ラベル ステーキハンバーグ&サラダバー けん の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ステーキハンバーグ&サラダバー けん の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年6月4日水曜日

【特別企画(過去掲載からの再取材)】第80回(再編集版) 株式会社RYコーポレーション 代表取締役CEO 横山藤雄氏登場。

 【特別企画(過去掲載からの再取材)】

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社RYコーポレーション 代表取締役CEO 横山藤雄氏登場。

本文より~

16年後のインタビュー。

<社名のYは、横山さんのYでしたよね? Rは聞いてなかった気がします?>
前回の16年前のインタビューを思い出しながら、そうたずねた。
「Yは、正解、横山のYです(笑)。尊敬する人にも、Yがつく人が多かったってこともあるんですが。Rは、レボリューションのRです。革命というとオーバーかもしれませんが、今までにない文化を育て、新たな時代をつくるという想いを込めています」。
<今や、その想いどおりの会社になられていますね。ホームページをみると驚くばかりです>
「前回はたしか2009年。創業から3年目の頃。会社もですが、私もまだ若かった(笑)」。
<インタビューは六本木に「GABURI SHARE」をオープンされた時で、『ステーキハンバーグ&サラダバー けん』も絶好調という印象でした>
「そうそう。『ステーキハンバーグ&サラダバー けん』が、ぐーーと行く時ですね」。
<「けん」のなかでも初期の加盟店でしたね?>。
「『けん』の創業者である井戸さんとは肉の流通で相談に乗らせていただいていて。そういう関係もあったので。うちの多摩センターがFC2号店です」。
今回、改めて話を聞いて驚いたのは、やはり「ステーキハンバーグ&サラダバー けん」のこと。
「多摩センターは、そうでもなかったんですが(笑)。次にオープンした国分寺が半端なかったです。毎月残るキャッシュがすごい額になって。『味の素スタジアム』にもオープンするんですが、こちらは、月商2000万円。『けん』のなかでも、トップでした」。
とにかく、オープンするたび爆発したという。
ただ、そこに危うさが潜んでいた。
「ステーキでしょ。サラダもそうですが、カレー食べ放題っていうのが、社会のニーズとマッチしたんでしょうね」。
<井戸さんがハイエナと自称し、マスコミから追われていた頃ですね(笑)>
「そうでしたね。でも、ほんとうのハイエナは、『けん』を真似て食い物にした大手資本の会社かもしれません」。
ちなみに、「ステーキハンバーグ&サラダバー けん」は、ロードサイドで撤退したファミリーレストランなどの居抜き物件を狙ってオープンを重ねる。
当時、創業者の井戸さんは自身のブログで「ロードサイドのハイエナ」と自称し、マスコミもその言葉を追随した。
「うちは13店舗まで、フランチャイズ契約のレストランをオープンしました。井戸さんの方、つまり、エムグラントフードサービスはFC含め300店弱まで出店されたはずです。ただ、大手資本のファミリーレストランチェーンが、『けん』をコピーし始めると太刀打ちできなかった。オープンすれば爆発するもんですから、人材の育成も追いつかず、体制のブラッシュアップもできていなかったんです」。
<「けん」はFCですが、前回お話をうかがった、「GABURI SHARE」は自社ブランドです>
「『けん』が好調で資金的な余裕がありましたし、創業前から『自社ブランドをつくる』と宣言していたんです」。
<それが今のクリエイティブ系レストランにつながっていくんですね>
「そうですね。ただ、『GABURI SHARE』は、今じゃやらないコンセプトですが(笑)」。

赤字からのスタートは、「R」の始まり。

横山さんが、生まれたのは1975年。前回のインタビュー時は34歳だったが、今回(2025年)は、ちょうど50歳になられていた。生まれは茨城県。お父様はお祖父様から続く、精肉の卸業の2代目だった。
「親戚を含め、商売人が多かった」と横山さん。だからだろう。子どもの頃から独立が頭にあったそう。ただ、「起業するにしても、飲食じゃなかった」と笑う。
前回のインタビューでは、その「飲食」をスタートするまでの経緯を追いかけた。こちらでも少しトレースする。
高校卒業した横山さんは進学することなく、ビジネスの扉を開く。
就職したのは、尊敬する親戚の叔父さんが紹介してくれた埼玉県の「精肉店」。「25歳で独立する」と宣言して入社し7年間、ひたむきに修業を続け、宣言どおり25歳で退職。
独立準備を進めたが、修業のため、もう一度より規模の大きな企業に転職することになる。業種はおなじ精肉とスーパー。こちらの会社で、思いがけず飲食業に進むことになった。
改めて、横山さんにその経緯をうかがった。
「親戚の叔父さんからも、まだ早いと指摘を受けて、いったん独立を断念します。そして、より深く、広い視野で学ぶため、前職より大きな会社に転職しました。ありがたいことに、そちらの社長からも高く評価いただき、飲食チェーンのFCに加盟した時、その店をお任せいただいたんです」。
<それが、土間土間ですね?>
「そうです。昔、飲食で独立するとは思っていなかったんですが、縁があり、独立とまではいきませんでしたが、晴れて私の店をもつことができました。ただね…いくらがんばっても、一度も黒字にならなかったんです」。
横山さんが苦笑する。
<初期投資が重く、どうしたって赤字になってしまうとおっしゃっていましたね>
「当時の社長が『撤退だ』といい、私にだけ『会社に残れ、スタッフはどこかに引き取ってもらうから』と言ってくださったんですが、採用したスタッフたちを見捨てる真似はできませんでした。それで、社長にお願いして運営を私に委託していただきました」。
<赤字覚悟のスタートですね?>
「これも、縁だと。まさか失敗するとは思っていなかったし、その店の運営を委託してもらって独立するとは、これっぽっちも思っていなかったから、不思議な縁ですね(笑)」。
人は縁によって結ばれ、縁によって新たなスタートを切る。ロードサイドのハイエナこと、エムグラントフードサービスの井戸実社長との出会いも、その一つ。
「一つのご縁を大事にすると、もう一つのご縁が生まれていくんですね。自社ブランドの『GABURI SHARE』をオープンする時に、ジョインしたのが、今の専務です。彼とは、もともと縁があったんですが、クリエイティブなアイデアマンで、今のブランドの多くのコンセプトは彼がつくってくれています。もう一人は、総料理長です。彼は『GABURI SHARE』をたたみ、上野に『LA COCORICO』をオープンする少し前に縁あって参加してくれました」。
なんでも、イタリアのミシュランガイドの星付きレストランで修業したのち、帰国。有名ホテルの総料理長などを歴任された実力シェフだそう。「そんな人が、まさかね。とても人格者で、専務のアイデアを、かたちにしてくれたのは、すべて総料理長です」。
<土間土間、ステーキのけんが第一章。そして、自社ブランドをきっかけに第二章の幕があがります>
「そういう位置づけができると思います」。
<いよいよ「R」を体現されていくことになりますね>
「そうですね」。
「R」は冒頭で横山さんが言った通り、「レボリューション」という意味だ。

三井ガーデンホテルへ、新たな食文化を彩る。

コンセプトは、専務と総料理長と3人で、という。強力なトリオ。役割がはっきりしている。
<六本木を閉店されたのはなぜ?>
「実をいうと漏水がやっかいで。直しても、直してもすぐに漏水するもんですから、保険でもカバーが難しくなって。それで、そちらをクローズして、上野で再チャレンジします」。
上野駅から徒歩1分、岩倉高校のそば。
「当時は10人に相談すると10人とも反対するようなロケーションでした。でも、最終的には直感を信じて『LA COCORICO』をオープンします」。
<ベルギービールとロティサリーチキンですね?>
「当時でいうと、ぜんぜんロケーションにそぐわないブランドでした。当時の上野は、ビールとやきとりが文化の街だったんです」。
<その文化をひっくり返す?>
「最初からとはいきませんでしたが、メディアも注目してくださって」。
<『LA COCORICO』が、もう一つのはじまり…、つまり、第二章の幕開けですね?>
「そうです。『LA COCORICO』を皮切りに、多種多様な事業を展開してきたおかげで、声がかかるんです」。
声の主は、三井不動産のホテルを開発する担当者だったそう。
「その担当者から、2019年11月22日に開業する「三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア」への出店オファーをいただきました」。
提案された条件は破格。
「私自身ブライダルやホテルに興味があったもんですから、私一人なら、すぐに『やります』なんですが」。
<横山さんでも、やはり悩むものですか?>
「そうですね。悩みます(笑)。だって、ホテルとなると朝食、ランチ、アフタヌーン、ディナーでしょ。やったことがない。二度とないようなスペシャルなお話だと思いながらも、なかなか決断できませんでした」。
<でも、やるとなった?>
「スタッフのなかにホテル業界にネットワークがあって、知人がいるからなんとかなる、なんていってくれるのがいて。みんながやりたがっていたんですね。だったら…だったらやってみるか!と」。
<そのあと銀座にも、みなとみらいにも出店されています>
「そうなんです。スタッフたちが私の背中を押してくれたおかげで、出店させていただくことになり、私はまだまだと思っていますが、三井さんには高くご評価いただき、『三井ガーデンホテル銀座プレミア』『三井ガーデンホテル横浜みなとみらいプレミア』の時もオファーをいただき、オープンさせていただくことになりました。じつは、三井さん以外にも野村不動産からも声をかけていただき、そちらでもオープンさせていただいています」。

・・・続き

株式会社RYコーポレーション 代表取締役CEO 横山藤雄氏

PRバナー
「キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

2016年6月22日水曜日

株式会社SOLE 代表取締役 上野陽治氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社SOLE 代表取締役 上野陽治氏が登場。
本文より~

会津若松市にて、過ごした少年時代。

福島県の西部一帯を占める会津地方の中心が、会津若松市である。今回ご登場いただく上野氏が会津若松に生まれたのは1982年のこと。2人兄妹の長男である。
「小学校の頃は、近くの阿賀川で魚を取ったり、泳いだりして遊んでいました。周りの子は、ファミコンを持っていましたが、うちは買ってもらえなかった。ぜんぜん裕福じゃなかったからです」。
成績は10番目くらい。小学4年生からバスケットボールをはじめ、中学校ではバレー部に入った。「野外でするスポーツがどうも苦手だった」と上野氏。バレー部は結構な強豪校で、上野氏の1つ上の学年までは、会津市の大会でつねに優勝していたそうだ。「私たちの代で監督が代わって、急に弱くなりました(笑)」。なんでも監督自身、バレーの経験がなかったそうだ。

ツイストパーマをかけ、茶髪で決める。

会津工業高校に進学した上野氏は、音楽に熱中する。音楽は野外でやらないから問題がない。バンドを結成し、ライブハウスで演奏した。チケットをさばくついでに、女の子にアプローチし、連絡先を聞いたりもした。多少なりとも利益がでたというから、人気バンドだったのだろう。もっとも、親から小遣いを貰ったことがない上野氏である。ケータイ代のために、セブンイレブンでアルバイトもしなければならなかった。
「音楽は、高校1年からスタートしました。当時は、パンクが流行っていて、私の頭もツイストパーマで茶髪です。だからと言って、真面目じゃないわけじゃありません。ただ、担任の先生がおおらかな人だったから許されたものの、そうでなければ、ずいぶん怒られたかもしれない。バイトも、髪型も、校則違反です(笑)」。
「セブンイレブンのバイトは楽しかったです。オーナーがとてもいい人で、私らをかわいがってくれました。展示会にも連れていってもらったし、経営のことも、勉強させてくれました」。
仕入れから流通、販売まで。原価がわかれば、利益構造もイメージできる。すべてがわかったわけではないが、高校時代から、そういう経営目線を持っていたことが伺える。
「そうですね。たしかにあの頃から経営に関心があった気がします。ライブだって、チケットをさばいて会場費を払って、残りが利益でしょ。さばいただけ、利益になる。そういう単純な構造に惹かれたんでしょう」。

6年間の下積み時代。

「お金があったら、東京に行っていたかもしれません」と上野氏は言う。会津だけでは、なかなかいい会社に出会えなかったからだ。「当時、カリスマ美容師っていうのが流行っていて、一時は、美容師もいいなと思ったんですが、専門の学校に行くにも、とにかくお金がない。とはいっても普通の就職を考えていたのは最初だけで、卒業する頃には、独立を前提に考えていました。そして、就職したのがバーです。いちばん、給料もいいし、何より私にも独立できそうな気がしたからです」。
月23万円。たしかに給料も悪くなかった。両親に反対されたが、聞く耳をもたなかったそうだ。「合計6年間。昼夜逆転の生活です」。この6年間を上野氏は、「下積み」と明言している。6年間、独立という目標を見失わなかった証拠ともいえるだろう。
独立すると明言していたが、実際に独立すると、後指をさされたそうだ。あいつにできるわけがない、と。「いわば、同業のライバルですから、そう言われてもしかたありません」と上野氏は悪きっている。
ところで資金はどうしたんだろう。「いっときは300万円くらいまで貯めたんですが…」と苦笑い。
一人暮らしを始め、車も購入して、使ってしまったそうだ。
「そういう意味では、目標を見失いかけていた時期があったのも事実です。これではまずい、と思ったのが23歳の時です」。再チャレンジ開始。1年間で150万円を貯蓄した。これが、独立の元手となる。

・・・続き
株式会社SOLE 代表取締役 上野陽治氏
PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)