in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏登場。
父の生き方に憧れた少年時代。
伊藤氏の父は山形県米沢市出身。父とその兄はスポーツ万能で、特に兄はノルディック複合でその才を発揮した。後に兄が競輪選手になったことから、その弟である父も兄と同じ道を選んだ。
兄弟と言えど性格は対照的。早々に鮮烈なデビューを飾った天才肌の兄は、練習嫌いが祟り数年で競輪界を引退。一方、努力家の弟は日々のトレーニングを欠かさなかった。40代前半で多くが引退する競輪競技において、父が50過ぎまで走り続けることができたのは地道な努力の賜物といえよう。
父が長く現役を続けた理由はもうひとつあった。それは愛する妻とその両親を安心させるためだった。山梨県内のスケートリンクでその妻に一目ぼれし、20代半ばで結婚した父。しかし「競輪なんて不安定な職業の男と結婚するなんて」と、彼女の両親に猛反対されたという。
「ならば、子どもが社会人になるまでは何が何でも現役で居続ける」。
それが父の決意だった。
「父は午前中に激しいトレーニングを積んで、午後は休むというスケジュールだったんです。学校から帰るといつも父がいて、毎日キャッチボールしたりお風呂に入ったり。夕食も必ず一緒で、家族団らんの時間を大切にしていました」。
誰にも縛られず、自分の裁量ですべてを決める父の生き方に伊藤氏は憧れていた。
「だからもう、絶対サラリーマンにだけはならないって決めてました」。
父のトレーニングをサポートするため、母は栄養バランスの取れた食事を毎日ふんだんに作った。その影響で伊藤氏は幼いころから多品目の手料理を口にすることができ、舌は肥え、味覚も鍛えられていった。ゆえに、カレーライスもしくは焼きそばだけが鎮座する同級生の食卓には衝撃を受けたという。母の愛情で育まれたこの味覚が後に飲食業で開花する流れは、ある意味必然だったのかもしれない。
「学校辞めたら別れるから」彼女の一言で一念発起。
父と同じ競輪選手を夢見ていた伊藤氏は、自転車競技部のある高校に進むつもりだった。しかしある時、自分の運動神経でプロになるのは無理だと気づき、単願推薦で拓大一高に進学。ラグビー部に入るもルールを覚える間もなく試合に駆り出され、あばら骨を折ってしまう。やがて授業をサボるようになり、遊びやアルバイトに没頭。時には警察のご厄介になることもあったそうだ。
成績不振や出席日数不足がたたり、生徒の96%が進学できるという拓殖大学への道は閉ざされてしまった。生活指導主任教師に「美容師か調理師か自動車整備士か。そのどれかならコネで入れてやる」と迫られ、消去法で調理師を選択。
どうせならコネでいける所ではなく、最難関を一般で受験してみろと進められ、武蔵野調理師専門学校に合格した。
だがやる気のある生徒との差は歴然で、伊藤氏はまた学校をサボりだす。
そんなある日、高校時代から付き合っていた彼女に「これで学校辞めたら別れるしかないから」と最後通牒を突き付けられた。心を入れ替えた伊藤氏は、再び学び舎へと戻る決意をする。
「髪の長さなど校則の厳しい学校だったんで、玄関先で父に坊主頭にしてもらったんです。そのとき思わず号泣しちゃって。今でも時々父にからかわれますよ」。
家族仲のいい伊藤家ならではのエピソードだ。
ホテルからイタリアン、そして「ピアンタ」との出会い。
調理師学校を1年で卒業し、丸の内ホテルに就職。大手企業だけにきちんと休みはとれたが、一日中鍋をかき回しているような単純作業が多く、やりがいを感じられずにいたという。
「自分が一生懸命やっている仕事が、誰かの喜びにつながっている。そういう現場じゃなかったですね」。
将来的に家族との時間を大切にするならホテル勤めは理想的、しかし面白みには欠ける……そう思っていた矢先、イタリアンで独立を図ろうとしている先輩シェフに声をかけられた。入社10か月目、その先輩に引き抜かれる形でホテルを退職。朝から晩まで休みなしの激務に変わったが、お客様の喜びを肌で感じられることは嬉しかった。学びの多い日々をがむしゃらに過ごし、2年後には店のナンバー2にまで昇格。忙しすぎて彼女とは疎遠になってしまったものの、やりがいのほうが大きかったという。
店が代官山から銀座へ移転することになり、準備のため2か月間の休業を言い渡された。その間つなぎのアルバイト先として選んだのが、板橋駅前のビルにあった「ピアンタ」だった。
低迷していた「ピアンタ」を再生。
当時の「「ピアンタ」の経営母体は、かんぽ生命の旅行やツアーを専門に扱う旅行会社。独占営業を背景に売り上げは上々、そこで「レストランでも作ろう」という話が持ち上がった。1997年4月、自社ビルの1階に「ピアンタ」を開業、当初は素人集団による趣味的経営の様相が強く、一等地にもかかわらず月々の売り上げは300万円程度だった。
伊藤氏は店の改善に着手。メニューを一新するなど孤軍奮闘し、売上げが上向き始めた3か月目には「ピアンタ」にとってすでに欠くことのできない人材になっていた。ほどなく再招集をかけてくれた先輩に詫び、こうして伊藤氏は「ピアンタ」とともに歩み出した。
「バイト面接に来た学生に、『最近、このお店って料理長が変わりました?料理が美味しくなったって評判なんですよ』って言われて。あぁ、自分がやってることは間違いじゃないなって実感しました」。
この時、伊藤氏は23歳を迎えようとしていた。
地元のお客様に愛される店づくり。
伊藤氏が現場を完全に掌握してからの「ピアンタ」は月商700万円台と安定、順風満帆の日々が続いた。学生バイトが皆同世代ということもあり、自分たちの働く店を盛りあげようと夜遅くまで熱く語り合った。今も続く「ピアンタという大きなサークルの仲間たち」という社風の下地はこの頃にできあがったそうだ。
「ピアンタ」の代表を兼務する旅行会社の専務を説得した伊藤氏は、23歳で「ピアンタ」2号店をオープンする。2階建ての一軒家で40坪・延べ90席の大型店は大当たりし、月商1200万円を叩きだした。ただ、2号店開設にあたり新たに採用した年配のスタッフたちと歯車がかみ合わず、専門学校時代のクラスメイトに声をかけ人事を刷新。その中で最も親しかった同級生のA氏とともに二人三脚で店を拡大し、25歳で3号店、その2年後に4号店と、順調に出店が進む。
出店にあたり立地へのこだわりは強く、不特定多数が往来する都心の繁華街は避け、地元に根付く店づくりを心がけている。そのおかげで、東日本大震災のときもコロナのときも、「毎日テイクアウトを買いに来るから潰れないでね」と話しかけてくれるコアな常連客を獲得できた。チェーン店に引けをとらない規模にまで成長した現在も、初心を忘れず、その地域に根ざした店を出させて頂くという姿勢は一貫している。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

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