2024年6月11日火曜日

株式会社GORILLA COMPANY 代表取締役社長 奥村雅人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社GORILLA COMPANY 代表取締役社長 奥村雅人氏登場。

本文より~

貧しい生活から逃れたい一心だった。

「振り返ってみれば、育った環境がハングリー精神を養ったんだと思います」。
人には、成長し大人になっても体の奥底に刻まれた記憶がある。その記憶、痕跡が当人の人生を大きく変えることもあれば、人間形成に影響を与える場合が、多々、ある。その体験がポジティブであれネガティブであれ、特にネガティブ体験であればあるほど、生きていくうえでの原動力になる。奥村氏とて例外ではない。
「和歌山県で生まれ、十歳のときに東京の西国分寺に引っ越し、以後、東京暮らしです。引っ越しした理由ですか?両親が離婚したからですね」。
両親が離婚に至るのには子どもでは分からない親、大人の事情、葛藤があったのだろう。奥村氏は多くを語ろうとしないし、興味本位に訊くことでもない。
「母親は東京・府中市の出身でしたが、二人の姉とボクとは土地勘のない東京でした。母親一人に育てられましたが、とても貧しい生活でした」。おかずがなく、ご飯に麦茶をかけて食べたことがあるという。
「普通に暮らしたいっ!貧乏になりたくないっ!」。胸の奥深く澱のように溜まった厳しい体験から脱却したいという強い思いは、長じて奥村氏を飲食業での成功へと導く強固で強靭な覚悟や熱い塊となった。

進学せず就職せず。揺れた気持ちを抱え将来を決めかねていた時代。

「元々、キープ・ウィルダイニングで働いていましたし、居酒屋甲子園にも2回出場したんですよ」とお会いした時、奥村氏が最初に語った言葉。ここに辿りつくまで奥村氏が歩んで来た道を振り返ってみよう。
「小学校は転校生でした。転校生って、経験のある方なら理解できると思うんですけれど、途中から参加した異邦人なんです」。小学校では野球部に中学校では写真部に所属し、卒業後は横浜市港北区の私立武相高校へと進んだ。
「高校時代にはイタリアン・レストランなどでアルバイトをして、学費や小遣いの足しにしていました」。
「高校卒業後、ある意味、時代を意識したのかITのプログラミングを学ぶため二年制の専門学校に進んだのですが、中退しました。理由ですか?学んだ後、IT業界に就職したとして将来の展望や絵が描けなかったからですね」。
目的があって中退したわけではない。当面は何もすることがなく、当人の言葉によれば「プラプラしていた」とのこと。一時、オフィス機器を販売する会社に営業職として採用になり勤めたが、一年ほどで退社。
「とは言ってもいつまでも無職ってわけにもいかず、ゼンショー・ホールディングスが運営する『すき家』やカレーの『南南亭』に3年間ほど勤務しました」。ただ残念なことに長続きはしなかった。
「まだ将来を決めかねていましたね。辞めた後には、パチンコをしたりアルバイトをしていました。二十六歳の頃ですね」。世の中、奥村氏の時計で進んでいるわけではない。
「そんな生活をしていて二年ほど経った二十八歳の頃でしょうか、周りの友人たちが職場でそれなりに地位に昇進していくのを目にして、焦りだしました」。
「きちんと働こう!」。将来を決めかね迷っていた奥村氏に決断を促すときが訪れる。

飲食業の世界へ。掛け替えのない“友”に出会う。

「29歳のときに、元々は居酒屋さんが経営していた相模大野の『やきとり倶楽部』に採用され、働くことになりました」。
2年間働いたのだが、この店で奥村氏の将来を決定することになる人物、現在、株式会社キープ・ウィルダイニングの代表取締役社長を務める保志真人氏に出会う。
「彼と知り合い意気投合しましたし、この出会いが大きな転機になったことは間違いないでしょうね。ある意味、惹かれたんですね」と保志氏との出会いを回顧する。
「彼は目標に向かってのコミュニケーション力が大きく、独立を目指して物事を進める、積み重ねる計画的な人、って印象でしたね。ただ、ちょっと不器用に感じた側面もありましたけど……」。
とは言え、保志氏の考えに共感を覚えたと振り返る。
「数年後、保志さんが開いた店に行ったんですが、驚きました。凄く熱い店だったんです」。
ここで話は脇道に逸れるが、奥村氏の歩みを語るうえで極めて重要な人物で何度も名前が出てくる保志氏。彼の歩みを極めて簡単に整理しておく。
保志氏が飲食業の魅力に気が付き、経験を重ね独立を決意。地元の神奈川県相模原市東林間に第1号店『炎家』を開業したのが2004年のこと。同2004年に有限会社キープ・ウィルダイニングを設立。
奥村氏が共感した保志氏の思想とは、“地元を大事に、豊かにする”ということ。同社は現在、保志氏の思想を元に“レストラン・プロジェクト”や“地場プロデュース・プロジェクト”など、五つのプロジェクトに取り組んでいる。
奥村氏が保志氏から誘いを受け、株式会社キープ・ウィルダイニングとの関りを持ったのは2005年のことだ。
「2005年3月、保志さんが2号店をオープンした期に誘われたんです。30歳のときでした。もちろん、入社を決意しました」。
実際に働いてみて、どうだったのか。
「ひと言で言えば“お金を使わずに知恵を絞って物事に取り組む”ということで、労働環境としてはきつかったですね。労働時間も長くて自宅でゆっくりする時間なんてなかったですね」。
保志氏の理念に共感し勤めてきたが、入社して3~4頃から保志氏との間ですれ違いが生じ出した。
「根本的な問題はコミュニケーション不足ですね」。こうした場合の解決法は、昔からよく言われていた手法~酒を酌み交わす~が有効のようだ。
「創業メンバーがやきとり倶楽部で盃を交わしながら、忌憚なく思いをぶつけ合い話し合いました。その結果、『新店舗「獅子丸」を奥村に任せる』となりました」。
そして、コロナ禍もきっかけとなり、独立が具体的になる。
「メンバーそれぞれが、保志さんが提唱した“地元を大事に、豊かにする”という理念を大事にしつつ、別の道を進むことにしたんです。そのため私は独立するなら地元でと考えていました」。
そして2021年2月、株式会社GORILLA COMPANYとして独立。株式会社キープ・ウィルダイニングからの分社という形だった。

・・・続き
株式会社GORILLA COMPANY 代表取締役社長 奥村雅人氏

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株式会社フーズネット 代表取締役執行役員社長 加藤 誠氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社フーズネット 代表取締役執行役員社長 加藤 誠氏登場。

本文より~

岐阜の田舎もん、調理師になる。

恵那市は、美濃三河高原に位置する山がちなエリアにある。今回、ご登場いただいた加藤さんによれば「特殊な土がでることで有名だった」そうである。「瀬戸層群下部層の古土壌」のことだろうか? 加藤さんが、この恵那市の小さな田舎町で生まれたのは、1963年のこと。
小学校ではソフトボール、中学からはバスケットボールをはじめ、高校1年でバスケットボールをリタイアしている。数学、英語、そろばんと塾にも通った。
「田舎町ってこともあったんでしょうが、両親からは、中学の頃から『警察官になれ』って言われていました。『公務員がいい』時代だったんでしょうね。ただ、私自身は、大学に行く気もなかったので、高校を卒業したあとは、大阪にある調理師専門学校に進みます」。
海外の料理を勉強したくて、いくつかの候補の中から中国を選び、実際に訪れている。
「行ったと言っても、3泊4日くらいですね。それでも60万円くらいかかったんじゃないかな」。話をうかがっていると、豪快さと慎重さが、いい塩梅でミックスされるように。言葉がつむがれていく。
「進むべき将来の料理ジャンルで迷うんですが、知り合いから絶対、和食がいいと言われて」。
これが一つのターニングポイント。
「ホテルからスタートして、色々な店舗を回ります。転職ってことではなくって」。
「田舎もんだから、そんなもんだと思い込んでいた」と加藤さんは笑う。
「師匠の命令に従って、あっちに、こっちに、行く、イメージです。今でいうと派遣になるんでしょうが、師弟の関係で成立しているシステムだったので、ノーはないし、給料も安かったです(笑)」。
給料は、月7万円。それでも、とにかく、社会人の幕が上がる。

アトム入社。「にぎり長次郎」で、V字回復をリードするも経営者が次々とかわる。

加藤さんは25歳で、一度、独立している。「独立といっても、共同経営です。ただ、バブル経済が崩壊した煽りも受けて2年でクローズ。それで、今までとはちがって、サラリーマンをしようと27歳の時に株式会社アトムに就職します」。
加藤さんが27歳というと1990年のこと。ちなみに、あとで整理してお話しするが、アトムは、フーズネットの前身である。
「私自身は、和食部門のアッパーなブランドからスタートします。当時、すでに回転寿司だけでも50店はありました」。
アトムがいちばん勢いがあった頃だという。たしかに、アトムは、このあと上場に向け、快走する。
「今、いったようにアッパーなブランドのつもりだったんですが、『寿司をにぎってみないか』と言っていただいて。今まで、にぎったことがなかったから、新鮮で。これが私の、もう一つのターニングポイントで、今につづくスタートラインです」。
給料はもちろん安定する。ただし、新店が次々オープンするなど、仕事に追われたのは確か。
ここでいったん加藤さんの話をわきに置いて、フーズネットの話を挿入する。
フーズネットは、1974年、京都市に誕生した株式会社河長が、その始まり。店名は「河長」。1975年に回転寿司の1号店を左京区にオープン。1981年に株式会社アトムに商号変更。1989年に、宅配寿司「都人」を右京区にオープンしている。その翌年、加藤さんが入社。
1995年、株式会社アトムを、株式会社フーズネットに商号変更。そして、2001年、現在の主力ブランド「にぎり長次郎」を寝屋川市にオープンしている。
オリックスグループが資本参加したのは、2003年。すでに加藤さんは、コアメンバーとなっていた。
「エリア課長を経験したのち、新ブランドの設計や、メニューの開発などにタッチし、2001年、『にぎり長次郎』をリリースします。オリックスさんが資本参加されたのはこのあとで、絶好調だった『にぎり長次郎』に注目いただいいたようです」。
民事再生を申請したフーズネットの再生に乗り出したのが、オリックスという構図。ちなみに、「にぎり長次郎」は、その時、寝屋川や京都の西京極などに4店舗。
「500万円程度だった月商が、『にぎり長次郎』にすることで、次々、V字回復し、時には2000万円になりましたから、開発した私たちもびっくりです。オリックスさんは、このブランドで勝負したいと言われていました」。
「にぎり長次郎」は、奈良、滋賀、和歌山、兵庫にも広がっていく。現場で、指揮をとっていたのは、いうまでもなく加藤さんである。

・・・続き
株式会社フーズネット 代表取締役執行役員社長 加藤 誠氏

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2024年6月10日月曜日

キイストンだからできることを追及しています。

50年以上会社経営するのは並大抵ではありません。

しかも入れ替わり立ち替わりの多い飲食業界はさらに大変です。

そんな飲食業界でキイストンは「飲食の戦士たち」を通じ1,000社以上取材をし、関係構築させてきましたので、

50年以上経営されてきた創業者を囲んで、これから店舗拡大される若手飲食経営者のと勉強会実施してます。

第1回は4月にハイデイ日高・神田会長と膝を突き合わせた囲む会を実施。

そして第2回は先日、焼肉屋さかいの創業者(現在さかい珈琲展開のJ-ART)・坂井会長を囲んでの勉強会やりました。

今後そのような囲む会続けるかは、まだですが、少しでも飲食業界なお役に立てば…。

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2024年6月8日土曜日

「飲食の戦士たち」をさらに認知してもらうために。

「飲食の戦士たち」
社長になるまでの生き様を伝える内容のサイトで、業界特化で1,000連載の社長の記事ってあまり耳にしません。
これだけでも私たちは大きな自信と信用になってます。

でも、もっと他社にはないのは、その社長の生き様を、なんと再現ドラマ化し短編で観てもらうという手法を取りました。
当初は、「動画=若いZ世代」と思ってましたが、それよりも1,000社の社長取材した経験値から20代後半から30代半ばで独立された社長が多く、独立から5年くらいが、人生の試練があり、そこが成功していくかの分岐点です。
そんな時に何かヒントや元気付けるものがこの「飲食の戦士たち」かなって思ってます。
もちろん若い方や業界に関係のない方でも気軽に観れるため再現ドラマ版は必見です!
是非広げてやってください。
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2024年6月4日火曜日

株式会社カシュ・カシュ 代表取締役 石神秀幸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社カシュ・カシュ 代表取締役 石神秀幸氏登場。

本文より~

始まりは、美味しんぼ。

ランクが0番~5番まである。4番になると「激辛」となり「思わず口から火をふく」レベルだそう。5番になると「激辛」が「極辛」にかわる。「一度はチャレンジを!」と、こちらの興味を煽ってくる。
この辛さと旨みとはなやかな香りが人気の「七宝麻辣湯」の生みの親である、株式会社カシュ・カシュの石神さんにご登場いただいた。石神さんは「神の舌」をもつともいわれている。その始まりは、食べ歩きらしい。
そこから、話がスタートする。
「私の食べ歩き人生は、中学2年の14歳から。だから、年季がちがいます(笑)」。
<食べることが好きだったんですか?>
「そうでもなかった。どちらかというと偏食だった気がします。中学1年の時は、食べることより、がむしゃらに勉強をしていましたしね。食べ歩きのきっかけは、雁屋哲さん原作の『美味しんぼ』です」。
<「美味しんぼ」というと、ビッグコミックスピリッツに連載されていましたね>
「そうです。主人公は料理人ではなく、東西新聞の文化部の記者。ただ、料理に対するうんちくがすごい。その主人公が『究極のメニュー』をつくるために、色々な料理を食べ歩くんですね。それを真似て」。
<ということは、今、石神さんがあるのは、『美味しんぼ』のおかげですね>
「食に関心をもったのは、まちがいなく『美味しんぼ』のおかげですね(笑)」。
のちの話になるが、石神さんもフードライターとして活動をはじめ、ワイン本、レシピ本など30冊以上の著書を上梓している。
ある意味、主人公、「山岡」をトレースされている。

TVチャンピオン、麻辣湯にであう。

14歳から食べ歩き、23歳の時に、テレビ東京系「TVチャンピオン、ラーメン王選手権」に出場し、優勝。2年連続、チャンピオンになり、「神の舌」とも評価された。
当時の彼女に「出場してみたら」と言われたそう。「まだ、23歳で、ほかの人と比べると若かったですし、2年連続っていうのも印象に残ったんでしょう。様々なところから声をかけていただきます」。
<彼女の一言のおかげで、人生が動き出したんですね>
そういうと、石神は小さく、頷く。
さて、連覇を果たした「神の舌」をうならせたのが、冒頭の「七宝麻辣湯」をうみだすきっかけとなった「麻辣湯」。シンガポールで出会ったそう。
「食べておいしく、たのしく、身体にいい」と石神さん。かつてのチャンピオンがいま全力を注ぐ、料理の一つだ。
「衝撃を受けたのは事実ですが、シンガポールの麻辣湯自体は、贔屓目にいっても料理というレベルではなかったですね。それをアレンジしたというと、日本人向けにカスタマイズしたと思われてしまうんですが、そうではなく、料理といえるレベルに仕上げたのが、うちの七宝麻辣湯です」。
<中国でも食べ歩いたとうかがっています>
「はい、シンガポールで麻辣湯と出会ってから、今度は中国に渡り、中国でも200軒以上で「麻辣湯」を食べています。うち3軒では、実際にはたらき、研究させていただきました」。
<その積み重ねが、料理のアップデートとなったわけですね?>
「その通りです。だから、今いったように日本人の舌にあうようにアレンジしてはいません。むしろ、純度を高めたといったほうがいいと思います」。
一杯食べれば、くせになる。ただし、日本人は、まだその世界を十分に知っているわけではない。

2007年、「七宝麻辣湯」オープン。

<創業は2007年ですね>
「2003年に麻辣湯にであって、試行錯誤を重ねて、そうですね。2007年、渋谷にはじめてのショップをオープンします。ロケーション的には悪くなかったですね」。
<最初からブレイクしましたか?>
「それが、イメージとはちがっていて(笑)。2号店をオープンしていますから採算は取れていたんでしょうが、5年間は鳴かず飛ばずという表現がぴったりかなと思いますね」。
<ブレイクの原因を教えてください>
「TVにでたとか、雑誌に取り上げてもらったから。ブレイクする時は、そういうきっかけがあると思うんですが、うちは、そうじゃありません。じつは、当初から多店舗展開を念頭にしていましたので、スープを外注化して、濃縮して利用していたんです」。
<濃縮だと味は安定しますね>
「そうです。味が落ちるのも事実ですが、正直、ふつうの人にはわからない。料理人にだってわかるかどうかの微妙な差です。だから、これでいいと思っていたんです。ただ、ある時、ためしに店で骨から炊くと」。
<どうなりました?>
「わからないはずなのに、反響がスグにすごいことになっていきます。うそだろ? 今まではなんだったんだ? って思うほどです(笑)」。
小さなちがい。実は、このちがいが、すべてだった。
「それからです。私が何をすべきかを悟ったのは」。
「神」レベルではないにしても、人の舌は、やはりあなどれない。その舌に挑み、その舌を喜ばす、それが、石神さんのミッションになる。
ちなみに、「七宝麻辣湯」では鶏や豚を丹念に煮込み、30種類以上の薬膳スパイスを組み合わせてスープをつくる。むろん、スープは、骨から炊いている。トッピングは50種類以上。辛さは5段階だが、じつは、無制限。様々なデトックス効果が期待できるほか、女性が大好きなコラーゲンや、脂肪を燃焼させるカプサイシンも豊富。ダイエットにも最適なヘルシーなフードである。

・・・続き

株式会社カシュ・カシュ 代表取締役 石神秀幸氏

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株式会社大高商事 代表取締役 高階宏一朗氏登場。

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本文より~

“ちゃんぽん”から“新・ちゃんぽん”へ。

「ちゃんぽん」というのは、「さまざまな物を混ぜること、または混ぜた物」を意味する言葉で、長崎県長崎市を発祥の地とする「ちゃんぽん」は、「ちゃんぽんと言えば長崎、長崎と言えばちゃんぽん」というくらい全国的に広く知れ渡っている。
今回は「長崎ちゃんぽん」とは違う「じげもんちゃんぽん」を、直営店とライセンス契約店合わせて35店舗を展開する株式会社大高商事の代表取締役・高階氏に飲食業に辿りつくまでの来し方、高階氏が「新ちゃんぽん」と呼ぶ「じげもんちゃんぽん」に寄せる想い、明日の夢を伺った。
ご当地グルメと郷土料理。その違いは?
そもそも「ちゃんぽん」は、「ご当地グルメ」なのか、「郷土料理」なのか。「ご当地」「郷土」と命名されていることから「地域」を基盤としていることに違いはない。では、違いはどこにあるのだろうか。
「ご当地グルメ」とは、地域振興の一環として伝統にこだわらず開発・発祥・定着した料理の総称。いっぽう「郷土料理」とは、その地方の素材や伝統を重視し、味や作り方に力点をおいた地域的な料理の総称。
この僅かな違いを理解すると、“じげもんちゃんぽん”の特徴・個性が見えてくるし、高階氏のこだわりも理解できる。

九州男児。山、海(湾)、平地と豊かな自然に囲まれた長崎県大村市に生まれる。

高階氏は、九州男児だ。「生まれたのは長崎県大村市です」。
誕生日は1975年4月2日とのこと。お気づきの方がいらっしゃると思うが、誕生が1日早かったら、つまり4月1日であったなら、現在の学年区分制度では1学年上になっていた。そんな微妙な日である。
〈大村市の魅力をひと言で言うと?〉
「大村市は平地、山、湾が揃った自然豊かな土地です」と故郷を振り返る高階氏。もう少し、大村市の概要を掘り下げてみよう。
大村市は、中央に位置する諫早市に隣接し、諫早市とともに県央と呼ばれる市で、東は多良岳県立公園、西は大村湾を望む自然豊かな市である。また長崎空港に近いこと、長崎市や佐世保市に近いこともあり、ベッドタウンとも呼ばれている。
因みに、多くの地方都市が人口減少に歯止めが効かないなか、大村市は1970年代から50年以上にわたって人口が増加し新興住宅や大型マンションの開発も行われている。

「放任」ではなかったが、放ったらかしに育てられた。

 「一人っ子です」と語る高階氏は、どんな環境で育ったのだろう。
〈ご両親は長崎出身なんですか?〉
「母は長女で長崎出身、父は次男で秋田出身。東京で知り合って長崎に来たそうです。父は地元のアパレル企業に勤めていたサラリーマン、母はクラシック・ギターの先生というんでしょうか、人に教えていました。習っていた方、生徒さんは比較的高学歴の方が多かったようです」。
〈小学校から高校までは、地元で?〉
「小学校は4クラス、中学校は10クラスでした。中学2年生まで野球部、高校時代は応援団長をやってましたし、3歳から極真空手に通い黒帯までにはなりました」。
なかなか硬派な子どもだったようだ。
〈勉強は好きだった?嫌いだった?〉
「中学を卒業して希望していた、狙っていた高校に入学できたのですが、一時期、反抗期がありましたね。高校生の頃って、そういう年齢ですよね」。
「自分に限らず、誰しも得手不得手、好きな科目と嫌いな科目とがあると思いますが、どちらかといえば、やりたい勉強だけをしていましたね」。
ここまでは、いわば順風満帆。だが……、世間の風にぶち当たる。

18年で訪れた挫折が転機。

〈大学受験で失敗されたとか……?〉
「行きたい大学に受かると思い受験したんですが、残念ながら不合格でした。政経学部を受けた理由としては、大叔父が市議会の議長を務めていた関係で政治が身近にあったことが影響していたかも知れません。まぁ、理由はともあれ受かると思っていたんですよ。甘かったなぁ。再度の受験を目指すため上京、新聞配達をしながら浪人生活を送ることになりました」。
〈いわゆる一浪ってやつですね?二度目の受験結果は?〉
「また失敗でした。現役で落ちて浪人でも落ちて……。19歳にして味わった初めての挫折ですね。ただ、振り返ってみればこの失敗が転機になったように思います。もし、現役であれ一浪後であれ受かっていたら、また別の人生だったでしょうね」。
「受験に二度失敗したことに関係するのか、どこかに学歴コンプレックスがあるのかも」。
〈受験失敗後、取り敢えず、どんな行動をとりました?〉
「新聞配達はやめました。上野にあったキャバクラを運営する準大手の会社に就職しました。ただ、キャバクラに就職したことは、両親には内緒にしていました。なんとなく言い難かったのかも知れませんね」。

夜の仕事が性に合っていそう?

誰にでも人生には転機がある。高階氏にとっての転機、つまりまだ見ぬ未来への入口になったのが、キャバクラ勤めではなかったか。と同時に「なにものでもなかった一人の青年」が「なにかになる道」を手探りながら歩き始めた。
よく“現在の職業が天職”という言葉を言う人がいる。厳密に言うならば“天職”というのは存在しない。強いて言うなら“性に合っている仕事”“他の仕事に就いていることが想像できない仕事”ということか。とは言え、高階氏が飲食業に進むきっかけ、第一歩はこの選択だったようだ。
〈キャバクラ時代の思い出は?〉
「特に思い出というほどのことはなかったと思います。ただ、働きました。1日、16~17時間働きました。収入も同世代と比べれば多かったと思います。半年から一年で50万円くらい貰っていましたから。夜の仕事が性に合っていると感じました。ただね……」。
〈なにか変化でも?〉
「アメリカに行こうと思ったんです」。

役者を目指した時期、不動産会社でがむしゃらに働いた時期。

「産経インターナショナルスクールの短期留学制度を活用して渡米しました。短期留学先のサンフランシスコで舞台を観て感動、役者になりたいと思いました」。
帰国後、役者のオーディションを受けたのが21歳~22歳の頃。学芸大学にあった劇団に所属。TVドラマやCMに出演。
「面白かったですね。4~5年間くらい、年齢的に26歳の頃まででしたが」。
〈劇団員や役者の生活は厳しいと耳にしたことがありますが、いかがでした?〉
「休みが少なくて完全オフの日って、年間で一週間くらいしかなかったですね。食べることにも苦労しました。飲食店でアルバイトしていましたもの。プロとして稼ぐのではなく、好きだからやっているだけのような気がして、あっさり止めました。諦めが早いんです」。
決断は早いに越したことはない。優柔不断なままの継続は、未来を閉ざしてしまうかも知れないから……。
〈劇団をやめてから?〉
「不動産会社に勤めました。27歳~34歳まで7年間、勤めていました」。
当時は、いわゆる「働き方改革」などの縛りがない時代。月1~2回程度しか休めなかったが、とにかく働いたが、給与は良かったそうだ。そこに重大な転機が……。

34歳のときシャッター街にみた故郷の衰退と寂しさ。

「東京では一応、成功したと思っていましたが、34歳のとき、Uターンしたんですよ」。
〈何年振りかに帰った故郷は?〉
「活気が薄れたような静か、というより寂しさが漂う町並み、シャッター街と化した商店街。記憶に残っている街が一変したような衰退した雰囲気が印象的でした」。
朧気ながら将来の方向性が芽生えた。「芽」は飲食業として大きく育ち「じげもんちゃんぽん」を経営、運営するようになるのだが、そこに行き着く前に高階氏と飲食業の関わりを振り返ってみよう。
現役と浪人、二度の大学受験に失敗したのち飛び込んだのがキャバクラ。アメリカから帰国後、劇団に所属していた頃に経験した飲食店でのアルバイト。
不動産会社では電話営業や飛び込み営業から始まって、営業マンとしてトップを取り、その後上司のヘッドハンティングで共に会社を移り、最終的には1部上場企業で営業課長をつとめる。

コンセプトは「新・ちゃんぽん」。

「34歳で脱サラを決意し、飲食の世界に身を置く方ならご存知だと思いますが、塚田牧場や四十八漁場などを運営するAPカンパニーのブランドの一つ、“じとっこ(地頭鶏)組合”のFC店を立川で始めました。付いてきてくれたのは不動産時代の二人の部下でした」。
商いは順調。その一方でリスクを回避することは考えていたようで、「転ばぬ先の杖」とでもいうのか、個別指導の学習塾を経営していたとのこと。その点は、しっかりしている漢(オトコ)である。
「居酒屋経営も学習塾経営も順調でしたが、自社ブランドを持ちたい、自分の店を持ちたいという夢が芽生えました」。
自社ブランドを持ちたいという意欲を支えたのは、前述した地元の衰退。
〈地方都市によくみられる現象ですね。そこで思ったことは?〉
「生まれ育った地元に貢献したいと……」。この「地元」という意識、こだわりが「じげもんとんブランド」に繋がった。
「長崎郷土居酒屋の「じげもんとん」から「じげもんちゃんぽん」に。コンセプトは、新・ちゃんぽんです」。

「じげもんちゃんぽん」は、野菜が好きになるちゃんぽん

〈いわゆる「ちゃんぽん」を簡単に説明するならば?〉
「野菜を炒めて麺とスープと絡めて煮込んだのが「ちゃんぽん」なんですね」。
〈「新・ちゃんぽん」、つまり「じげもんちゃんぽん」とはどんなちゃんぽんで、いわゆる「長崎ちゃんぽん」とは、どこが違うのですか?〉
ガラ炊きから徹底してスープの美味しさにこだわり、そのスープに合わせて元来のちゃんぽん麺から多加水麺に変え、食べやすいように麺の長さも短くしました。“じげもん”とは、地元という意味です。つまり地元の方々に永く必要とされる店になれるように願いを込めています」。
「先ほども言いましたが、「ちゃんぽん」は野菜+麺+スープの三つ素材で作られています。「じげもんちゃんぽん」は、野菜摂取が不足がちの現代人に、一日に摂取してほしい野菜をどっさり盛って、その野菜を美味しく食べたい、野菜の食感を最高の状態で食べることにこだわった“野菜を好きになるちゃんぽん”といえます」。
「さらに、純白鶏豚骨スープとモッチモチの自家製多加水麺を使用しています。この麺が「長崎ちゃんぽん」との大きな違いだと思います」。
ここで冒頭の「ちゃんぽん」は「ご当地グルメ」か「郷土料理」か、を思い出してほしい。
高階氏が、「じげもんちゃんぽん」を全国に広げたいということから、強いて分類するならば「新しいご当地グルメ+郷土料理」と言えなくもない。

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2024年6月3日月曜日

「飲食の戦士たち」 再現ドラマ版 Youtubeチャンネル好調です。

「飲食の戦士たち」 再現ドラマ版 Youtubeチャンネル


2022年7月より「飲食の戦士たち」のコラムを、動画で育ったZ世代に向けて順次、再現ドラマシリーズへと展開しております。
タイムパフォーマンス重視の年代も楽しめる15分の短尺で制作しております。
第7話目の再現ドラマは藤波辰爾率いるドラディション所属のプロレスラー長井満也氏や、医者役にはリアル美容外科医のさくちゃん先生にキャストとしてご出演いただいております。
【第七話】株式会社G-vision 代表取締役 伊藤穣二
https://youtu.be/7yc5ux-CHls?si=lXwq01Qkrdt2FFq3





【第六話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 店舗ナンバーワンホールディングス株式会社 代表取締役 三浦正臣https://youtu.be/Y1EKEmoGvPQ?si=zLJUdzMFAHaLupI0





【第五話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 株式会社せい家 代表取締役社長 山内勝彦https://youtu.be/SzhX89Fke18?si=a3lS6S00wgWktb7c






【第四話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 株式会社KIWAMI 代表取締役社長 阿波耕平https://youtu.be/V8a2FQsr66g?si=Nik53IB5g3-7_6fB





【第三話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 株式会社田(でん )代表取締役 内田克彦https://youtu.be/GkOAV5gIiH0?si=cWDnTcjp0JDw3Tc





【第ニ話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 有限会社倶楽部二十九 代表取締役 酒井 敏https://youtu.be/J4TzoiZNDuQ?si=nYngjBUPyxZYLUDQ





【第一話】飲食の戦士たち ~社長たちの原点が、ここにある~ 株式会社REED 代表取締役 樺山重勝https://youtu.be/vQN3_7COEyo?si=bGuezKQLqxQ62xLo



■「飲食の戦士たち」のこれまでの歴史をストーリーにまとめました。
誕生秘話や、印象深かった出来事などをまとめていますので、こちらもぜひ御覧ください。
https://prtimes.jp/story/detail/7bZNkZSXj9b
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