2016年1月26日火曜日

株式会社サンエイフーズ 代表取締役CEO 韓 永紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サンエイフーズ 代表取締役CEO 韓 永紀氏登場。
本文より~

「韓国人の誇りを持って生きろ」という父親の言葉。

父は韓国済州島の生まれである。「父は18歳の時、裸一貫で済州島から日本に来ました。10人兄弟の長男で、家族を養うためもあったのでしょう」。当時、済州島での生活はけっして恵まれたものではなかったようだ。
母方も、在日韓国人である。「『韓国人として誇りを持って生きろ』が、父の口癖でした」と韓。来日し職を転々としながらも韓国人の誇りをけっして忘れなかった人である。
韓が3歳の時に、赤羽で喫茶店のマネージャーをやっていた父が亀有に焼肉店を開業する。
「亀有にいた頃は、祖母が私たちの世話をしてくれていました。当時の私は天真爛漫を絵に描いたような少年で、小学1~2年生の頃は夕方暗くなっても帰ってこないので良く『捜索願い』が出されたそうです(笑)」。「亀有の店を母の弟に譲って、小松川に移ったのは、私が小学4年生の時です。祖母は亀有に残ったものですから、それから兄弟3人、向かいの定食屋でごはんを食べるのが日課になりました。父も、母も忙しかったからです。数字のことまではわかりませんでしたが、流行っているのは子ども心に判っていました」。
父も、母も頑張った。子どもに注ぐ時間もなかった。子ども達もそのことは理解していたに違いない。ただ、父親に対する韓の気持ちは複雑である。頭では理解できたが、感情では理解に苦しむ父親だった。
「からだの大きな父は、正義感も強く、人望も厚い」と韓はいう。今では、ある団体のトップとなり、韓国大統領が来日した際には、会話も交わしている。
また、「済州島に残した家族には、来日してからずっと仕送りを続けていた」というから頭が下がる。だが、反面、家族に対しては、一方的でしかなかった。
韓は父のことをどう思っているのだろう。敬愛していることは事実だが…。いずれにせよ、その父のDNAは間違いなく、韓に受け継がれている。正義感も、大胆さも含めて。

国も、人も華やかな、バブル時代。

韓は、幼稚園から合気道を始め、小学2年生の頃には剣道も習い始めている。運動神経も悪くない。韓の兄弟は3人。韓は、長男である。「昔から仲がいい3人で、親父からもみんな平等に怒られた」と言って笑う。
もともと裕福だったが、それ以上の暮らしが始まったのは、高校1年生の頃からである。
「店を鉄筋3階建てに増築。菊川を買収し、新たに土地も仕入れました」。購入した土地を利用し、1階にゲームセンターをオープンし、2階で雀荘を営業した。バブルの頃である。その波にうまく乗った。そう言えなくもないが、借金も5億円程度に膨らんでいた。
「毎月の返済だけで、数百万円です。それでも、ぜんぜん問題がなかったようですね。もちろん、後にこの時の借金がクビをしめるんですが、当時は、日本全体がイケイケです」。たしかに、韓がいうように日本国中がアクセルを目一杯踏み込んでいる時代だった。その時代、韓は大学生だった。
「明治学院に進学しました。うちの家もバブル真っ最中です(笑)。小遣いが月5~6万円。私もバイトで月に十数万円儲けていたもんですから、お金には困りません。また、親父にソアラを買ってもらい、フェアレディZも乗り回していました」。
いま振り返っても、楽しくて仕方なかった時代だと韓はいう。
ところで、当時の新卒採用は売り手市場で、大企業が値札も観ずに学生たちを買い漁った時代である。それほど学生に優位な時代だったが、韓は「就職」しようと思わなかったそうだ。韓国人というレッテルが貼られてしまうことに、違和感があったからだ。
だから、企業に属さない「税理士」になろうと思っていたそうだ。実際、簿記の専門学校に入り直している。まだまだ学生をつづけていたい、という気もなくはなかったから、それで安堵したことだろう。 しかし、入学してからしばらくして、父から突然、呼び出された。

・・・続き

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