2010年3月10日水曜日

株式会社モミアンドトイ・エンターテイメント 代表取締役社長 川上統一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社モミアンドトイ・エンターテイメント 代表取締役社長 川上統一氏 登場。


モミ 
本文より~


幼稚園から自転車が宝物だった少年が追い駆けた夢。


幼稚園の頃から川上の自転車はカスタマイズされていた。改造したのは父。小学校に入ると高価なBMXを購入してもらう。それほど川上は自転車好きな少年だった。夢は競輪選手。中学生になると、クラブに入りロードレースにも参加するようになる。レースに参加すれば、負け知らずだった。この頃にはもう、泣き虫だった少年はどこにもいなくなった。高校に上がった川上は、「高校自転車連盟」に登録する。より本格的なレースに出場するためだ。だが、初めての大会で屈辱を味わうことになる。「お前が川上か」と言われるぐらい高校生にも知られていたが、予選すら通過できなかったのである。これが川上に火をつけた。大会が終わって帰宅したその夜から、本気になって練習に取り組みだす。「クレージーだった」と振り返るように、1日に通学も含め150キロのロードワークを自らに課すのだ。一方で、当時、まだ確立されていなかった練習メニューをヨーロッパのビデオなどを参考にし、思いついた練習方法を積極的に採り入れていく。やがてトップレーサーたちとも合同練習をするまでになり、いつかオリンピックやツール・ド・フランスに出場することを夢見るようになる。ジュニアオリンピックの選考ライダーに選ばれたのもこの頃。大学に行かず、実業団に入り、さらに一歩、夢に向かって踏み出した。・・・。 


株式会社モミアンドトイ・エンターテイメント 代表取締役社長 川上統一氏


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株式会社ゴールデンマジック 代表取締役社長 山本勇太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゴールデンマジック 代表取締役社長 山本勇太氏登場。


ゴールデン
本文より~


受験失敗。一浪の末、中央大学に入学。年上の女性との交際が転機をもたらす。


高校3年の夏になって、進学という言葉がリアルに聞こえ出す。予備校に通い、遅れを取り戻すようにがんばったが、7校受験し、すべて落ちてしまった。一浪後、「中央大学 経済学部」に入学する。サッカーはいつの間にか趣味になっていた。サークルに入り、サッカーがある時だけ参加した。アルバイトを始めたのも大学になってから。カラオケ店で、人生初の自分のお金を手にした。「十数万円でしたが、お小遣いしかもらったことがなかったので、嬉しくてしかたなかった」という。失礼な言い方だが、ここまでは、どこにでもいる青年といっていいような気がする。一つの転機はある女性との交際だった。「彼女は年上で、すでに社会人だったものですから、食事に行くにもいいところに連れて行ってくれるんです。社会人になるってすごいことだな、と。はじめて、自分が社会に出た時のことを考えるようになったんです」。・・・。 


株式会社ゴールデンマジック 代表取締役社長 山本勇太氏


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2010年3月3日水曜日

有限会社麦企画 代表取締役 田原旬時氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社麦企画 代表取締役 田原旬時氏登場。


麦企画 
本文より~


中卒には世間は冷たい


中学卒業後すぐに、田原は、夫婦で経営する小さな蕎麦屋で働くことになる。仕事は朝8時には始まり、夜遅くまで働き、夜中になって眠りにつく生活が続いた。初任給は3万円。このうち、1万円は仕送り、1万円は自分で使い、残る1万円を店主夫婦に頼んで貯金してもらっていた。
そんなある時、母が急病で入院、手術をすることになり、田原は、いままで店主夫婦に預けていた貯金を下して欲しいと頼んだが、毎月店主に預けていたと思っていた貯金は、貯められることなく使い込まれていたことを知る。少年であった田原にとって、母や弟達を思う気持ちが詰まっている大切なお金であり、店主夫婦に対する信頼も込められているものであった。この裏切りに田原は激怒し、すぐさま仕事を辞める。当時の田原にとって、それが精一杯の抗議だったのだろう。
その後、母が働いていた製造会社に転職し勤めている。田原が働いても、家族の暮らしに余裕ができたわけではないが、弟たちは高校に行かせることができた。『母を思う気持ちは兄弟一緒』と田原は言うが、その方法は違った。弟たちはしっかりと勉強し、良い会社に入ることで母を楽にさせることができるが、田原にはもうその道を歩むことはできない。弟たちの学費のこともあったのだろう。だから、『ヤクザになってでも家族を幸せにしたい』と考えたのだ。 ・・・。


有限会社麦企画 代表取締役 田原旬時氏


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株式会社はせ川 代表取締役 古塚建一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社はせ川 代表取締役 古塚建一氏登場。


はせ川
本文より~


「いっしょにやらへんか」。島田紳助氏からそう誘われたのは、古塚建一が、ちょうど二店舗目の出店を考えていたときだった。二つ返事で了解する。島田氏との付き合いは、1年程度に過ぎなかったが、雑誌の取材を通して知り合った二人は最初から意気投合した。何度か会ううちに、古塚はますます島田に傾倒していく。だから、二つ返事で「やらせてください」と答えたのも当然のことだった。古塚と島田氏。二人の考えが一つの明確なコンセプトとなり、共同出資で人気店「はせ川」が誕生した。今回は、この「はせ川」の産みの親の一人、古塚建一に登場いただこう。・・・。 


株式会社はせ川 代表取締役 古塚建一氏



2010年2月24日水曜日

株式会社ゴダック 代表取締役 荒谷公彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゴダック 代表取締役 荒谷公彦氏登場。


ゴダック 
本文より~


天性の舌によって、天与の味覚が育まれていく。


ところで、荒谷と「食」との関係はいつ頃、生まれたのだろうか。母が始めたレストランもその一つだろう。「母は天性の舌を持っていた」と荒谷はいう。お世辞ではなく、母の料理食べたさに、連日、店の前に行列ができた。荒谷家の食卓の料理も、頬が落ちるほどうまかったに違いない。「少ない量でも、美味しいもの」が、荒谷家の食卓のルールだった。
天性の舌と母の愛情によって、荒谷の天与の味覚が覚醒していく。ちなみに、日本でも荒谷ほど味覚に鋭敏な人間もいないだろう。それは、これから後、荒谷が世界各地から仕入れる食材によっても証明されている。
一方、こうした安定した生活も長くは続かなかった。開店して5年後、荒谷が中学に上がるときに閉店。客のツケの多くが焦げ付いてしまったからだ。店を失うのは同時に住まいを失うことを意味していた。もう一度、引越しが始まった。親子が窮屈だが、なんとか暮らすことのできる小さな家だ。荒谷の言葉を借りれば、「最初の家では何十とあった水道の蛇口が、ついに1つになってしまった」とのことだ。「1円の大事さ」が骨身に染みたのもこの頃である。
このように生活が苦しくなっても、心まで貧しくはならなかったのは、強く、朗らかに活きる両親の姿があったからだろう。赤貧のなかで荒谷は、初めて勉強に向き合うようになる。都立高校を経て、東京水産大学(現、東京海洋大学)に入学。卒業後、海外を知りたいと、食品の貿易商社に入社。入社2年目にして、そのチャンスが訪れた。 ・・・。


株式会社ゴダック 代表取締役 荒谷公彦氏


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株式会社ダイネット 代表取締役 中川徹也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ダイネット 代表取締役 中川徹也氏登場。


ダイネット
本文より~


フランチャイズ化、失敗。オーナーたちには、いまも頭を下げ続けている。


中川はいまでも「申し訳ないことをした」と当時のことを思い浮かべ、悔しがる。「いける」と確信した中川は、スーパーバイザーを採用し、フランチャイズ本部を作り上げた。十分な勝算はあったが、実際に出店してみると、直営店のように業績は伸びなかった。
「原因は本部の勇み足にもある」と中川。加盟店の募集費、人件費など、ダイネット自身が、押し潰されそうになる。それでも、なんとかFC店に業績を上げてもらおうと努力したが、結局、1億円に増資した資本金を食い潰すまでに、損失は広がった。失敗。夜になって一人で考えると冷や汗が脇の下を伝う。FC事業からの撤退は、中川という人間にとって苦渋の選択だった。 ・・・。 


株式会社ダイネット 代表取締役 中川徹也氏


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2010年2月17日水曜日

株式会社エイト 代表取締役社長 近藤一美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エイト 代表取締役社長 近藤一美氏登場。


エイト 
本文より~


ビジョナリーカンパニーとの出会い


高校生の近藤氏がアルバイトに没頭したのはカラオケ店。そもそも自分の提案に両親が賛同する形で店をオープンし、共に働く仲良しの友達たちもいた。ただただ働くことが楽しく、結局、高校卒業と同時に正社員となって仕事を続けた。
違和感を感じるようになったのは二十歳を過ぎた頃だという。
「ちょっとだけ社会が見えるようになったんですね。周りのスタッフと社長の娘である私の間に溝ができていたんです」。
オーナー企業であり出店・撤退の決断が早い社長は、社員などの周辺とコミュニケーションを取っていくタイプではない。人の入社・退職が頻繁な中、スタッフは次第に社長ばかりか娘である近藤氏とも距離をおくようになっていった。
「割り切ってやっていこうと思ったのですが、本当にきつかった。ある日、母親と大げんかになり、それが決断させてくれました」。・・・。 


株式会社エイト 代表取締役社長 近藤一美氏


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