2018年3月20日火曜日

株式会社熱血 代表取締役 横田晃一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社熱血 代表取締役 横田晃一登場。
本文より~

獣道は、下界につづく唯一の道。

いつまでもバスに揺られつづけた。 野球でも有名なその高校は、高知空港からバスで数時間。山間にあり、「コンビニに行くにもタクシーで1時間かかった」という。今回、ご登場いただいた横田氏が、この高校に進学したのは、もうずいぶん前だから今とは異なっていることも多いだろうが、横田氏のなかにある風景は、今も山間のなかにある、収容所のような建物だ。
「当時は、インターネットもない時代でしょ。バスに揺られながら、『どこまで行くんだ』って/笑」。当時、そのスポーツ高校は、次のスポーツの目玉としてバスケットボールに注力しており、選りすぐりの選手が全国から集められた。横田氏もその一人である。
出身地は、藤沢市。その市のバスケットボール関係者で、横田氏の名を知らない人はいなかった。身長は当時から184センチ。バスケの選手としては飛びぬけてはいないが、それなりの背丈である。スピードは群を抜いていた。小学校でも、中学校でも、チームは横田氏の名をもって語られた。
「合宿に参加して、特待生のAで入学します。1人息子だから両親も淋しかったと思いますが、背中を押してくれました。でも、今になって思えば、あれが挫折の始まりかな、とも」。
下界から隔離されていた。生徒の90%以上が寮に住み、大半が何らかのスポーツで名をあげた選手だった。校則はきびしく、学校を抜けだすとそれだけで「停学」。食事も、全員で。「収容所みたいですね」というと、「まさに、そんな感じです」と笑う。食事は「カラアゲと大盛りの飯」と決まっていた。タンパク質と糖分をブロイラーのように摂取させられた。ただ、選りすぐりの選手のなかでも、横田氏は群を抜いて期待されていた。神奈川のレベルが、相当高いことを証明している。
「バスケのほうは、よかったんですが、生活のほうがたいへんで/笑」。最初にぶち込まれた4人部屋には、名主のようにふるまう柔道部や相撲部の先輩がいた。
「獣道っていうのがあって」。「獣道?」「そうです。文字通り獣しか通らないような道があって、それが唯一の抜け道なんです。夜中こっそり、獣道を使って抜け出してタクシーでコンビニまで行く。片道1時間。そうやってコーラとかを買ってくるんです。もちろん、買いに行くのは1年生。行くではなく、『行かされる』ですね」。
横田氏も何度か、獣道を駆け下りた。

退学。その道はどこにつづく?

「まぁ、そういうこととか、いろいろあって。実は、夏が過ぎる頃に学校から脱走しました。友人宅に逃げ込み、そこがバレ、2日くらい野宿して、藤沢に逃げ帰ったんです」。
朝の点呼の最中。窓から抜け出したらしい。
「いちばんの理由は、朝の点呼に間に合わず学校を抜け出していたことがバレてしまったことです。それでも、ふつうなら一時の『停学』で済むんですが、私の場合は特待生のAクラスですから、『それで済ましてはまずかろう』と違約金を取られることになったんです」。
今でも、その額は申し訳なくて親に聞けないそうだが、「相当な額だったのは間違いない」とのこと。「シェフの父親はもともと寡黙な人でこの時も何も言われなかったと思いますが、さすがに、こちらは申し訳ない思いでいっぱいでした」。
3週間後、横田氏は1度、その高校にもどっている。退学の手続きをするためだ。その手続きを終え、校舎を後にする時、横田氏はどんな気持ちだったのだろう。
負け犬。遠くから、そんな声が聞こえてきたかもしれない。

役者。まだ人生の答えはでない。

もともと県内にも「来い」と誘ってくれていた高校があった。公立だったが相談したら、1年遅れだが入学できた。しかし、横田氏は、その学校も3ヵ月程度で退学してしまう。もう、好きなバスケットボールもつづけられない。
「役者の道に入ったのは、そのあとです。母親がプロダクションに勝手に写真を送って。1次選考を通過したもんですから、『オーディションに行って来い』と/笑」。
役者のことなど何もわからない。しかし、今度は逃げ出さなかった。「9年くらいですね。ただ、生活は極貧です。月数万円。アルバイトもするんですが、急に仕事が入ったりするわけで。そうそう融通がきくバイトもなく、だんだん夜のバイトが中心になるんです」。
どこまでいけば、役者として独り立ちできるのか?
「もうそろそろ限界かな、と思ったのが25歳の時です。その頃にはもう、夜の仕事ばかりだったので、そういうのもまずいんじゃないかなって」。
高校を逃げ出してから、およそ10年。将来を誰より期待されていたバスケット選手は、夜のとばりに立って途方に暮れていた。 
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年3月13日火曜日

VIVO PRODUCTION TOKYO株式会社 代表取締役 鈴木健太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”VIVO PRODUCTION TOKYO株式会社 代表取締役 鈴木健太郎氏登場。
本文より~

三重県出身。

愛知県の伊良湖岬に、いいホテルがあった。中学までは、毎年、家族で泊まった。父は工務店を経営していたから、どちらかといえば裕福だった。鈴木氏は、小学校ではサッカー少年団に入り、中・高は、ハンドボール部に入った。「できたばかりだったので弱かったですね」と笑う。
高校は、三重県でも進学校の県立「川越高校」に進んでいる。「あの頃は、将来、飲食事業をしているイメージはまったくなかったですね」。
「1ミリもなかった」そう。
大学は「京都産業大学」に進んだ。住まいは、銀閣寺のそばに決めた。最初は4万円のマンションだったが、「もったい」と1万円の風呂なしの木造アパートに移り住む。
大学時代の思い出はアルバイトと旅行。

中国と旅のご褒美。

写真を観て、中国にひかれた。高校時代の話である。「大学生になったら行こうって、その時から決めていました」。京都産業大学に進み、独り暮らしをはじめる一方で、中国に向かう準備も整えた。もっとも、所持金は10万円。夏までに資金がたまり、長い休みに突入すると、すぐに船に乗った。
「神戸港から、天津に向かいます」。天津は、渤海を奥深く入ったところにある都市だ。「天津から北京に進み、電車でパキスタンとの国境にあるウイグルまで行きました」。
2ヵ月。バックパッカーだ。宿泊するのは、1泊100円の宿。「食べ物ですか、まぁ、いけましたね。ただ、毎日、下痢です。下痢が常態化しているっていうか(笑)」。
翌年もまた中国に向かった。今度は、上海から入った。チベットまで行って、ヒマラヤを超えてネパールに入り、インドまで向かったそうだ。
「アジアは物価が安いから、学生にとってはいちばんいいんです」。中国は、漢民族がたいはんを占めているが、少数民族が多数存在していることでも知られている。
「少数民族系の料理も食べました。日本料理とは、ぜんぜん違うわけですが、抵抗はなかったですね」。好奇心も旺盛だ。中国だけではなく、ヨーロッパへも向かった。
「この大学の時の旅を通じて、やりたいことが明確になりました。一つは、日本のマンガや音楽などのコンテンツを海外に向け、輸出すること。そしてもう一つは、スペインでみたバールですね。あれを、日本でやりたいと思ったんです」。
この2つのプランは、旅がくれたご褒美かもしれない。

日本のコンテンツを世界へ。

「就職したのはカルチャー・コンビニエンス・クラブです」。いわゆる「TSUTAYA」である。「大学時代に、コンテンツの輸出をしようと思っていたもんですから、私には最良の選択だったと思います。ただ、ちょうど上場準備の時と重なって、IPOのプロジェクトに参加することになるんです。すごくいい勉強はできましたが、コンテンツの輸出はできませんでした」。
IPOを果たしたあとは、渋谷にオープンする「TSUTAYA」の立ち上げを担当した。「そうですね。そういう意味では、とても貴重な体験をさせてもらった4年間でした」。
鈴木氏が言う通り、CCC時代は4年で幕を下ろす。
「それからひとつ会社を経て、D2Cという電通とNTTが共同出資した広告代理店に転職しました。昔は30名程度だったんですが、いまはでかくなっていますよね。そちらで4年です」。
28歳。鈴木氏は、会社を離れ、温めていたもう一つのプランを実現するために行動を開始する。スペインで観た「バール」のオープンである。
・・・続き
VIVO PRODUCTION TOKYO株式会社 代表取締役 鈴木健太郎氏
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年3月8日木曜日

株式会社シティコミュニケーションズ 代表取締役社長 三田大明氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社シティコミュニケーションズ 代表取締役社長 三田大明氏登場。
本文より~

400人のBBQ。

牛一頭はおよそ400人分くらいなんだそうだ。
「ある時、『バーベキューをしよう』と誰かが言い出して。ええ、社内イベントです。うちは、社内イベント日本一ですから、スタッフにやろうと言われてやらないわけにはいきません」。
「おまけに奴らは、この時『社長、オレたちのこといつも家族って言ってんですから、オレたちの家族も呼んでもいいっすよね』って。結局、400人に膨らんで。正直、誰が、誰か。部外者が肉を食っていても、わからなかった(笑)」。肉は、「牛角」の本部にお願いする。FCをやっているから、そういうお願いも聞いてくれるらしい。
今回、ご登場いただいたのは、この「牛角」のFCも展開する株式会社シティコミュニケーションズ、代表取締役社長、三田大明氏。もっとも飲食だけではなく、事業の幅は広い、広い。一言でいうならば、エンターテインメントの祖国でもある「ラスベガス」のミニチュア版。三田氏自身は、こう表現している。
「もう20年前から言っているです。みんなで『ラスベガスのようなエンターテインメントな街をつくろうぜ』って。それが少しずつかたちになってきているんだと思います」。
売上高はすでに500億円を超える。ちなみに、グループを形成するのは、株式会社シティコミュニケーションズほか15社。そりゃ、みんながあつまれば、牛一頭も軽くなくなるはずである。

奇跡の子。

三田氏が生まれたのは、1972年。
母親は8人の子を宿したが、無事、生まれたのは三田氏だけだそうだ。「これは、ある意味、私の原点です。なぜ、私だけが無事、生まれたのか。その答えを探すのが、私の人生の始まりだったからです」。
たしかに、確率でいえば8分の1。医師からは「もう無理」と言われていたそうだ。この手で我が子を抱きしめたい、母の切なる思いが奇跡を起こし、この年、三田氏がちから強く、産声を上げたのである。
「母方の祖父は天才的な人で、尚且つ、無類の人好きだったそうです。戦後、食料がない時もトラック1杯分の魚を買ってきて、みんなに配ったりして。そういう武勇伝もある人です。祖父の、天才的な頭脳と性格は、息子たちに引き継がれます。つまり私の叔父2人ですが、祖父の熱い想いを受けて、1人は弁護士になって、もう1人は脳神経内科の世界的な権威です」。
なんともすごい話がでてきた。むろん、その血は三田氏にも引き継がれている。
一方、父方は事業家だった。祖父が不動産の仕事をはじめ、父がそれを拡大した。父親が経営者の時に、もっとも肥大化したのは言うまでもなくバブルの全盛期である。むろん、バブルはあっさりと弾け、爪痕は至るところに残った。三田氏、はたちの頃の話である。

50メートル6秒1。

「小学校からずっと慶應」と三田氏。祖父譲りの明晰な頭脳を持ち、しかも、運動神経も抜群。なかでも足がはやく、中学1年で50メートル6秒1を記録している。背は170センチ以上あったそうだ。
「慶應は、小学校からラグビーにちからを入れているもんですから、足が速い奴は自動的にラグビー部に、という雰囲気なんです(笑)。私は、そのなかでも特別枠に入れられたもんですから、練習もハンパなくって。それで、椎間板ヘルニアになって。」。
椎間板ヘルニアになってからも、医者と「中学3年。この1年だけ」の約束で、楕円形のボールを追いかけた。出る試合、出る試合、勝利をもぎ取った。しかし。宣言通り、その年でラグビーは卒業した。スポーツは断念したが、それでも、頭の方が残っている。
「成績は高校にいっても、なんとかトップクラスです。ただ、高校になると、勉強より遊びばっかりで(笑)」。なんとか成績は維持したが、学校にいるより遊び回っているほうが多かった。「親にもいちばん迷惑をかけたのは、あの頃」と三田氏。しかし、遊びも突き詰めると一つの動機を生むことがある。それが次の話の始まり。

毎日が学園祭。

「大学まで親に言われたとおり進みました。大学卒業後、母から勧められたのは、ある都銀です。でも、なんだか違うような気がしてくるんですね」。
言うならば、父や母が敷いたレール?
「そう。だから、今回も母の勧め通りに、都銀に行ってしまったら、オレの人生って誰の人生なんだ?って。それで、『遊び三昧の日々の延長戦』をやってやろうと思って。そうです、都銀ではなく、株式会社セガ・エンタープライゼスに就職します。当時、もっとも勢いがあった時代じゃないですか。ゲームセンターの出店ラッシュの時です。私は、このゲーセンの店長になるわけです」。
面白くてたまらなかったそうだ。
「みなさんは、ゲームセンターに『遊びに行った』と思っているでしょ。でも、私らからすれば逆なんです。私たちの思い通り、お客様を動かしているんです。アテンションさせて、店内に入れ、1000円を崩してもらって。そう、そこから私たちがしかけたトラップに沿って、次々、ゲームを楽しんでもらう」。
三田氏は、たった100円の重みという。
「たった100円。でも、100円なんです。崩した10枚の100円玉をいかにぜんぶ使っていただくか、それが私たちのゲームなんです。毎日が学園祭みたいなもんで、そりゃ、楽しくないわけはないでしょ。当時は、運営方法もすべて店で決めることができましたら、面白さはハンパないわけです」。
ただ、いくら楽しい言っても、ゲームだから勝敗はある。

格闘ゲーム。

「これは、私が店長をしていたある横浜のゲームセンターのことなんですが。当時は格闘タイプのゲームが流行っていて、それがどこでも、いちばん人気だったんですが、その辺りはちょっとガラが良くなかった。格闘ゲームをやりに来たはずの高校生らが、バーチャルからすぐにリアルな戦闘モードに入ってしまって(笑)」。
「私たちは、その度にすっとんで止めるわけですが、営業時間中常に社員がいるわけにもいかない。アルバイトに対応させるのも無理があって。それで、エリアの責任者に相談して、結局、そのゲームを取っ払ったんです。私はそれ以外の方法で対処したかったんですが、そちらは聞いてもらえなかった。人気ゲームを取っ払ったおかげで、売上は5割減。それでも、とっても平和なゲームセンターになったんです。それは、それは平和な日々だったんですが、ある時、その平和を乱す男が1人、関西からやってくるんです」。
「バリバリのエース」と三田氏は表現する。関西からやってきたのは、群を抜く成績を上げたたしかにエース中のエースだった。赴任して初めての店長会議で、エースが関西弁でまくしたてる。
「リアルファイトに怖気づいて、売上の核となるあの格闘ゲームを取っ払ってしもうた超ヘタレがおるらしいな」。
店長たちの顔を次々、観ていく。たまらず「オレです」と手を挙げた。ののしるような、侮蔑するような眼を向けられる。正確に言えば、敗者に向ける目だった。
事情を知る仲間たちは、三田氏をかばってくれたそうだ。「決めたのは、三田ではない」と。しかし、そんなことでエースは動じない。エースにはエースの事情がある。いうまでもなく、半分に落ち込んだ売り上げを改善させることだ。
・・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年2月27日火曜日

株式会社MUGEN 代表取締役 内山正宏氏登場。

本文より~

父親に連れられ、割烹に通う。

「ファミリーレストランに行ったことが一度もない」と内山氏は笑う。1974年生まれの内山氏が子どもの頃といえば、ファミリーレストラン全盛期。
「親父が、料理人に憧れていたんです。だから、連れて行かれるのはいつもカウンターがある割烹です。『息子に肉でも焼いてやってくれ』と親父がいうと、神戸牛のヒレがでてくるようなお店ばかりでした」。
豪勢な話だが、内山氏にすれば「一度は、ファミリーレストランへ」という思いもあったに違いない。親子3人で仲良くテーブルを囲む。そういう光景は、頭に浮かばない。
「ぼくが子どもの頃に、両親は離婚します。ぼくと母親は、それまで暮らしていた豊田市(愛知県)から離れ、母方の親戚がいる川崎市に引っ越しました。その時、何かと母の相談に乗ってくれたのが親子で通っていた、ある割烹のオーナーだったんです」。
「同年代の子どもがいたから」と内山氏。オーナーは、内山氏が川崎に引っ越してからも、何かとよくしてくれた。内山氏も甘えるようにして、長期の休みになるとのれんを潜った。
「3日とか5日とかの短期間ですが、アルバイトをさせてもらいました。お客様にお茶をお出ししたりして。帰る時には、だいたい5万円くらいいただきました。いいアルバイトでしょ(笑)」。
内山氏のなかでの父親像は、この店のオーナーによって焦点が結ばれる。オーナーといっしょの部屋で寝泊まりし、朝の仕入れにも連れて行ってもらったことがある。
「最初は、ぼくだけが特別だと思っていたんです。でも、アルバイトをしていてわかったことなんですが、オーナーは、ぼく以外の子どもも預かっていましたし、だれにも、やさしく接していました」。
だから、いつも店には客が溢れた。
「料理が巧いだけじゃなんだな。料理人って、最後は人間力なんだなって。そう思うと、飲食の世界がとても素敵に思えてきたんです」。
高校を卒業するまで、何かにつけ内山氏は、このオーナーに相談している。

専門学校に進むか、オーナーの下に進むか。

高校までテニスをつづけていた内山氏は、大会でも優秀な成績を残してきた。母親一人である。経済的にも、大学進学は簡単な選択ではない。
「最初は推薦で大学へ、と思っていたんです。実際、それくらいの成績は残していましたから、お声もかかるだろうと高をくくっていました。だけど…」。
結局、天の声は降りてこなかった。大学進学をあきらめた内山氏は、はじめて飲食の道に進むことを決意し、母親に頭を下げ「専門学校に行かせて欲しい」と言葉をつむいだ。
「オーナーにも当然、相談しました。すると『専門学校に進むぐらいだったら、うちにすぐ来い』って。でも、まだ若いでしょ。オーナーの下に行くと青春がなくなっちゃうと思って、誘いは全力でお断りしました(笑)」。
専門学校では、たしかに青春を謳歌した。授業の成績は、そこそこ。ホテルを受検すると言った時には「受かる訳がない」と断言されている。
「それでも怖いもの知らずで、ロイヤルパークホテルを受検します。ところが、合格しちゃうんですね。当時はバブル全盛で、まだ開業して1年も経っていなかったから人手不足だったんでしょう。ラッキーといえばラッキーな話です」。
たしかにラッキーな話だった。待遇にも恵まれていた。
「仕事は朝7時半から終電まででしたが、休みも当時から月8日あった。給料も総額で20万円くらい」。
たしかに、恵まれている。料亭や割烹であれば、極貧生活が待っていたはずである。「しかも、すぐに魚にも触らせてもらいましたし、いいことずくめです。ところが、ホテルのなかで尊敬していた先輩が出身の割烹に戻るというので、迂闊にも『連れて行ってください』って言っちゃうんです。これが地獄の始まりです(笑)」。

料亭へ。地獄の始まり。

「ぼくが21歳の時です。浅草橋にある江戸時代からつづく有名な料亭でした。料理人はぼくをいれて6人。料理長と、そのぼくが尊敬していた先輩、それとあとは、ほぼ同年代。もちろん、ぼくがいちばん下っ端です」。
調子にのって決めてしまったことを何度、後悔したか。
「半年に一度のペースで辞めたくなるんです」。
仕事は朝から深夜まで。寮があったとはいえ、給料は10万円。仕事といっても雑用ばかり。
「料理長のシャツやネクタイ、靴下のアイロンがけ、靴磨き、あと国宝級のお皿があったんで、それを桐の箱にしまうのも、ぼくの仕事。何をしに来たのか、わかりません」。
寝泊まりするのは、店の近くにある寮の6畳一間。「2段ベッドが2つデンとあって。そう4人部屋です(笑)」。給料10万円。独り暮らしができるわけもない。おまけに、先輩に誘われ、仕方なくキャバクラ通い。借金も相当な額になった。
「ある意味、地獄でしたが、親父がいないぼくがどこで人間形成したかというとやはり間違いなく、あの料亭だったと思います。その意味をどこかでわかっていたから、辞めたいと何度も思いながら、逃げ出さず5年もつづいたんだと思います」。
最終的には、刺身を切る板場に立つようになり、3番手となった。「料亭っていうのは、これが一つの区切りなんです。3番手の仕事ができるようになるといったん店を離れ、外で修業をするというのがだいたいの流れなんです。ところが、ぼくはそうなってもまだ店を辞めようと思っていました。辞めるというのは、縁を切るという意味です」。
・・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年2月23日金曜日

Facebookを更新してましたが・・・。

今まで仕事のことをFacebookを更新してましたが、キイストンが何をやってるかも伝わってきたのと、他社がやってない試みを多く仕掛けてるため、これからの2年はあまり表に出さないで行こうと決めました。

飲食業界対象の求人関連企業も続々と誕生してるので、キイストンしかできないこと、独自の戦略と世の中の流れを読み、アッと驚くことをやっていく予定です。

そもそも飲食業界に行こうと思う方が少ないのと、新卒で入社、もしくは飲食業界に携わり3年未満の方は10人いれば7〜8人は他業界に流れています。
その逆の他業界から飲食業界へは10人で1人もいないのではないかと思います。

普通じゃなかなか人材集まらないですからね・・・・。
常にチャレンジの精神で26年目も進みます。
96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2018年2月21日水曜日

株式会社ミールワークス 代表取締役社長 小島由夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミールワークス 代表取締役社長 小島由夫氏登場。
本文より~

受験は一度だけのエリートコース。

「私のちからで、オリンピックにでるか、でないか」。
祖父がいつものように二者択一の問題をだす。
「あれは、私が大学生で、フェンシングの大会で準優勝したりとそれなりの結果を残していた時です。祖父は、もと東京大学の教授で、明治大学の学長も務めた人です。オリンピックの委員にもなっていたものですから、人選にも影響力を持っていたんでしょう。『でたいなら、だしてやる。もっとも、予備選手だから試合にはでられないがな』という話でした」。
答えはいうまでもなく「でない」。つまり、「ノー」だ。「でも、正直悩んでしまいましたね。参加することができるんなら、そりゃね。最高の思い出にもなるでしょ。もちろん、私が、ひとつの枠を取っちゃうわけですから、そりゃできません。『でない』といったら、祖父はにっこり笑ってね。『それが正解』っていうんです。」
小島氏が生まれたのは、1952年。父親は、音楽家。その父親の教育方針なのだろう。小島氏は0歳からピアノを習わされた。「ピアノに、バイオリンでしょ。みんなで野球をやっていても、私1人うちに帰って、ピアノやバイオリンのレッスンです。イヤですよ。そりゃね」。
小学校入学時に受験し、「成蹊学園」に進む。「大学まで一直線ですよ。だから、勉強もしなかった」。
音楽は中学で辞める。「才能がなかったから」と小島氏。「好きなわけでもなかったからね。親父も、こいつには無理だと思ったんでしょう。認めてくれました」。
音楽を辞め、柔道を開始。高校時代には、フェンシング部をつくり、大学でもフェンシング、一本。冒頭に書いたのは、その時の祖父と小島氏の話である。年代からいえば、「ミュンヘンオリンピック」だろうか。

JALに追加されたもう一つの採用枠。

「JALってあるでしょ。祖父に『JALがいい』というと、叔父がJALの専務だったもんですから、採用枠をひとつ追加して、成績ではけっして入社できない私を拾ってくれようとしたんです。でも、この時ね。専務の叔父が『採用する』って言ってんだから、もう決定だと勘違いして、試験も受けずにスキーとかにいっちゃって。そりゃ、試験も受けないんだから、採用もできないわけで。そりゃぁ、もう大目玉です。それでも、『ジャルパック』って子会社を勧めてくれて、入社できる手はずを整えてくれていたんです。面接は、いきなり社長です。ただ、面接で仕事内容を知って、『そんな仕事はやりたくないです』って、叔父の顔にまたまた泥を塗るわけです」。
「社会常識がぜんぜんなかった」と、小島氏。つぎに紹介してもらった「博報堂」でも、いきなり最終面接だったが、「代理店はそんなもんだろう」と、私服で臨んでしまい、あっけなく不合格。
今度は祖父でなく、父親の紹介で、マルハ(現マルハニチロ)株式会社の親会社である大東通商株式会社に向かう。「当時は丸ビルの6階にオフィスがありました。実は、父方の祖父は一時、マルハ専属の医師をやっていて、この時、私がたずねたのと同じフロアで仕事をしていたそうなんです」。
縁というものがある。
「マルハっていうのは、有名な企業ですし、プロ野球球団ももっていたんで、知ってはいたんですが、むろん、常識がないですからね、知っていたのはそれくらい。向こうのほうが、私のことを知っていまして。『面白い奴だな。キミは』って。何もいう前からです(笑)」。
「面白い奴」といったのが、中部氏だったかどうかは記憶の外だが、その面接官のなかに、生涯の恩師ともなる中部氏もいたのはたしか。中部氏は、マルハの創業者一族。ここで言う中部氏は、のちにマルハの会長になり、横浜ベイスターズのオーナーにもなる中部慶次郎氏のことである。
恩師になるわけだから、試験は合格。無事、大東通商に就職することができた。

くっつけ役になる。


「中部さんから『何ができるんだ』と聞かれた時に、『たぶん、第一線の営業にはなれません。ただ、みんなをつなぐことはできる。そんなことをしたいと思います』と答えたんですね。そういう奴が1人くらいいてもいいんじゃないかって思われたんでしょう。ただ、野放しにはできないから、いきなり中部さん、直轄です」。
公私ともに中部氏に、付き添い、寄り添う人生が始まる。
余談だが、入社後の研修は、首相官邸で行われたそうだ。
「講師は中曽根さん、海部さん、最後に三木首相からお話をいただきます。贅沢な研修ですよね」。この研修には、様々な企業から精鋭が参加して、マルハから参加したのは2人だけで、小島氏はその1人。精鋭たちのなかで小島氏だけ、「浮いていた」と笑う。「くっつけ役」をめざす人は、そう多くない。
ところで、大東通商に入社し、中部氏の側近となった小島氏。ただ、それだけでは、小島氏と飲食のつながりがイメージしにくい。
「社内で『外食も研究しないといけない』ってことになって、私をヨーロッパに送り出してくれたんです。そう、イタリア、フランス、ドイツ…。経費で、食べて、飲んで。で、一つだけわかったのは、企業型の飲食と、個人型の飲食というのが2つあるってことですね。効率優先と、真心とクオリティの勝負です。ロケーションだって、企業型はお金があるからね。そういうのをリサーチして、1年弱で帰国します」。
外食と、マルハをくっつける。「くっつけ役」には、ある意味、最適な仕事だ。「そして、私が30代前半の時ですね。3億円かけて、表参道に『マンボウズ』をオープンします」。
小島氏は「好き勝手に店をつくった」と言っている。そりゃぁ、そうだろう。3億円もあればたいてい好きなようにできる。地下1階のワンフロア。22メートルの大水槽を設置した。
「シーフードレストランです。芸能人もけっこういらっしゃいました。連日、大盛況です。しかし、イニシャルコストが高すぎて、なかなか利益はでなかった。誤算といえば、誤算ですが、宣伝効果を加味すれば、充分、元は取れたと思っています。ただ、社内での評判がイマイチだったのはたしかですね」。
・・・続き
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2018年2月14日水曜日

とんきゅう様がとんかつとんQ つくば本店に『つくば とんかつ様』を開設!!

つくばに本社のあるとんきゅう様がなんと受験生応援フェア(1月22日~3月31日)としてとんかつとんQ つくば本店(茨城県つくば市東新井13-12)に神社でご祈祷された必勝・合格祈願の守り神「つくば とんかつ様」を設置されました。

うちの永野君、拝んでました(笑)
そのおかげか、営業実績が絶好調に売れに売れています。
永野が売れてるのはこのおかげか・・・(笑)
店頭の絵馬も増えすぎて第一陣は裏側に・・・


96x96

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン