2019年8月6日火曜日

DISH株式会社 代表取締役 清水洋輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にDISH株式会社 代表取締役 清水洋輔氏登場。
本文より~

祖母と卵焼きと。

父と母が離婚したのは、小学2年生の頃。「まだ小さかったですからね。ま、しないほうがいいと思っていたくらいです。その時から、母といっしょに祖母のうちでやっかいになります」。祖母といっても母親が清水氏を生んだのは17歳の時。だからか、まだ祖母も若く、現役で飲食店を経営されていたそうだ。
「祖母は70過ぎまでスナックをしていました。スナックっていっても、刺身がでてくるくらいですから、料理も旨い。私は、そんな祖母の料理で育ちます」。
じつは、小さい頃にいまの源流がある。「うちで卵焼きをつくったんですね。すると、みんなが『旨い、旨い』ってほめてくれて。今思えば、あれが料理に興味をもつきっかけだった気がします」。勉強も、スポーツも、そう得意ではなかったが、家庭科だけには「はなまる」がついた。
「小学校の頃は野球ですね。中学でも野球だったんですが、先生がこわくって。いったんスポーツは辞めるんですが、2年からまた、今度はサッカーをはじめます。義父の影響はそうなかったですね」。
じつは、母親は再婚し、中学の頃には義父といっしょに暮らしはじめている。
「両親の離婚や再婚。それはもう、私がどうすることもできない問題ですし、だから、私がどうなった、ということでもないと思うんです。ただ、離婚したことで祖母の下で暮らすことになったのは大きいかもしれませんね。料理に関してもそうですし、祖母が経営者でなければ、経営に関心がなかったかもしれないからです」。
高校に進学する頃には「起業」が頭にあった。たしかに、祖母の影響もあったに違いない。だから、正直いうと高校はどこでもよかった。

爆睡の高校生活と、眠れない日々。

「朝。そうですね、5時くらいから起きだして仕事をして。学校に行って、教室で爆睡。そして、4時からまた仕事です。ほんとうはいけないんですが、時には12時くらいまで仕事をしていました。それでも、月にすれば200時間くらいかな。給料は平均10万円。最高で14万円。生活していけないとかそういうんじゃないんですが、たしかに当時からハングリー精神はありましたね」。
飲食は、面白い。これは祖母が教えくれたことの一つ。実践すると、やったぶん給料になったから、益々、面白く、楽しくなる。
「デニーズのバイトは週3~4日。それとは別に、老舗レストランの『せいとう』でも、アルバイトを開始します。これが、一つのターニングポイントですね。始めたのは高校2年で、高校3年の時には就職してしまうんです。それで、学校にも行かなくなって。ええ、実は、高校は卒業していないんです」。
たしかに、ターニングポイントだ。
「デニーズとはちがって、といったらデニーズさんに怒られますが、こちらは本格派ですから。たちまち仕事にも魅了されます。とはいえ、当時、キッチンは私を入れて2人です。パートさんとかはいたんですが、ランチだけで150人プラス弁当30~40人分ですからね。15時間拘束。初任給16万円。つまり、仕事はきつかったわけです/笑」。
この「せいとう」に清水氏は、25歳まで勤務している。20歳にはキッチンの責任者、つまり料理長になり、のちに店長にもなる。この7年間はいうまでもなく、清水氏を育てた貴重な時間である。
ちなみに、この時、清水氏はもう一つの仕事を掛け持ちしている。「給料が16万円だった頃です。仕事がはけてから、カラオケでバイトをしていました。16万円じゃ手取り10万円ちょっと。だから、カラオケでもバイトをして、それで30万円くらいですね。ええ、当時はぜんぜん寝ていないわけですが、割とそういうのに慣れているんです」。
高校を卒業してしまったので、爆睡の時間はなくなってしまった。ともかく、眠れない日々は、清水という少年を大人にした。起業は、もうまじか。

創業。2009年。

「25歳で、『せいとう』を卒業させていただいて、それからいろいろな店で修業をします。『新橋で勝負しよう』と思ったのも、じつは、この時。新橋の餃子の店ではたらいたのがきっかけで、そう思うようになりました。3年、いろんな店で修業させていただいて、それで起業したのが28歳、2009年です」。
起業を思い立ったのは16歳の時だから、もう10年以上、起業に向かって歩んだ計算になる。
「新橋ですからね。家賃もそれなりです。創業店は5.95坪。それでも取得費や内装費、備品代で計450万円くらいで済みました。済んだといっても、かつかつですから、赤字がつづくとアウトです。その時はその時で、ほかでバイトすればいいか、みたいなことも思っていました」。
450万円。借り入れゼロで済んだのは、大きい。
それで、どうでしたか? と聞いてみた。
「だいたい昼の1時くらいから仕込みをスタートして、5時からオープン。クローズは翌日の2時か、3時です。MAXは翌朝10時っていうのもありました。業績は初月からまずまずで80万円。最初は平均して100万円くらいだったんですが、2階も借りることができて11坪になり、月商でいえば500~600万円くらいになっていきます」。
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株式会社ビー・フェイス 代表取締役 浅尾圭介氏登場。

本文より~

1971年、生まれ。

今回、ご登場いただいた浅尾氏は、1971年の12月、山口県の光市で生まれている。1971年といえば、万国博覧会が開催された翌年。日本の経済成長に拍車がかかり、走り出す頃だ。
「私は高校まで山口に住み、大学で上京します。そうですね。東京には憧れがありました。もっとも私が上京した頃は、バブル真っ最中です」。
東京は眠らない。若者たちは、夜な夜な宴を楽しむ。しかし、浅尾氏は少し違っていたようだ。「大学1年の時から、コンビを組んでお笑いの世界へ入ります。高校の時、先生に『漫才師になれば』なんて言われていたんです」。
じつは、小学生の頃から、目立つのも、しゃべるのも大好き。中学は一転、おしゃべりどころじゃなくなるが、高校では、ともだちからも、先生からも「芸人になれば」と言われていたらしい。その話のつづきは、のちほど。まずは、中学の話を少し。

暴走ティーチャー。

「中学の時はね。もう、むちゃくちゃだったんです」。
生徒が?
「いえいえ、先生です/笑」。
話を聞いて、笑った。たしかに、おしゃべりどころじゃない。
先生全員がパンチパーマで、竹刀持参。軽トラに拡声器をつけ、生徒を追い回す。時間内に整列できなければ、ビンタがとんだそう。
「あの頃は散々でしたね。私は野球部だったんですが、先生に殴られた3年が、2年に鬱憤をぶつけるんです。私らは1年だったんで、害はなかったんですが、だんだん、野球もいやになった」。
ちなみに、軍隊のような、その中学の生徒たちは、どんなスポーツをさせても優秀だったらしい。負ければ何をされるかわからなかったからだろいうか?
いまなら、むろん、TVニュースにもなっていてもおかしくない。つまり、笑い事では済まないというわけ。「先日、同窓会があって、当時の先生らもいらっしゃったんですね。あの頃はやりすぎたって。もう、笑うしかないですね」。これが、年月というものだ。
暴走ティーチャーたちも、丸くなっておられたようだ。

お笑い芸人。デビューもしたが。

さて、話を進め、芸人の話にむかおう。
「私が上京したのは、ちょうど吉本が東京に進出する時です。パートナーはかわっていますが、大学を卒業してからもフリーターをしながら、漫才をつづけました。1994年にできた銀座7丁目劇場でオーディションがあって。ハイ、私たちもオーディションを受けました」。
どんなコンビ名だったのだろう。有名なコンビ名が挙がる。これは、当時、デビューした漫才コンビの名をうかがった時のこと。「私らは事務所にも所属しましたが、なかなか芽がでなかったです。若い時はそれでもいいんですが、25歳過ぎから、ちょっと違ってくるんです」。「はずかしい」と思うようになったそうだ。「スベっても、若い時はなんともなかったんですが、だんだんはずかしいなと。若い子らが、ドカン!ときたあとに、スベった時なんかもう/笑」。
最初から30歳まで、と決めていたらしい。でも、だんだんとつづけることもできなくなる。「はずかしがって芸人はできないですからね。それで、27歳の時に芸人を辞めました」。
およそ8年。芸人生活は幕を閉じる。

もう、30歳、いまから、どうなる?

「その頃は、社長になろうと、思っていたんですね。だって、年齢が年齢でしたし、いまからサラリーマンっていうのもね」。
わからなくもないが、社長は、サラリーマンより難しいのではないか?聞くと、「目がいいほうだったんですね。私が『こいつ、いける!』と思ったら、間違いなく注目されるんです。すれ違っただけでもわかります。そういう特技っていうのがあったから、プロダクションの社長になろう、と。ええ、かなり、単純です」。
まずマネージャーだと、有名なタレントも所属するプロダクションで仕事を始める。およそ2年。29歳。芸能界から完全に抜け出した。
「なんででしょうね。だんだん、芸能界に興味がなくなっていったんです。もっとも芸能界に入りたいってわけじゃなかったから、当然ですね」。
ネタ帳に向かい悶々とする日も、ネタを仕込む時間もなくなった。芸能プロダクションの社長への道もなくなる。もう、30歳、いまから、どうなる?

社長、スーパーでキムチを売る。

「プロダクションの社長は断念しましたが、起業するつもりは満々です。当時、『カラオケ館』というカラオケボックスがあって。フリーターの時から仕事をしていたんですが、その店の店長に相談し、3年はたらき、そう、それで独立。だから、最初の事業はカラオケボックスなんです」。
こうして駒込に、小さなカラオケボックスが生まれる。
「5名くらいを仲間にしてスタートするんですが、もともと経営のことを知らないから、運転資金もなくって。それで、カラオケボックスは彼女らに任せて、私自身は、スーパーでキムチの売り子をはじめるんです/笑」。
早朝から、スーパーが閉まるまでキムチを売り、その後、駒込にもどる。「帰宅するのは、いつも、深夜。ほとんど寝てなかったですね/笑」。
キムチの売上でなんとか食いつなげた。やがて、浅尾氏が、彼女らとよぶスタッフも大学を卒業。故郷にもどる子もいて。今度は、浅尾氏1人とバイト2名で運営する。「儲かるとまではいいませんが、売上は立ちました。そうそう、ウェイティングルームでお酒を飲めるようにしてダーツを入れたんですね。そしたら、カラオケより、そちらに人だかりができて」。
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2019年7月31日水曜日

SRSホールディングス株式会社 代表取締役執行役員社長 重里政彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にSRSホールディングス株式会社 代表取締役執行役員社長 重里政彦氏登場。
本文より~

怖い父と、次男と。

大阪市浪速区恵美須町は難波や日本橋から少し外れる。日本橋からは、天王寺の方向に向かえばいい。「まさにTHE大阪だった」と笑うのは、「和食さと」などを運営するSRSホールディングス(株)の3代目社長、重里政彦氏である。
「父が、当社の前身である『株式会社尼崎すし半本店』を設立したのは、私が生まれた1968年のことです」。お父様の印象は?とうかがうと、「とにかく、怖い人だった。仕事一本っていうか。私は、子どもの頃からできるだけ父に近づかないようにしていたくらいです」との返答。
仕事一本。重里氏が小学生になる頃には、すでに100店舗を出店されていたようだが、住まいにも無頓着だったようだ。「ネズミが走り回っていた」と重里氏は笑う。
「父が怖いと言いましたが、小学生の頃は、それ以外では結構自由にさせてもらっていました。あの頃がいちばん賢くて、中学生の頃は医者になろうと思っていました。職業にも惹かれていましたが、いちばんは父から口出しされないだろうと思ったからです」。
釣好きの父は、釣りに向かうたびに重里氏を連れだした。怖い父とわがままな少年。2人の距離は、近くない。次男ということもあったのだろう。事業を継ぐつもりも、さらさらなかったようだ。
高校3年の時、父親に医学部への進学を打ち明けると、猛反対されたそう。戦略を立て、医学部への進学を試みたが、けっきょく、父親の思いが勝った。それで、東大? 「そうです。理3はさすがに無理だったんで、理2で受験し、獣医学を専攻します。父ですか? ええ、東大へ行ってもらいたかったんでしょうね。大はしゃぎしていました」。
父親は乱舞したが、息子はうかなかった。「京都府立医大に合格していたんで、そちらに進もうかとも思ったんですが、それはやばい、父が何をするかわからない、とみんなに諭されて」。
強烈な父親像と同時に創業者像が思い浮かぶ。「ああいう人じゃないと、創業者にはなれないんでしょうね。私には、独立や起業など思いも寄らないことですから/笑」。
どこかで理解し、どこかで反発する。それが、父と子というものなのだろうか。ともかく、そういう風にして、重里氏は赤門が待つ東京へ向かった。

兄と弟と。

東京大学に進んだ重里氏は、大学時代6年間を、ふつうかなと表現している。将来の目標を失ったこともあり、特別なことは、とくになかったということだろう。ところで、6年というのは、むろん獣医学科だったからである。
大学を卒業した重里氏は、畑違いの商社に就職している。
「私は、総合商社のトーメンに就職します。その1年目ですね、親父が亡くなります。箱根で社員研修をしている最中でした。突然でしたから、それはもうたいへん。兄が社長となるわけですが、なんの準備もしていなかったから尚更だったようです」。
突然の交代。以降、兄の重里欣孝氏がどれだけ奮闘されたかは想像に難くない。その奮闘にも興味はあるが、今回の主役は弟の重里氏の話である。重里氏自身は意図して、兄とも会社とも距離をおいていたようだ。むろん、商社の仕事も面白い。 30歳の時には、海外勤務も経験している。
海外勤務は5年間に及んだ。経験にも、財産にもなった。もっとも、重里氏が帰国するタイミングでトーメンと豊田通商が合併する。表面上は対等合併だが、実質的には豊田通商による救済合併だった。少なくとも、その色合いが濃い。
「私がいた部署は、救済どころからファンドに売却されてしまいます。ファンドの下で仕事をするのも経験にはなりましたが、だんだん数字のみの仕事に疲れて、40歳になって初めて転職活動を開始します」。兄と2人っきりで話をしたのは、この時がはじめてだったそう。
兄と弟は年齢が離れていることもあってか、すれ違いが多かった。重里氏が40歳になって、ようやく2人は、おなじテーブルにつく。どんな会話がなされたのだろうか?

改革者、現る。

「和食さと」は、関西のファミリーレストランの雄である。東の「すかいらーく」や「デニーズ」と比較すればわかりやすい。実は、これらのレストランには「ファミリー」という以外にも「セントラルキッチン」という共通項がある。故渥美俊一氏が提唱したチェーンストア理論から生まれた戦略だ。
「うちの親父はだれの言うことも聞きませんでしたが、渥美先生にだけは絶対服従でした/笑」。
故渥美俊一氏については、いうまでもないだろう。ちなみに、渥美氏が創設した「ペガサスクラブ」には、いまも錚々たる企業が名を連ねている。むろん、現在の「SRSホールディングス」も会員だし、渥美氏の論理・思考はいまも息づいている。
とはいえ、時代がかわれば、発想もかわる。主要な戦略だった「セントラルキッチン」を不要とする企業が現れているのも事実だ。とくに、リーマン・ショックから始まった不況下で、飲食の経営スタイルは何度目かの再考を迫られることになる。 「サトレストランシステムズ」もまた、埒外ではなかった。
ちなみに、サトレストランシステムズでも2012年に工場部門を閉鎖している。
ともかく、重里氏が、サトレストランシステムズに入社したのは、ちょうど、その時。重里氏は、いきなりきびしい状況に立たされることになる。「不安がなかったとは言いませんが、畑違いの飲食といっても経営はおなじです。私は、兄のサポートを行うという思いで入社します。当初は、海外戦略が、私の主戦場になるはずでした」。ところが、リーマン・ショックで、国内の立て直しが急務になる。入社した翌年には、重里氏はメインブランドである「和食さと」の事業トップに立つことになる。
ある意味、タイミングがよかったというのは、乱暴な物言いだろうか。ただ、この不況下に入社したことは、重里氏にとっても、会社にとっても、幸いだった気がする。改革が必要な時は、ピンチの時だ。改革者、現る。それも、こんな時だ。重里氏は、大胆な改革案を口にした。

部外者があげた号砲。


「最初は、兄も私を海外戦略のなかで役立てようと思っていたようです。しかし、そういう余裕もなくなってしまう。それで、私は、メインブランドである『和食さと』の事業トップに就きます。すぐに現金を生む仕事です」。
重里氏の改革案は大胆だった。10億円の経費削減。部外者があげた号砲である。調べてみると、当時の売上は全体で約250億円。目標とした削減幅は対売上4%以上の数字となる。
「チームをつくって、最初に取り組んだのは販促方法の改善、キッチン内の業務改善です。その一方で商品開発にも着手しました。『さとしゃぶ』は、その時に開発した新メニューです」。
そもそも鍋は、「和食さと」が得意なメニューだった。このメニューにアレンジを加え、食べ放題にする(詳細は、HPにて)。この「さとしゃぶ」を起爆剤に「和食さと」がV字回復を果たす。同時に、この結果は、重里氏の実力を内外に示すことになる。
とはいえ、まだまだ全体では業績好調とは言い難い。その時、新たなブランドとして「かつや」がスタートする。サトレストランシステムズ初のFCブランド。「ジー」、つまり、加盟店としてのスタートである。
「うちの会社は昔からそうですが、とにかく自前主義なんです。だから、この時も、『なんでFCに』って話がでたのは事実です。しかし、兄の欣孝社長が押し切ります。これは2010年のことです」。
リーマン・ショック以降の、デフレのど真ん中。専門業態がにわかにクローズアップされ、低価格が一段と進む。ハレの日を楽しむ余裕がある人は少なかった。
「これが、もうひとつの改革ですね。ここから『さん天』のプロジェクトも生まれ、現在第二のブランドに育っています」。むろん、「さん天」は自社ブランドあり、重里氏が、兄、欣孝氏のもと、指揮をとって進めた事業である。
「私自身は、外部で育った人間です。親父にもできるだけ近づかなかったから、飲食とはなにか、なんて話をされたこともない/笑。でも、外部で育った人間だからできることもある。兄は、そんな私に賭けてくれたんだと思うんです」。
脱、自前主義。老舗企業がかわり始める。
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有限会社RICCO 代表取締役 関口孝男氏登場。

本文より~

未来のプロテニスプレーヤー。

「大阪」駅から環状線にのると、しばらくして「天満」駅に着く。この天満、いまやディープな食の街として知られている。飲食店が肩を寄せ合うようにして軒を連ねているのが印象的。
昔からの立飲みも多いが、近ごろは、お洒落な店も少なくない。むろん、大阪である。格好が良くても、マズイと勝負にならない。
今回、ご登場いただくのは、この呑み倒れの街に颯爽と登場したピッツァリア&バールのオーナーシェフ関口氏。2017年の世界大会で、世界2位になったピザ職人が焼く、マルゲリータにも絶賛の声が寄せられている。
オーナーの関口氏は、1972年、香川県高松市生まれる。
「父親は新聞記者で、母親は県会議員です。私自身は2人兄弟の長男で、小学校からテニスをはじめ、テニスで食べていくことを誓った少年です」。
テニスは小学校から、硬式。その腕前は、四国全土に知れ渡っていたほどだ。もっとも、テニス人口はそう多くない。
「私自身も、プロのテニスプレーヤーになれると信じて疑わなかったんですが、中学2年の時に、肩を壊してしまって。腕がもう、あがらなくなってしまいました。そうですね。特待の話は、もちろんいただいていたんですが、それも、なくなってしまいます」。
なんということだろう。ただ、関口氏は、たんたんと語るだけである。
「高校はもちろん、テニスではなく、ふつうに『寒川高校』という香川にある高校に進学します。野球は何度か、甲子園に出場しています。私自身は、部活をやるでもなく、ともだちと群れて遊んでばかりです。当時、バンドブームだったことあって音楽にはハマりました。高校1年から週4日、朝の3時までライブハウスでバイトをしていました」。
朝の3時まで? 
「そうですね。授業時間は、睡眠時間です/笑。ただ、遊んでばかりでしたが、実は、バイト代はちゃんと貯金していました。早く親元を離れ、独立したかったからです」。

さらば、香川。

「大学は、大阪電気通信大学に進みます。念願の独り暮らし、スタートです」。
高校時代から深夜バイト。一人で生活するちからはある。貯金もあるから、親にも頼らなくていい。ところが、私立だし、お金もかかる。入学したのはいいが、後期の学費がどうもねん出できそうになかった。
「それが、分かったんで、1ヵ月で早々に退学です。意味がないし、香川を出るっていう目的はもう果たしたわけですから。しかも、親にはお金も頼っていないですし」。
大学進学は、いうならば、香川をでる口実だったし、カムフラージュだったのかもしれない。大学からも、解放されて、晴れて、独り。何者にもしばられない。
「最初は、ともだちのコネで製薬会社に就職します。でも、1ヵ月くらいで、すまん、と。速攻で、退職しました。次に、勤めたのが『天狗』という居酒屋のチェーンです」。
「天狗」はチェーンで、大型店だ。
「飲食は、言えばこの時が、はじめてでしたが楽しかったですね。とくに料理が面白かった。このバイトをきっかけに飲食に進みます。その時、知り合ったともだちが『オレは、(当時、有名なイタリアンの)ピアノピアーノに修業に行く』なんていって。それに、もろに影響されて。『じゃぁ、オレは、和食だ!』って、歓楽街、ミナミの鮨屋で修業を開始します」。
まだ、10代。
「その時の経験は、いまも生きています。給料はそう良くないですが、バブルの時代だったし、チップもいただけたし。在籍したのは、1年半です。生意気なこといって、半分、追い出されたようなもんです/笑」。
話を聞くと、関口氏の言い分のほうがまともだった。ただ、これは、記事にしにくい。「回転すし」まで、敵に回してしまいそうだから。

イタリアへ。

「このあと、ともだちの紹介で、イタリア、ローマに行きます。ただ、知っているのは、紹介されたお店の名前だけで、料理はもちろん、イタリアの知識も何もかもゼロです。だいいちお金もない。当時、片道のチケット代が15万円だったんです。私の所持金は、チケット代を含めて25万円。ええ、もちろん、帰ることができません/笑」。
むろん、イタリア語も話せなかった。それでも、青年は、ローマに渡る。
「たしかに、ローマのピッツアは旨かったですね。でも、正直いうと、それ以外の料理が塩っ辛くて、話になんない」。
塩辛い?
「ええ、そうなんです。イタリア料理って、うまみ成分が少ないから、塩で決めてくるんです。だから、どうしても味が濃くなる。もちろん、私も、その濃い料理をつくっていました。向こうでは住み込みで半年です。それから南フランス、スペインにも、出かけ帰国します」。
「それから、2年間は、イタリアレストランではたらき、スペインバルに移り、ダイニングバーと転々とするわけですが、このダイニングバーが長くて7年です。『梅田』の東通りにあるお店でした」。
ところで、イタリアでの修業はどうだったんだろう。「もちろん、勉強になりました。ただ、私がイタリア料理に魅せられたのは、実は、帰国してからなんです」。
どういうことだろう?

天才たち。

「天才としか言いようがない、イタリアンのシェフがいたからです。1人は『IL GHIOTTONE』のオーナーシェフのササジマさんです。単純に、めちゃめちゃ、旨い。もう1人が、『ラ・ルナ』のコツカさんです。この方はもう『天才』です。そういう言葉しか思いつかないですね。料理の味の決めかたって、料理人にもよりますが、たいてい1つか、2つなんです。でも、彼は7つ以上もっていました。それが、天才たる所以です」。
むろん、関口氏も、天才肌でもある。数字が、実力を証明する。
「ダイニングバーの話ですね。ハイ、私は、統括という役割で入社します。そう、梅田の東通りです。1年目は正直、たいへんでした。結果が現れるのは2年目くらいから。朝9時まで、営業を延長したんです。すると、同業の人が来るんですね。もう、朝ごはんの時間ですが、彼らにしたらちゃんと食べたい」。
「だから、朝もちゃんとした料理をお出ししました。たちまち『9時までやっている旨い店がある』って評判になって。もともと月商180万円だったのが、平均して600万円をオーバーします。そりゃそうですよね、朝5時からまだ3回転するんですから/笑」。
全盛期にはメディアの取材も毎月のようにあった。合計、7年。32歳で、独立し、「西天満」でイタリアレストランをオープンする。いよいよ、もう一人の天才シェフの登場だ。
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2019年7月28日日曜日

7月19日(金)、7月26日(金)で奴ダイニング様の肉バルBKS(ビーフキッチンスタンド)についての記事を2週にわたり掲載させて頂きました。
(紙面7月19日発行)
(電子版/カラー)
 (紙面7月26日発行)
 (電子版/カラー)
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2019年7月24日水曜日

株式会社omnibus 代表取締役 新澤聖樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社omnibus 代表取締役 新澤聖樹氏登場。
本文より~

熱血教師と、陸上と。

小学6年生の時、両親が離婚する。母親は、スナックではたらく。兄は、もともと荒れていた。
「もともと親父は酒飲みで。中日新聞社ではたらいてはいたんですが。いっつもお金がない人で、私のブタの貯金箱も狙われいました/笑。兄は、親父にも歯向かいました。離婚することで、生活はきびしくなりましたが、親父がいなくなったことで落ち着いたのも事実ですね。もっとも、まだ、怖い兄が残ったままでしたが…」。
兄は、3つうえ。新澤氏が中学に進学する時には、入れ替わるように中学を卒業する。
「入学してクラスわけってあるでしょ。最初というか、初日は1年9組のおとなしそうな女性が担任のクラスだったんです。たしかに、そうだったんですが、一夜明けた2日目に通学するともう1クラス増えていて。なんなんだ?と思っていたら『お前は、ここのクラスだ』と。なんでも、うちの兄を担任していた加藤っていう先生が『弟が入ってきたのなら、オレに任せろ』って。入学式の翌日になって、もう1クラスつくっちゃたらしいんです。その加藤先生っていうのが、陸上部の監督で。もちろん、クラブも陸上とハナから決められていました/笑」。
陸上部の監督であり、担任でもあった加藤先生は恩師の1人。
「とにかく、『走れ』です。他人がトレーニングしていない時にも『走るんだ』と。そりゃ、もう、練習の練習です。遊ぶ時間もない。でも、じつは練習だけじゃないんです。ちょっとでも派手なガラシャツを着てきたら、着替えさせられますし、髪型をキメてきたら水をぶっかけられて。悪くなるチャンスが、そもそもないんです。兄貴は、どうやって、この力から逃れたんでしょうね/笑」。
ともかく、中学時代は、熱血教師と陸上で、始まり、終わる。

神奈川県で10指に入るが、怪我とともに栄光の日々も終わる。

「最初は、なかなか成績が上がらなかったです。でも、卒業するくらいには、神奈川県でも10位以内に入るようになっていましたから、相当、走りこんだ証拠ですよね/笑」。
陸上王国でもある神奈川県で10位以内とは相当、すごい数字でもある。
「高校からはたくさん推薦をいただきました。でも、お金がないでしょ。それで、陸上が強い県立高校に進みます。勉強もそれなりにできたから、トップにちかい点数で合格しました。むろん、入学後は、すぐさま陸上部です」。
高校からは、長距離。5000メートルを主戦場にする。高校1年の時には横浜で1位になっている。しかし、高校2年になり、長距離の部長になった時、腰を怪我し、これが引き金となって、クラブを辞めることになる。
「いろんなことが重なったんだと思います。怪我をしていたこともあって、年末年始にアメ横でバイトをして、ちょっとそっちに行きたくなるんですね/笑」。
そっちとは、ちょっと不良な世界である。
「怪我も治って、復帰するんですが、今度はブランクが埋まらない。いままで楽勝だった奴に勝てなくなっちゃって。先生は『完全に復活するまでは、それで当然だ』と励ましてくれたんですが…、私的には、挫折っていうか。そのうえ、私が部長だったその年に、うちの高校の駅伝シードが獲れなくって、連続記録が途切れてしまうんです」。
もうなにがなんだか、わからなかったのではないか。それから、新澤氏は長距離を走ったことがない。むろん、部は辞めた。慰めてくれたのは、新澤氏が12歳の時、兄が拾ってきた猫だけだった。

え、入学金が振り込まれていない!?

「大学には進学しようと思っていたんですが、もちろんお金もないし、3年の担任の先生が『何もすることがなくて大学行ってどうするんだ』って。そうだよな、と。ハイ、それで、大学には進まず、手に職をつけるために大阪の調理師学校に進みました。お金ですか? この時は、母と別れた親父に電話して。ハイ、最初は『だしてやる』って言っていたんです。でも、高校を卒業して、そろそろ大阪にいこうかなって時に、専門学校から電話があって『入学金が入金されていないので、このままでは』って。え?って」。
 名古屋で暮らしていた父親のもとまで行き、詰問する。
「なんでだ?」
「最初に『だす』って言っていた時は、酒を飲んでいい気になっていたんでしょうね。でも、酔いが醒めれば、そんなお金はない、と。『とにかく、50万円だけだしてくれ。あとはオレがなんとかするから』って」。
 入学金と授業料でほぼ200万円。それだけではない。家賃もあれば、生活費もある。「もう、住めればいいわけですから、いちばん安いところに住んで。飯は、バイトの賄いと、調理の実習でつくる料理です。もう、今思い出してももどりたくないですね/笑」。
 1年制。卒業して、横浜にある有名ホテルで中華料理のコックになる。それが、また地獄の始まり。

ホテルの理不尽と、独立と、派遣の調理人と。


「ぜんぜん、つづかなかったですね」。本人のことではなく、入社する後輩の話。「もうね。なんの生産性もないイジメです。冷凍庫のなかに放り込まれたり、ゴミ箱に突っ込まれたりね。ホテルの厨房ですよ。もう、私の時代で終わらせてやろうって。でも、ぜんぜんだめ。いくらカバーしても、だれもつづきませんでしたね」。
新澤氏本人は、そういう、悪い伝統をぶち壊してやるという目標もあって、気づいたら2年経っていたそうだ。「もうだめだ」とサジを投げたのが2年後だったとも言える。
「先輩らの憂さ晴ら。低いですよね。次元が…」。「ホテルでもこれかよ」と幻滅し、いったん飲食から離れたが、1年で舞い戻りる。「やっぱり、自分には飲食しかないなって思ったんです」。
それから、地元の居酒屋で2年勤務する。「独立を真剣に考え始めたのはこの頃です」と新澤氏。いよいよ、独立への道がスタートする。
その頃になると、母親も独立し、スナックを経営していた。「25歳の時に、居酒屋を辞めて独立します。母のスナックが24時で終わるんですが、それから朝の7時ですね。月6万円、家賃を母に払って」。
家賃が負担になっているのを知っていたから、わざと借りた。そうすれば母も楽になるだろう、という算段だった。「でもね。ぜんぜん、お客さんがいらっしゃらなかったんです/笑」。
月6万円も払えない。「それで、ちょっとは料理もできますから、派遣で調理の仕事をはじめます。今思えば、いちばんちからがついたのは、あの時ですね。とにかく、派遣ですから、どんな料理もいきなり任されるんです。『○×△つくっといて』みたいなね。しかも、和・洋・中、全ジャンルです。で、その時、調理したのを、夜というか、深夜ですね、うちの店で、再現するんです」。
実践と、実践の繰り返し。新澤氏の料理にかける思いと、その腕前に少しずつ客が吸い寄せられる。そのうちの1人に背中を押され、バーの跡地を新たに借りて正式な1号店をオープンする。
それが2003年の話である。
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株式会社猿屋一家 代表取締役 藤野裕章氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社猿屋一家 代表取締役 藤野裕章氏登場。
本文より~

1人だけの卒業式。

高校生の時、休んだことはほぼなかったが、遅刻の回数は200回に及んだ。時には朝6時に到着し、朝練だけ済ませて、雲隠れした。もっぱら、デニーズが隠れ家だったそう。
「遅刻がもとで、卒業を認定してもらえなかったんです/笑。なんとか許しがでたのは、卒業式もとっくにすぎた3月20日。残された道はなく、進める学校も限られていました。それで、私は、夜間の専門学校を選択したんです」。
「ちっちゃな頃からサッカー少年でした。マラソンが得意で、中学時代には駅伝に出場してく大会で1位を獲りました。サッカーは高校に進んでからもつづけます。もっとも、ちかくで帝京高校サッカー部の、二軍ですが、選手たちが練習していて。ええ、二軍でも、私たちからすれば十分、怪物です/笑。だから、サッカーで食べていくなんて、思いもできません」。
高校は、当初、私学に進みたいと思っていたそうだが、結局、都立高校に進学する。自転車で15分。それが選択理由だった。にもかかわらず遅刻の常習犯になるのだから、わからない。
「当時から、ちょっと、かわり者だったんだと思います。集団行動が苦手で。遅刻も、もしかすると集団生活に馴染めなかったからかもしれないですね/笑。ともかく、高校を卒業し、夜間の専門学校に進みます。『調理師』と『ホテルマン』の養成学校です」。
選択したのは、ホテルのほう。「ホテルのドラマが流行っていて、ちょっと影響されました」と笑っている。

ハワイのヒルトンにいた、天才レセプショニスト。

「その専門学校では、2年次に留学のプログラムが組み込まれていて、私も、プログラム通り、海外に行きます。アメリカのシアトルでした。もっとも留学と行っても、生徒40人でいっしょに行くわけですから、みんなであそんじゃいますよね。もう、イチローもシアトルにいたし。何より当時の私は、ノストラダムスの大予言を信じていて、残りの時間をたのしく過ごさないといけないっていう強迫観念みたいなものがありましたから、尚更、たのしい方向に進んじゃいますよね/笑」。
シアトルから、ハワイへ?
「そうなんです。シアトルからもどり、残りの勉強をして、あとはハワイです。ハワイは、卒業生を対象にした研修プログラムの一つで、私は学校を卒業してから、1年間、研修生として『ヒルトン ハワイアン ビレッジ』で勤務します。それが、一つのターニングポイントです」。
フロントを希望したが、レストランサービスに配属される。
「今思えば、これが、始まりです。とくに、そのホテルにいたレセプショニストには、影響を受けました。彼女は、50代くらいの黒人だったんですが、すべてのゲストが彼女に魅了されるんです。彼女は、ゲストの名も、その時々の会話もすべて記憶します。もう、なんていうか。それまでサービスが何者かも知らなかったわけですから、そりゃ衝撃です。彼女は、天才か、天使かですね」。
ハワイで暮らそうと思ったそうだ。
「なんとかできないかなって。ビザのこともあるし、もちろん、お金の問題もある。それでもなんとかできないかと、研修が終わって帰国してからも、正式な仕事には就かず、コンビニで割りのいい深夜バイトを始めます」。
しかし、そう簡単ではない。
「ビザもいろいろあるでしょ。21歳の若造だったし、経験もないし、だんだん無理かなと。そうですね、8ヵ月くらいして断念します」。ハワイが急に遠くへ行った。

グローバルダイニングと、「猿」の始まり。

コンビニバイトを卒業した藤野氏は、まだフリーター生活をつづける。
「代官山にある『タグローズ』に面接に行きました。恰好いいのは、やっぱ代官山だろうな、って思って。当時、横浜に住んでいたんですが、一本だったし。でも、『タグローズ』はクローズが12時、片付けを入れると1時くらいになっちゃって、終電に間に合わなかったんですね。で、『だめですね』ってことになったんですが、担当者が、『ゼスト キャンティーナ 恵比寿』を紹介してくださったんです。『あそこは、朝までだから』って」。
たしかに、朝までなら、終電は関係がない。ところで、当時、藤野氏は「代官山で」とは思っていたが、「タグローズで」とは思っていなかったようだ、つまり、「タグローズ」が何者で、また、「ゼスト」が何者であるかもわかってはいなかったようだ。
「とにかく、紹介されたんで『ゼスト』に行くんですが、ドアを開けた時の解放感がもうハンパなかった。『なんじゃ、これ!』って」。
そりゃ、そうだろう。「ゼスト」はいうまでもなく、グローバルダイニングのコアダイニングの一つである。ドアを開けたとたん、異空間が広がる。息を飲むのは、こういう時をいうのだろう。
「当時、ゼストのマネージャーは、石田聡さんという人です。ヒルトンにいたレセプショニスト同様、石田さんも天才です。しかも、スタッフみんなをのせる天才。彼の下で、もう毎日が楽しくて。しかも、グローバルダイニングが、全盛期の頃です。私もバイトでしたが、バイトも正社員もかわりない。『年収1500万円』のバイトがいた時代です/笑」。
時給は自己申告制。
1日オープンな会議が行われ、それで、みんなが頷けば、めでたく時給がアップする。
「そんなしくみにも惹かれました。ともかく、何から何までけた違い。ふつうじゃない。『ゼスト』からして、ふつうじゃない。400席あって、月商7~8000万円。日々、目標をクリアする。チームの絆はつよかったですが、甘えは、一切なしです」。
言い遅れたが、「ゼスト」でも藤野氏の仕事は、レストランサービスだった。ちなみに、当時、上司に「猿」というニックネームをつけられた。それが、いまの「猿」の始まり。この頃にはすでに、「独立」の二文字を念頭に置いていたそうだ。
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