2016年1月26日火曜日

株式会社新山オールスターズ 代表取締役 新山直人氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社新山オールスターズ 代表取締役 新山直人氏登場。
本文より~

高校を中退して、飛び込んだラーメン店。

幼稚園で、突然、極貧になった。父の会社が倒産し、両親が離婚したからだ。母と妹、3人、食べることも難しかった。
妹はまだ3歳。「いつの頃からか、私が父親代わりのような存在になって。母だけじゃなく、妹にも貧乏な思いはさせたくなかった」と新山。しかし、それが実現できるのは、まだ先の話。3人の生活は、まだ母親1人の背にかかっていた。
「母が、スナックをオープンしてからは、経済的には安定しました。しかし、それも一時の話で、私が高校生の頃に、母の店も閉店をよぎなくされました」。
新山氏は、高校を中退する。
「中学生になるまで風呂もないアパートに何年も住んでいました。だから、貧乏には慣れていましたが、もどりたいわけじゃない。もどらないために、私は、高校を辞め、翌日から台湾ラーメンの店で勤務します」。
店主からは、「やる気を持ってこい。汚れてもいいジーパンをはいてこい」と言われたそうだ。その店が、台湾ラーメンの名店「幸龍」である。

修業期間、12年。でも、オレは、まだまだだと思っているよ。

新山氏の修業は、12年に及ぶのだが、最初の2年で挫折しかけたことがある。
「幸龍は、すごく流行っていたラーメン店です。しかし、きつい。店主も、こわい。だから、だれもつづかない。私も、2年くらいで、一回、逃げ出してしまうんです(笑)」。
ラーメン店をトンズラし、引越しのアルバイトをしたり、イタリア料理店、大手ラーメンチェーン等で1年ちかく勤務した。
しかし、やはり中華だと思い直し、頭を下げ、「幸龍」に舞い戻った。
「幸龍は私とって、原点です。合計4年、イタリアン、大手ラーメンチェーンも含め6年ですね。そろそろ視野を広げたくなって、『白揚』というお店に転職します。幸龍も原点ですが、こちらも私のコアをつくってくれたお店です」。
「白揚」は「薄味だった」という。
「なにしろ、師匠はトンカツにも何もかけないんです。うそだと思うでしょ。でも、師匠に言わせれば、『揚げたパン粉には塩分があるだろ』って。最初は、ぜんぜんもの足りなかったんです。スープをいただいても、『これ、お湯だろ』みたいな(笑)。でも、慣れてくると師匠の言葉を、私の舌が理解するようになったんです」。
「この味を理解できたのは、大きい」と新山氏はいう。
「薄味とは元の食材の旨味を最大限感じられるよう、調味料を少なくしたもの。調味料で味付けしていないスープ、野菜を食べて甘いと感じるのは旨味を感じている証拠です」。
「薄味というのがわかって初めて濃い味もつくることができる。それを知ったのも、この店です」。
残念ながら、「白揚」は今はクローズしてしまったそうだが、新山氏がいた頃には、社長クラスの人たちをはじめ、野球選手、芸能人もお忍びで来るような隠れた名店だったそうだ。
この店で新山氏は6年間、勤務している。もっとも、計12年の修業生活も、新山氏にとっては「まだまだ」とのこと。自惚れないのが、新山氏らしい。

2008年8月1日、オープン。17歳から追いかけた独立の1日目が始まる。

17歳の頃から思っていたことがあった。独立である。
「だって、そうでしょ。母や妹にひもじい思いをさせないためには、それしかないから」。ちなみに、新山氏は、幸龍で勤務するようになってから、月に8万円ずつ母に渡している。そんな新山氏である。氏の言う通り、母と妹のためにも「独立」という二文字は、いつか実現すべきことだった。
「小さな頃から料理が好きで、中学校の頃にはもう周富徳さんが書いた料理の本を参考に料理をつくっては、友だちにふるまっていました。しかも、12年間の修業をへての独立です。まずいはずはないんです。ですが、自信とはうらはらに、オープンしてから何日たっても、1日、数人しか客がこないんです」。
「まじかよ」と、口をついた。「私がオープンしたのは、いまとおなじラーメン店です。ラーメンでもいちばん難しい塩ラーメンで勝負しました」。
 しかし、客が来ない。とはいえ、それでへこたれる新山氏ではない。ちなみにオープンは、2008年8月1日。

・・・続き

株式会社新山オールスターズ 代表取締役 新山直人氏
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