2025年10月7日火曜日

株式会社white star(『TANIARASHI』六本木) 代表取締役 山口 俊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社white star(『TANIARASHI』六本木) 代表取締役 山口 俊氏登場。

本文より~

定位置は、ピッチャー、4番。

100キロ超のストレートが唸る。バッターボックスに立つと、相手ピッチャーは、その威圧感に圧倒される。何しろ体がデカい。バット一閃、高々と舞い上がったボールは外野の頭を超え、転々とする。
ピッチャー、4番。
これは、野球をはじめてから山口さんの定位置だった。お父様は、元関取。山口さんは、お父様に似て小学生6年生で170センチメートルはあったそう。
中学でも当然のように、ピッチャーで、4番。
中学の頃には140キロくらいでていたのかもしれない。
「とにかく、体が大きかったので」と山口さん。
プロのピッチャーは、兎角、我が強い人という印象だったが、山口さんは想像とは違った。
<断トツだったでしょ>と水を向けても、「まぁ、そうですね」とやわらかなトーンで返答。相手をねじ伏せるマウンドの姿と違い、温厚なビジネスマンといった印象だった。
<マウンドの姿とはちがいますね>というと、笑って頷かれたかもしれない。
しかし、今のビジネスの話になればスイッチがかわる。代名詞だった150キロ超えのストレートのようなスピードで、話が進んでいくことになる。
もうおわかりだと思うが、今回、こ゜縁がありご登場いただいたのは、元メジャーリーガーの、ピッチャー、山口俊さんである。

メジャーリーガーを育てた白米。

山口さんの経歴は、様々なメディアで語られているので、簡単に触れることにする。山口さんは、大分の強豪校である「柳ヶ浦高等学校」に進学。1年時から甲子園に出場。ドラフトでは横浜ベイスターズから1巡目で指名され、11年、エース、クローザーとしてマウンドで戦い続ける。
その後、読売ジャイアンツに移籍。移籍2年目にはノーヒットノーランを含む9勝。翌年の2019年にはハーラートップの15勝をあげ、最多勝、最高勝率、最多奪三振、ベストナインのタイトルを総なめ。
その翌年、小学生時代から目標だった大リーガーをめざし、海を渡った。
プロになってからの話はとくに取り上げられていたので、高校生時代の話を少しする。
「野球部は全員、寮生活です。当時のことですから、上下関係はそれなりに厳しかったですね」。
部員数120名。
----寮ではどのような生活でしたか?----
「野球部の寮生活といえば、たいていそうですが、とにかく白米です」。
----白米、ですか?----
「寮に入ると、外界とはシャットダウンされます。朝5時半にはグランドに出て練習。昼練と、5時間目以降も、体育の授業という名の練習です。もちろん、そのあとも練習」。
きりがない練習漬けのなかで、ご飯は楽しみに違いないと思っていたが、そうではないらしい。白米の続き。
「朝飯が1200グラム、昼が800、夜が1800です。メインは少々。これは、全員のノルマです。今のようにプロテインも一般的じゃなかった時代です」。
----つまり、白米?----
「そうです。正月に数日オフがあるんですが、それ以外は、白米との戦いです(笑)」。
あるある話なんだろうが、食が細い球児には、けっこうきつい。
今のように科学的なトレーニングも広く知られていない時代。ピッチャーの山口さんは、とことん投げ込まされた。
土日の練習試合は完投。その翌日にも200~300球投げた、という。当時は、それが当然だった。
試合が終れば、もちろん白米との戦いが始まる。
「高校生の青い春は、ぜんぜんなかったですね」と山口さん。
----つらくなかった?----
「『つらい』とか、そういうのはないですね。高校になると、プロへ行った先輩もいましたから、私のなかでもプロのマウンドで投げることがリアルに想像できるようになってきました。ただ、プロになることが目標だったら違っていたかもしれません。私の場合はもう、プロになることではなく、プロでどうするか、どうアメリカに行くか。望む世界が違っていましたから、つらいという意識はなかったです」。
頭のなかを占めている思いは、「どうすればメジャーの選手がキリキリ舞いする速い球が投げられるのか」。それだけ。だから、山口さんは、黙々と投げ込み、黙々と白米をかきこんだ。
そんな山口さんを、監督や仲間の選手はどうみていたんだろう。プロへ行く選手だと、山口さん以上に確信していたかもしれない。
「やつなら、まちがいない」。
そして、その予想は現実になり、横浜ベイスターズが山口さんを1位で指名する。

マウンドを降りた山口さんの、新たなチャレンジ。

----改めておうかがいします。山口さんは1987年、生まれですね?----
「そうです。大分県の中津で生まれます。私が物心ついた頃には、父はもう関取ではなく、祖父がつくった飲食店を継承していました。今、私が経営する『ちゃんこTANIARASHI』の本店です。こちらの店は今、兄が継承しています」。
-----関取というくらいですから、お父様も大きな体をされていたんでしょうね----
「181センチ、140キロだと言っていましたから関取としては平均だと思いますが、一般的には背も高く、体も大きいほうですよね」。
父に似て、兄弟は2人とも背が高い。3人で連れ立って歩けば、体格だけで山口さん一家だとわかったかもしれない。
----お父様は、有名人だったんでしょうね?----
「う~ん。どうでしょう。中津では、初の関取ですから、それなりだったと思います。ただ、父はそれを自慢することもなかったですし、人に感謝する人ですから。有名人というより、愛されキャラだったんじゃないでしょうか」。
人物評ではないが、山口さんはユニークな尺度の話をする。
「お年玉です。子どもにお年玉がどれだけ渡されるか。それが、親のネットワークを表していると思うんです」。
なるほどな、と。そういう尺度を気にされていると知って、改めて、山口さんの輪郭がクリアになる気がした。
----つながりや人間関係を大事にされるのは昔からですか?----
「そうですね。たぶん、父や母の影響もあると思います。少なくとも、子どもの時も、プロに入ってからも天狗にならないで済んだのは、父母のおかげです」。
ビジネスでも天狗になるとたいてい失敗する。
----ところで、どうして飲食だったんですか?----
「野球を辞めてどうするか、スポーツ選手だけではないですが、セカンドキャリアは多かれ少なかれ、悩むところです。解説者やコーチ、監督、球団のスタッフとなっていく選手もいますが、私は、野球以外の世界で生きていこうと思っていました。メジャーのマウンドにも上がることができて、後悔がなかったといえば嘘になりますが、やりきったという思いをもつことができたからかもしれません」。
----最初から、ちゃんこという発想はあったんですか?----
「いえ、野球以外でどんなビジネスをするか。最初から飲食ありきではなかったんです。ただ、食べることが好きだし、実家は飲食店だし」。
山口さんは、祖父がはじめ、父が育て、今、兄が経営しているちゃんこ鍋を東京で、と。アイデアがわく。
マウンドから降りた山口さんのチャレンジが、そうして始まる。

・・・続き

株式会社white star(『TANIARASHI』六本木) 代表取締役 山口 俊氏

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