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2025年1月29日水曜日

株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏登場。

本文より~

ピュアな少年と座右の銘と。

奈良出身。いまでもイントネーションに関西弁が残っている。今回、ご登場いただいた株式会社梅の花の代表取締役社長COO、鬼塚さんの話。
小学校は奈良女子大学文学部附属。奈良女子大学は奈良公園にちかく鹿も学内を闊歩しているらしいが、ネットで調べてみると附属の小学校は少し離れたところにあった。
中学校もおなじ女子大附属に進学したが、中学2年の時に父親の転勤で兵庫県西宮市に引っ越している。
姉弟は姉が1人。
小学生時代は「積極的なのか、消極的なのかよくわからない子どもだった」と鬼塚さん。「内弁慶」とも表現されているが、野球チームを作り、練習のスケジュールや内容を決めていたというから、大人しい少年というイメージではない。
「当時の担任の先生から教わった 『人のふり見て我がふり直せ』が座右の銘」と鬼塚さん。
「中学進学時は東大寺学園を受験しましたが惨敗。それで、そのまま女子大附属に進み、野球部に入部します。その後2年生になる時に西宮の市立中学に転校しました」。
転校先の中学では野球部ではなく、水泳部に入っている。
「マンモス校だったこともあって部員が100名もいたんです。何より坊主頭にしなくっちゃいけなかったので。それがいやで。水泳部にしたのは、どう見ても一番ぬるかったもんですから(笑)」。
どんな中学生でしたか?と質問すると、鬼塚さん曰く、「ごく普通の中学生だった」とのこと。
鬼塚さんは「普通」というが、子どもの頃から「良いことは真似、良くないことは戒めとする。そして、 相手の立場で考える」ようにしていたというから、普通のレベルがちょっと高い。
ここまでが、鬼塚さんの少年期。話のなかで、ピュアな鬼塚少年が何度も姿を現した。

なんとか、なんとか、大学卒業。

「高校は関西学院高等部に進みました」。もちろん、有名校だ。「苦手な英語の長文問題がなかったからラッキーだった」と鬼塚さん。
「高校に入学して両親が離婚します。これも一つのターニングポイントだった気がします。それと高校1年の秋くらいから楽器に目覚めて吹奏楽部に入ったことも、ターニングポイントだったかもしれません」。
「吹奏楽部での担当はパーカッションだった」そうだが、鬼塚さんは、「じつはドラムがしたかった」という。
「でも、軽音楽部がなかったから、吹奏楽部でしたし、マンションだったからさすがにドラムは置けないでしょ(笑)。それで、ベースギターを購入して、高2の時に山下達郎のコピーバンドに加入して」。
ライブハウス、学祭などで演奏したそうだ。つまり、かなり巧い。念願かなって軽音楽部に入ったのは大学に進学してから。
「ただ、しばらくして所属する意味がわからなくなって幽霊部員になりました(笑)。大学ですか? エスカレーターで関西学院大学商学部に進学しています」。
関西学院大学といえば、関西のなかでもトップの大学の一つ。仁川の阪神競馬場からちかいらしい。
「大学には原付で通っていました。ただ、あんまり行かず、勉強もしなかったですね」。
「先輩から『大学は勉強しなくてもやっていける』と言われていて、鵜呑みにしちゃったんです(笑)」。
かわりにアルバイトは熱心だった。
「『シェーキーズ』でしょ。『宝塚ホテル』のコーヒーショップ、『神戸オリエンタルホテル』ではフレンチレストランで働きました」。
当時の時給は、「シェーキーズが500円、ホテルが800円だった」という。いまと比較すれば半値程度。「それでも、ほぼ毎日、仕事をしていましたから10万円くらいにはなりました。ただ、バイトに専念していたおかげで、3年生で留年が確定。卒業には140単位がいるんですが、4年終了時点で残り、40単位」。
「さすがに5年の時には大学に通いました。なんとか、なんとか卒業できたって感じで、それから15年くらい『卒業できない』『卒業試験に間に合わない』って夢を見てうなされました(笑)」。
今や、大会社の社長にもそういう学生時代があったと知ると、人生、何をしてもマイナスはない。そして、社会も捨てたもんじゃないと思えてくる。

就職先は、阪神百貨店。

<就職はいかがでしたか?>
「時代は悪くなかったんですが、1年留年していますからね。それでも、まぁ、落ちたところもありましたが、阪神百貨店に就職することができました。これが1989年のことです」。
<百貨店と決められていたんですか?>
「大学時代、ホテルでアルバイトしていたでしょ。英語ができないんでホテルは除外して(笑)。ただ、ホテルで身についたホスピタリティがあったんで、百貨店がいいんじゃないかって。単純な発想ですね」。
いただいたプロフィールをみると、入社して3年後に経理部に。10年後に経営企画室に異動。
2005年には経理部経理課マネージャー、2006年には経営企画室マネージャーに昇格。
「もう一つのターニングポイントは2007年に『阪神百貨店』が『エイチ・ツー・オーリテイリング』の傘下に入ったことですね。そちらで経営統合推進室・部長を拝命します」。
阪神百貨店は大阪の中心地である梅田にあり、阪急百貨店と道路をへだて、ならんで建っている。2つの百貨店は今もそうだが、長らく大阪のランドマークだった。
もともと資本は異なっていたが、2007年、株式交換により「エイチ・ツー・オー リテイリング株式会社」の完全子会社となり、阪急百貨店と経営統合している。
「おなじ百貨店と言っても、言語が違っていて最初は戸惑いました」。経営統合と一口に言っても、現場では一言では済まされない苦労がある。混乱もあったに違いない。
その後も鬼塚さんは昇格を続け、2009年には経営管理室・関連事業担当部長、2010年には経営企画室・予算計画部長になっている。
だんだんと、経営の中枢にちかづいている。

出向、そして「梅の花」へ。

「今まで資本がかわったと言っても、阪神百貨店というブランドの下で仕事をしてきたんですが、初めて外にでるというか、2011年に『家族亭』に出向します」。
<ご自身で希望されたとお伺いしています>
「そうなんです。当時私はM&Aの業務に関わっていて『家族亭』さんもそのうちの1社だったんです。いろいろとお話しているうちに惹かれて、社長さんにお願いして」。
<出向を希望されたのは、家族亭を買収されたからではないんですね?>
「買収したからではなくって。もともと飲食に興味があったのと、会社から少し距離を置いてみたかったんです」。
<それで「家族亭」の社長にお願いされたんですね?>
「そういうことです」。
プロフィールでは2011年10月「家族亭」経営企画室・執行役員、IR・広報部長となっている。
「ただ、出向期間は1年ちょっとと短かったです。その後『エイチ・ツー・オーリテイリング』と『梅の花』が資本提携することになって、今度は『梅の花』に出向になりました」。
2013年1月「梅の花」経営計画室部長。2015年12月「梅の花」取締役経営計画室長。
「出向期間は2013年1月から2016年3月のほぼ3年間。出向が終わるタイミングで今の会長ですが、本多さんから『残らないか』とお誘いいただいたんです。ちょうど私が50歳の時です」。
「梅の花」の本社は福岡県の久留米市にある。単身赴任。「子どもが中学進学ということもあって連れて行けませんでしたから」。
2015年12月、正式に「梅の花」に取締役として経営に参加。以来、経営の中枢を担って来られたことになる。
プロフィールをもとに簡単に触れておくと、2017年には「梅の花」にて取締役経営計画室長を務め、子会社である「古市庵」の代表取締役COOを兼務。2019年には「古市庵」の代表取締役CEOとなり、その1ヵ月前には同じく子会社の「三協梅の花」代表取締役を兼務。
同年「梅の花プラス」代表取締役CEOも兼務。「梅の花」では子会社を含めたグループのハンドリングを担当。そして、2024年7月「梅の花」のCOOに抜擢されている。

・・・続き

株式会社梅の花 代表取締役社長COO 鬼塚崇裕氏

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2017年12月19日火曜日

株式会社梅の花サービス西日本 代表取締役COO 吉田 訓氏(旧姓 児玉)登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社梅の花サービス西日本 代表取締役COO 吉田 訓氏(旧姓 児玉)登場。
本文より~

小学6年生。4人でパーティを組み、300キロの旅にでる。

「こだまく~ん」。グランドにいると校舎の窓から歓声が降ってきたのは、高校時代の話。中学は卓球部。恋の話もある。仲間といっしょに自転車で300キロの旅をしたのは、小学6年生の時。
「いま、こうしてお話しているといろんなことを思い出しますね」と、今回、ご登場いただいた株式会社梅の花サービス西日本、代表取締役COO、吉田訓氏。ちなみに、吉田氏は旧姓を児玉という。戦国武将である毛利家の末裔なのだそう。冒頭と、以下は、そちらの児玉の姓で話を進める。
「父方の祖父は、下関で学校の校長などを務めた人です。父は、生命会社で勤務」。父親の仕事の関係だろう。広島県の福山市に落ち着くまでは、転勤もそれなりにあったそうだ。
「もう1人の母方の祖父は、国鉄で勤務。福岡では要職にも就きますが、48歳で早期離職したと聞いています。私はこの福岡の祖父に溺愛されて育ちました/笑」。
初孫なのだという。記憶にはないが0~3歳の頃は、特別に新幹線の運転席にも座ったことがあるそうだ。当然、鉄道が大好きになる。
「小学校に上がってからは、夏休みになると決まって1人で新幹線に乗って、母方の祖父の家に向かいました」。駅では、祖父が今か今かと待っている。そして、児玉氏は、丸々、1ヵ月、祖父の家で過ごした。
「小学校時代のいちばんの思い出は、仲間4人でパーティを組んで、自転車で300キロの旅をしたことですね。そうです。福山から下関まで。パンクして泣くわ、帰るといって駄々をこねる。そういうのをなんとかなだめすかして」。
高速道路ならわずか3キロの道のりが、一般道のため15キロ。アップ・ダウンの坂を上り下りしついた先の、高速道路の出口には自転車70円と書かれていた。そんな笑い話もある。
「とにかく、そうやってですね。祖父の家につくんですが、最初、みんなでやったことは風呂に入って、尻が3つに割れていないかどうかを確認することでした/笑」。
尻はサドルにこすられ、ヒリヒリしていた。
中学は、1人の少女に憧れ、彼女とおなじ卓球部に。しかし、「好きだ」という思いを口にすることなく、卒業する。
「中学の時は、ちょっとくすぶった時代ですね。だいたい、児玉っていえばこういう奴ってイメージがついていて」。なかなかはっちゃけることができなかったそうだ。5歳からピアノを習っていて、学校で演奏もした。なんとなく、児玉氏がいわんとすることがわかる。「そう、それで高校はみんなとはちがう、離れたところにある学校に進学しました。イメージ一新ですね/笑」。

突然、目覚めた。「オレは医学部にいく」。

高校時代の児玉氏は、バイクに、バンドに、バイトに忙しい。もっともバイクといっても暴走するわけでもなく、バンドといっても、時々、ボーカルで歌っただけ。しかし、入学早々、かっこいい男子2位というランキングがつけられたほどのスタイルとルックス。ボーカルで歌うだけで、校舎から歓声が降ってきた。
バイトは、ファーストフード店で。「3年つづけ、3年生の時に店長が倒れられたので、かわって3ヵ月ですが店長の業務をしていました」。
高校3年といえば、まだ16~17歳である。彼からすれば20代でも、おばさん。そんな子どもが、同年代はもちろん、20代以上のアルバイトやパートを動かす。
「いい勉強になりました。いま、思えばね。ただ、まさか飲食の道に進むなんて思ってもいなかった。人間ってわかんないですね/笑」。
「表向きは、高校を卒業してすぐ、梅の花となっている」と児玉氏。隠しているわけではなく、説明するのが面倒だから。で、今回は、その面倒をお願いした。
「高校自体は進学校だったんですが、ぜんぜん勉強もしていませんでした。高校を卒業してからも何をするわけでもなく、ただ、ぷらぷら。時々、ファーストフード店でバイトしたりして。ええ、お店からも『うちに就職しないか』と勧めていただきました。でも、その気にもなれない」。
もともと内向型なのだという。「プラモデルをつくったり、映画をみたり、1人でいるのが好きなタイプ」。そういう一面もあるのだそう。
それが1年つづき、2年目の春に突然、「医者になる」と思い立つ。福山の親元を離れ、下関の大好きな祖父の下へ向かい、相談する。
「国立の医学部です。とんでもないですよね。それまで勉強なんかしてこなかったわけですから。でも、祖父は、否定せず、逆に背中を押してくれました」。寮のある予備校に進む。それくらい追いこまないと追いつけないと思ったから。
「成績ですか。最初は偏差値も下のほうだったんですが、最終的には、高校時代にもやっていなかったから独学なんですが、生物が80以上で、トータルでいえば70には迫っていました」。
センター試験は9割、取れた。しかし、医学部。それで当然だ。「二次試験であがっちゃって。数学の試験なんか、どうだったのか記憶にもないんです/笑」。
第二志望の、工学部には合格した。しかし、本位ではなかった。それで、2年で大学を辞めた。
・・・続き

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