2019年11月5日火曜日

「世界の山ちゃん」の株式会社エスワイフード 代表取締役 山本久美氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”「世界の山ちゃん」の株式会社エスワイフード 代表取締役 山本久美氏登場
本文より~

キャプテンシーの源流。

「守山に引っ越したのは小学3年生の時かな」。静岡県生まれの山本久美氏が、愛知県名古屋市の守山に引っ越したのは、小学3年生の時というから1976年くらいのことだろうか。
「姉が1人いるんですが、大人しくて頭のいい姉とは違って、私は子どもの頃から大のお転婆でした」。じつは、久美氏の母の父、つまり母方の祖父は、プロゴルファーの先駆けだったそう。「祖父の隔世遺伝なのかもしれないんですが、私は子どもの頃から運動神経が良かったんです」。
スポーツなら何をやってもできたのだろう。負けたこともない。
バスケットボールでもそうだった。
「小学生からバスケットボールを始め、私がキャプテンだった時には区大会で優勝もしました」。
コートを自在に駆ける少女時代の久美氏が目に浮かぶ。背番号は「4」。いくつかの試合のプレーが中学の先生の目に留まり、引き抜かれる。
「引き抜かれるっていうと、ちょっと語弊があるんです。私学じゃなく、公立ですから。だけど、私はバレーをしたかったんですね。でも、あの手この手で誘われて」。
最初に言っておくと、彼女が通ったのは普通の公立中学だが、バスケ部だけ様子が違った。地区も、県も、東海というエリアでも勝ち抜き、全国で何度も優勝している。しかも、彼女が3年でキャプテンだった時には、練習試合を含め、敗北したことは一度もなかったそうだ。
「選手を育てるのがうまい先生でしたし、選手たちも公立にいるような子じゃない。私の時もクラブチームから優秀な選手が次々、入部しました。私が小学校の時に区大会で優勝したって言っても、まるで格が違います。入部したての頃は、彼女らがやっている練習が、何をしているのかもまったくわからなかったくらいです」。
負けん気が顔をだす?
「そうですね。小学校の時からスポーツは得意でしたからね。得意なことで負けたくない。そうは思いましたよね。でも、敵わないような子ばかりです」。
それでも結局、中学でもキャプテンに?
「ハイ、3年生ではキャプテンナンバーの『4』をつけて出場していました。ただ、私より巧い子はいました。入学して少しすると、その学年のキャプテンを先生が決める感じでした。ですから1年の時から学年のキャプテンをしていました。特に問題がなければ3年ではチームキャプテンとなります。キャプテンナンバーの『4』番をつけていました。じつは私は高校でも大学でも、バスケットボールを続けるんですが、ずっとキャプテンなんです/笑」
なんと、久美氏のキャプテンシーの源流は、ここにあったのかもしれない。
いずれにしても、中学時代から全国優勝を遂げるチームを背負い、つらい練習に耐え、キャプテンとして選手たちをまとめ、引っ張った。いまに通じる、これは事実である。

背番号4の涙。

「2年生の時、3年生へのお仕置きに、先生が2年生と3年生のユニフォームを取り替えさせ、私達2年生が若い背番号をつけたことがあるんです。私は2年生のキャプテンだったので『4』番のユニフォームを着せられました。4番なので、チームキャプテンになるわけです。2年で背番号『4』をもらった時は泣きました。だって、先輩たちにしたら『なんであいつなんだ』ってなるわけですよ」。キャプテンだから指示を出さなければいけないのだが、指示をだそうとすると、先輩たちに怒られ、ださないでいると、また文句を言われた。
「辛かったですが、今思えばいい経験ですね。でも、もう一度経験したくはないですけどね/笑」。
バスケと久美氏の関係は、じつは、大学を卒業してからも続いている。
「私は教師になりたくて、愛知教育大学に進み、卒業します。就いたのは、小学校の教師です。じつは、赴任した小学校にバスケットボール部があって、コーチをするんです。その時、結構、できる子っていうか、運動神経がいい子どもが多くって」。
だんだん彼女自身、前のめりになっていく。
「それで、ちょうど私が受け持った時に、市では優勝してしまうんですね。5年生たちがすごく巧かったんです。それで、昔の恩師にクラブチームに誘われて。でも、クラブチームって言ったって、昨日まで普通の小学校の生徒たちです。『愛知県だけみても、強豪なんていくらでもあるんだからね』って。そうハッパをかけながら、私自身は、県大会でも勝ち抜くのは無理だと思っていました。でも、親御さんも盛り上がっちゃって」。
結果は、久美氏の予想のはるか上。こちらでも、市も、県も、東海エリアも、勝ち抜き、全国に進んで優勝までしている。負けることはなかった。クラブチームのコーチ就任1年目のことというから、頭が下がる。
「私もエキサイトしていましたね。たぶん、きついことも言ったんでしょうね。相手は男の子だったし…」。子どもたちからすれば、オニだったかもしれない。
「でも、その子たちとは、今も食事をしたりするんです」。

怒らないけど、許さない。教育の流儀。

教師は11年続けた。退職したのは「世界の山ちゃん」の創業者である山本重雄氏と結婚したからだ。でも、先生という仕事は精神的にハードだと聞く。辞めたいと思ったことはないんだろうか?
「一度だけ、あるんです。ある学校に赴任した1年目の話です。5年生の担当でした」。
それまでのやり方がまったく通用しなかったという。
「だって、子ども達の反応がぜんぜん違うんです。勉強だけなら、教え方を変えればいいですが、大変なのは生活指導ですね。接し方を間違えると子ども達は私の話を聞かなくなり、学級崩壊に発展しかねません。1人の男の子がいて、その子が特にね。でも、私は、その子に教師というか、大人とはっていう、何か大事なことを教えられた気がしているんです」。
怒らないけど、許さない?
久美氏から聞いた言葉を投げかけた。
「そう。怒らないけど、許さない。私はそれを一貫して行いました」。
「たとえば…」と久美氏。
「給食でトウモロコシが出るとしますよね。食べ終わった後に、ナイロン袋を回して芯を捨てていくんです。彼は、袋を待つのがイヤだったんですね。面倒だから。そこで横の子の、机の上に置いちゃうんです。それを取り上げて、もう一度、彼の机に置きます。ええ、私がです。すると今度は、床に落とす。今度も拾います。だって、絶対、妥協してはダメだから。それから、ゴミ箱に入れるんですね。でも、『生ゴミだから、そこじゃない』って、戻します」。
廊下にも捨てられ、校舎の外のサンにも投げられた。それをぜんぶ取り、生徒の机に戻した。許しはしないが、怒らなかった。絶対。そう心に決めていたから。
「彼は、最後に4階の窓から校庭まで投げますが、それも、私が取りに行きました。心を少しずつ開いてくれたのは、あの時からでした」。
教室の運営はうまくいったんだろうか?
いや、そういう次元ではないんだろう。運営だけなら、もっと上手な方法があるはずだ。久美氏の生徒たちへの思いが、この話に凝縮しているように思う。
「でも、その頃の子達とはもう今は会ってないんですよね」。
最後の一言は少しさみしそうなトーンだった。
ともかく、先生という職業はいつの時代も尊いということを、久美氏の話を聞いて改めて知った。いわば、ここまでが、久美氏の第一章である。

名古屋で世界を知る。

「『世界の山ちゃん』を知ったのは、大学生の時です。就職しているお友だちが『面白いお店があるから行こうよ』って。ええ、そのお店が『山ちゃん』だったんです」。
「う~ん、印象ですか? そうだなぁ。ほうれん草をナマで食べさせたり、ね。ちょっと変わったお店かなっていう印象ですね。 まさか、その店のオーナーと結婚するとは思ってもいなかったですけどね/笑」。
そりゃぁ、そうだろう。
恋の軌跡も聞いてみたかったが、話は、3年前。つまり、2016年まで進む。夫であり、「世界の山ちゃん」の創業者であり、当時は会長だった重雄氏が亡くなり、妻の久美氏がバトンを受けた年である。
「最初は、何が何だかわからなかったのが本音です」。
重雄氏が亡くなったのは突然のことだったらしい。
「そうですね。突然だったから、尚更ですね。会長(重雄氏)が、やってきたことをどうすれば守れるか。私だって、結婚してから専業主婦だったわけですから、仕事のことなんてわからない。だけど、今守れるのはあなたしかいない、なんて言われて」。
葛藤も、あったそうだ。だが、決意する。
友達に誘われ、初めて知った「世界の山ちゃん」。何十年かけ、その「世界の山ちゃん」の真ん中に立つことになる。「やるからには、夫の遺志を受け継ごう」。久美氏は、そう誓った。
・・・続き
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