“飲食の戦士たち”に株式会社MaruDining 代表取締役社長 加藤涼太氏を取り上げました。
父の弁当、宣言。
今回、ご登場いただいた株式会社MaruDiningの代表、加藤さんは1993年、横浜市に生まれている。旅行代理店に務める父。香港、サイパン、海外旅行にも行った。
「比較的、裕福だった」と加藤さんは小さな頃の記憶を思い浮かべる。「ただ、5歳以降、海外にも行っていない」と苦笑しながら、5歳以降の話をつづけてくれた。
「両親が5歳で離婚し、私は父と祖父母がいる茨城県の取手市に移ります。父は取手で起業し、2人は小さな団地の一部屋で暮らすようになりました」。
祖父母の家まで徒歩1分。父は起業したばかりでいそがしい。だから、私は四六時中、祖父母の家にいた。
「祖父祖母に育てられた」と加藤さん。学校ではさびしさを紛らわすようにはっちゃけた。だから、人気者だった。勉強もできたが、スポーツもできた。足が早く、中学ではサッカーだけではなく、短距離、長距離でも大会に出場して好成績を収めている。
サッカーは1年から準レギュラー。市の選抜にも選ばれた。高校ではいったんクラブチームに入ったが、1年で辞め、学校のサッカー部に。当然、レギュラーとなってピッチを駆け回った。
「父との暮らしで、今でも記憶に焼き付いているのは高校生になるときのことです。父が宣言するんです。『高校生になったら給食がなくなるから、オレが弁当をつくる』って」。
「いいよ」と加藤さんがいう。父は「いや、つくる」と言いはった。入学、初日、起床すると、台所はにぎやかなことになっていた。
父は、料理などつくったことがなかった。
「おいしくも、きれいでもなかった」と加藤さん。
「でもね。宣言どおり3年間、つくりつづけてくれたんです。あれを愛情って言わなければ、愛情って何かってことになりますよね」。
高校3年間、父の手作り弁当を食べ、ピッチをかけ、勉強もちゃんとした。
「クラブチームをやめたのは今でも後悔していますが、父親と移り住んだ取手での生活は、何物にも代えがたい時間だったのは事実です」。
加藤さんは遠くを観るようにして、そう言った。
狂犬が来た。
高校を卒業した加藤さんは、北千住にある帝京科学大学に指定校推薦で進学した。半年後、北千住でひとり暮らしをはじめた。先輩の紹介で、キャッチのアルバイトを開始した。
授業には出席したが、後期も終わりに近づく頃、進級が怪しくなった。加藤さんを含め3名が進級できなかった。
「もう一度、1年生ですが、今度は講義一つだけ。しかも、前期に講義はありません。だから、じゃぁ、うだつが上がらなかったキャッチのバイトを真剣にやってみようと」。
舞台は、上野。加藤さんは、夜を待たず繁華街で声をかけた。道を急ぐ人、すでに一杯ひっかけたであろう人、飲み屋を探している人、眼の前を通り過ぎる人たちに声をかける。ただ、真剣にといっても、それまでとかわらず空回りの日がつづく。
「そんなときに、狂犬が来たんです」と加藤さんは笑う。
「狂犬?」と聞き返すと、「私らの会社のなかで、『渋谷の狂犬』と言われていた人が、上野に派遣されてきたんです」。
狂犬が来ると知って、キャッチたちは散り散りになった。狂犬の強権が発動する。残ったキャッチもいなくなる。
「残ったのは、私だけ」と加藤さん。加藤さんにとってはただの狂犬ではなかった。
「まさに、その人との出会いがターニングポイントです」。
容赦なく尻を叩かれた。罵声も浴びせられ、ときには拳骨がとんできた。それでも、加藤さんは感謝している。
「キャッチというより、マネージャーです。客をキャッチしたら、その人、つまり狂犬に連絡するんです。彼は、店内の様子も把握していますから、『どこどこに何人』とテーブルまで割り当てるんです。外にいて全部をコントロールしています。雨が降り出したら、すぐ店に連絡して、『二次会はない。客を帰すな』と指示をとばします」。
狂犬の下、闘犬くらいにはなった。狂犬の下ではたらきはじめると、月収は18万から35万まで、倍増した。
加藤さんは大学3年生まで進級したが、梅雨が始まる頃には自主退学。正社員となって狂犬の下ではたらきだした。ちなみに、加藤さんは、「狂犬が来たことで、上野の街はがらりとかわった」という。加藤さんにすれば、まさにヒーローだった。
22歳、月50万円のオファーをける。
正社員になって加藤さんは、狂犬の下で、キャッチと店舗のコントロール、スタッフたちの管理をマスターしていく。ただ、疑問がなかったわけではなかった。
「狂犬は、いわば恐怖政治です。でも、私はそういうタイプじゃない。だから、スタッフの管理については、私流でやると宣言しました」。
「仲間となる」が加藤さん流のスタイル。
「私流でも業績は悪くなかった。ただ、バイトといっしょに自腹で飲みに行ったりと、お金は残んなかったですね(笑)」。
加藤さんは管理者ではなく、プレイヤーをつづけた。
「キャッチをつづけているとちがった疑問もでてきます。紹介する飲食店に価値があれば、今でもキャッチは販促の一つだと思っています」。
「その価値があるかどうかは、キャッチにとっても大事なんです。しくみがわかってくると、だんだんとうしろめたさがでてきて。ともだちや親に紹介するかというと、『しない』わけなんですよ」。
「そういうことを思っているうちに、じゃぁ、価値ある店をつくろうと独立に心が傾いていきます」。
とはいえ、店舗運営のノウハウはない。加藤さん、22歳。月給50万円のオファーを断って、会社を退職する。
「まるでキャバ嬢が、昼の仕事につくみたいです」と笑う。キャッチを卒業した加藤さんは、リクルートの代理店でホットペッパーの営業を開始する。
数ヵ月後には、ホットペッパーの営業と同時に、居酒屋のバイトを掛け持ちする。
「だし巻き卵一つ焼けなかったから。それに、魚もさばけないといけないでしょ」。加藤さんは、目標に向け、まっすぐ進んでいく。
そんな加藤さんをみて、バイト先のオーナーが「業務委託」で店を任せてくれることになった。
2020年、WHOがパンデミックを宣言。
「神楽坂の雑居ビルの6階と7階の2店舗」と加藤さん。
「もう一人、今の副社長がおなじように船橋で業務委託をとってきました。これで、業務委託で3店舗です。創業メンバー3名と、スタッフ3名。ほぼキャッチ時代の仲間や部下です。3店舗で6名。『いける』と2020年の1月1日にやるぞ、と、みんなで正式に独立起業を宣言します」。
キックオフ。プレー開始のホイッスルが鳴る。その一方、コロナウイルスが少しずつ正体を明らかにする。
「いつくらいでしょう。日を追うごとに、神楽坂から1人、2人と足音が消えていきます。すっかりいなくなったのは、3月かな、4月かな」。
WHOがパンデミックと宣言したのは3月12日。東京都を対象とした緊急事態宣言は、4月7日。
「固定費だけがでていきます。月200万円。スタートしたばかりで資金はありませんでした。役員3名は、給料なし。残るスタッフ3人には、月10万円ずつ渡しました」。
「とにかく、笑っていこう。役員3人で、それだけを決めました」。
具体策はなにもない。だから、せめて。
「笑っていよう、宣言」。
「でも、泊まっていたサウナのカプセルで1人になると、『どうしよう』って。パンデミック相手に、答えがでるわけではないのに、ね」。
なにが正しいかわからなかった。ただ、黙って潰れるわけにはいかなかった。
「仲間といっしょにね。私は寂しがりやだから、せっかくの仲間がバラバラになるのがいちばんいやだったんです」。
「神楽坂だけだったら、潰れていたはずです。幸い、副社長が取ってきてくれた船橋には、まだ人がいたんです。だから、神楽坂をクローズして、みんなで船橋に行って。朝から店の下でマスクを売って。昼はお弁当を売って。ウーバーイーツもして。朝から晩までキャッチをして。私らが持っているすべてを叩き込んで、がむしゃらに。でも、笑顔をわすれずに」。
船橋で、6人が、コロナ下でも、笑顔を絶やすことなく、お客様と接した。
「都内は依然きびしかったので、神楽坂は手放し、船橋をメインにして、その後、福島県の福島駅でも新たな店舗をオープンします」。
コロナ禍で、知らないロケーション。
「最初、出店のお話をいただいたときは悩みました。ただ、その一方ではやるしかないわけです。給料だってだせていなかったのでなおさらです」。
飲食のキーワードを調べた。「すると、福島では馬肉と日本酒が上位だったんです。それに都内とちがって、福島にあるのは、大半が総合的な居酒屋だったんです。専門店がなかったから、キーワードで上位だった『馬肉』と『日本酒』の専門店をオープンしたらいけるんじゃないかって。はじめて、マーケティングをしました」。
船橋で業績は上がり、コロナ禍でできた借金も返済できた。福島でも、狙い通り専門店が大ヒットする。
「福島の固定費は、神楽坂のほぼ1/10。だったら、守りじゃなく、攻めようと。これがうちの一つの成功モデルになっていきます」。
地方×専門店×低賃料。
その後、ホームページにあるように、北海道、岩手、新潟、大阪、福岡などにオープンを重ねていく。「#カキもビールも『生』がスキ。」「大衆馬肉酒場 うまる」「銀シャリ鮮魚 オサカナマルシェ」「日本の酒と馬の肉 ウマ」「だし劇場◯△□(まるさんかくしかく)」「餃子酒場肉汁とっつぁん」。2025年10月現在、5ブランドを展開している。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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