2019年8月6日火曜日

株式会社ビー・フェイス 代表取締役 浅尾圭介氏登場。

本文より~

1971年、生まれ。

今回、ご登場いただいた浅尾氏は、1971年の12月、山口県の光市で生まれている。1971年といえば、万国博覧会が開催された翌年。日本の経済成長に拍車がかかり、走り出す頃だ。
「私は高校まで山口に住み、大学で上京します。そうですね。東京には憧れがありました。もっとも私が上京した頃は、バブル真っ最中です」。
東京は眠らない。若者たちは、夜な夜な宴を楽しむ。しかし、浅尾氏は少し違っていたようだ。「大学1年の時から、コンビを組んでお笑いの世界へ入ります。高校の時、先生に『漫才師になれば』なんて言われていたんです」。
じつは、小学生の頃から、目立つのも、しゃべるのも大好き。中学は一転、おしゃべりどころじゃなくなるが、高校では、ともだちからも、先生からも「芸人になれば」と言われていたらしい。その話のつづきは、のちほど。まずは、中学の話を少し。

暴走ティーチャー。

「中学の時はね。もう、むちゃくちゃだったんです」。
生徒が?
「いえいえ、先生です/笑」。
話を聞いて、笑った。たしかに、おしゃべりどころじゃない。
先生全員がパンチパーマで、竹刀持参。軽トラに拡声器をつけ、生徒を追い回す。時間内に整列できなければ、ビンタがとんだそう。
「あの頃は散々でしたね。私は野球部だったんですが、先生に殴られた3年が、2年に鬱憤をぶつけるんです。私らは1年だったんで、害はなかったんですが、だんだん、野球もいやになった」。
ちなみに、軍隊のような、その中学の生徒たちは、どんなスポーツをさせても優秀だったらしい。負ければ何をされるかわからなかったからだろいうか?
いまなら、むろん、TVニュースにもなっていてもおかしくない。つまり、笑い事では済まないというわけ。「先日、同窓会があって、当時の先生らもいらっしゃったんですね。あの頃はやりすぎたって。もう、笑うしかないですね」。これが、年月というものだ。
暴走ティーチャーたちも、丸くなっておられたようだ。

お笑い芸人。デビューもしたが。

さて、話を進め、芸人の話にむかおう。
「私が上京したのは、ちょうど吉本が東京に進出する時です。パートナーはかわっていますが、大学を卒業してからもフリーターをしながら、漫才をつづけました。1994年にできた銀座7丁目劇場でオーディションがあって。ハイ、私たちもオーディションを受けました」。
どんなコンビ名だったのだろう。有名なコンビ名が挙がる。これは、当時、デビューした漫才コンビの名をうかがった時のこと。「私らは事務所にも所属しましたが、なかなか芽がでなかったです。若い時はそれでもいいんですが、25歳過ぎから、ちょっと違ってくるんです」。「はずかしい」と思うようになったそうだ。「スベっても、若い時はなんともなかったんですが、だんだんはずかしいなと。若い子らが、ドカン!ときたあとに、スベった時なんかもう/笑」。
最初から30歳まで、と決めていたらしい。でも、だんだんとつづけることもできなくなる。「はずかしがって芸人はできないですからね。それで、27歳の時に芸人を辞めました」。
およそ8年。芸人生活は幕を閉じる。

もう、30歳、いまから、どうなる?

「その頃は、社長になろうと、思っていたんですね。だって、年齢が年齢でしたし、いまからサラリーマンっていうのもね」。
わからなくもないが、社長は、サラリーマンより難しいのではないか?聞くと、「目がいいほうだったんですね。私が『こいつ、いける!』と思ったら、間違いなく注目されるんです。すれ違っただけでもわかります。そういう特技っていうのがあったから、プロダクションの社長になろう、と。ええ、かなり、単純です」。
まずマネージャーだと、有名なタレントも所属するプロダクションで仕事を始める。およそ2年。29歳。芸能界から完全に抜け出した。
「なんででしょうね。だんだん、芸能界に興味がなくなっていったんです。もっとも芸能界に入りたいってわけじゃなかったから、当然ですね」。
ネタ帳に向かい悶々とする日も、ネタを仕込む時間もなくなった。芸能プロダクションの社長への道もなくなる。もう、30歳、いまから、どうなる?

社長、スーパーでキムチを売る。

「プロダクションの社長は断念しましたが、起業するつもりは満々です。当時、『カラオケ館』というカラオケボックスがあって。フリーターの時から仕事をしていたんですが、その店の店長に相談し、3年はたらき、そう、それで独立。だから、最初の事業はカラオケボックスなんです」。
こうして駒込に、小さなカラオケボックスが生まれる。
「5名くらいを仲間にしてスタートするんですが、もともと経営のことを知らないから、運転資金もなくって。それで、カラオケボックスは彼女らに任せて、私自身は、スーパーでキムチの売り子をはじめるんです/笑」。
早朝から、スーパーが閉まるまでキムチを売り、その後、駒込にもどる。「帰宅するのは、いつも、深夜。ほとんど寝てなかったですね/笑」。
キムチの売上でなんとか食いつなげた。やがて、浅尾氏が、彼女らとよぶスタッフも大学を卒業。故郷にもどる子もいて。今度は、浅尾氏1人とバイト2名で運営する。「儲かるとまではいいませんが、売上は立ちました。そうそう、ウェイティングルームでお酒を飲めるようにしてダーツを入れたんですね。そしたら、カラオケより、そちらに人だかりができて」。
・・・続き
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