2016年1月19日火曜日

株式会社ベビーフェイス 取締役会長兼CHO 田中 守氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ベビーフェイス 取締役会長兼CHO 田中 守氏登場。
本文より~

奈良県、生まれ。

奈良県は、大阪府という大都市に隣接し、ベッドタウンとして古くから開発されてきた。むろん、古都でもある。
今回、ご登場いただいた田中氏は、1949年奈良県に生まれている。父は関西電力の社員、母は専業主婦で一般的なサラリーマン家庭で育ったそうだ。兄弟は、2人。田中氏は長男で、のちに弟と事業をともに起業することになる。
「子どもの頃を一言で」とお願いすると、「ガキ大将」という返答。もっとも「だれかに引っ張られながらの、ガキ大将だった」らしい。
「中学になってバスケトボール部にはいりました。でも、練習もろくにせえへん生徒でした」。
「熱心なのは、今も昔も、遊びだけ」とこちらを笑わせてくれる。

「かっこええから」と大手アパレル会社に就職。

ガキ大将が就職先に選んだのは、当時、流行していたアパレルブランドの一つだった。
「アイビーとかヨーロピアンとか、いうてね。とにかく、かっこ良かった。私が、その会社を選んだのも、かっこ良かったから。ただ、それだけです(笑)」。
ブランド名を聞いて「なるほど」と思った。たしかに当時、だれもが憧れたブランドである。
「フランチャイズのショップも多かったんですね。私は、そういうショップやオーナーをみてきました。当時は、経済も右肩上がりの頃でしょ。『こりゃ、サラリーマンやっている場合ちゃうわ』と思って。そう、30歳の時に、独立するんです。商社に勤めとった弟を誘って2人で、ね」。
奈良駅前に、奇妙なフードを出す喫茶店がオープンしたのは、それからしばらくしてからである。店名は、「BABYFACE」。

「ピザいうても、奈良の人は知らへんかってん」。

「独立する時には、アパレルか、飲食かと迷ったんです。ただ、アパレルは在庫があるでしょ。仕入れも、億単位になってしまう。そんな資金もないから、飲食ってことになったんです。当時は、喫茶店も結構、儲かっていましたからね」。
「ただ、喫茶店というよりカフェのイメージで、料理もピザとか、パスタとかイタリア系で勝負しかったわけです。東京では、流行っていましたね」。
しかし、1979年の奈良のことである。
「その当時、奈良の人は『ピザ』いうても、よう知らんかったんです。奇妙な食いもんくらいに思ったはったんと違いますか。パスタも知らへん。当然、客はけぇへんから、そうやね、半年くらいは、弟とキャッチボールばっかりやってました」。
兄と弟が、キャッチボールを繰り返す。微笑ましいが、内心どうだったのだろう。
「そうですね、あの時が、いちばんきつかったんとちゃいますか。半年くらいしてから、急に繁盛し始めて、それからいままで、ピンチも一度もなかった。だから、よけいに記憶に残っています」。
以来、ピンチが一度もない。なかなか考えにくいことだが、強がりでなければ、うそやごまかしの類いでもない。当初のピンチを乗り越えた「BABYFACE」は、それから順風満帆で、今に至る。ところで、キャッチボールで暇をつぶしていた店が、どうしてヒットしたんだろう。

「月商1000万円」にとどいたとも言っている。

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株式会社レストラン京王 取締役社長 山岸真也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に「カレーショップC&C」や京王沿線中心に停会されている株式会社レストラン京王 取締役社長 山岸真也氏登場。
本文より~

レストラン京王について。

1968年の創業より、東京で暮らす、また東京を訪れた人たちに愛されてきた名店が「カレーショップC&C」である。
現在は、チェーン化され、京王線沿線に20店舗まで広がっている。この「C&C」以外にも、コーヒーショップ事業をはじめ、蕎麦店、給食コントラクト事業などを展開しているのが、株式会社レストラン京王である。
1976年設立の老舗企業でもある。
今回登場いただいた山岸氏が、株式会社レストラン京王の社長に就任したのは、2013年6月。山岸氏がちょうど50歳の時である。

ライパチ君。

山岸氏が生まれたのは、1963年8月10日。「品川生まれ、調布育ち」だそうだ。
元気な少年だったのだろう。「毎年、夏休みは、母の実家がある宮城を訪れ、1ヵ月くらいは平気で向こうで暮らしました」。兄弟は3人。山岸氏が長男で妹、弟がいる。
大好きな野球は、小学校から始めた。調布には、有名な調布リトルがある。「もっとも、私には別世界。あちらはエリート集団ですから(笑)」と山岸氏。野球は好きだったが、所属していたのは、町内の野球チームで、それも8番、ライト。お世辞にも野球が巧かったわけではなさそうだ。
しかし、山岸氏はめげることなく高校まで野球をつづけている。守備位置はライトからセカンドにかわり、打順は8番から2番に昇格したそうだ。

郊外へ、郊外へ、人と暮らしの輪が広がる。

「早稲田が第一志望だったんですが」と山岸氏は笑う。進学したのは、父親とおなじ明治大学。ところで、山岸氏が大学生だったのは、1980年の初頭である。日本経済が爆発的に伸長する時代でもある。東京郊外にもニュータウンが次々と建設され、それに伴い鉄道路線も日に日に延伸されていった。山岸氏は、そういう時代をみてきた。それがいずれ、鉄道会社に就職するきっかけとなったのかもしれないが、ここではひとまず大学時代の話である。
大学時代は、とにかくいろんなことをした。夏はプールの監視員、冬はスキー、テニスサークルにも所属していた。
「新宿の西口から出るバスに乗り込んで、スキー場に向かうんです。日曜から金曜までスキー場にいて、土曜に母に洗濯をお願いして、また日曜には、出発です(笑)」。
小学校の頃はスポーツがそれほど得意ではなかったが、高校まで野球をつづけたおかげで、バランス感覚も育ったのだろう。スキーも、水泳も、テニスもできるようになった。

当時、花形の開発部門に進みたかったが、配属されたのは、バス部門。

大学時代に、何か資格をと考え、山岸氏は、宅建主任の資格を取得している。「電鉄」「開発」という言葉が頭にあったからかもしれない。都市が開発されていく様子を、スキー場に向かう車窓から眺めたことが、そもそもの引き金だったのかもしれない。
ともかく、バイトにスキーに、テニスに明け暮れた大学時代が終わる。
「当時は、バブルに向かっていくこともあって、まず金融でした。倍率も高かった。一方、鉄道はいまほど人気ではありません。私は、87年、京王電鉄に入社するんですが、鉄道というより、不動産や開発部門で仕事したかったんです」。
ところが、配属先は、自動車事業部バス部門。希望とは違った。しかも同期20名のなかでも、バス現業部門に配属されたのは山岸氏を含めて2人である。
「今思えば、あの時があるから今の私があると言えるんですが、当時は、なかなか、そうは思えない。新卒の私には、きびしい部門でした(笑)」。

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2016年1月16日土曜日

試用期間2週間で社長取材17社はスゴいね!!

キイストンでは現在営業マンの試用期間2週間に社長取材3社達成をその基準としてます。
1月より入社したSくん、なんと社長取材17社!!
新人営業マンのギネス更新しました。
こりゃスゴいわ〜。
うちの営業マンの質がアップしてきてるので嬉しい限りです。
何がスゴいって、1位(ギネス更新)なるって言ってなるんですからたいしたもんです!!
なんでもそう、1位にこだわらないと1位は取れない。
それをやるんですから…。

2016年1月15日金曜日

キイストン、新人営業マンの登竜門でもある新規社長取材。

キイストンの新人営業マンの登竜門として【2週間で社長取材3社必達!!】とさせています。
昔は新人営業マンは飛び込みと名刺獲得目標決めてやらさせてました。
よく言われましたね、当時から営業効率考えたら飛び込みってムダじゃないですか?って・・・。

私は新人時代、1日400件回ってましたからまぐれで即決もありましたが、飛び込みだけで受注ってなかなか取れるものではありません。

だからこそ、お客様のありがたみを知るには新規アプローチが一番勉強になります。
現在は“飲食の戦士たち”の社長取材を3社取ることを試用期間中にさせています。

人材採用は、人生変える転職(就職)の仕事に携わっているので、その企業はどんな社長様か知ることは大事なことです。

おかげさまで、選びに選びぬいて採用したS君(27歳)、今日でその2週間最終日ですが、なんと11社(うち2社上場企業様)も取材入れてくれています。
ラスト1日、どこまで伸ばすか楽しみです。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2016年1月12日火曜日

株式会社ブラザーズ 代表取締役 北浦明雄氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にハンバーガー店BROZERS'を運営されている店株式会社ブラザーズ 代表取締役 北浦明雄氏登場。
本文より~

ベルギーにて。

ベルギーは、ドイツ、オランダ、フランス、ルクセンブルクの4ヵ国に接している。ドーバー海峡の向こうは、イギリスである。
今回、ご登場いただく北浦氏がベルギーに渡ったのは、3歳の頃。父親の仕事の関係だったそうだ。
「父は、パイオニアに勤めるエンジニアで、この時は海外転勤です。家族4人で海を渡りました。まだ3歳でしたので、不安はなかった。向こうで10歳になるまで暮らしていましたので、逆に日本に帰る時のほうが不安だったかもしれません」。
ベルギーでは、ドイツ料理が主食だったそうで、「ソーセージやパン、ハンバーガー」を食べていたという。ベルギーの言語は、フレミッシュ(フラマン語)というらしいが、北浦氏自身は、インターナショナルスクールにいたため、もっぱら英語でコミュニケーションを取っていたそうだ。

10歳で帰国した少年の不安と葛藤。

10歳という年齢がそうさせたのだろう。ベルギーに渡った時より、母国、日本に帰国した時のほうが、馴染むのが難しかった。
「英語中心で暮らしてきたもんですから、日本語にも慣れていないし、何より向こうでは社会や理科という科目を習わないんです。習ってないと言っても、社会と理科もやらないわけにはいきませんでした」。
帰国した北浦氏は、両親の配慮もあり、英語教育が進んでいた、浦和にある私立の小学校に編入する。
当時、異国で育った北浦氏にとって日本という国はどういうふうに映ったのだろうか。10歳といえば小学4年生。帰国子女だからといって、周りの生徒たちがそれに配慮できる年齢でもないが、クラスメイトは友好的に接してくれた。
弱くてはいけないと、ヤンチャなふりをしたこともあった。帰国子女は、そうやって少しずつ日本に慣れていった。

就カツ時代。

英語ができる、それだけで優位だと思うのだが、「就職では苦労した」という。「兄は大手企業に就職したんですが、私は惨敗でした」。
 高校に進学した北浦氏は、学校もさぼりがちだったが、とにかく大学だけはと、3年から猛勉強して「獨協大学」に進学。それから4年経って、いよいよ就職という時のことである。
「そもそも就職活動に対し、漠然と疑問を感じていたんです。これからの人生の大部分を占める仕事を決めるのに、これで、いいんだろうかって。『やりたいこと』『好きだと言えること』って、なんだろうかって」。
考えれば、考えるほど迷走する。答えはいつまでたってもみつからない。ごはんもろくに食べられなくなった、そうだ。
「『みんながやるからオレもやる』はもうやめだって思ったんです」。
その時、浮かんだ言葉は、「好きなことをやっちゃえばいい」だった。魂の言葉だったと北浦氏は言っている。

逡巡の末、オーストラリアへ、行こう、と決めた。

「目的があれば、ぜんぜん違うな、そういうのを頭だけではなく、心や体で感じることができた」というのは、オーストラリアへ行くと決めた時に始めた倉庫のバイトでのことである。
それまで何をしてもなかなか続かなかった北浦氏だが、「オーストラリアへ」という目的があったことで、いままでとは、すべてが違っていた。「目的というものの、力を知った」と北浦氏は言う。
 就職活動に迷走した北浦氏は、就職せずという道を選択し、ワーキングホリデーでオーストラリアに向かうと決意したのである。
「もっと強くならなければ、というのが当時の私の思いです。将来に対する不安があるのも自身の問題だと。だから、私自身を鍛え直すためにも、海外に行こうと思ったんです」。
英語はできるといっても、渡航経験がベルギー以外にあるわけはない。シドニーの空港に降り立った時は「足がふるえて、とまらなかった」そうだ。

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株式会社ブラザーズ 代表取締役 北浦明雄氏
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株式会社マルリュウフードサービス 代表取締役 奥橋隆二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に関西串カツ まるりゅうを経営されている株式会社マルリュウフードサービス 代表取締役 奥橋隆二氏登場。
本文より~

父親の脱サラ宣言。

「父親は航空部品の会社に勤めていました。私が生まれたのは1982年、兄と弟の男三人兄弟。小さい頃は超人見知りで、恥ずかしがり屋。人前には絶対に出られない子でした(笑)。
いまや兄弟全員、飲食の仕事をしていますが、元々は料理に興味がなく、まさか飲食の仕事をするとは思っていませんでした」。
奥橋氏だけでなく、兄弟3人ともサッカー部に所属。スポーツは得意で「体育の授業だけは燃えた」と言って笑う。
「中学校3年生のとき体育祭実行委員長をやらされ、そこで人前に出ることの楽しさを知ったような気がします。とにかくみんでワイワイやることが好きで、イベント事は燃えていました」。
小・中とサッカーに打ち込んだ奥橋氏だったが、高校では帰宅部で、学生生活を謳歌している。進学したのは男子校で、都内の中心にある高校。「アルバイト、スノボー、スケボー、サッカー、麻雀。仲間と遊びに明け暮れた生活をしていました。いまでも、『まさかお前が経営者になるとは思わなかった』と周りから言われます。(笑)」。
やればできるはずだが、勉強は好きなほうではない。だからと言って、大学進学以外の道もない。「そうですね。最初は普通に進学だと思っていました。予備校にも通っていましたから」。ところが、高校3年生で予備校に通っている時に父親が脱サラすると言い出した。
脱サラして何をするのかという問いに、父親は「やきとり屋」と答えたそうだ。

素人ばかりで、やきとり屋オープン。

「ある店のFCに加盟しました。本部が良心的だったのでそちらに決めたそうです。場所は東横線の日吉駅で、14坪程度の小さなお店。オープン時は、私や兄はもちろん、私たちの友達をアルバイトとして採用し、『わいわい、がやがや』サークル感覚でスタートしました」。
『わいわい、がやがや』。たしかに、元気は一杯だった。しかし、父親をはじめ全員素人。料理も接客もまったくやったことがないメンバーでスタート。「本部から社長が来てくださっていましたが、ほぼ全員が素人ですから、とにかくめちゃくちゃでした」。
お客様に叱られながらも、元気と笑顔で乗り切り、次第にお客様も増え、月商300~350万くらいは売っていました。
その後、奥橋氏は2年間この店で勤務した。
「ということは?」とふってみると。
「そう、大学進学はやめました。もともと大学進学にこれといった思いもありませんでしたし、行っても無駄に遊んでいたと思います」という返答。加えて「店で働いているうちに、飲食が好きになった」。この時になんとなく、将来自分のお店を持つことを考えていたのかもしれない。

スノーボードにはまる。

「私が飲食で食べていくと決意したのは、スノーボードで食べていけないと悟ったときかもしれません」。
父のやきとり屋を卒業した奥橋氏は、趣味だったスノーボードにのめり込んでいった。
20歳の冬、新潟県にあるペンションで勤務したのも、スノーボーダーとなるためだった。かなり真剣だったことが伺える。
「住み込みで働きました。周りの奴らもみんなスキー、スノーボードのために来ていましたから、話も合うし、楽しかった。今でもいい思い出です。ですが…」。
この後、奥橋氏はニュージーランドに飛ぶ。
「しかし、ニュージーランドで現実を見ました。全然かなわないし、プロ選手でも食べていけるスポーツじゃないと知りました。そこで、完全に燃え尽き、辞めました」。
スノーボードでは先がない。なら飲食しかない。ここで決意をした。

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