2018年1月26日金曜日

株式会社ゴンチャ ジャパン 取締役社長 兼 COO 葛目 良輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“飲食の戦士たち”に株式会社ゴンチャ ジャパン 取締役社長 兼 COO 葛目 良輔氏登場。
本文より~

大学時代までの葛目氏。

小学6年生の秋、東京の下町「深川」に移り住んだ。
父方も、母方も、比較的裕福な家庭育ちであったが、その父母がつくった葛目家は慎ましやかな家庭だった。
「勉強しろとは言われなかったですね。兄は、親父の影響で柔道ですが、私は、野球です。その野球がいちばん面白かった6年の秋に引っ越しですからなんでかなぁって」。
深川に転居するまでは、茨城県の取手で暮らしていたそうだ。
一つ違いの兄は、いい意味で友人でもあり、ライバルでもあった。
「高校は、それなりの進学校に進み、高校でラグビーをはじめました。高校でデビューするなら、多くの選手がはじめて取り組むラグビーがいいかなと思っていましたし、友人が『いっしょにやろうぜ』って、誘ってくれたこともあって」。
「それで、大学3年までです(笑)」。

One for all, All for one。

大学は明治大学。ラグビーは同好会だが、バイトの時間が取れないほど真剣にラグビーと向き合った。「今振り返れば、私の人生のなかでラグビーは大きな意味を持ちます。スポーツとして楽しんだということもありますが、人間教育という意味で、私の価値観はラグビーによってつくられたといってもいいんじゃないでしょうか」。
「One for all, all for one.(1人はみんなのために、みんなは1人のために)」。
ラグビーの精神だ。
「私はフランカーといって、泥臭く、いちばんグランドを駆け回らなければならないポジションでした。その分トライするチャンスもあるわけですが、決して派手ではない。誰かのためにという自己犠牲が強いられるポジションです。そういう役割だったから、余計に人間的な幅が広がったのかもしれません。一方で、試合が終われば、敵味方関係なく『ノーサイド』。この考えは今も私の基軸となっています」。
ちなみに、やかんの水は魔法の薬だったそうだ。やかんの水をかければ、捻挫だってなんだって治る。信じられていたわけではないが、実際にやかんの水は、何かある度に選手たちにぶっかけられた。大学3年時に副主将となった葛目氏は、いいかわるいかわからない、そういったラグビーの伝統とも折り合いをつけながらも、みんなを率いた。グランドを離れてもフランカーの役割はそう変わらなかったのかもしれない。

22歳の平社員に送られた貢物。

「私は、基本、猪突猛進のタイプなんです。いったん『こうだと思ったら、突き進む』奴なんです。社会人になって、それが少し変わりました。価値観が変わったと言ってもいいかもしれません」。
大学卒業後、葛目氏が進んだのは大手電機メーカー。大学時代に広告・マーケティングを専攻していたからか、いきなり宣伝部に配属された。花形部署である。
「『どんなコネがあったんだ』って同期社員に言われました。そりゃそうです。会社の中でもエース級ばかりの部署ですから。いきなり新人が配属されるような部署じゃなかったんです。でも、配属されてしまった」。
葛目氏が就職したのは、1993年。一般的な認識では、バブルが弾けてから1年後となる。「それでも、会社に勢いがあったし、宣伝部はその恩恵を受けていました」。
広告代理店の営業マンが、すり寄ってくる。お歳暮、お中元には、貢ぎ物が山となった。展示会を開いたあとは、コンパニオンとの食事がついてきた。アメリカ出張にも、行った。遊びがてらとは言わないが、それに近かった。
「もともと、20代の時はいろんな仕事を見てみようという思いがあったんです。それもあって3年で転職するんですが、あの時は、それ以上に『このままこの部署にいたら、人間がダメになる』って、それが怖かったんです」。
ある日、本社1Fのロビーで、同期の営業がお客様に深々と頭を下げているのを見た。その向こうでは対照的に、取引先の営業とふんぞり返って話す、部署の先輩の姿があった。転職のきっかけになったのは、そんな先輩の姿だった。

レジを打ったこともない人間が、経営を語れるのか?

「あれを見た時、ああはなりたくはないと心底思ったんです」。普通なら、取引先から致せり尽くせりの、だれもがうらやむ宣伝部だ。自ら、退職を願い出る人間はそういない。ただ、葛目氏という人は、そういう人なのだ。「One for all, all for one」。大事なのは、やはり、それだった。
「それから、偶然なんですが、CCCの求人広告をみて、すぐに応募しました。採用していただいて、本部のフランチャイズ事業を推し進めることになります。これは、宣伝部の時なんですが、年に何回かは、店頭に駆り出されるんです。なんといっても私が一番若いですから。その時、『小売』という仕事に何かしら興味を覚えていたんです。だから、CCCはある意味、ぴったりだったんです。ところが、いきなりスーパーバイザーでしょ。店舗を運営した経験がない。いわば、野球を知らない人間が、野球のコーチをやるようなもんです。加盟店の店長さんから『レジもできないんだろ』って、はっきり言われたこともありました。悔しかったですね。でも、そのような辛辣な言葉も含め、すべてが私を育ててくれたのも事実です。えぇ、前職とはまったく違います。何のバックもない。だれかに責任を押し付けることもできない。まさに、つねにボールを求めて、走り回るフランカーです/笑」。

「これだ」。スターバックスに突き進む。

CCCでは、計4年過ごしている。2年間は本部で。それから2年間は、直営店の店長。転機はアメリカ研修の時に出会った一軒のカフェによってもたらされた。
「流通でもアメリカは最先端なんです。カリフォルニアに行って、まだ『トイザらス』も絶好調の頃ですね。本屋内に併設された一軒のカフェがあったんです。店名は『スターバックス』。これだ、って。TSUTAYAとカフェですね。そういうのが電撃的に頭の中を駆け抜けたんです」。
帰国後、すぐにスターバックス コーヒー ジャパンに電話を入れる。「結局、スターバックスでは6年ですね。時間と空間を提供する、そういう元々やりたかった仕事が堪能できました。それからもう一度CCCに戻り、スターバックスのFC事業の責任者を5年、新規事業推進の責任者を2年、務めます」。
電機メーカーから始まって、CCC→スターバックス→再度CCC。しかし、まだ終わらない。
・・・続き

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