2025年12月23日火曜日

株式会社イタリアントマト 代表取締役社長 兼 キーコーヒー株式会社 取締役 副社長執行役員 小澤信宏氏登場。

“飲食の戦士たち” 株式会社イタリアントマト 代表取締役社長 兼 キーコーヒー株式会社 取締役 副社長執行役員 小澤信宏氏を取り上げました。

本文より~

キーコーヒーとイタリアントマト。

今回、舞台となるイタリアントマトが創業したのは1978年6月。JR「八王子駅」前に1号店がオープンした。1980年代には「イタトマ」の愛称で若者から親しまれていた。
今回ご登場いただいた株式会社イタリアントマトの現代表である小澤さんも「大学生の頃、デートといえばお洒落な雰囲気にひかれてイタトマに行った」と言っている。
このイタリアントマト、現在はキーコーヒー株式会社のグループ会社。実は、小澤さんはキーコーヒーの副社長でもある。
「キーコーヒーは1920年、今から105年前に横浜で創業しました。コーヒー豆の輸入・卸を本業にスタート。当時、コーヒーは高級品で、有名な百貨店やレストランが主要なお客様だったそうです。私がキーコーヒーに新卒で入社したのは1982年です」。
一方、イタリアントマトの創業は1978年。最初から資本関係があったわけではない。
「1986年、ナムコさんがイタリアントマトを買収します。イタリアントマトはキーコーヒーの取引先でしたから、ナムコさんとのお付き合いがスタートします」。
「あれは、日本でもセルフカフェが流行の兆しを見せていた90年代半ばのことです」と小澤さん。
「外資系の大手カフェチェーンが日本にも入って来ていましたので、日本でもセルフカフェが流行しそうだとナムコさんと話をして。だったら、やりましょう、と。五分五分の出資で、株式会社アイ・アンド・ケイ(I&K)を設立して、セルフカフェの『イタリアン・トマト カフェジュニア』(以下「カフェジュニア」)の展開を始めます」。
小澤さんも、主要な人物として関わっている。
「1982年に入社した私は、営業所に9年間いて、10年目から本社で仕事をしています。営業所のときは個人の喫茶店が対象で、本部に異動してからは法人が対象です。『カフェジュニア』はフランチャイズ方式で展開していくんですが、メニューづくりからFC展開まで、すべてキーコーヒーが協力・主導していました」。
小澤さんは、営業として飛び回った。
「そうするとですね。300店舗くらいになって、親会社のイタリアントマトの店舗数を上回ってしまうんです。人間だと、子が親より大きくなるのは自然なことですが、ビジネスですからね。整理する必要があるということでイタリアントマトがI&Kを吸収合併します」。
その時点で、キーコーヒーの資本がイタリアントマトに入る。「I&Kは、5分5分の出資だったのが、イタリアントマトの株式が加わったので、キーコーヒーの比率は30%くらいに下がりました」。
これが、2002年9月のこと。小澤さん42歳。2005年4月になると、ナムコが保有していたイタリアントマトの株式をキーコーヒーに譲渡。イタリアントマトはキーコーヒーの連結子会社となる。
翌月の5月2日、ナムコとバンダイが経営統合を発表。「そう、それで、9月29日に『株式会社バンダイナムコホールディングス』を設立されたんです」。
その後、2024年1月12日、バンダイナムコは保有していたイタリアントマトの全株式をキーコーヒーに譲渡。これによってイタリアントマトとキーコーヒーの関係はより深くなり、現在は完全子会社となっている。
このときの社長は、小澤さんである。
「グループ内にカフェをもつことで、リアルな情報収集ができ、キーコーヒーのお客様への提案にフィードバックできるようになりました。今では、イタリアントマトのほかにも、1946年創業の老舗洋菓子店『アマンド』や『銀座ルノアール』、直近では京都の有名店、老舗喫茶『イノダコーヒ』などもグループに仲間入りし、カフェ事業を拡大しています」。
キーコーヒーでも副社長を務める小澤さんのハンドリングが、キーコーヒーの飲食事業拡大のカギを握っている。
「まさか、これほど長くキーコーヒーとお付き合いをつづけるとは思っていなかったんですけどね」。
副社長の小澤さんは、そう言って笑った。

数学の神様。

小澤さんが生まれたのは1960年。東京板橋出身。「両親が福島からでてきて、結婚して、私たち姉弟が生まれます」。
「福島には今も本家があって、親戚もたくさんいます。何しろ親父は7人兄弟だし、母親の方も兄弟が多いから、いとこも多いんです」。
子どもの頃はからだが弱かった小澤さんは、夏休みには決まって福島へ向かい、休みを丸々、福島で過ごした。
「当時の東京は高度成長に入る頃です。うちの父親は建設業だったんですが、あちこちで重機の音が鳴り響き、まるで東京という街を建設しているような時期だったんです」。
「人口も急増する頃です。私が通っていた小学校も一校じゃ生徒を抱えきれなくなって、3つの小学校に分かれます。準備期間もなかったんでしょう。教室が急造されたプレハブってときもありました」。
プレハブ小屋で学ぶ子どもたち。
そのなかで、小澤さんは「算数の神様」と言われていた。
「からだは弱かったんだけど、頭はよかったんじゃないかな」。
IQはギフテッドクラス。学年では堂々1位。
「私を含め、優秀な生徒が4人いまして。これが、今も付き合いがあるくらい仲良しで。新学期が始まるでしょ。最初の2週間で教科書の問題をぜんぶ解いて。あとは好きなことをしていました」。
「とくに私は算数、中学からは数学なんですが、それが得意で。『算数の神様』って言われていました。それで、何をどう計算違いをしたのか、数字が得意だから公認会計士になると宣言していたんです」と笑う。
中学になっても仲良しの4人は競い合った。
「彼らとは中学時代はサッカー部でも一緒でした。ただ、高校はバラバラ。小・中一緒だったから、そろそろ別れようって計画的にバラバラになったんです」。
小澤さんが進学したのは、有名な進学校。
「先生は、安全パイを言ってくるんです。私的にはもうワンランク上の学校を狙いたかったです。でも、それはダメってなって。先生が勧め、私が進学したのは私学マンモス校で、男子校でした」。
高校で小澤さんはゴルフ部に入る。
「中学はサッカー部だったでしょ。とにかく、走るんです。おかげで体は鍛えられて健康になったけれど。もう走るのはこりごりだと思って、ゴルフなら走らないと考えたんですが、これがまた走るんですね」。
体が強くなった神様は、中・高とグラウンドを走り回った。

浪人断念、母との約束。

高校時代を経て、大学入試。「私の時から共通一次試験がスタートしたんです」。
得意の数学、国語や英語ならなんとかなるはずだったが、社会や理科は、不得意だった。
「結果は明らかだから浪人するって、受験の前から覚悟を決めていたんです。練習のために受験した青山学院大学に合格したのですが、もっと上のランクの国立大学を目指したいと思い、行く気はありませんでした」。
青山学院大学はいい大学だが、偏差値だけでいうともっと上を目指したかったという。
「私は入学に乗り気ではなかったのに、母がその気になっちゃって。寄付金も、入学金も用意したからって。おまけに学生証に使う写真まで用意してあったんです」。
お母様の想いをスルーするのは、憚られた。
「だから、申込みだけと思って青学のある渋谷に二人して出かけて。その帰り、母と初めて二人で喫茶店に入るんです」。
二人は、コーヒーを注文した。
「母は大事な役目を果たしたような安堵の表情で、コーヒーを飲みながら『おいしいね』って何度も言っていました」。
そのコーヒーは偶然だったが、新発売された『トアルコ トラジャ』。『トアルコ トラジャ』は、キーコーヒーがインドネシア共和国、スラウェシ島のトラジャ地方にある自社農園で生産・販売するフラッグシップブランドのコーヒーだ。
もちろん、その時点では将来、まさか自分がキーコーヒーに入社するとはわかるはずはない。だが、お母様は、そのコーヒーを「微笑みながら、いとおしく飲まれていた」そう。
反抗期もありお母様と喫茶店でコーヒーを飲むなんてことがこの日までなかったという。
「その翌朝、母は突然の病で亡くなりました」。
小澤さんは少し遠くを見ながら、淡々と話す。
奇しくもそこの喫茶店での何気ないひと時が小澤さんと母との最期の思い出となった。
「予備校も申し込んでいたんですが、結局、青学に進学します」。
母が喜ぶ姿を願ってのことだった。
「ついでに、公認会計士もあきらめた」と言って、こちらを笑わせる。

ふらっと、運命が傾いた。

「大学は経済学部ですが、数学好きな理系タイプだったんで、電機メーカーを受験し、内定もいただいていました」。
話はとび、就活の話である。
「内定をもらっていたから余裕があったのかもしれません。なぜか、あのとき母と飲んだ『トアルコ トラジャ』が気になって。ふらっとキーコーヒーの説明会に立ち寄ったんです」。
「それが運の尽きだった」と、ふたたび、こちらを笑わせる。
「最終面接まで進んで、当時の会長から『君は『トアルコ トラジャ』の申し子になれ。期待しているからな』とまるで運命かのように言われて」。
「とにかく、会長に背中を押され、入社しました」。
じつは、小澤さん。大学時代も喫茶店でアルバイトをしている。
「大学4年間、池袋の喫茶店でアルバイトをしていました。オーナーにはすごくよくしていただいて。そのオーナーは、今、うちのフランチャイズに加盟してくださっているんです。再会したときは、お互いびっくりしました」。
これも、ひとつの運命。「喫茶店」を舞台に、運命の針が回る。
「キーコーヒーですか? キーコーヒーには22歳で入社して、今65歳ですから43年間、離してくれませんでした」と小澤さん。「大好きな会社」と、顔に書いてある。
「当初の9年間は、首都圏の営業所でコーヒー豆の営業です」。
当時は5年くらいで異動するのが一般的だったが、小澤さんは最初に配属された営業所で9年間、勤めている。
「人事異動のタイミングもあり、なかなかその営業所から動くことがなかったんです。ひとつの営業所にそこまで長くいるのは珍しい。おかげで、新卒から今にいたるまでずっと東京で暮らしています」。
10年目になって、希望していた本社へと辞令が下りた。異動先の部署では、法人が客先となった。
コーヒー文化も花咲き、キーコーヒーも絶好調。小澤さんの業績も絶好調だったにちがいない。
ちなみに、当時、取引先から、「課長のポストを用意するから、転職してきませんか」「部長の椅子を用意します」などとオファーをいただいたそう。
「そう言われると、心が傾いて、ふら~~~っと行ってしまいそうだったんですが」。小澤さんは、時々、ジョークか本心か、わからない口調で話をする。
誘いに乗らなかったのは、キーコーヒーが大好きだったからだろうが、それをいうと「腐れ縁だから」と、おっしゃるにちがいない。

・・・続き

株式会社イタリアントマト 代表取締役社長 兼 キーコーヒー株式会社 取締役 副社長執行役員 小澤信宏氏

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