笑う。
「京大や、神大に進む生徒も多い兵庫県のトップ校でしたから、中学とは、こちらも様子がちがいます。サッカーも、中学のときは練習しなくても巧かったんです。練習もしなかったから差がついちゃっていたんでしょうね」。
<投稿プラットフォーム「note」に当時のことを「プライドが地面に落ちた」と書かれています>
「ぶっちゃけ天才だと思い込んでましたから(笑)。はじめて現実を知って、思い込みとのギャップに驚き、ぼくが、まとっていたプライドがガラガラと崩れ落ちたんです」。
残ったのは、何者でもない、ただの高校生。
プライドは地面に落ちてなくなったが、「このままで終われるか」と、はじめて真剣に練習に打ち込んだ。天才とまではいわないが、才能があったのはまちがいなかったんだろう。練習に打ち込んだ結果、半年後には2軍のリーグで得点王になって、1軍に昇格している。3年時は副キャプテンだ。
<大逆転ですね、勉強のほうはいかがでしたか。大学受験が待っています>
「兵庫だし、京大や神大に進む生徒もいたんで、サッカーほど挽回できませんでしたが、まぁ、どこか受かるだろうと高をくくっていました」。
<しかし?>
「そう、人生、やはり甘くないです。大敗です。滑り止めも役立ちませんでした(笑)」。
掲示板に受験番号がない。歓声をあげる群衆のなかを、肩を落として歩き、来た道を帰るしかなかった。
「地獄の入口がひらく音がした」と熊崎さんは、表現している。でも、そうなんだろうか。じつは、未来のトビラがひらく音だったかもしれないのである。

東京と、ダンスと。

<1年、浪人生活の末、立教大学に進まれています。どうして、立教だったんですか?>
「三ノ宮の予備校で、チア部出身という女の子から『立教に日本一のダンスサークルがある』と聞いた。これがきっかけですね。当時、三代目 J SOUL BROTHERS が流行っていて。そうか、東京か、ダンスか、立教かって」。
「東京」「ダンス」、この二文字が、熊崎さんの視界を広げる。
「ぼく以外、サッカー部はほぼ全員、現役合格だったんです。なんでオレだけ? みたいな、ね。でも、東京でしょ。ダンスでしょ。元気がでてくるんです。当時は、東京と聞くとわくわくする、三田の田舎者だったんでしょうね」。
熊崎さんの頭の中で、立教に進学→東京生活がスタート→ダンスをマスター三代目J SOUL BROTHERSの世界へ、というプランが立ち上がる。
立教大学、無事、合格。熊崎さんは、念願のダンスサークルに入会する。立教の学生だけではなく、東大生や一般人も参加できるフリーなサークルだったという。
<ダンスのほうの才能は?>
熊崎さんは、ふふふ、と笑ったあと、「サッカーなら小学生からですからね。でも、ダンスは初心者です。だから、プライドもない。とはいっても、どこかでいちばんじゃないと気がすまない性格だから、ダンスじゃなく、SNSや会計ですね、そっちで目立ってやろうと」。
「気づけば、サークルの代表に選出されていた」と熊崎さん。代表になった熊崎さんは宣言する。
「日本一をめざす」と。
しかも、「大会に出場したい人、全員で日本一を目指す」と。
<メンバーを巻き込むちからですね>
「いい経験ができたと思います。宣言通り、日本一も獲得しましたしね」。
<それは、すごい、勲章ですね>
熊崎さんは「そうですね」と誇らしげに微笑む。
三田の田舎モンは、東京で日本一になった。

どう生きるか。いのちに向き合う。

大学を卒業した熊崎さんは、人事部の熱量に惹かれて転職サイトの大手「エン・ジャパン」に就職する。翌年、縁あって、SoftBankに転職。最年少でマネージャーに昇格し、予算5億円のプロジェクトを担当することになる。
「当時は社長になろうという想いがつよかったですね」。サークルで代表の経験があり、日本一も獲得、同年代とは、望む未来がちがった。
「エンジニアを含め、30~40人の部下をもってサービスをゼロから立ち上げる予算5億円のプロジェクトでした。1年目は投資です。2年目、売上が立ち上がってくるはずだったんですが(笑)」。
話を聞くと、海外で先行しているサービスだったそう。
SoftBankを退職した理由を聞くと、プロジェクトの失敗ではなかった。
「きっかけは母親の死です。ぼくが25歳のとき。そのとき、人はいつかなくなる、いのちがあるうちにやりたいことを人生をかけてやらなきゃいけないと。その思いを抑えきれずに辞表を提出したんです」。
上層部の方々から慰留されたという。ただ、熊崎さんの意志はかたい。
「想いを語ると最終的には『わかった』と。いつか社長同士で酒でも酌み交わそうって背中を押してくださったんです」。
「やりたいことを人生をかけてやらなきゃいけない」と、SoftBankを退職したが、じつは、なにを「やりたいか」「やるべきか」がなかった。
「とにかく、組織のなかにいちゃ甘えてしまう。ぼく自身を追い込むためにフリーになったというのが真相です。そうやって未知の大海原に出航します」。
羅針盤はない。だが、進まないといけないという、強迫観念に似た思いがあったのではないだろうか。

前田さんとの出会い。

「前田」という人物がいた。自身のバックグラウンドと似ていた。前田さんとの出会いを聞くと、熊崎さんは2冊の本を挙げる。
「大学4年の就活中のことです。前田裕二さんの『メモの魔力』と『人生の勝算』という本に出会ったのがはじまりです」。
この時の話も、じつは熊崎さんがnoteに詳細に記載されている。
「母の死で“人生の有限さ”を骨の髄まで思い知った」と語り、自身と同様のバックグラウンドをもつ前田さんの生き様に強烈な感銘を受けたと記している。そして、つぎのようにも語っている。「SoftBank に退職願を出し、命の使い道をまっさらな地図に描き直した」。
もう少し、熊崎さんが記した文字を追いかける。
「2023年5月9日。前田さんが登壇されるというイベントをXで見かけた。青山ブックセンターで開かれた『スタートアップ企業の実践論』出版記念イベント。最前列に座ったものの、緊張で質問の手が上がらなかった。その夜すぐに前田さんのオンラインサロンへ飛び込む。11月。サロンのプレゼン大会で優勝。翌年2024年1月、サロンの運営メンバーへ」。
大海原の向こうにみえた灯台に向かい全速力で進んでいく。
「フリーランスとして、パーソナルジムの立ち上げ支援やアプリ制作の支援を行いつつ、前田さんをお手伝いします」と熊崎さん。ちなみに、前田さんというのは、すでに書いた通り、SHOWROOM株式会社の代表、前田 裕二さんのことである。
そして、2024年7月。その前田さんから声がかかった。
「熊くん、明日、愛媛に行ける?」

ラーメン店の、跡取り修業始まる。

「ラーメンと聞いたとき2秒、フリーズした」と熊崎さんは笑う。
「ただ、何をすべきかと悩んでいましたし、何より前田さんといっしょに何かができると思うと気持ちが高まり、2秒後には、行きます、と」。
前田さんに同行したのは熊崎さんだけではなかった。
「有名なラーメン店の経営者をはじめとした、ぼくからすると雲の上の存在のようなメンバーがチームを組んで愛媛に向かいます。ぼくは、カメラマンです」。
ラーメンを食べ終わったあと、喧々諤々のミーティングが行われたそうだ。もちろん主題は「しじみラーメン」について。「事業を継承するのを前提に話が進みます。専門的な話も多く、ついていけない部分もありましたが、とにかく、会話の熱量がハンパなかったですね」。
カメラマンとして同行したが、ミッションは撮影だけではなかった、そのミーティングの会話も含め、頭に叩き込む。
なぜなら、熊崎さんこそ、この店、「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の事業を継ぐ主人公だったからだ。
「話を聞きながら、プレッシャーはハンパなかった」と熊崎さんは振り返る。その時食べた「しじみラーメン」の味はどうだったんだろう?
その後、正式に事業譲渡の話がまとまる。熊崎さんは「私が後継者です」と、ご夫婦に頭を下げた。その時から、熊崎さんを主人公にしたリブランディングが開始される。
「計36日」と熊崎さんは指を折る。8月から9月にかけ、「父ちゃん」「母ちゃん」からラーメンづくりを叩き込まれた。
残すほうも必死、学ぶほうも必死。
「最初は、東京でオープンする予定だったんで、いったん東京に戻るんですが、愛媛のお店をお任せできる人をご紹介いただけたので、東京からとんぼ返りで愛媛に行き、今度は、その人にぼくが指導します」。
「はじめての弟子」と、熊崎さんは笑う。
「ぼくとしても、そのお店は残しておきたかったんです。父ちゃん、母ちゃんの想いをつぐわけですから。『本店』として残すことで、ストーリー性もあるでしょ。そういうのを大切にしたかったんです」。

「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の、今と、未来。

「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」は、愛媛県の松山の繁華街にある。
「もともと、おかあさんがスナックを経営し、お酒をふるまってきたそうなんです。お酒に酔ったお客さんを癒やしてあげようとはじめたのが、しじみラーメン」。
「しじみにはオルニチンというアミノ酸の一種が、ほかの食材と比べても大量に含まれていて。これがアルコールの分解を促します。〆に、しじみラーメンを食べると二日酔いしないのは、そのためです」。
飲んだあとに〆。
だから「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の営業時間は、夜から深夜にかけて。「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」を引き継いだ、「生しじみラーメン『オルニ』」も、おなじ時間帯で営業している。
東京、愛媛を何度も行き来するうちに、確信めいた思いが頭に宿ったそうだ。熊崎さんはいう。
「『しじみラーメン父ちゃん母ちゃん』のラーメンは、たしかに旨い。でも、有名だったわけではありません」。
「にもかかわらず、2人が作る一杯のラーメンを囲んで、日本を代表するようなラーメン店の店主や、ビジネスの世界をリードする人たちが、熱く、真剣に語るんです。なぜ、あれほど真剣だったのか、その理由の根っこがみえてきたとき、これはすごい世界に足を踏み入れたんじゃないかな、と」。
「つまり、前田さんが偶然見つけたこのしじみラーメンは、世界を穫るポテンシャルを秘めていることに気づくんです」。
学生時代は「日本一だ」といった。今度は「世界一」。
だからだろう。それに気づいた熊崎さんは、「しじみ」にのめり込む。今や「しじみ」の専門家。「しじみ」の話になると、さらに雄弁になる。
「うちのしじみは、すべて島根県の宍道湖から直送されてきます。宍道湖のなかでも南部のしじみを送ってもらっています」。
<どうして、南部なんですか?>
「北部は砂地が多く、南部は泥なんです。泥のほうが栄養が豊富で、南部のしじみは日本はもちろん、世界でもトップクラスなんです」。
調べると「しじみ」は、複数の種があり、中国や台湾が原産の「タイワンシジミ」は、アメリカやヨーロッパにも生息域を広げているそうだ。
日本の場合は、市場に出回るしじみの99%以上がヤマトシジミ。なかでも宍道湖は、ヤマトシジミの全漁獲量の4割以上を占めているとのことだ。
貝はもちろん海外でも、人気の食材。クラムチャウダーやボンゴレなどが思い浮かぶ。

・・・続き

オルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏

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