2024年7月31日水曜日

カンサプ株式会社 代表取締役 岩本修一氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”カンサプ株式会社 代表取締役 岩本修一氏登場。

本文より~

“モノ”を運ぶから“ヒト”を運ぶには大型第二種免許が必須だった。

「岩本屋の歩みを語るには、27年前の1997年まで遡ります。高校卒業後、18歳で機織り機の会社でトラック運転手として勤めて、21歳で大型免許を取り、ブルドーザーやショベルカーなどを運転していました。また大きな荷物をスキー場やショッピングセンターに運ぶなどの仕事に従事していました」。
ただ満足感、充足感はなかったようだ。
「26歳の頃でしたか、形に残る仕事が羨ましく思い、もっと大きなトラックに乗りたいという願望と給与面もあって退社しました。次の仕事を考えて給付金制度を利用して大型自動車第二種免許を取得しようと思ったんです」。
大型免許を持っていた岩本氏が、改めて大型免許を取得することを不思議に思うだろう。本題とは横道に逸れるが、大型免許について簡単に説明しよう。
大型免許には、第一種と第二種がある。一番大きな違いは運搬するモノの内容にある。第一種は、トラック、ダンプカー、タンクローリーなどの大型車両の運転が可能。一方の第二種は、乗車定員30人以上の路線バスや観光バスなど営業用の車の運転が可能。
「ボクが持っていたのは第一種でした。先ほども言いましたが形に残る仕事がしたかったんですね。それで第二種を受けることにしたんです。第二種免許ですと観光バスなんかも運転できますし、“モノ”から“ヒト”への変化でしょうかね」。

醤油ベースの背脂ラーメンの初体験がラーメン店開業の引き金に。

「コンビニで何気なく手に取った雑誌が出発点になりました」。
コンビニ? 雑誌? 出発点? この三つはどういう関係なのか、何が起きたのか。
「大型第二種の免許を取得後、福井から神奈川県川崎市溝の口に住んでいた友人の家をぶらりと訪ねようと思い、高速道路を使わずに下道を使っていく途中、静岡県沼津市で、何気なくコンビニに入ったんです」。
「そこに、“関東ラーメンランキング100”という雑誌があったんです」。
一時期、ラーメン店を紹介する雑誌が氾濫した時代があり、街情報を得意とする出版社が刊行していた。岩本氏が手にしたのは、その中の一冊だろう。
「自分自身、ラーメンが好きという感覚はあまりありませんでしたが記事に目を通すと、ある有名タレントが『ここのラーメンがいちばん好き』と語っていて、美味しいラーメンてどんなラーメンなのか、気になったし、行って、食べてみたくなったんです」。
「その雑誌を買って友人に「この店に連れてってくれ」って頼んで連れてってもらいました。店の名は恵比寿にある1975年に創業した背脂チャッチャ系ラーメンの老舗で雑誌では第8位にランクアップされていた『香月』という店でした。友達が、ここしか知らなかったということもありましたが……。食べたのは醤油ベースの背脂ラーメンでした」。
「素直に“こんなラーメン食べたことない!”ということですね。どんぶり表面を覆う白いツブツブ、背脂なんですが驚きましたね。スープまで飲み干し、翌日も食べに行きました」。当時、背脂を使ったラーメンは、福井にはなかった。
「この味、福井でもウケるなと思い、福井に帰ってラーメン屋をやろうと決めました」。1997年、27歳のときだった。

100杯のラーメンを食べるためタクシー運転手に。

ラーメン屋を開業する決心をした岩本氏。一旦は福井に戻った。が、決意したものの、飲食業はもちろんのこと、ラーメン屋も未経験。とにかく学ぶことが最優先課題になった。
「いきなり福井で開業するのではなく、東京のラーメンを100杯を目標に食べ歩いて修業先を決めようと思いました。とは言え、広い東京、地理不案内なので、どこにどんなラーメン屋があるのか、分かりませんでした。早く経験する方法はないかと考え、タクシーの運転手になりました。二種免許が効力を発揮したことになります」。
「タクシーの運転手になったのは、職を探すために求人雑誌を見ていたところ、タクシー会社の欄に“美味しいラーメンはタクシー運転手に訊け”とあったからです。これだ!って思いましたね。考えようによれば、お客さまが東京案内をしてくれる訳ですから……」。
「タクシー業の傍ら、雑誌を読んだり、ランキングを参考にしたり、お客さんや同僚に教えてもらったり、友人に訊いたりして、結果的に100軒以上のラーメンを食べました」。“ラーメン屋になるために”という執念が感じられる。さらに。
「食べることだけが目的ではないので、目標にしているラーメンに出会うために自分なりに最上級をSとし、以下AからEとランキング別に整理しました。最終的に『屯ちん』(東池袋)、『春木屋・荻窪本店』(上井草)、『げんこつ屋』(阿佐ヶ谷)の3軒だけが最上級のSでした」。
1997年9月、タクシー会社に勤務して3カ月を費やし理想とするラーメンに出会った岩本氏。独立を決意し修業先として、Sランクの東池袋『屯ちん』に入社した。

教えを乞い、ときには技を盗みながら学んだラーメン修業。

『屯ちん』での修業が始まった。本格的にラーメン屋を開業するための試練のときがやってきた。目指すのは、故郷、福井での開業だ。
「ラーメンどころか飲食業そのものが初めてでしたから、ゼロから学ぶことばかりでしたし、いわゆる“客商売”も初体験でした」。
料理人、言い換えれば職人の世界では、長年培った“極意”や“秘伝”“門外不出”と呼ばれる究極の“技”“味”は、そう簡単には教えられるものではない。また気軽に「教えてください」とお願いする性質のものでもない。特に“タレ”は、その最たるものだろう。鰻の“タレ”や焼鳥の“タレ”が代表として知られているが、ラーメンの“タレ”も同じだ。
「スープやチャーシューなどの仕込みは教えて貰えたので、徐々にですができるようになりました。ただし、タレは店長レベルじゃないと教えられないという決まりというか定めみたいなものがありました。『屯ちん』は独立を目指す人が多くてタレの作り方を教えて貰った翌日、飛ぶ、つまり辞める人も多かったですね」。
「義理堅いのかどうか……、ボクにはできませんでした。タレの材料というか使用する食材など予想はしていました。最終的には習う前に辞め福井に戻ったものですから、『岩本屋』のタレは『屯ちん』のタレとは“似て非なるもの”なんですよ」。
約1年の修業が終わった。ラーメン屋を開業、営むための知識を纏い、1998年、福井に戻った。

屋台からのSTART!メディアの影響力を実感する。

いよいよラーメン屋デビューの日が訪れた。
「店舗を構えるには軍資金が乏しかったこともありましたが、屋台から始めることにし、飲食業、屋台営業に必要な資格や手続きを経て、宅配便のトラックのようなクルマで営業を開始したのは1999年1月です」。
「店を構えたのは“ホームセンターみつわ江守店”の看板下。ここは道路ではないので道路使用許可を取る必要はありませんでした。また、俗に言われる“反社会組織”からの不当な要求もありませんでした」。
開業に当たり最も気にかけていたのはタレ。
「『屯ちん』での記憶をたよりに見様見真似で作ってみたところ、味は違ったんですが、意外と上手くできたんです。確認のために友人にも食べて貰ったところ美味しいと言われ、また自分でも、この味は悪くないなと……」。
肝心の売上は。どうだったのか。
「価格は、当時、500円の店が多かったのですが600円に設定しました。開店初日は20杯ほど売れましたが、最初の頃は来客が少なく、酷いときには19時から午前3時まで8時間でたった5杯のこともありましたし、余ったスープを棄てたこともありました」。
そんな時だった。地元メディアがやってきた。
「福井のケーブルテレビ局から“ラーメン特集”の取材を受けました。繰り返し放送されたこともあったのか来客が増え、完売の日が多くなり、一人ではとても無理になったので、友人に手伝ってもらうようになりました」。
「営業的には開業から3か月はマイナスが続いていましたが、ファンがついてくれ4か月目で初めてプラスになったんですが……」。思わぬ事態に襲われる。
「狭い空間で重い寸胴鍋を持つなど無理がたたったのか、椎間板ヘルニアと座骨神経痛で立っていることができなくなってしまったんです。止むなく休業しました」。
休業期間は、2000年11月から翌2001年3月までの4か月に及んだ。
「再開後も売上は上々でしたが、屋台営業に限界を感じはじめていました。3カ月後の6月のことですが、福井市光陽に適当な物件を見つけ屋台を止めて移転する、店舗で営業することを決意しました。実際に屋台営業を止めたのは2001年9月です」

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カンサプ株式会社 代表取締役 岩本修一氏

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有限会社フュゼ 代表取締役 中村志郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社フュゼ 代表取締役 中村志郎氏登場。

本文より~

ホームパーティとDIY、ゼロから生み出す楽しさ。

商社マンだった父の海外赴任に伴い、4歳から8歳までをオーストリアのウィーンおよびチェコスロバキア(当時)のプラハで過ごしたという中村氏の幼少時代の話からは、質素ながらも精神的な自由さにあふれ、なんでも手作りする喜びを感じさせるエピソードが多い。
「オーストリアでは広い庭を利用したガーデンパーティなど、ホームパーティが一般的でした。なんでもホームメイドでサクランボパイも自宅の庭のサクランボを利用したものだったり。パンも素朴だったし、ハムも美味しかったですね。気軽に人を呼んで、みんなで楽しむ。そういうのがごく普通でした」。
「チェコスロバキア時代の家の大家さんが、自分で家やワインセラーも作るような、何でも手作りする人だったんです。当時のチェコスロバキアは社会主義国だったので、両親は私を一般の学校には通わせず、週何回か家庭教師に来てもらっていました。だから(空いた時間には)シャベルを持って、大家のおじさんと一緒に何か作ったりして。それが今の自分につながっていると思います」。
『三つ子の魂百まで』と言われる通り、幼いころの経験はフュゼの店舗作りやメニュー構成に大きく影響しているようだ。

オグラ塾長との出会い、そして父の死。

小学2年生の時に日本へ戻ってきたという中村氏。中学時代の成績は、本人評価でいうと中の下くらいだったという。特に反抗期を迎えることもなく、比較的自由に育てられたが、当時は校内暴力全盛期。友達だからと不良グループの抗争になんとなく付き合って、警察に補導されたこともあったそうだ。そんな時に出会ったのが、個人塾「オグラ塾」のオグラ塾長だった。
「『お前、集中力があるな』って、進学クラスに誘ってくれたんです。それから成績が伸びたんですよ」。
良き勉学の師に出会えた中村氏は、無事都内の進学校に入学。3年後には早稲田大学経済学部に現役で合格している。しかしすべてが順調だったわけではない。中村氏が高校生の時に父親に胃がんが見つかったのだ。治療で完治したかと思いきや5年目に再発。手術を繰り返すも、病は父親の身体をむしばみ続けていった。
「それでも大丈夫だと思っていました。自分の親が死ぬというイメージがつかなくて、その時は(状況が)よくわからなくて。父はどんどん痩せていったけど、それでも大丈夫だろうと」。
「大学2年の時、自宅にいた父が血を吐いたんです。でも病院に運ばれた後も、自分でパジャマを着替えたりできたんですよね。ところが、母と姉が自販機に飲み物を買いに行ってる間にものすごい量の血を吐いて、ぐっと白目になってバタッと。モルヒネとかそんなの、間に合わなかったです」。
父親の壮絶な死を目の当たりにした中村氏が受けた衝撃は、察するに余りある。

就職と独立。

父亡きあと、「とにかく一度はきちんと就職してくれ」という母の願いで就職活動を開始。いくつかの内定の中から川崎重工業を選び、1995年に入社した。折しもその年の1月に阪神・淡路大震災が発生。新入社員研修後の5月、中村氏は震災の爪痕が色濃く残る神戸の地に配属された。営業職で採用されたものの、震災後の混乱から人手が足りなかったことから、自転車やスクーターで自治体に資料を届けるなど小間使い的な仕事が多かったという。
「こういうと語弊があるかもしれませんが、作業着を着て災害現場を回っていた時は面白かったですね。もう余震はなかったんですが、町の人からも『人間、いつ何があるかわからんで』と言われたり。そういうのを見て、自分の好きな事をしたいって思ったんです」。
5か月の神戸配属を終えて東京へ戻った中村氏は、その2か月後の12月末に会社を退職。学生時代の先輩と軽いノリで「店でもやるか」と以前から話していたこともあり、無国籍居酒屋を作ることになった。
「先輩と私、従妹の3人で店を始めることにしました。従妹の母である伯母が六本木で飲食店を経営していたので、彼女の名義で融資を受けることができたんです。伯母も『儲からなかったら給料はないよ』という感じで、応援してくれて」。
こうして誕生したのが、二子玉川の人気店「バニラビーンズ」だ。ちなみに中村氏は飲食店でのアルバイト経験はあるものの、忙しすぎてすぐに辞めてしまったという。ほぼ未経験での独立。大胆というほかない。

スケルトン物件をたった200万円でカタチに!

若さとは無謀な反面、なんと可能性に満ちあふれているのだろう。素人3人が選んだのは、新築の地下物件でスケルトン、さらに駅からも少し距離があるという、飲食店として使うには難しい立地だった。しかも当時の二子玉川は商業エリアとしては未発達で、その周辺も中華料理店や定食屋が点在するだけだったという。
「大家さんが理解のある人で、素人が作るのを応援してくれたんです。だから200万円で始めることができたし、家賃は37万円、坪当たり2万円しなかったですね」。
手元の資金が限られていたことから、3人で協力しながら内装や配管類を整備していった。DIY文化の国で幼少期を過ごした中村氏。金をかけずに店を手作りするのはある意味自然なことかもしれないが、スケルトン物件を200万程度でセルフビルドしてしまったというのは見事としか言いようがない。一方、料理に関しては、師匠と慕うフレンチのシェフにその基本や心構えを教わったという。

・・・続き

有限会社フュゼ 代表取締役 中村志郎氏

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2024年7月30日火曜日

ほぼ求人メディアラインナップ揃った!

キイストンは立ち上げから人材採用を生業に各求人メディアを取り扱ってきましたが、飲食業界特化し、ありがたいことにさらに全方位でメディアラインナップ確立できました。

求人市場もこの10年で大きく変化しており、今は効果あっても日進月歩で求人手法が変っていってる気がします。

多くの人材が必要な飲食業界において、手前味噌ですがキイストンは最強のメディアラインナップ揃えています。

是非ご相談ください。

これも「飲食の戦士たち」のおかげです。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年7月27日土曜日

周りに20〜30代の優秀な社長が増えてきました。

ここ最近の20〜30代のベンチャー社長は、本当に優秀な方が多いです。

気合いと根性、そして元気だけの私たちの時代とは大違い(笑)

そんな私と年齢では三回りくらい違うのに、まだ必要とされ仕事できるのはとても幸せです。

弊社が運営してる「飲食の戦士たち」を通じていろんな出会いとご縁が生まれました。

キイストンしかできない、キイストンならではの強みを活かして、飲食業界に貢献出来れば嬉しいです。

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年7月23日火曜日

株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏登場。

本文より~

スポーツ少年時代。

小学校の頃は剣道、野球、ソフトボールの三刀流。剣道では、大会で優勝している。そんなスポーツ少年が、今回ご登場いただいたNFIの中谷さん。大阪府八尾市の出身。2人兄妹で、3歳下に妹がいる。
「剣道は6年生までつづけましたが、陸上をやっていた親父の影響もあって、中学からは陸上部に入り、長距離ランナーに転向します」。
運動神経に恵まれていたんだろう。サッカー部の顧問から誘われたこともある。「休み時間に長距離は走れないんで(笑)。暇があればサッカーをやっていたんです。それを観て、顧問の先生が誘って下さったようです」。
<それで、高校からサッカーですか?>
「そうですね。多少は影響しているんでしょう(笑)。とにかく、高校からはサッカーを始めます」。
高校は、体育学科がある高校に進んでいる。
「体育学科っていうんで、期待していたんですが、特別、何かがあったわけじゃなくて。体育の授業が多少、多かっただけで(笑)」。
高校時代を総括すると、部活とバイトと、ほんの少しの夜遊びと。
「最初のアルバイトは、叔母がパートをしていたガスト。あとは、地元のお寿司屋さんだったり、カニ料理のお店だったり。オーナーやバイトの先輩たちにも可愛がってもらいました。今、振り返ると、人に恵まれていたように思いますね」。
「アルバイト代ですか? アルバイト代は…クラブで遊んだり、洋服を買ったり(笑)」。
ファッション、そして、それ以外にも色々と、目覚めていく。

美容師のたまご、飲食へ進む。

「高校を卒業して、美容師の専門学校に進みます。夜間の学校です」。
日中は、美容室でアルバイト。夕方学校に行き、授業を聞いたあと、ふたたび美容室でアルバイトをする。「1日中、美容と葛藤しているからほかの生徒より実習もできて…。できる奴だと思い込んで。やらかしたっていうか、舐めちゃって、授業もちゃんと聞かなくなってしまいます」。
2年制だったので、学校には通い、美容師の免許も取ったが、アルバイトは4ヵ月程度で辞め、美容以外のアルバイトを始めるようになる。
「これが一つの転機ですね。ちゃんと2年は通いましたが、もう少し真面目に取り組んでいたら、人生、かわっていたんちゃうかな。もっとも、そのおかげで、FI(フロンティアイノベーションズ)に出会うことができたわけですから、それはそれでよかったんですが」。
なんでもできる中谷さんのことだ。美容師として進んで、カリスマと言われるようになっていたかもしれない。とにかく、美容師のたまごは孵化することなく、終わる。
<ところで、FIというのは?>
「NFIの親会社です」。
<たしかに、Nがあるかないかのちがいですね?>
「そうなんです。FIに、中谷の頭文字のNをつけて、NFI。もちろん中谷ファクトリーイノベーションじゃなく、ネクストファクトリーイノベーションです(笑)。2014年にNFIを立ち上げていますから、私が、32歳の時です」。
<FIに就職したのは、美容師の専門学校を卒業してですよね?>
「そうです。今、思うと、よう、あんな若造を採用してくれたもんやな、と、当時の社長、今の会長には感謝しきりです。人に恵まれていると言いましたが、その代表がうちの会長ですね」。
入社当時は、叱られるようなことを何度もやらかしたが、会長は、中谷さんを高く評価されていたのだろう。中谷さんは、20歳、入社8ヵ月で店長にも抜擢されている。

子会社、社長に就任。

「仕事は当時のことですから、かなりハードでした。15時~27時まで。その分、給料も悪くはなかったです。もっとも、いろんな店を食べ歩きますから、それなりのコストもかかります。ただ、食べ歩くことで、気づきも多く、参考にさせていただくことも少なくありません。マーケティングリサーチは、飲食にとっても大事なことだと思っています。もちろん、今もつづけています」。
<独立志向はなかったんですか?>
「独立は頭になかったですね。 FIに入社したのも、じつは、知り合いに勧められて、『ヒゲを剃らんでいいし』くらいの理由で。ほかの社長さんがおっしゃっているような立派なモチベーションはありません。何もかもゼロからのスタートです(笑)。ただ、そんなええ加減なやつを評価して、育ててもらって。飲食も、立派に好きになりました。だからだと思いますが、社長(現会長)の影響が大きく、いっしょにFIを大きくしたいという思いだけで、突っ走ってきたって感じです」。
<子会社の社長になると言うプランもなかった?>
「そうですね。『子会社をつくるから代表をしろ』って言われたのが、2014年。『まる勝 寺田町店』が最初の店です」。
「FIって会社はほかの外食企業さんと関わることが少なく、鎖国的な武闘派集団ってイメージだったんです。私自身もそうだったんですが。じつは、あることで知り合った同い年の経営者7人と会をつくって、今ではいろんな情報を共有しています」。
会の名称は「五十六(いそろく)会」。
「自然発生的にスタートしました。年齢もおなじですし、全員、飲食の経営者ですから、素直にいいことも悪いことも共有しやすいです」。

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株式会社NFI 代表取締役 中谷俊文氏

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株式会社UNI 代表取締役 岡本直也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社UNI 代表取締役 岡本直也氏登場。

本文より~

小学生の頃、子どもなりに飲食業に憧れを抱いていた。

国宝・姫路城で知られる兵庫県姫路市。山陽姫路駅から徒歩10分程、本町商店街に『アイスは別腹』という店がオープンした。2021年11月19日のことだ。このユニークな名で開業したのは、株式会社UNIの代表取締役で2024年4月、25歳になったばかりの岡本直也氏。
―“UNI”という社名の由来は……?
「比類のない、独特なという意味を持つ“UNIQUE”と、連結する、統合するという意味の“UNITE”の頭3文字からとり、個性的でユニーク、さらに面白い人たちと働きたいという意味を込めて命名しました」と岡本氏。
「生まれは兵庫県姫路市大津区で、姉が一人いますが、双子の兄弟なんです」。双子の兄の拓也氏は現在、株式会社SIROという会社を起業し『クレープは別腹』というクレープ専門の店舗を運営している。兄との関係は後述するが、基本的には兄弟の強みを活かしたといえなくもない。
「父親は従業員が20~30人ほどの製造業を経営しています。双子だからってことではないのでしょうが、よく兄弟喧嘩をしましたね。お互い意志が強いのか、よく衝突しました。そのたびに父親には叱られましたが……」。
―どんな教育方針だったのですか?
「特に厳しく育てられたわけではないです。ただ放任ではないのですが、『好きにやっていいよ』とは言われていました」。
考えようによっては、両親は“自立”“自律”して生きることを暗に教えてくれていたのかも知れない。そんな教育を施された直也氏、学生時代に起業した。
「幼い頃から料理、飲食が身近にありました。というのも、父方の母がお好み焼き屋を営んでいたのですが、よく“好きなもの、食べたいものを作っていいよ”と言われ、調理というか、飲食の虜になっていたんです。小学校の頃ですが、当時から飲食業に憧れてもいました」。
「食に関する興味があったので、高校卒業後に食に関する幅広い知識、スキルを身に付けようと大手前大学 の健康栄養学部管理栄養学科に進学しました。2017年のことです」。
学びの意欲を抱え入学した大学時代、思いもよらぬ、回避することもできない事態、不測の出来事に遭遇した。新型コロナの流行だった。

新型コロナ禍。逆風だったから思い切ることができたかも。

「大学2回生のとき、2019年ですが、新型コロナが流行しました。得体の知れない感染症で収束が見えず、社会の動きや経済活動が停滞したのですが、その動きに合わせるように学校は休校に、アルバイト先も休業になり、一人で考える時間が増えました」。
休校、休業という不都合な状況だったが、その一方で“思考する”という時間が持てたことは、有意義な時間でもあったことだろう。
「将来、飲食店を開きたいと思っていたので、この“空き時間”を利用し、起業できないかと調べ始めました」。
「親の教育なのかどうか、学生時代から自身の才覚で稼ぐことが多かったこともありましたし、調べたり、考えたりした結果、“やりたいことをやろう!”と決断して在学中でしたが淡路島でカフェを開業したんです。この時が飲食業のスタートになりますね」。
-学生生活を送りながらカフェを運営することに支障はなかったのですか?
「当時、大阪に住んでいたのですが、再開した授業がオンラインでしたから通う必要はなく、 別の場所でも授業を受けることが可能でした。であれば淡路島で出店してみようと考えました」。
―開業に要した費用は、どのように工面されたのですか?
「総額で200万円ほど。半額は用意できましたが、残り半額は父からの援助で賄いました」。
―どのようなお店でした?
「スイーツからランチまで、幅広い料理を提供するお店です。意欲はありましたが知識もコネもないゼロからの状態で、内装やメニューまですべて僕が考えました」。
―業績は?
「ところがオープンはしたものの、新型コロナの影響は深刻でした。開業して間もない頃は、お客さんが来ませんでしたから……。学生時代、大阪でグルメ・インフルエンサーのようなことをしていてフォロワーもいたものですから、それなりにお客さんが来ると思ったのですが……」。
ただ、手をこまねいていても好転するわけではないので、メニューの内容など改善していくうちに、徐々に来客が増えるようになったという。夏が訪れた。
「夏に向かってアイスを作ったところ、お客さんが増えたんです。季節的にもマッチしたのか評判になり、“これならイケるっ!”と確信が生まれ、自信のあることに特化しようと決断したんです。それが、“アイス”でした」。
『アイスは別腹』の誕生だ。

双子だから尊敬し合うし、苦労も乗り越えられると思った。

淡路島での経験を踏まえ開業した『アイスは別腹』。開業にあたって岡本氏は、現在、株式会社SIROの代表を務める双子の兄、拓也氏に協力を仰いだ。
 「兄は兄で独自の仕事をしていたのですが、“姫路でお店を始めるので一緒にやらないか”と誘いました。兄からは“店舗経営は素人だけれど、お店以外のこと、サイトを作ったり、SNSで集客したり、そういった面でサポートできるから協力できるよ”と返事がありスタートしました」。
そもそも双子経営って珍しく話題になることを目論んでいたし、二人で力を合わせれば成功するという自信もあったという。
「お互いがお互いの能力を尊敬していましたし、何があっても二人なら乗り越えて行けるという確信がありました」。
「父に打ち明けたとき、“とにかく喧嘩はするなよ”と、笑いながらですが釘を刺されました。幼い頃、よ~く喧嘩していましたからね」。ただ、喧嘩はすれど強い味方であることに変わりはない。でも、喧嘩は避けられない。
「どんなに仲が良くても他人ならどこかに遠慮があると思うんです。ところが身内、双子の兄弟となると話は別で容赦しないですから、必要以上に争ってしまうことも分かったんです。喧嘩というほどではなくても言い合いはしょっちゅうでした。だからこそ、最高のものができると……。ある意味では強みですね」。
「メニューひとつ決めるのさえ簡単じゃなかったですね。最大に意見が違ったのは『アイスは別腹』という店名です。兄には兄なりのイメージがあったのでしょう、“そんな店名にするんなら、一緒にはできない”と言われましたが、僕としても譲れない」。
―とは言え、かなり珍しい店名だと思うのですが……。
「どちらかと言えば、直感で閃いた名でしたが、インパクトがあるし、印象に残るだろうと思いました。そんなこんなで“絶対に成功するから”と口説き落としました」。兄と侃々諤々のバトルを繰り返し、紆余曲折を経て2021年11月、無事に開業。
「順調にTakeOffすることができました。新型コロナ禍だったからテイクアウトできるものを考え提供し、それがお客さんのニーズにマッチしたのだろうし、コンビニ感覚で寄れる店でしたし……。振り返ってみれば成功だったと思いますね。予想以上にね。もちろん、『アイスは別腹』とい店名の訴求力とでも言うのか、好意的に受け取られたと思いますよ」。
メニューも豊富で、定番商品、こどもあいす、大人の深酔いパフェなど多彩で、新商品の開発にも余念はない。
「地元の食材を使うなど、地元が潤い、産業が盛り上がればいいかな、と思っています。スタッフはほぼ同世代で、1店舗10~20人ほどで運営しています。運営にはそれぞれ細かなマニュアルがあり、就業前に本部で研修を受けることになっています」。
2021年11月の開業から2年半ほど(取材時)にしかならないが、商いは順調に推移し店舗数も増えているようだ。
「現在、直営店とFC店を合わせて全国で20店舗展開しています。仕事の内容はマニュアル化されていて誰でもが取り組める仕組みになっていますから、FC店運営は未経験でも可能です」。

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2024年7月22日月曜日

7月19日(金)更新のフードリンクニュースで取り上げていただきました。

7月19日(金)更新のフードリンクニュースで取り上げていただきました。

「外食経営者の”生き様”エピソードにスポットを当てたドキュメントコラム「飲食の戦士たち」が、連載1,000回を達成。衰えを知らないキイストン代表の細見氏にインタビュー
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