2018年2月27日火曜日

株式会社MUGEN 代表取締役 内山正宏氏登場。

本文より~

父親に連れられ、割烹に通う。

「ファミリーレストランに行ったことが一度もない」と内山氏は笑う。1974年生まれの内山氏が子どもの頃といえば、ファミリーレストラン全盛期。
「親父が、料理人に憧れていたんです。だから、連れて行かれるのはいつもカウンターがある割烹です。『息子に肉でも焼いてやってくれ』と親父がいうと、神戸牛のヒレがでてくるようなお店ばかりでした」。
豪勢な話だが、内山氏にすれば「一度は、ファミリーレストランへ」という思いもあったに違いない。親子3人で仲良くテーブルを囲む。そういう光景は、頭に浮かばない。
「ぼくが子どもの頃に、両親は離婚します。ぼくと母親は、それまで暮らしていた豊田市(愛知県)から離れ、母方の親戚がいる川崎市に引っ越しました。その時、何かと母の相談に乗ってくれたのが親子で通っていた、ある割烹のオーナーだったんです」。
「同年代の子どもがいたから」と内山氏。オーナーは、内山氏が川崎に引っ越してからも、何かとよくしてくれた。内山氏も甘えるようにして、長期の休みになるとのれんを潜った。
「3日とか5日とかの短期間ですが、アルバイトをさせてもらいました。お客様にお茶をお出ししたりして。帰る時には、だいたい5万円くらいいただきました。いいアルバイトでしょ(笑)」。
内山氏のなかでの父親像は、この店のオーナーによって焦点が結ばれる。オーナーといっしょの部屋で寝泊まりし、朝の仕入れにも連れて行ってもらったことがある。
「最初は、ぼくだけが特別だと思っていたんです。でも、アルバイトをしていてわかったことなんですが、オーナーは、ぼく以外の子どもも預かっていましたし、だれにも、やさしく接していました」。
だから、いつも店には客が溢れた。
「料理が巧いだけじゃなんだな。料理人って、最後は人間力なんだなって。そう思うと、飲食の世界がとても素敵に思えてきたんです」。
高校を卒業するまで、何かにつけ内山氏は、このオーナーに相談している。

専門学校に進むか、オーナーの下に進むか。

高校までテニスをつづけていた内山氏は、大会でも優秀な成績を残してきた。母親一人である。経済的にも、大学進学は簡単な選択ではない。
「最初は推薦で大学へ、と思っていたんです。実際、それくらいの成績は残していましたから、お声もかかるだろうと高をくくっていました。だけど…」。
結局、天の声は降りてこなかった。大学進学をあきらめた内山氏は、はじめて飲食の道に進むことを決意し、母親に頭を下げ「専門学校に行かせて欲しい」と言葉をつむいだ。
「オーナーにも当然、相談しました。すると『専門学校に進むぐらいだったら、うちにすぐ来い』って。でも、まだ若いでしょ。オーナーの下に行くと青春がなくなっちゃうと思って、誘いは全力でお断りしました(笑)」。
専門学校では、たしかに青春を謳歌した。授業の成績は、そこそこ。ホテルを受検すると言った時には「受かる訳がない」と断言されている。
「それでも怖いもの知らずで、ロイヤルパークホテルを受検します。ところが、合格しちゃうんですね。当時はバブル全盛で、まだ開業して1年も経っていなかったから人手不足だったんでしょう。ラッキーといえばラッキーな話です」。
たしかにラッキーな話だった。待遇にも恵まれていた。
「仕事は朝7時半から終電まででしたが、休みも当時から月8日あった。給料も総額で20万円くらい」。
たしかに、恵まれている。料亭や割烹であれば、極貧生活が待っていたはずである。「しかも、すぐに魚にも触らせてもらいましたし、いいことずくめです。ところが、ホテルのなかで尊敬していた先輩が出身の割烹に戻るというので、迂闊にも『連れて行ってください』って言っちゃうんです。これが地獄の始まりです(笑)」。

料亭へ。地獄の始まり。

「ぼくが21歳の時です。浅草橋にある江戸時代からつづく有名な料亭でした。料理人はぼくをいれて6人。料理長と、そのぼくが尊敬していた先輩、それとあとは、ほぼ同年代。もちろん、ぼくがいちばん下っ端です」。
調子にのって決めてしまったことを何度、後悔したか。
「半年に一度のペースで辞めたくなるんです」。
仕事は朝から深夜まで。寮があったとはいえ、給料は10万円。仕事といっても雑用ばかり。
「料理長のシャツやネクタイ、靴下のアイロンがけ、靴磨き、あと国宝級のお皿があったんで、それを桐の箱にしまうのも、ぼくの仕事。何をしに来たのか、わかりません」。
寝泊まりするのは、店の近くにある寮の6畳一間。「2段ベッドが2つデンとあって。そう4人部屋です(笑)」。給料10万円。独り暮らしができるわけもない。おまけに、先輩に誘われ、仕方なくキャバクラ通い。借金も相当な額になった。
「ある意味、地獄でしたが、親父がいないぼくがどこで人間形成したかというとやはり間違いなく、あの料亭だったと思います。その意味をどこかでわかっていたから、辞めたいと何度も思いながら、逃げ出さず5年もつづいたんだと思います」。
最終的には、刺身を切る板場に立つようになり、3番手となった。「料亭っていうのは、これが一つの区切りなんです。3番手の仕事ができるようになるといったん店を離れ、外で修業をするというのがだいたいの流れなんです。ところが、ぼくはそうなってもまだ店を辞めようと思っていました。辞めるというのは、縁を切るという意味です」。
・・・・続き
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