“飲食の戦士たち”に名古屋の株式会社ぐっとくるダイニング 代表取締役 岩田 聡氏を取り上げました。
「ちかい」が、行動原理。
今回、ご登場いただいた岩田さんは1984年5月、名古屋市の港区に生まれている。お父様は大手のメーカーで長年務められた。上下関係に厳しく、兄妹に囲まれた岩田さんは「父にも、兄にも頭が上がらなかった」と笑う。
先生の影響で小学生の頃からギターを弾いた。趣味程度というが、なかなか達者に違いない。
中学1年からバレーボールを始め、高校1年でリタイア。回転すしでアルバイトを始めている。
「特別、バレーボールに夢中だったわけではなく、中2のときは顧問の先生がいなくなったもんですから、新しい先生が来るまで部活動自体がなかったくらいで」。
活動エリアは、基本、自宅周辺。じつは、高校選びも、大学選びも自宅からの距離で決めた。
「中学も、地元なんですが通学に歩きで25分。それがきつくて」と笑う。
ギターにも、それほど熱中しなかった。特別な野望も何もない。
飲食でアルバイトをして印象はどうだったか、聞いてみた。
「大学生になってからも飲食店でアルバイトをするんですが、当時は、飲食の仕事をするとは思ってもなかったし、むしろ絶対、やりたくないと思っていたくらいです」。
どうして?と質問を重ねた。
「だってね。最初の回転すしの会社が今でいうブラック。店長は休みなしで働いていましたし、副店長が、お金をくすねたうえに、会社といろいろ揉めているのをみて、なんちゅう世界だって思っていたんです」。
ちかくで、気楽にはたらければそれでよかったから、その世界には染まらなかった。
「大学生になってバイトしたのが、ある鰻屋さんで。料理人の世界だったから、殴る、蹴るが日常だったんです」。
飲食で働いたが、そのぶん飲食との距離が遠ざかる。
人生の針が動いたのは、バイト先で出会ったおじさんたちとの出会いだった。
「そのおじさんたちは、クルマ関係の会社の経営者だったんです。でも、夕方になると、やってくるんです。今でいうWワークですね。その人らを手伝って、私も部品をオークションに出品したりして。起業家のマネごとをしていたんです」。
さらに針が動く。ある経営者と出会ったからだ。
「飲食業の経営者の方です。知り合いに誘われたんです。『岩田って、就職しないんだろ。昔から独立するっていってたし、手伝ってみないか』って」。
飲食の世界と、勉強の日々と。
「とくに好きじゃなかったんですが、飲食店の経験はあったし、独立の勉強になるかな、と」。
人生の針が、ぐるぐる、回る、回る。
とにかく忙しい。目の回るような業務量をこなす毎日が続いたそうだ。
「オープンしたのは、小さな飲食店でした。愛知では、まだ珍しいタイプの飲食店だったこともあって、ひっきりなしにお客様がいらっしゃいました」。
日々が、ぐるぐる回転する。とにかく毎日が刺激的で、毎日が発見だった。
「私はキッチンだったんですが、カウンターで料理をしていたもんですから、お客さんとの距離がちかい、ちかい。『旨かった』とか『ごちそうさま』とか。そういう言葉が、活力にかわっていくんです。もっと、喜ばせたいな、って」。
「人間性も評価された」と岩田さんはいう。笑い合う、常連客と、岩田さんがいた。
だんだんと飲食が好きになった?とたずねると、岩田さんは大きく頷いた。
独立と自社ブランドの立ち上げと。
「計5年の在籍の間で、新ブランドの起ち上げや様々なことを経験させていただきました」。
飲食を好きにさせた常連客も、今の、岩田さんづくりに一役買っている。
その後、岩田さんは28歳のときに独立。1・2号店は業務委託での運営だったが、3号店目で自社ブランド「肴屋八兵衛」を開発・運営している。
「この3号店がオープンから好調で。そこからは自社ブランドの展開を進めてきました」。
独自ブランドは経営者岩田の、誕生を祝うかのように繁盛した。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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