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2015年11月24日火曜日

LA BETTOLA da Ochiai オーナーシェフ 落合 務氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にLA BETTOLA da Ochiai オーナーシェフ 落合 務氏登場。
本文より~

別荘で、産声をあげた落合氏。

1947年、落合氏は祖父が所有する鎌倉の別荘で生まれた。別荘を所有していたことからも想像できる通り、祖父はかなりの資産家だったそうだ。
「鎌倉生まれ、足立区育ちです」と落合氏。「当時、祖父はメッキ工場を営んでいて、かなり裕福でした。私の父と母が結婚したのは18歳の時で、母は19歳で私を生んでいます。一児の父になっても、父は定職に就かなかったそうで、私も含めて家族3人が、祖父に扶養されているようなものだったと聞いています」。
日曜日になると親子3人、自転車で浅草や上野に遊びに出かけたそうだ。「そんな贅沢をしても大丈夫な幸せな時代だったんです」と氏は語っている。

子どもの頃、なりたかったのは商社マン。

いままでインタビューしてきたシェフたちは、たいてい「子ども時代から手先が器用だった」といった。落合氏にも聞いてみたが、氏は「釘も打てず、ノコギリも上手に使えず、絵もへたくそだった」と笑い声をあげた。料理にも特段、「関心はなかった」という。
成績は優秀。小学校5年生から四谷大塚に通い、日大付属中学に進学している。
「将来は、商社マンになりたいと思っていたんです。父のように慕っていた叔父も『それがいいぞ』と言ってくれていたし…。商社マンという仕事を正確に把握していたわけじゃないんですが」。
落合氏と同年代の人に、子ども時代の話を聞けば「海外生活など思いもつかなかった」という答えが返ってくるだろう。それほど当時、「海外」は遠い存在だった。落合氏にしても、「海外で暮らす」ためには、商社で働くという手段しか思い浮かばなかったのではないだろうか。
ともかく「いい大学に入り、大きな商社に入って、海外へ羽ばたく」。落合氏の夢は、未来へと広がっていた。

「もうやってられるか」と吠えた日のこと。

「成績が良かった」と書いたが、これは周りの期待に応えようと健気に努力した結果だったかもしれない。氏は、高校時代のことと言いながら、「私は成績が優秀だったので、みんなから期待されていたんですよ。当時は、その期待に応えようと、私も頑張ってきたわけですが、だんだん『どうでもいいや』って思うようになっていくんです」と語っている。
落合氏が高校に上がる頃には、すでに祖父が事業を失敗していたこともあって、以前のように裕福というわけにはいかなかった。それでもまだ動産、不動産は沢山あった。「父が食べ尽くすのに、一生かかったくらいにはね」と落合氏は、苦笑する。
「もっとも堪えたのは、祖母が亡くなったことです。特に、父の3回目の離婚が、祖母の死に直結していたこともあって、かなりショックを受けたんです」。
落合氏にとって祖母は、特別な存在だった。裕福な環境だったが、父が何度も離婚を繰り返すなど複雑な家庭環境のなかで、いつも落合氏を支えてくれていたのが祖母だったからである。落合氏と落合家を結ぶ糸がプツリと切れてしまったようだった。
「もうやってられるか」。
落合氏は、空に向かって吠えた。

高校、中退ス。

高校1年、落合氏は、中退を決意する。親に轢かれたレールを走るのはもう懲り懲りしていたから。もちろん、「いい子」も卒業だ。「ただ、目標もなく、中退なんていうのが悔しくてね。それで職人だ、コックだって言ってね。実は、口実が欲しかっただけなんだ」。
父が、日本橋にある、知り合いのレストランオーナーを紹介してくれた。とりあえず、目指すはフレンチの料理人。動機はともかく、自ら決めた初めての道だった。

ホテルニューオータニの厨房に立つまでの話。

「初めてですから、比較はできなかったんですが、『何か違うな』と思ったんです」。父が紹介してくれた店での話である。
「素直にその気持ちをオーナーに伝えました」と落合氏。すると、オーナーは落合氏の思いをしっかり聞いて、別のレストランを紹介してくれたのだという。
「紹介してもらったのは、『トップフード』というお店です。幸いにも私は人にとても恵まれました。この店の方々もみんないい人ばかりで。しかし、この店もあとにすることにしました。そして、最終的に『ニューオータニ』に落ち着きました」。
「ホテルがいい」という知人のアドバイスが決め手だったそうである。ともかく、落合氏の人生の前半を彩る「ホテルニューオータニ」時代が幕を開ける。

・・・続く
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2014年6月10日火曜日

リストランテMASSA オーナーシェフ 神戸勝彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にリストランテMASSA オーナーシェフ 神戸勝彦氏が登場。
本文より~

果樹園の下で。

果樹園が広がっていた。神戸勝彦の小さな頃の記憶である。
「もともと祖父が稲作をやり、次に果樹園を始めた。それを私の父親が引き継いだんです。兄弟は3人。弟と妹がいました。小学校は1クラスだけで40人です」。
山梨市。県名と同じだが、山梨の県庁所在地は、山梨市より西にある甲府市である。「人口3万人くらい」と神戸。「農業やっていると結婚できないんです。嫁さんが来ないから(笑)」。過疎化は、現在進行形だそうだ。
神戸が子どもの頃も、人口が多かったわけではない。もっとも山梨市の駅の近くには料理店も多く、うち2軒の中華調理店は、神戸の親戚が経営されていたそうである。「子どもの頃は良く食べに連れてもらった」といって目を細める。
神戸が初めて料理をしたのは、小学校4年生の時。
「同級生に和菓子屋の子供がいて、その子のうちでクッキーをつくったのが最初ですね。小学4年生でした」。
中学校になると生徒も増え、6クラスになった。高校では11クラス。高校は山梨でも有名な日川高校。
「林 真理子さんやジャンボ鶴田さんも卒業生なんです」と神戸。ちなみに調べてみると両氏以外にも、有名人、著名人、政治家も名を連ねていた。彼らの中には、山梨に残った人もいるのだろうが、大半は山梨をあとにして、東京へと旅立っていったのではないか。神戸も、その1人である。

海外1人旅。

「色々なものを見たかった」と神戸。神戸もまた山梨を離れ、東京の駒澤大学に進学する。むろん、独り暮らし。「授業にはちゃんと出席していました。その一方で、バイトにも精を出しました。もっともバイト先は一か所で下北沢の和食店です。4年間働きました」。
「食材に対する考え方を教えていただいたのはこちらの店。卒業する頃には、すでにイタリア料理をしようと決意していたのですが、それもこちらの大将の影響が大きかったように思います」。
神戸にとって、かけがえのない一つの縁がそこにはあった。
一方、色々なものを見たかったという思い通り、海外も旅行した。2年の夏にアメリカへ2ヵ月、3年夏にヨーロッパへ2ヵ月半。春休みには、東南アジアへ3週間。
大学4年時には既にイタリア料理をやりたいと思っていたので、フィレンツェの語学学校へ3ヵ月留学。卒業時、1ヵ月さらに留学した。こちらもまた縁である。
海外を見て、また留学して、「自分のちっぽけさ」を痛感したという。
ちなみに、旅行といっても、優雅な旅ではない。リュックサック一つ背負ってグレイハウンドバスに乗り旅に出た。
「アメリカはサンフランシスコから入って、オレゴン、バンクーバー方面に行き、飛行機でワシントンまで行って、ニューヨークへ、そこから南下してマイアミ、キーウェストまで行きヒューストン、ダラスを回り、テキサス州に行き、ラスベガス、ロサンゼルスに行って、そこからアウトしました」。3日に1回はずっとバスの中だった。1泊10ドルほどのユースホテルにも泊まった。2ヵ月間の旅費が30~40万円。「困らない程度には英語が話せるようになった」そうだ。ヨーロッパの旅もある意味凄まじい。
「ロンドンから入って、アムステルダム、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアに行きイスタンブールから飛行機でチューリッヒへ行き、パリ、スペイン、ポルトガル、ニースの方に行きベニス、イタリアを回った」とのこと。
いずれも独り旅である。
未知なるものに対する強い想い。そういう想いが神戸のなかに渦巻いている証の一つだろう。むろん、「イタリア料理を」と思ったのも、この旅のお土産の一つだった。
そして、留学して分かったことは、自分の小ささと、自分は色々な人に支えられてここまで生きてこれたということだった。
帰国後、料理人を目指すと打ち明けたところ、家族や親戚に大反対された。ただ、せっかくの1度の自分の人生、とのことで神戸は料理人として目指すことを決意した。・・・続き
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