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2024年9月10日火曜日

株式会社ゴンチャ ジャパン 代表取締役社長 角田 淳氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ゴンチャ ジャパン 代表取締役社長 角田 淳氏登場。

本文より~

タピオカブームと、ゴンチャ ジャパンと。

いろいろあった、と言えば怒られるだろうか。
ゴンチャが日本に初めてオープンしたのは、2015年。2018年あたりから空前のタピオカブームが始まり、ゴンチャの前には連日、長蛇の列ができた。
SNSなどを通じたコミュニケーションが盛り上がるタイミングだったことも、ゴンチャにとっては追い風だったにちがいない。スマホで撮影されたタピオカドリンクは、デジタルの世界をかけめぐった。
ただし、第三次と言われたタピオカブームも、やがて終わり、タピオカドリンクのショップも次々、姿を消す。
ゴンチャ ジャパンでも経営者がかわるなど、そういう意味でもいろいろあった。
粥(かゆ)を導入したり、コーヒーを始めたり。ティーカルチャーを標榜するゴンチャ ジャパンが、迷走を始めたと言っていい。その時、現れたのが、今回、ご登場いただくことになった角田淳さん。
じつは、角田さんには2019年の10月に、この「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。その時は、サブウェイの代表として。
あの時も低迷し、立ち直り始めた業績を立て直すのが角田さんのミッションだった気がする。もちろん、角田さんの実績は今のサブウェイをみれば明らか。「いまや絶好調だ」と角田さんも笑顔で語っている。
ちなみに、現在は別の事業に携わっていらっしゃるが、当時の日本サブウェイ合同会社の共同代表、鈴木孝尚さんにも「飲食の戦士たち」にご登場いただいているので、興味のある方はコチラをご覧いただきたい。
では、ゴンチャ ジャパンのお話に入る前に、角田さんの生い立ちを、今回はさらりと追いかけてみよう。

ブラジル育ちの、グローバルな小学生。

角田さんが、生まれたのは1971年。生まれてすぐに父親の仕事の関係でブラジルへ渡り、小学校入学直前まで生活していたそうだ。つまり、南米育ち。
「ポルトガル語、スペイン語、そして、小学校になって初めて日本語をつかうようになります」。
小学生で3ヵ国語を話すことができたんだろうか。まさに、グローバルな小学生である。
校長先生の薦めもあり、中学から静岡の学校に進み、寮生活を開始。ラグビーも始めている。高校を卒業するとアメリカの大学に進学。
もともとグローバルな小学生である。角田さんにすれば、アメリカの大学の進学は日本の地方の大学に進学するのと、そうかわらないのかもしれない。ちなみに、お姉さまは、高校から渡米されている。
アメリカの大学を卒業した角田氏は帰国し、大手自動車メーカーで勤務。その一方で、様々なイベントの企画やマネジメントを行い、スポーツイベントや音楽イベントをプロモートもする仕事を行っていく。
39歳、知人の紹介で、サブウェイに入社。その時、角田さんは「スポンサー側の仕事をしたことがなかったので、一度、経験してみたいと思い、新しい世界に飛び込んだ」と言っている。
そのサブウェイ時代の実績が評価され、ゴンチャ ジャパンの株主たちから、オファーがとどく。

サブウェイと、ゴンチャと。

サブウェイとゴンチャ。フードとドリンク。文化ももちろん異なるが、似ているところもなくはない。
消費者がカスタマイズして、つくる。楽しみと同時に、初オーダーだと、とまどいがなくはない。
実際、角田さんも「ポイントカードをお持ちのコアなファンは慣れていらっしゃるので、オーダーのスピードもやはり早いですが、SNSでも時折『オーダーの仕方がわからない』という投稿があり、そういうユーザーは少し時間がかかるようですね」と、おっしゃっている。
もちろん、この「むずかしさ」が「たのしさ」にかわる。これも、おなじ。
もう一つ、サンドイッチとティーと、アイテムは異なるが、新たなカルチャーを日本に広げるというミッションも似ている。
もっともサブウェイに比べ、ゴンチャ ジャパンのあゆみは、まだ10年にもならない。
空前のタピオカブームで業績が加速し、店舗数が拡大。ティーカルチャーがファンの心をつかんだのはまちがいないが、ブームが去った今、業績は、どうなっているのだろう。
つぎに、そんなお話もうかがった。
「現在(2024年5月)の店舗数は約160店舗。私がこちらに来たのは2021年10月ですが、その時は約100店舗でした。2015年の1号店オープンから現在まで、ブームなどもあり業績が上下したのは事実ですが、ゴンチャ ジャパンがオススメする、ティーベースドリンクは、この9年間で、ある一定の定着をみたように思います」。
ゴンチャのファンの多くは、流行に敏感な10代、20代の若い世代。
「この世代は、ゴンチャの文化と一定の親和性がある世代です。カスタマイズした、ティーを楽しむ。若いからこそ、楽しみ方を知っているように思います」。
たしかに、ゴンチャの文化は、「自由に、ティーを楽しむ」こと。それを体現しているのが、この世代。たしかにドリンクをもった若者は絵になる。
じつはタピオカブームの時と比べても、店舗の数は増えているそうだ。ゴンチャが一過性のものでなかった証でもある。
「当面の目標は200店舗です。将来的には、年間の来店数を、4000万人にもっていきたいですね。その時には400店舗が視野に入ってくると思います」。
ただし、数字に縛られない。急ぐこともしない。
「まず、ブランドを360度、確立することだ」と角田さんはいう。対ユーザーだけではなく、クルーのトレーニングや、サプライチェーンの確立など、インフラ整備も行っていかないといけない。
やることは、いろいろありそうだ。だが、就任後の3年間で角田流の改革は大きく前進している。その点についても、うかがっている。

ゴンチャのレシピは、自由に、楽しめること。

「外部に向け最初に行ったのは、ソーシャルメディアの活用です。ゴンチャが推し進めるティーカルチャーを広く浸透させていくための、方法の一つです。Xやインスタグラムなど、Z世代やα世代を中心に情報を拡散しています」。
角田さんも、日々、SNSのチェックはかかさないという。さすが、もとプロモーター。
その一方、内部に向けては、「我々が大事にしていることってなんだっけ?」と、問いかける。マネージャークラスといっしょに合宿し、話はつづく。
「ゴンチャのハピネスってなんだっけ? それってどういうこと? 新たなものをクリエイトするというより、理念などの再確認ですね。お客様が、その日の、その時の気分で自由にチョイスできる、そういう楽しみをゴンチャは大事にするんじゃなかったっけ? そんな話です」。
「じつは、そのあたりが、ボヤっとしていたんですね。タピオカがブームになったものだから、効率化だけを追い求めて時間がかかるフローズンをやめたり、味のチョイスも、カスタマイズの種類も減らしたりして。なんのために『ハピネス』をうたっているんだっけ? 自由に楽しめる、それがゴンチャの価値だとすると、なんでそれやめちゃったんだろうかって。そういうことを一つひとつ整理していきました」。
原点にもどり、ブレを修正する?
「そうですね。品質にこだわったお茶と、だれもが自分の好みに合ったカスタマイズを楽しめる。ゴンチャの創業者が追いかけ、形にしたのが、このレシピだったんです。それを見失っていたかもしれません」。
「店舗のクルーに対してもおなじことが起こっていました」と角田さん。
「店舗のクルーたちには、髪色のカラーチャートが渡され、ある一定の範囲でしかカラーが許されていなかったんです。それって、おかしくないかって。だって、自由じゃないでしょ。ゴンチャで働く人が、自由じゃなきゃ、ブランドの理念はどこにいっちゃうのって話です。だから、今、カラーチャートはありません」。
ティーカルチャーと、自由。千利休が知れば、どう思うだろう。案外、ゴンチャの空気を気にいるんじゃないだろうか。わびさびを開放した、もう一つの文化。
茶道の対局にある、大衆の文化。もうひとつの茶道が花開くと言ったら、おおげさすぎるだろうか。ともあれ、角田さんとスタッフたちの対話はつづく。
「全体への共有はもちろんですが、定期的にワークショップを行い、キックオフミーティングなども行っています」。

・・・続き
株式会社ゴンチャ ジャパン 代表取締役社長 角田 淳氏

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2018年1月26日金曜日

株式会社ゴンチャ ジャパン 取締役社長 兼 COO 葛目 良輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“飲食の戦士たち”に株式会社ゴンチャ ジャパン 取締役社長 兼 COO 葛目 良輔氏登場。
本文より~

大学時代までの葛目氏。

小学6年生の秋、東京の下町「深川」に移り住んだ。
父方も、母方も、比較的裕福な家庭育ちであったが、その父母がつくった葛目家は慎ましやかな家庭だった。
「勉強しろとは言われなかったですね。兄は、親父の影響で柔道ですが、私は、野球です。その野球がいちばん面白かった6年の秋に引っ越しですからなんでかなぁって」。
深川に転居するまでは、茨城県の取手で暮らしていたそうだ。
一つ違いの兄は、いい意味で友人でもあり、ライバルでもあった。
「高校は、それなりの進学校に進み、高校でラグビーをはじめました。高校でデビューするなら、多くの選手がはじめて取り組むラグビーがいいかなと思っていましたし、友人が『いっしょにやろうぜ』って、誘ってくれたこともあって」。
「それで、大学3年までです(笑)」。

One for all, All for one。

大学は明治大学。ラグビーは同好会だが、バイトの時間が取れないほど真剣にラグビーと向き合った。「今振り返れば、私の人生のなかでラグビーは大きな意味を持ちます。スポーツとして楽しんだということもありますが、人間教育という意味で、私の価値観はラグビーによってつくられたといってもいいんじゃないでしょうか」。
「One for all, all for one.(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」。
ラグビーの精神だ。
「私はフランカーといって、泥臭く、いちばんグランドを駆け回らなければならないポジションでした。その分トライするチャンスもあるわけですが、決して派手ではない。誰かのためにという自己犠牲が強いられるポジションです。そういう役割だったから、余計に人間的な幅が広がったのかもしれません。一方で、試合が終われば、敵味方関係なく『ノーサイド』。この考えは今も私の基軸となっています」。
ちなみに、やかんの水は魔法の薬だったそうだ。やかんの水をかければ、捻挫だってなんだって治る。信じられていたわけではないが、実際にやかんの水は、何かある度に選手たちにぶっかけられた。大学3年時に副主将となった葛目氏は、いいかわるいかわからない、そういったラグビーの伝統とも折り合いをつけながらも、みんなを率いた。グランドを離れてもフランカーの役割はそう変わらなかったのかもしれない。

22歳の平社員に送られた貢物。

「私は、基本、猪突猛進のタイプなんです。いったん『こうだと思ったら、突き進む』奴なんです。社会人になって、それが少し変わりました。価値観が変わったと言ってもいいかもしれません」。
大学卒業後、葛目氏が進んだのは大手電機メーカー。大学時代に広告・マーケティングを専攻していたからか、いきなり宣伝部に配属された。花形部署である。
「『どんなコネがあったんだ』って同期社員に言われました。そりゃそうです。会社の中でもエース級ばかりの部署ですから。いきなり新人が配属されるような部署じゃなかったんです。でも、配属されてしまった」。
葛目氏が就職したのは、1993年。一般的な認識では、バブルが弾けてから1年後となる。「それでも、会社に勢いがあったし、宣伝部はその恩恵を受けていました」。
広告代理店の営業マンが、すり寄ってくる。お歳暮、お中元には、貢ぎ物が山となった。展示会を開いたあとは、コンパニオンとの食事がついてきた。アメリカ出張にも、行った。遊びがてらとは言わないが、それに近かった。
「もともと、20代の時はいろんな仕事を見てみようという思いがあったんです。それもあって3年で転職するんですが、あの時は、それ以上に『このままこの部署にいたら、人間がダメになる』って、それが怖かったんです」。
ある日、本社1Fのロビーで、同期の営業がお客様に深々と頭を下げているのを見た。その向こうでは対照的に、取引先の営業とふんぞり返って話す、部署の先輩の姿があった。転職のきっかけになったのは、そんな先輩の姿だった。

レジを打ったこともない人間が、経営を語れるのか?

「あれを見た時、ああはなりたくはないと心底思ったんです」。普通なら、取引先から致せり尽くせりの、だれもがうらやむ宣伝部だ。自ら、退職を願い出る人間はそういない。ただ、葛目氏という人は、そういう人なのだ。「One for all, all for one」。大事なのは、やはり、それだった。
「それから、偶然なんですが、CCCの求人広告をみて、すぐに応募しました。採用していただいて、本部のフランチャイズ事業を推し進めることになります。これは、宣伝部の時なんですが、年に何回かは、店頭に駆り出されるんです。なんといっても私が一番若いですから。その時、『小売』という仕事に何かしら興味を覚えていたんです。だから、CCCはある意味、ぴったりだったんです。ところが、いきなりスーパーバイザーでしょ。店舗を運営した経験がない。いわば、野球を知らない人間が、野球のコーチをやるようなもんです。加盟店の店長さんから『レジもできないんだろ』って、はっきり言われたこともありました。悔しかったですね。でも、そのような辛辣な言葉も含め、すべてが私を育ててくれたのも事実です。えぇ、前職とはまったく違います。何のバックもない。だれかに責任を押し付けることもできない。まさに、つねにボールを求めて、走り回るフランカーです/笑」。

「これだ」。スターバックスに突き進む。

CCCでは、計4年過ごしている。2年間は本部で。それから2年間は、直営店の店長。転機はアメリカ研修の時に出会った一軒のカフェによってもたらされた。
「流通でもアメリカは最先端なんです。カリフォルニアに行って、まだ『トイザらス』も絶好調の頃ですね。本屋内に併設された一軒のカフェがあったんです。店名は『スターバックス』。これだ、って。TSUTAYAとカフェですね。そういうのが電撃的に頭の中を駆け抜けたんです」。
帰国後、すぐにスターバックス コーヒー ジャパンに電話を入れる。「結局、スターバックスでは6年ですね。時間と空間を提供する、そういう元々やりたかった仕事が堪能できました。それからもう一度CCCに戻り、スターバックスのFC事業の責任者を5年、新規事業推進の責任者を2年、務めます」。
電機メーカーから始まって、CCC→スターバックス→再度CCC。しかし、まだ終わらない。
・・・続き

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