2019年10月15日火曜日

株式会社全力の元 代表取締役 河方 卓氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社全力の元 代表取締役 河方 卓氏登場
本文より~

海と祖母とラーメンと。

「ラーメンでも食べてきんしゃい」。
祖母は、そういって、お小遣いを渡した。
「生まれてすぐ両親が離婚したこともあって、私は、父方の祖父母に育てられます。とにかく、祖母のあとを追いかけているようなおばあちゃん子でした。ただ、祖母は料理が好きじゃなくって、うまくもなかったので時々、小銭を渡してくれるんです」。
その時、添えられた言葉が冒頭の一言。「定番は久留米ラーメンです。とにかくラーメンが大好きになったのは、おばあちゃんのおかげです」。
父親はフレンチのコック。後輩に今や超有名なラーメンチェーン店の社長がいらっしゃるとか。「なんだか、いろんなことが今につながっていますね。ともかく、ちっちゃい頃いただいたラーメンは、おばあちゃんには悪いけど、私にとって何よりのご馳走でした/笑」。
河方氏は、1974年、福岡の東区に生まれる。「東区は、海に突き出たような格好をしています。私が通っていた小学校は当時、日本でいちばん海にちかい学校でした」。
校庭にも潮風が流れこんできた。「好きだったのは、野球です。みんなの打順を勝手に決めたりして。それでついたあだ名が『キャプテン』です」。
目立つことも大好きだったらしい。
その一方で、祖母から「人に喜ばれるようなことをしなさい」と何度も諭された。「祖母自身がそういう人だったんです。だから、祖母の背中をみて、言葉と行動がリンクしたっていうか。『ああ、こういうことをしなくっちゃいけないんだな』って。この教えは、今も私の心の背骨を貫いています」。
海と祖母とラーメンと。
河方氏の少年時代は、この3つの単語で語ることができる。

17歳の出立。

「中学になって、だんだん祖母とも話さなくなっていきました。だいたい私らが住んでいたのは『和白』っていう地名なんですが、不良だらけの町だったんです。そういう影響をモロに受けて、祖母がいさめても耳を貸さないっていうか。でも、あっちの世界に行かなかったのは、やはり祖母のおかげですね」。
深い愛情は時にうっとうしくもあったが、くさびになった。
「うちの経済事情もある程度わかっていたんで、高校にはハナから行くつもりはなかったです。それに、なんだかんだと言って祖父母が大好きだったので、早くうちにお金を入れなくっちゃって思っていたんです」。
それで、就職?
「そうです。15歳でうちを出て、最初に仕事をしたのはペンキ屋さんでした。でも、半年だったかな、つづいたのは/笑」。
職を転々とする。
「大工、石屋、何をやってもつづきません。そのうちいっしょに住んでいた先輩が東京に行くことになって。じゃぁ、いったんうちにもどろうか、と。それから、1ヵ月、無職で何もしません。さすがに、これではまずかろうと飛びついたのが、新聞に載っていた一つの求人広告でした」。
「あなたも百万円、稼げる」「寮完備」の、2つのキャッチフレーズが頭を駆け巡る。「だいたい石川県なんて、どこにあるんだ?って。まぁ、勉強もしてないからわかんないんですが、なんとかなるだろうと/笑」。
大好きな祖母が玄関で見送ってくれた。
「人に好かれるよう頑張りなさいよ」。
その一言は、祖母の表情といっしょに忘れない。河方氏、17歳の出立の話である。

ベンチで号泣した夜と、救いの神と。

「100万円」と「寮完備」に惹かれ、何をするかには目を向けていなかった。仕事内容はやったことのないセールスだった。しかも、けっこうハード。
「みんなすぐに辞めていきました。ベテランの先輩から若い子には無理だなと言われた。高額なアイテムだったんで、若い子には説得力も、信頼もないから無理なんだって」。
無理と言われて、ハイ、そうですかとは言えない。
「若い子っていうんですが、そのなかでも私は断トツで若いです。17歳ですから。それでも、『やると決めたら、やるんだ』と。だれよりも多く、件数を回ります。はじめての受注はいまでも忘れられません。80代のおじいさんで神主さんでした。あとで聞くんですが、『何を言っているのか、ぜんぜんわからなかったが、とにかく一生懸命だったから』って」。
件数を回っただけではない。勉強もした。風呂につかりながら、商品の説明を何度も繰り返した。だれもいない公園のベンチで号泣したこともある。無謀だったかもしれないが、真剣だった。
「けっきょく10ヵ月で私も辞めますが、支店でトップの成績を残しました。全力やれば結果でる。これも、私のひとつの原点ですね」。
辞めるきっかけは、飲食だった。

「神仙」の始まり。

「飲食店に18歳で入社し、23歳まで勤務します。そのあと、独立し、BARをオープンするんですが、3年でたたみ、もう一度、前の飲食の会社に採用してもらいました」。
飲食の仕事はきらいではない。ただ、社長業はしばしお預け。そして、5年後。
「31歳でもう一度、独立するんですが、何が何でもっていうわけじゃなく、尊敬していた社長が突然、引退宣言されたからなんです。ええ、だから、プランもないまま、どうしようか? 何をすればいい? その時、浮かんだのが、昔から大好きだったラーメンです」。
じつは河方氏、週に5日ラーメンを食べるというラーメンマニアに育っていた。
「最初は、BARに勤めていた後輩が、ラーメン店を経営していましたので、そちらで仕事をします。金沢にラーメン店は、そう多くないこともあって、当初はうまくいきましたが、だんだん業績も下がります」。
ついに、店を閉めることになったそうだ。
「それで、知人からお金を借り、私がそのお店を譲りうけます。こういうとなんですが、私が経営すればもっとうまくいくという自信があったからです。もっとも、今のままではだめだってことはわかっていましたから、最高のスープをつくるまで、再オープンしないと決意したんです。これが、あれだけたいへんなことになるとは思ってもいなかったんですが/笑」。
店を買って、もう金がない。極貧。しかし、妥協はできない。全力。
「灰汁を飲んだり、豚の脳みそを生で食べたり。もう、取りつかれたように試行錯誤するんですが、なかなか、これといったラーメンができません。朝、いいなと思っても、夜になると、だめとか/笑」。
1ヵ月経ち、2ヵ月経ち、家賃も業者への支払いも滞納しがちになる。信用もないから、すべて現金。もう、数万円しか残っていなかった。
「もういっぱい、いっぱいでしたね/笑」。
「納得できるラーメンができた時には、試行錯誤をはじめてなんと半年が経っていました。忘れもしません、12月の26日です。28日をオープン日と決め、27日にはレセプションを開催しました。ありがたいことに好評で、オープン日にも限定100食がなくなりました。ただ、食べていける。最初の数年は、そんな状況でしたね。いろいろ払いを済ませたら、5万円しか残らないとか/笑」。
これがいえば「神仙」の始まり。
ちなみに、店名の「神仙」とは、神様の弟子ということだ。
・・・続き
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