2014年6月10日火曜日

リストランテMASSA オーナーシェフ 神戸勝彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”リストランテMASSA オーナーシェフ 神戸勝彦氏登場。
本文より~

果樹園の下で。

果樹園が広がっていた。神戸勝彦の小さな頃の記憶である。
「もともと祖父が稲作をやり、次に果樹園を始めた。それを私の父親が引き継いだんです。兄弟は3人。弟と妹がいました。小学校は1クラスだけで40人です」。
山梨市。県名と同じだが、山梨の県庁所在地は、山梨市より西にある甲府市である。「人口3万人くらい」と神戸。「農業やっていると結婚できないんです。嫁さんが来ないから(笑)」。過疎化は、現在進行形だそうだ。
神戸が子どもの頃も、人口が多かったわけではない。もっとも山梨市の駅の近くには料理店も多く、うち2軒の中華調理店は、神戸の親戚が経営されていたそうである。「子どもの頃は良く食べに連れてもらった」といって目を細める。
神戸が初めて料理をしたのは、小学校4年生の時。
「同級生に和菓子屋の子供がいて、その子のうちでクッキーをつくったのが最初ですね。小学4年生でした」。
中学校になると生徒も増え、6クラスになった。高校では11クラス。高校は山梨でも有名な日川高校。
「林 真理子さんやジャンボ鶴田さんも卒業生なんです」と神戸。ちなみに調べてみると両氏以外にも、有名人、著名人、政治家も名を連ねていた。彼らの中には、山梨に残った人もいるのだろうが、大半は山梨をあとにして、東京へと旅立っていったのではないか。神戸も、その1人である。

海外1人旅。

「色々なものを見たかった」と神戸。神戸もまた山梨を離れ、東京の駒澤大学に進学する。むろん、独り暮らし。「授業にはちゃんと出席していました。その一方で、バイトにも精を出しました。もっともバイト先は一か所で下北沢の和食店です。4年間働きました」。
「食材に対する考え方を教えていただいたのはこちらの店。卒業する頃には、すでにイタリア料理をしようと決意していたのですが、それもこちらの大将の影響が大きかったように思います」。
神戸にとって、かけがえのない一つの縁がそこにはあった。
一方、色々なものを見たかったという思い通り、海外も旅行した。2年の夏にアメリカへ2ヵ月、3年夏にヨーロッパへ2ヵ月半。春休みには、東南アジアへ3週間。
大学4年時には既にイタリア料理をやりたいと思っていたので、フィレンツェの語学学校へ3ヵ月留学。卒業時、1ヵ月さらに留学した。こちらもまた縁である。
海外を見て、また留学して、「自分のちっぽけさ」を痛感したという。
ちなみに、旅行といっても、優雅な旅ではない。リュックサック一つ背負ってグレイハウンドバスに乗り旅に出た。
「アメリカはサンフランシスコから入って、オレゴン、バンクーバー方面に行き、飛行機でワシントンまで行って、ニューヨークへ、そこから南下してマイアミ、キーウェストまで行きヒューストン、ダラスを回り、テキサス州に行き、ラスベガス、ロサンゼルスに行って、そこからアウトしました」。3日に1回はずっとバスの中だった。1泊10ドルほどのユースホテルにも泊まった。2ヵ月間の旅費が30~40万円。「困らない程度には英語が話せるようになった」そうだ。ヨーロッパの旅もある意味凄まじい。
「ロンドンから入って、アムステルダム、ドイツ、ハンガリー、ユーゴスラビア、ブルガリアに行きイスタンブールから飛行機でチューリッヒへ行き、パリ、スペイン、ポルトガル、ニースの方に行きベニス、イタリアを回った」とのこと。
いずれも独り旅である。
未知なるものに対する強い想い。そういう想いが神戸のなかに渦巻いている証の一つだろう。むろん、「イタリア料理を」と思ったのも、この旅のお土産の一つだった。
そして、留学して分かったことは、自分の小ささと、自分は色々な人に支えられてここまで生きてこれたということだった。
帰国後、料理人を目指すと打ち明けたところ、家族や親戚に大反対された。ただ、せっかくの1度の自分の人生、とのことで神戸は料理人として目指すことを決意した。・・・続き
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