2025年6月12日木曜日

雄大株式会社 代表取締役社長 土屋大雅氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”雄大株式会社 代表取締役社長 土屋大雅氏登場。

本文より~

自己啓発セミナーでの学びは「ポジティブに生きること」。

「僕は『世の中のすべてのことは大したことじゃない』って思ってるんですよ」。
豪快に語るのは土屋大雅氏(38歳)。年商約80億円、沼津を中心にグルメ、カラオケなどを展開するエンターテイメント企業、雄大株式会社の二代目社長だ。「大変なことなんてないですよ」「二代目でラッキーだったと思っている」とインタビューでも常に前向きで、その主張には一点の曇りもない。
「いろんな自己啓発セミナーに参加したんですよ。行かされたもの、自分から参加したものといろいろありますが、どのセミナーも行きつくところは『ポジティブに生きろ』ってことだなと。じゃあ自分の人生もそうしようって。はっはっは」。
2018年に社長に就任して以来、飲食業をはじめ様々な企業相手に次々とM&Aを仕掛けていく手腕は見事なものだ。幼いころからさぞや英才教育を受けてきたのだろうと思ったら、意外なストーリーが飛び出してきた。

“売り言葉に買い言葉”で、中卒に。

まずは家庭環境を見てみよう。土屋氏の父である雄二郎氏は、若くして家業の旅館を継承。息子誕生の約半年前、併せて雄大株式会社の前身となる株式会社ユーダイを設立した。もともと商売の才覚があったのだろう、節電機器の開発・販売を皮切りに、携帯電話の販売や飲食店のFCなど幅広く展開。母が事業を手伝っていたこともあり、両親とも不在がちで親にかまってもらった記憶はほとんどないという。
自由奔放な環境で育ったせいか、中学時代の土屋氏は勉強せず遊び放題だった。ヤンキーと称されるほどの“ワル”ではなかったものの、授業を妨害したり提出物を無視したりと、その素行から学校では問題児として扱われていた。ある日両親が担任に呼び出され、父の堪忍袋の緒が切れる。
「お前みたいな奴に(将来の)可能性なんてねぇ!(だから高校の)学費なんか払いたくねぇ!」
「じゃあ、こっちもいかねえ!」 こうして高校進学を拒否した土屋氏は、周囲の反対を押し切り進路未定のまま中学を卒業した。

大検合格、高校は行かずに大学、そして大学院へ。

― それで中卒ということですが……でも最終学歴は早稲田の大学院卒なんですよね?いったいどうやって? ―
「大検(旧・大学入学資格検定)に受かったんですよ。で、大学時代に簿記一級を取りました。それで早稲田の大学院に進んだんです」。
中学を卒業し、アルバイト生活を始めたものの、徐々にその状態が嫌になっていった。友達とも話が合わないし、やはり中卒では誰も相手にしてくれない。やっぱり学歴がないとダメだ。中卒で大学に行くには大検に受かるしかない。
中学を卒業した翌年、すなわち本来なら高1時代の冬に土屋氏は大検に挑戦。見事合格し、大学入試に向け東京の予備校に通うこととなった。
「でも、当時の僕にとってはちょっと辛かったですね」。
勉強が難しくて辛かったのではない。土屋氏にはその環境が煩わしかったのだ。高校に通ったことのない少年向けのカリキュラムを擁す大検コースなど、当時の予備校には存在しなかった。ましてや予備校の同級生は全員浪人生。話題がかみ合わないだけでなく、年齢を聞かれるたびに「え?なんで?」と質問される。これは相当面倒くさい状況だったに違いない。
東京の大学に合格してからの土屋氏は、授業とアルバイトの両立で大学生活を謳歌する傍ら、公的資格の取得にも注力していった。
「当時はストックオプションの税制改正前で、報酬をもらう側の税率は2割で済むいい時代だったんです。これで40代くらいで数億円手に入れて、何もしないで遊んで暮らそうって。そのためには税理士になって、上場予定のある適当な企業に入ったらいいなって。はっはっは」。
在学中、難関とされる簿記一級に合格した土屋氏は、税理士になるべく早稲田大学大学院を目指した。疎遠だった雄二郎氏も、難関校の大学院に進みたいという息子を前に、学費や生活費を惜しみなく支援するようになっていった。

「入社させてください」「じゃ、5年後に社長な」

2年間の大学院在籍中、税理士資格に必要な会計学・税法のうち4科目に合格した土屋氏は、卒業後会計事務所に入社。最後の1科目をクリアすべく日々の業務に邁進する中、ある日突然「お父さんが倒れた」との連絡が。
検査入院の結果、肺に水が溜まっているという。豪胆でカリスマ性を備える雄二郎氏だが、子供のころは身体が弱く結核を患ったことがあった。また、50代半ばに癌で他界した祖父と現在同じ年齢であり、本人も以前から「俺は60歳まで生きられない」と口癖のように言っていた。そんな背景から父の肺がんを予見し、土屋氏は大きな決断を下した。
「父が死ぬかもと思った時、いろいろ考えました。一般の家族として過ごした時間は少なかったけど、学校にも行かせてもらったし、いろんなことをさせてもらった。それは親のおかげだってね。だから会社に戻れば一緒に過ごす時間も増えるし、一緒にできることも増えるんじゃないかと」。
「(僕が戻ってきたことを)オヤジは喜んでくれましたよ。で、サシで飲みに行った時に『会社に入社させてください』って頭を下げたんです。そしたら『じゃ、5年後に社長な』って」。
2014年、土屋氏が経営管理室長として入社したその日に、雄二郎氏は社員の前でこう言い放った。
「こいつはたぶん5年くらいで社長になる。これは決定事項だから、気に食わないヤツは辞めてくれ」。
飲食業未経験の二代目が入社した場合、内部から反発が出ることは少なくない。しかしこの鶴の一声が社員の結束を促し、分裂を防いだ。自らの体調を気遣いつつ、税理士の夢を捨てて戻ってきてくれた息子に贈る最大級の支援だった。

・・・続き

雄大株式会社 代表取締役社長 土屋大雅氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

2025年6月10日火曜日

業務にAI導入することでもっと変わりそう!

 キイストンは労働集約型のビジネスではないので、うまくAI活用すれば、今の戦力で2倍の効果は上がると思います。

「飲食の戦士たち」で既に1,100連載の社長取材してるため、ヒアリングが中心のビジネスで文字で人を動かすことが多い。

ヒアリングしたことをまとめる、ヒアリングしたことを調べる、それを周りに共有し伝える、新たなSNSに記事をアップするなど考えるとスゴくAI導入することで可能性広がります。

いろんなことが揃ってきました。

たくさん人材を入れてなくて良かった!

でも組織を30人体制にはしたいな。

キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年6月4日水曜日

【特別企画(過去掲載からの再取材)】第80回(再編集版) 株式会社RYコーポレーション 代表取締役CEO 横山藤雄氏登場。

 【特別企画(過去掲載からの再取材)】

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社RYコーポレーション 代表取締役CEO 横山藤雄氏登場。

本文より~

16年後のインタビュー。

<社名のYは、横山さんのYでしたよね? Rは聞いてなかった気がします?>
前回の16年前のインタビューを思い出しながら、そうたずねた。
「Yは、正解、横山のYです(笑)。尊敬する人にも、Yがつく人が多かったってこともあるんですが。Rは、レボリューションのRです。革命というとオーバーかもしれませんが、今までにない文化を育て、新たな時代をつくるという想いを込めています」。
<今や、その想いどおりの会社になられていますね。ホームページをみると驚くばかりです>
「前回はたしか2009年。創業から3年目の頃。会社もですが、私もまだ若かった(笑)」。
<インタビューは六本木に「GABURI SHARE」をオープンされた時で、『ステーキハンバーグ&サラダバー けん』も絶好調という印象でした>
「そうそう。『ステーキハンバーグ&サラダバー けん』が、ぐーーと行く時ですね」。
<「けん」のなかでも初期の加盟店でしたね?>。
「『けん』の創業者である井戸さんとは肉の流通で相談に乗らせていただいていて。そういう関係もあったので。うちの多摩センターがFC2号店です」。
今回、改めて話を聞いて驚いたのは、やはり「ステーキハンバーグ&サラダバー けん」のこと。
「多摩センターは、そうでもなかったんですが(笑)。次にオープンした国分寺が半端なかったです。毎月残るキャッシュがすごい額になって。『味の素スタジアム』にもオープンするんですが、こちらは、月商2000万円。『けん』のなかでも、トップでした」。
とにかく、オープンするたび爆発したという。
ただ、そこに危うさが潜んでいた。
「ステーキでしょ。サラダもそうですが、カレー食べ放題っていうのが、社会のニーズとマッチしたんでしょうね」。
<井戸さんがハイエナと自称し、マスコミから追われていた頃ですね(笑)>
「そうでしたね。でも、ほんとうのハイエナは、『けん』を真似て食い物にした大手資本の会社かもしれません」。
ちなみに、「ステーキハンバーグ&サラダバー けん」は、ロードサイドで撤退したファミリーレストランなどの居抜き物件を狙ってオープンを重ねる。
当時、創業者の井戸さんは自身のブログで「ロードサイドのハイエナ」と自称し、マスコミもその言葉を追随した。
「うちは13店舗まで、フランチャイズ契約のレストランをオープンしました。井戸さんの方、つまり、エムグラントフードサービスはFC含め300店弱まで出店されたはずです。ただ、大手資本のファミリーレストランチェーンが、『けん』をコピーし始めると太刀打ちできなかった。オープンすれば爆発するもんですから、人材の育成も追いつかず、体制のブラッシュアップもできていなかったんです」。
<「けん」はFCですが、前回お話をうかがった、「GABURI SHARE」は自社ブランドです>
「『けん』が好調で資金的な余裕がありましたし、創業前から『自社ブランドをつくる』と宣言していたんです」。
<それが今のクリエイティブ系レストランにつながっていくんですね>
「そうですね。ただ、『GABURI SHARE』は、今じゃやらないコンセプトですが(笑)」。

赤字からのスタートは、「R」の始まり。

横山さんが、生まれたのは1975年。前回のインタビュー時は34歳だったが、今回(2025年)は、ちょうど50歳になられていた。生まれは茨城県。お父様はお祖父様から続く、精肉の卸業の2代目だった。
「親戚を含め、商売人が多かった」と横山さん。だからだろう。子どもの頃から独立が頭にあったそう。ただ、「起業するにしても、飲食じゃなかった」と笑う。
前回のインタビューでは、その「飲食」をスタートするまでの経緯を追いかけた。こちらでも少しトレースする。
高校卒業した横山さんは進学することなく、ビジネスの扉を開く。
就職したのは、尊敬する親戚の叔父さんが紹介してくれた埼玉県の「精肉店」。「25歳で独立する」と宣言して入社し7年間、ひたむきに修業を続け、宣言どおり25歳で退職。
独立準備を進めたが、修業のため、もう一度より規模の大きな企業に転職することになる。業種はおなじ精肉とスーパー。こちらの会社で、思いがけず飲食業に進むことになった。
改めて、横山さんにその経緯をうかがった。
「親戚の叔父さんからも、まだ早いと指摘を受けて、いったん独立を断念します。そして、より深く、広い視野で学ぶため、前職より大きな会社に転職しました。ありがたいことに、そちらの社長からも高く評価いただき、飲食チェーンのFCに加盟した時、その店をお任せいただいたんです」。
<それが、土間土間ですね?>
「そうです。昔、飲食で独立するとは思っていなかったんですが、縁があり、独立とまではいきませんでしたが、晴れて私の店をもつことができました。ただね…いくらがんばっても、一度も黒字にならなかったんです」。
横山さんが苦笑する。
<初期投資が重く、どうしたって赤字になってしまうとおっしゃっていましたね>
「当時の社長が『撤退だ』といい、私にだけ『会社に残れ、スタッフはどこかに引き取ってもらうから』と言ってくださったんですが、採用したスタッフたちを見捨てる真似はできませんでした。それで、社長にお願いして運営を私に委託していただきました」。
<赤字覚悟のスタートですね?>
「これも、縁だと。まさか失敗するとは思っていなかったし、その店の運営を委託してもらって独立するとは、これっぽっちも思っていなかったから、不思議な縁ですね(笑)」。
人は縁によって結ばれ、縁によって新たなスタートを切る。ロードサイドのハイエナこと、エムグラントフードサービスの井戸実社長との出会いも、その一つ。
「一つのご縁を大事にすると、もう一つのご縁が生まれていくんですね。自社ブランドの『GABURI SHARE』をオープンする時に、ジョインしたのが、今の専務です。彼とは、もともと縁があったんですが、クリエイティブなアイデアマンで、今のブランドの多くのコンセプトは彼がつくってくれています。もう一人は、総料理長です。彼は『GABURI SHARE』をたたみ、上野に『LA COCORICO』をオープンする少し前に縁あって参加してくれました」。
なんでも、イタリアのミシュランガイドの星付きレストランで修業したのち、帰国。有名ホテルの総料理長などを歴任された実力シェフだそう。「そんな人が、まさかね。とても人格者で、専務のアイデアを、かたちにしてくれたのは、すべて総料理長です」。
<土間土間、ステーキのけんが第一章。そして、自社ブランドをきっかけに第二章の幕があがります>
「そういう位置づけができると思います」。
<いよいよ「R」を体現されていくことになりますね>
「そうですね」。
「R」は冒頭で横山さんが言った通り、「レボリューション」という意味だ。

三井ガーデンホテルへ、新たな食文化を彩る。

コンセプトは、専務と総料理長と3人で、という。強力なトリオ。役割がはっきりしている。
<六本木を閉店されたのはなぜ?>
「実をいうと漏水がやっかいで。直しても、直してもすぐに漏水するもんですから、保険でもカバーが難しくなって。それで、そちらをクローズして、上野で再チャレンジします」。
上野駅から徒歩1分、岩倉高校のそば。
「当時は10人に相談すると10人とも反対するようなロケーションでした。でも、最終的には直感を信じて『LA COCORICO』をオープンします」。
<ベルギービールとロティサリーチキンですね?>
「当時でいうと、ぜんぜんロケーションにそぐわないブランドでした。当時の上野は、ビールとやきとりが文化の街だったんです」。
<その文化をひっくり返す?>
「最初からとはいきませんでしたが、メディアも注目してくださって」。
<『LA COCORICO』が、もう一つのはじまり…、つまり、第二章の幕開けですね?>
「そうです。『LA COCORICO』を皮切りに、多種多様な事業を展開してきたおかげで、声がかかるんです」。
声の主は、三井不動産のホテルを開発する担当者だったそう。
「その担当者から、2019年11月22日に開業する「三井ガーデンホテル神宮外苑の杜プレミア」への出店オファーをいただきました」。
提案された条件は破格。
「私自身ブライダルやホテルに興味があったもんですから、私一人なら、すぐに『やります』なんですが」。
<横山さんでも、やはり悩むものですか?>
「そうですね。悩みます(笑)。だって、ホテルとなると朝食、ランチ、アフタヌーン、ディナーでしょ。やったことがない。二度とないようなスペシャルなお話だと思いながらも、なかなか決断できませんでした」。
<でも、やるとなった?>
「スタッフのなかにホテル業界にネットワークがあって、知人がいるからなんとかなる、なんていってくれるのがいて。みんながやりたがっていたんですね。だったら…だったらやってみるか!と」。
<そのあと銀座にも、みなとみらいにも出店されています>
「そうなんです。スタッフたちが私の背中を押してくれたおかげで、出店させていただくことになり、私はまだまだと思っていますが、三井さんには高くご評価いただき、『三井ガーデンホテル銀座プレミア』『三井ガーデンホテル横浜みなとみらいプレミア』の時もオファーをいただき、オープンさせていただくことになりました。じつは、三井さん以外にも野村不動産からも声をかけていただき、そちらでもオープンさせていただいています」。

・・・続き

株式会社RYコーポレーション 代表取締役CEO 横山藤雄氏

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