2023年5月16日火曜日

株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏登場。

本文より~

あだ名は、健作。

大学の時に、非嫡出子だと告げられた。
「正妻が別にいるってことです。父は、当時で70億くらいの商社を営む敏腕経営者だったようです。私が25歳の時に亡くなります。遊んでもらった記憶ですか? そうですね。キャッチボールを1度くらいかな笑」。
ただ、年に1~2回、旅行には行った。
「でっかいホテルに連れて行ってもらうんですが、衣食住のすべてがそろっている。そういう世界に憧れたんでしょうね」。
作文に「将来、ホテル塚司を建てる」と書いたそう。
「塚司」はもちろん、石塚の「塚」と信司の「司」。
サービス業に惹かれたのはもう一つの原体験があったから。
なんでも、母方の祖父が仕出し屋を経営されていたそうで。
「だし巻きが人気で、お正月ともなれば、石塚氏も駆り出され、玉子を割る仕事に追われていた」と笑う。
「高学年になると、だし巻きを焼けるまでになっていて。それが次々に売れていくわけでしょ。お客さんもみんな笑顔だし。商売って面白いな、と」。
学校では、どんな小学生でしたか?という質問には「やんちゃでいたずらっ子、先生を困らせて喜んでるような子」との回答。運動はできたが、勉強はイマイチ。ただ、中学に上がり、成績がランキングされるようになると黙っていられなくなった。
「ランキングっていうのに弱いんでしょうね。勉強すれば順位が上がる。これがモチベーションになっちゃって」。案外、単純な性格。ただ、勉強に目覚めたおかげで進学校に進んでいる。
「高校はラグビー部です」。
なんでも、先生にスカウトされたそうだ。楕円のボールを追いかける一方で、校内のイベントではお祭り男として、舞台に登場する。
「仕出し屋さんを手伝っている時に、チームビルディングというか、みんなで何かを作り上げていくって作業にも魅了されていたんでしょうね。イベントってそうじゃないですか。で、付いたあだ名が『健作』です」。 健作?
「あの森田健作さんの、健作です。みんなを鼓舞するというか、元気はつらつ。とにかく、イベントが大好き。学級委員長だし、修学旅行では、先生に混じって部屋割りも決めていました。だから、私のクラスは、いつもいちばんいい部屋だったんです笑」。
段取りが上手い。これは、今もそう。
「今も、フランチャイズクラブを作ってます。細かい段取りとか決めたりするんですが、高校の頃からそういう才覚はあったんでしょうね」。
父親譲りか、祖父譲りか。とにかく、なるべくしてなった、という印象。ところで、健作さんには、吉川くんがいたが、石塚氏にも、○○くんはいたんだろうか。つい、聞き漏らしてしまった。

お祭り男、東京へいく。

「父親からも、東京へ行けと言われていました。『東京を10とするだろ。名古屋は1、大阪は3、だから東京へ行け」って」。早稲田を落ち、一浪して、明治に。
お祭り男にとって、東京は晴れ舞台だ。
「サークルも楽しかったし、六本木のカラオケパブや、銀座の料亭など、今思えば飲食ばかりですが、アルバイトも楽しかったですね。そうそう二十歳の時に、TVの企画でグランプリをいただいています」。
どんなTVだったんですか?
「第一回スーパーマネー大賞という番組で、私は買物配達代行を企画して、グランプリを獲得します」。
旅行にも出かけた。バリ、トルコ、ギリシャ…と、お祭り男は、海外でも人を巻き込んだに違いないと言いたいが、実は、トルコで身包み剥がされている。
「就職は、セコムです。経営者になりたいと父に相談したところセコムを勧められ、営業は必須のスキルだと言われて、セコムで営業をしていました。当事、新卒200名のうち営業はたった2名でした」。
なんとなく想像できたが、結果が凄い。1年目で、同僚の倍の給料を手にしていたという。
「セコムって言っても当時は『?」の時代です。だから営業はたいへんでしたが、マーケットがブルーオシャンだったのも事実です。私は法人営業でしたから、様々な企業に飛び込むのが仕事です。配属されたのは、中央支社と言って、東京の真ん中ですね。そういうところに配属されたもんですから、結果もでやすかったので、ある意味ではラッキーだったのかもしれませんね」。
創業者の飯田亮氏の面談は今でも記憶している。「代表との面談が、人生でいちばん緊張しましたね笑」とのことだ。

外食事業を第二の柱に育てる。

「セコムに4年半お世話になり、お客様だったパチンコ店に転職します。当時の専務から『企業にしたいからサポートしてくれないか』というオファーをいただいて」。
たしかに、その当時のパチンコ店は、個人経営の色合いがつよかったように思う。
「でも、セコムのBtoBとは違って、BtoCでしょ。面白そうだと。何しろ仕出し屋の孫ですからね笑」。
石塚氏のために、新店がオープンする。
「これにはびっくりしました。篠崎に、私のためにと、新店がオープンされたんです」。
会社にすれば、しがらみのないところで、思い切り仕事をさせてみようという狙いだったに違いない。転職でいったん下がった給料もやがて1000万円をオーバーするようになる。
「まぁ、当時はいろんな意味で、むちゃくちゃというか。とにかく、クレームは多かったですね。お金がかかっているからそりゃそうなんですが笑。ただ、私は、ホテルのカジノにも憧れていましたし、ゲームセンターの熱気も大好きだったので、ある部分では水が合ったんでしょうね。そんな私がクレーム以上に困ったのは、定着率です。せっかく1人採用できたと思っても、1人辞めていく。自転車操業です笑」。
どうされたんですか?
「どうしようもなかったのが事実ですね。ただ、あるスタッフが辞めると言いだした時、さすがにまずいと話を聞きます。すると『外食をしたいんだ』というんです。同じサービス業でも、外食とパチンコでは、まるでちがうところがあったんです。パチンコでは、はたらく喜びが少なかったんです」。
ただ、パチンコ店には、資金はある。
「だから、その時、じゃぁ一緒に外食をしようよ、と。もっともノウハウがありませんから、フランチャイズだと思って。それでスタートしたのが牛角です」。
当時の牛角は、ハンパないブランドだった。17時にオープンすれば、客が傾れ込む。毎日が盛大な宴。「事業計画で1200万円だったのが、蓋を開ければ2000万円オーバーだった」と笑う。
BSE問題などピンチに立たされたこともあったが、外食事業部長となった石塚氏は、自社ブランドを合わせ、20店鋪まで事業を拡大する。パチンコ事業と違った、もう一つの柱ができ上がる。
組織も、企業然とした体制になっている。外部の石塚氏が、専務となったのが、その証かもしれない。
「したいことをさせていただきましたし、独立なんて思ってもいなかったんですが」。
てっきり独立はつねに頭にあったと思っていたから、そう言われて戸惑った。

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株式会社リックプレイス 代表取締役 石塚信司氏

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2023年5月15日月曜日

株式会社G-vision 代表 伊藤穣二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社G-vision 代表 伊藤穣二氏登場。

本文より~

少年の野望。

今なら大問題だろう。本人もそう言っている。
「小学3年生の時に先生に怒られ、倒れた拍子に骨を折ってしまいます」。犯人の名は今でも記憶しているようだったが、ここでは伏せておく。
「そのことがあって小学5年生から越境で、日本橋の学校に転校しているから余計に忘れられないんだと思います」。
十分な謝罪もなかったというから、ひどい話だ。
父親は貿易関係の会社に勤めていて、1年の4分の1は海外勤務だったそう。「父親が向こうにいるので小さい頃は東南アジアによく行っていました。そのおかげか、私以外のきょうだいは英語をしゃべれるんですが、なぜか私は日本語一択です笑」。
小さい頃から食べることが好きだったというから、東南アジアのエスニックな料理も堪能したことだろう。もちろん、母親の料理も大好きだった。
「食べるのは大好きだったんですが、当時は今みたいじゃなく、痩せていました。剣道をやっていて体を動かしていたからかもしれませんね」。
「勉強はできなかったな」と笑う。「オール2とか」らしい。好きな教科は美術と歴史。特に目立つわけではなく、大人しい子だったそう。
だが、その大人しい少年には、小さな野望があった。
「実は、小学生の頃から焼鳥屋さんになりたいと思っていたんです」。
小学生で焼鳥屋ですか?
「西船橋にある焼鳥屋さんで食べた『つくね』がもうおいしくて笑」。
焼鳥屋になれば、旨いつくねが山ほど食べられる。これが、少年が抱いた野望だった。

バイト代=酒代。

「妹は大学院まで行ってMBAも取っていますから頭は悪くないと思うんですが、私は何しろオール2でしょ。高校は通信制で9月に入学しています。先輩から『高校は出ておけ』と諭されて。でも、3年で卒業のはずが5年かかっています。バイトばかりしていましたから」。
鶏肉が好きだったから、バイトはケンタッキー。カーネル・サンダースさんが聞いたらきっと大喜びされるはずだ。
「3年つづけました。ほかにもそうですね。道路にラインをひく、あの仕事もしていました」。
「バイト代は、すべて飲み代に消えた」と笑う。
飲むのも好きで、食べるのも大好き。メニューでいちばんは鶏料理。
「高校を5年かけ卒業して、いったん焼鳥屋さんに就職します」。
既定路線ですね?
「そういえば、そうですね。ただ、社会保険もなかったので、ある会社の食堂に転職します。でも、ぜんぜんつまらなくて、半年で退職してしまいます」。
ところで料理はどこでマスターされたんですか?
「小さい頃の話ですが、うちで料理を作ると、みんなが美味しいと喜んでくれる、それが嬉しくて。だから技術より先に料理の楽しみを知りました。技術的なことでいえば、最初に就職させてもらった焼鳥屋ですね。あそこで教えていただいたことが今のベースになっています」。
その後、前職の会社に入社されたのは、食堂を辞めてからですか?
「そうですね。キャバクラの店長から誘っていただいて笑」。
その会社とは、「飲食の戦士たち」でもご紹介している会社で、創業は2008年でその1年後に法人化している。
「私が入社したのは創業期で、飲食店2店舗目をオープンする時に、店長を任せていただきました」。
メニューの開発も伊藤氏のミッション。
「業者の窓口とかも全部やってたのでめちゃめちゃ勉強になりました」。小さい頃から他人に喜んでもらうのが好きだったから、お客様の笑顔を見たくて頑張ったのかもしれない。だが、人間、頑張りすぎはよくない。

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株式会社G-vision 代表 伊藤穣二氏

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2023年5月6日土曜日

5月4日(木)の日テレ「news every」にヤマト様とフリホーレス様が取り上げられました。

5月4日(木)の日テレ「news every」の大繁盛店特集は、うちから沢山推薦した中でヤマト様とフリホーレス様が取り上げられてました。

共に行列スゴいですね。

日常が戻り、さらに行列がスゴくなりそう。

「news every.」人が集まるのにはワケがある! 大繁盛店のヒミツお見せします21

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2023年5月1日月曜日

株式会社TOKITOU 代表取締役 時任恵司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社TOKITOU 代表取締役 時任恵司氏登場。

本文より~

父の料理と、少年の未来と。

中学1年の夏に就職先を決めたと聞いて耳を疑った。中学1年といえば、まだおさない少年だ。将来を決めるには、さすがに早すぎる。戸惑っていると、「まちがいなく、中学1年の夏休みです」と笑う。
今回ご登場いただいたのは、日本の伝統料理の一つである鰻とフレンチを融合させた稀代の料理人、「うなぎ時任」のオーナーシェフ、時任恵司氏。
「兄弟が4人いて、私は3男。男ばかりですから、兄弟喧嘩もしょっちゅう。とにく、次男と私は11ヵ月しか離れていないこともあって、毎回、やるか、やられるかの壮絶なたたかいでした笑」。
小学1年生の時には、とつぜん、住む家がなくなったそう。昭和20年代生まれの人の話ではない。時任氏は1984年生まれ。経済がバブルに向かってまっすぐに進んでいた頃。だから奇異な話に映るかもしれないが、ほんとうらしい。1ヵ月ちかく、家族みんなで民宿生活を送っていたという。むろん、優雅とはほどとおい。
スポーツはなにかされていましたか?
「柔道です。あれがいちばん、お金がかからない笑」。
お金はなかったが運はいいと時任氏はいう。生まれてすぐ大病をわずらったが、奇跡的に助かっている。
「勉強は、ぜんぜん、できませんでした。ともだちにも、勉強ができない奴というレッテルを貼られていた気がします。次男と11ヵ月ちがいなので、同学年なんですが、彼は私とちがって勉強ができたんです。だから、譲ったんです」。
何を、ですか?
「進学です(笑)。2人いっしょに進学するお金はさすがになかった。私は勉強がいやだったし、進学する意味もわからなかったから、高校はいかなくていいと」。
本心だったんだろうか?
「もちろん、本心です。とにかくあの頃は、勉強するのがいやで、いやで(笑)」。
今では、経営に関する難しい本も読む。「あの頃は、勉強する意味もわかなかったっていうのが正直なところです。勉強と仕事を天秤にかければ、そりゃ、傾くのは仕事へ、でしょ。だって、勉強から解放されて、お金が儲かるわけだから」。
たしかに、たしかに。ところで、どうして、飲食だったんですか?
「小さな頃、父親が卵焼きをつくる様子をみて、かっこいいな、と、そういう原体験があったので、就職するなら飲食だと。鰻は、もちろん想像外のジャンルでしたが」。

鰻重に心を奪われた少年の選択。

中学を卒業した時任氏は、創業から200年以上つづく鰻の名店に就職する。「麻布 野田岩」。政治家をはじめ、著名人のなかにも贔屓客は少なくない。
名店に就職できたのは強運の証だが、そのぶん、仕事は生ぬるくない。
「きつかったですね。同期はつぎつぎ辞めていきました。でも、私は絶対、逃げ出さないと決めていました。ここで、投げ出したら終わりというか。仕事はたいへんでしたが、たぶん、逃げ出すことのほうが怖かったです」。
15年、その道はつづく。
「東京に来て初めて暖簾を潜ったのが『野田岩』さんでした。ちょうど昼ちかくだったこともあって、面接が終わると『たべてけ』と鰻重をだしてくださったんです」。
時任氏は中学1年の夏を思い出して目を細める。
「料理を食べて感動するってあるんですね。もう、『旨い』が、波のように押し寄せて」。
箸がとまらない?
「そう。ただ、あの時は、『すげぇ、旨い、旨い』だけで。あとになって思うと和食や洋食ってコースじゃないですか。全体のバランスでしょ。前菜があって…。でも、鰻は『鰻重、ハイ、どん!』(笑)」。
「むちゃくちゃシンプル。言い訳が効かない。やり直しもない。旨いか、どうか。イチかゼロ。もうちょっと言えば、それ一杯で、感動させられるか、どうか」。
潔さに惚れた?
「そうですね。そのあと、面接いただいたお店は申し訳ないことに記憶にないんです。ボーとしていて」。
鰻重が頭から離れない?
「心を打たれた初めてのお料理が『野田岩』の鰻重でした」。
なんとも贅沢な話ではある。むろん、帰路につく頃には、もう、心は決まっていた。これが、『野田岩』との出会い。やるか、やらないか、ある意味、壮絶な人生の始まり。兄弟げんかの比では、もちろんない。

うなぎ職人の朝は、早い。

オーナーは朝4時半に出勤する。だれもいない店で、仕込みを開始する。それが日課だった。神聖な、その時間を奪ったのが時任氏だった。
「先輩らは、だいたい7時に出勤します。でも、私はオーナーが出勤される前の3時に出勤しました」。
早朝。まだ、薄暗い。冬は、室内まで凍てつている。独りの神聖な時間に踏み込んできた少年を、オーナーは拒否しなかった。
15歳にして、オーナーすらライバルだと言い切る、切れ味の鋭いナイフのような少年に、オーナーは何をみて、横に立つことを許したのだろうか。
鰻をさばくスピードが先輩たちを追い抜き、いちばんになるまで、そうかからなかった。
「先輩らが来るまで2時間以上、オーナーを独占しています。四六時中、鰻が頭から離れません。1日、1000~1500を焼き上げるわけですから、さばく仕事をしている私らにスピードがないと、つぎの工程がうまく進みません。だから、評価もいただきました」。
オーナーも、少年に目をかけていたのは、間違いない。25歳で、料理長も任されている。ただし、朝3時からスタートして、夜11時まで。帰宅して、風呂に入って、文字通り、バタンキュー。フリータイムもない。できる人も、それを望む人もたぶんいないが、時任氏には、それが、ルーティンになる。15年、そのルーティンは破られたことがなかった。
「だんだんと、みんながあいつはそういう奴という目で私をみるわけです。そうなると『やめた』とは言いにくくって(笑)」。
ふつうなら高校に進み、そして、大学に進学。大学でふざけ、笑い…、就職時には、御社は…とやる。だが、時任氏は、毎日、毎日、ひたすら鰻に向かった。
ちなみに、皮がぬるぬるして滑りやすく、小骨が多い鰻は、技術を習得するのが難しいといわれている料理の一つ。繊細な料理でもある。
その料理をマスターする。成人式に現れたのは、もう立派なうなぎ職人だったにちがいない。スポーツなら金賞、間違いなし。
ただ、少年は、うなぎ職人だけをゴールにしていたわけではなかった。

起業へ。だが、道は険し。

「野田岩では、オーナーに師事できたのはもちろんですが、野田岩ではたらいているというだけで、著名な方々とお話ができたのもラッキーでした」。
深夜、時任氏はある資産家に進められた通り、港区の高級バーに顔をだす。「『新橋でともだちと安いビールを飲むんじゃなくって、港区で1杯1000円のビールを飲みなさい』とアドバイスされたんです」。チャージ代を含めれば合計2000円。薄給の時任氏には、痛い出費。だが、常連になる。「常連といっても、一杯だけ。それで長時間いるわけですから、迷惑な客です(笑)」。
時任氏の人柄もあったのだろう。若さもあったのかもしれない。野田岩の効力かもしれない。「みなさん、さすがに、ご存じなんですよね。野田岩で、というだけで興味をもっていただいて。私もまだ20代でしたらか、ギャップもあったんでしょうね。感心され、がんばりなよって」。
人脈が広がる。じつは、起業の背中を押してくれたのも、バーで知り合った恩人の1人。名前を聞くと、だれもが知っている有名な経営者だった。
「野田岩を卒業しようと思い始めたのは、27歳の頃から。昔のようには感動できなくなったことも理由の一つです。もちろん、30歳で独立と決めていましたから、それが、いちばんの理由なんですが。兎にも角にも、支援もいただき銀座でスタートします。ところが、これが、ぜんぜんだめだったんです」。
それはないだろうと、質問を重ねたが、事実。つまり、「うなぎ時任」にも、閑古鳥が鳴いていた時代があったのだ。
「価格なども含め、銀座にはマッチしなかったんでしょうね。コンセプトもできあがっていなかった。そういう意味でビジネスは難しいです」。
16歳から30歳までの、修業のすべてをぶつけたが、客の心をわしづかみにはできなかった。「最初の3ヵ月はまぁ、いいかなという感じだったんですが、4ヵ月目から、がくっと落ちちゃって」。
野田岩では、客がいない日はなかった。初めての経験。
「当時はたしかに凹みましたが、私にとっては、それまでとは違った意味で重要なイベントだった気がします。おかげで今までを、ゼロリセットできたわけですから」。
挫折?
「そういうのは、あったかもしれないですが。鰻は私の軸だし、もう一度、チャレンジする志も揺るがなかった。ただ、もう一度、ゼロからいろいろみてみようとは思いました。だから、2年間くらい、あっちこっちで仕事をさせていただいたんです」。
どこに行っても、3日くらいで料理長になれると言われたそうだ。時任氏がいうように、この2年間の意味は大きい。時任氏の守備範囲の広さや深さは、この2年間があったおかげだろう。
ところで、「うなぎ時任」の代名詞である、フランス料理との融合は、どこから始まったのだろう。「野田岩には、支店がいくつかあるんですが、じつはパリにも支店があって、そちらで料理長を務めた経験があるんです。みなさん、鰻って言ったら、日本だけのお料理って思っていませんか? じつは、ヨーロッパでも、ちゃんと鰻の料理はあるんですよ」。
調べてみると、たしかに、フランスだけではなく、ベルギーでも、デンマークでも、イギリスでも、それ以外でも、鰻料理があった。
料理の方法は異なったが、世界は、ちゃんと旨いものを知っている。ともかく、2年の雌伏の時を経て、再チャレンジがスタートした。

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株式会社TOKITOU 代表取締役 時任恵司氏

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株式会社総合近江牛商社 代表取締役 西野立寛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社総合近江牛商社 代表取締役 西野立寛氏登場。


本文より~

注目の成長企業「総合近江牛商社」。創業者は鹿児島県出身の西野立寛氏。

「総合近江牛商社」は「近江牛を世界へ」という理念を掲げ、幅広い事業も展開している。コアとなるのが、飲食事業。ブランド名は「近江焼肉ホルモンすだく」。
2019年の創業以来、コロナ禍に関わらず異例のスピードで出店をつづけ、2023年1月現在で早くも40店舗ちかい店舗を出店しているから驚きだ。
代表は鹿児島県出身の西野立寛氏。1991年、生まれの若き経営者。
昔から勉学に秀でていた西野氏だが、「ラ・サール学園はしっかり落ちました」と笑ってみせる。もっとも父親の転勤で、京都に移ったあとは、京都でナンバー1の「洛南高校」に編入しているのは、さすがの一言。 「子どもの頃は、運動も勉強もできるほうでしたし、頭は悪くないと思っていましたが、洛南には天才がたくさんいて」。
特別な存在じゃなくなった?
「そうですね。奴らといっしょにいると、たいていの人がそうなるんじゃないかな笑」。
好奇心旺盛な性格で、中学まではパイロットをめざしていた。
「目が悪くなって断念しなければいけなくなって、そのあとは、父親が京セラのエンジニアだったからではありませんが、エリートサラリーマンに憧れました。稲盛和夫さんの影響も受けていたように思います」。
中学では吹奏楽部。
「かわいい子がいたから」と、かわいいことを言う。

5年間の大学時代と、世界一周の旅と。

「第一志望は京都大学でしたが、ラ・サールの時と同様で、立命館大学に進みます。実は、就職は船井総研なんですが、こちらも第二志望。第一は外資のデロイトトーマツでした」。
第一希望も、第二希望も、こちらからすれば、いずれもエリートの道に変わりがない。
「デロイトが第一希望だったのは、外資を経験してみたかったからです。ただ、最終的には船井総研でよかったと思っています。とても、いい勉強をさせていただきました」。
船井総研には、何年いらっしゃったんですか?
「合計3年です。その時、担当していたのが外食で、それが今につながっています。外食を担当したのは、サービス業に関心があったから。実は学生時代、結婚式場でアルバイトをしていて」。
西野氏は学生生活を5年送っている。その間アルバイトは、基本結婚式場。感動に包まれる仕事だったらしい。ただし、卒業まで5年かかったのは「アルバイトにハマったから」ではない。3年時に1年間、世界を一周していたからだ。
韓国からのスタートだったらしい。世界は広い。この旅もまた西野氏の、今の心の骨格をつくっている。

人口16万人の苫小牧で、年間60万人が来店する金剛園。

「かなりのハードワークだった」と、船井総研時代を笑って、そう表現する。「もちろん、それが今の私の力になっているわけですから感謝ですが、今じゃ完全にアウトです笑」。
それだけ、濃い時間を過ごされたんですね?
「行動半径も広かったです。私は、大阪で勤務していたんですが、関西だけじゃなく、北海道から沖縄まで担当していました」。
北海道まで?
「そうです。でもそれがきっかけで、ある会社と出会います」。
どんな会社ですか?
「『金剛園』という焼肉店です。『金剛園』は1985年創業の、苫小牧本店の焼肉店。人口16万人の苫小牧で、年間のべ50万人が来店するんですからモンスターです。専務の須藤さんと仕事を通して知り合い、親睦を深めさせていただきました」。
むろん、コンサルタントとしてサポートするのが、西野氏の仕事。
「依頼はWEBマーケティングのサポートだったんですが、逆に私が勉強させていただきました。今、うちがあるのは、須藤専務のおかげ。実は今も、須藤専務には勉強させていただいています」。
マーケティングや、ファイナンスは西野氏の得意分野。むろん、コンサルタント業にも面白みは十分に感じでいたが、リアルな経営者の姿にはかなわなかったのかもしれない。
西野氏は、経営者として新たな道を進むことになる。

リアルすぎる、屠畜の世界。

「銀行に事業計画書を出したら、通った」と、西野氏。ファイナンスは得意分野。コンサルタントが作成した事業計画書に対して、銀行は2000万円を融資する。
「船井総研を2018年12月末に退職します。牛を極めたくて、実はそれ以前から、アルバイトですが『滋賀食肉センター』で近江牛の屠畜に従事しました」と西野氏。
流通のしくみも含め、研究にも没頭。
コンサルタントは口先だけではない。なにをすべきか。その意味も含め、深く知り尽くしている。一方、どれだけの独立希望者が、このプロセスを踏むことができるだろうかと思ってしまった。
結局、誰でもない、西野という人間がやるしかなかったというのも、独立のきっかけかもしれない。
さて、実践派のコンサルタントがつくった飲食店は、どうなっていくんだろう?
門馬西野氏は「最初から仕入れをするのが目的ではなかった」と言っている。「屠畜に従事したことで、流通から、解体、廃棄も含めて、今まで知らなかった世界をみた」とのこと。その結果、組合員と認められ「直接、仕入れる権利を獲得できた」という。これは、ほかの焼肉店にはない、強烈なストロングポイントだ。
ちなみに今現在、社員にも屠畜を経験させているらしい。命の尊さを知ることもまた、経験すべきことの一つ。
さて、西野氏の戦いは、今からが本番。屠場で経験を積みつつ、2019年1月、創業店を滋賀県の守山に出店する。
「銀行からの融資のうち1000万円程度をかけて、守山に『近江焼肉ホルモンすだく』をオープンします。食いっぱぐれのないように、まずは、土地勘もある守山でスタートします」。
19坪、28席、損益分岐点は250万円。
「ファミリーで来店いただいて1万円でお釣りがくる、というイメージです」。
いかがでしたか?
「今までとは違ってリアルな世界です。オペレーションがぜんぜんだめで最初はクレームの嵐。それでも安価な価格帯でカバーできたんだと思います。オープンから、お客様がたくさんいらして。それがまたクレームを生むわけです笑」。
後に奥様になられる、当時の彼女と、お母さま、弟さん、まさにファミリー経営。オペレーションに関しては素人だったが、お客様は容赦がなく来店を重ねる。旨くて、安いと口コミもとまらない。
結果、損益分岐点を軽々オーバーする月商700万円。
「勢いにのって、4月に近くの栗東に2号店をオープンします。駅前のロードサイド。でも、守山と同じわけにはいきませんでした。初月が100万円。全くの赤字です」。
やばい。これはリアルな世界の話。
「もちろん、最初はどうするか、となりましたが、半年後には創業店と同等までアップしましたので、ホッとひといきです」。
改めて「すだく」と、西野氏の力を示すことになった。

・・・続き

株式会社総合近江牛商社 代表取締役 西野立寛氏

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株式会社アールベイカー 代表取締役社長 廣谷光彦氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アールベイカー 代表取締役社長 廣谷光彦氏登場。

本文より~

剣道と。

福知山市に引っ越したのは、小学校に入る前。
「大阪の藤井寺出身です。4歳の時に福知山に来て、それから高校までこちらで暮らします」。
兄弟は2人。廣谷氏は次男。長男とは性格がちがうらしい。「兄はおっとりですが、私はせっかち。性格がちがったからではないですが、兄は野球で、私は剣道です」。
剣道は小学校からはじめたそうで、中学時には40数年ぶりに学校に優勝旗を持ち帰っている。
「高校は福知山高校に進みます。剣道は続けますが、中学の時と比べれば練習量も減って、いい成績は残せなかったですね」。
剣道も好きだが、プロセスも好き。格闘技好きというのが少年、廣谷氏の正体。
スポーツもできたが、頭も悪くない。進学校の福知山高校を選択したのは、そのためだろう。
「剣道だけでいえば、 福知山成美高校というのがあって、そちらは京都府でもトップクラス。中学時代の剣道仲間はそちらに進みましたし、私も勧誘されたんですが、学業を取って福知山高校に進みました」。
福知山成美に進んでいたら、どうなっていたでしょう?
「そうですね。剣道で福知山成美に進むと、国士館や日大に進学していたんじゃないでしょうか。ただ、私にはそういった思いもなかったですね。当時は、漠然とですが、ADになりたいと思っていました。芸能界に憧れていたんでしょうね」。

アトピーと、未来と。

「大学は、四天王寺大学に進みました。福知山から離れ、独り暮らしを開始しました。大学は、私の出身である藤井寺のちかくにありました」。
「親元から離れたことで困ったのは食生活です。カップラーメンとか、食べちゃいますよね。もともとアトピーはあったんですが、いいかげんな食生活がたたったのか、大学2年くらいの時にひどくなって。原因は、一言、食生活の乱れです」。
たまたまだったそうだが、廣谷氏が3年生の時に父親が転勤で、大学の近くに来ることになり、そこで一緒に生活を始める。
「親といっしょに暮らすようになって、野菜をちゃんと食べるようになります。すると、アトピーがうそのように治ります。この実体験があったから、このあと栄養士をめざすようになるんです」。
つまり、アトピーの改善で、未来が決まっていったんですね?
「そうです。ただし、大学での専攻は社会学部で、栄養士とは無縁でした。なので、大学を卒業したあと、栄養士の専門学校に通い始めます」。
学生時代のアルバイトは?
「流通系のクレジットカードの案内のバイトです。時給が当時で1200円。専門学校の学費も、こちらのバイトでためたし、ヤマハの400CCのバイクも購入しました」。
晴れた日には400CCのバイクを駆ってツーリングを楽しんだそう。山道を通り抜ければ、和歌山まですぐ。和歌山にでれば、海岸線も近づいてくる。
「大学時代を一口にいうと、バイトと、あそび」。もちろん、アトピーと食事も、廣谷氏の大学時代のキーワード。

栄養士、船に乗る。

専門学校に進んだ廣谷氏は、熱心な生徒になる。「先生に、やるね、すごいね、と言われて、その気にさせられていたんでしょうね」。
講師がすごいといったのは、調理実習。
天性のものがあったんだろう。
「かなりいい評価をいただいたもんですから、この頃から将来独立もいいかな、と。とはいえ、就職先は、営利団体に興味なく、保育園などを志望していました。独立とは真逆で、ほのぼのとした生活をしたいと。おっとり系だった兄の色がでてきたのかもしれませんね笑」。
ただ、うまくいかない。
「保育園は、やはり女性が有利。それで、不合格が続きました。学校に相談し、それならと、給食会社を勧められます」。
いかがでしたか?
「こちらは、一発合格でした」。
廣谷氏が就職したのは、川崎重工業の子会社の川崎食品。
「川崎食品は、社食やお弁当をつくっていて、そこで栄養士として入社します。ただ、1年でグリーンハウスという会社に買収されてしまって、入社した翌年4月には上司が入れ替わります。関西弁が共通言語だったのに、その4月からは、標準語です笑」。
川崎食品からは残るかどうかの選択を迫られたらしいが、廣谷氏はグリーンハウスに籍を移し会社に残っている。
ちなみに、川崎食品時代は船員の食事づくりのため、船にも乗ったそう。「播磨灘を往復したり、1回乗船すると、3~4日は船上の生活だった」という。
「船に乗ると手当がつくもんですから、新人なのに手取りで30万円あって、さすがに大手はちがうなと」。
「もちろん、グリーンハウスも悪い会社じゃありません。でも、これはどこの会社でもおなじだと思うんですが、なんだか先がみえなくなって。脱サラしてパン屋をしようと思い立ちます。これが26歳の時です」。 昔からいったんこうだと決めれば、行動ははやい。
「最初は、個人のパン屋さんで2年間、修業をさせてもらって。そのあと、中小企業のパン屋さんで4年ほど勤務します。前者の2年間は体がもたないと思いましたし、後者の4年間は、どうかな、とにかく役職をめざして。それでチーフになったんで、もういいかなと。その会社もそうですが、もうパン屋はいいかな、と」。
独立も封印ですか?
「結果、そうなりました。栄養士の頃を思い出して、商品開発の道へ進もうと思ったんです。その時、たまたま大阪王将のホームページをみて、王将の商品開発募集と書いてあって、それでイートアンドに応募したんです」。
すでに、32歳。
新たな決断は、どんな道につながっていくんだろうか。

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株式会社アールベイカー 代表取締役社長 廣谷光彦氏

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株式会社せんざん 代表取締役 榎本正勝氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社せんざん 代表取締役 榎本正勝氏登場。

本文より~

料理づくりが楽しくて。

1965年12月25日、神奈川県に生まれる。川崎大師のちかくだったそう。3歳の頃に相模原に引っ越し、18歳まではそちらで暮らした。実家は、お豆腐屋さん。
「相模大野の新興住宅地で、店舗と住まいがいっしょでした。スポーツは、野球です。ファーストで4番。ただ、小学校を卒業する時に肩を痛めてしまいます」。
中学は15クラスあった。マンモス校だ。
「野球部も見学するんですが、同級生だけで80人。これは、だめだと思って、ともだちに誘われた卓球部に入ります」。もっともこちらも100人規模。とにかく生徒数が多い。
選手は多かったが、もともと運動神経に恵まれていたんだろう、1年時に、代表に選ばれ、新人戦に出場している。
「あの時は、『オレってけっこうやるじゃん』なんて思っていました。ただ、しばらくして、また怪我をして練習もできなくなります。からだを動かすことも禁止されていましたから、くさってしまいました」。
いったん部活を辞めようとも思ったが、顧問のアドバイスで思いとどまり、2年の夏以降少しずつ練習にも参加するようになったそうだ。だが、からだが思うようには動かない。「その時、ともだちが練習後に、町の卓球場に付き合ってくれて。やっぱりそういう友情は、かけがえのないものですよね」。
卓球に打ち込む一方で、じつは、高校に進まず料理の道に進もうと思っていた。
「お豆腐屋さんの朝は早いんです。もちろん、弁当などはつくってくれていたんですが、少し大きくなってからは、朝ごはんをつくるようになって。すると、これが、けっこう楽しい(笑)」。
もっとこうすればいいんじゃないかと、工夫を重ねる。それがまた楽しい。
「家族も『旨い』っていってくれて。楽しいことをして、周りも喜んでくれる、そういう料理の世界に憧れ始めます」。
決意は固い。中学を卒業したら、すぐに料理の世界に進むつもりでいた。しかし、高校に進学するものと思っていた母親に泣かれて、しかたなく、私立高校に進む。
高校でも卓球部に入ったが、それほど熱が入らない。
「個人では、それなりの成績を残しましたが、チームはぜんぜんでした。部活以外ですか? そうですね。もともと勉強は好きじゃなかったので、もっぱらアルバイト。もっともうちのお豆腐屋さんが主な仕事場だったわけですが」。
お金をためて買ったオーディオセットは、少年、榎本氏の宝物。

修業開始。

ご両親の反対がなければ、16歳の頃には包丁をにぎっていたはずの榎本氏。やるなら和食がいいと関西の調理師学校に進んでいる。
どうして、関西だったんですか?
「和食は、関西のほうが、歴史があるし、親元からも離れたかったので(笑)」。
「今度は、学校でも勉強しましたし、和食のお店でアルバイトもさせていただいて、こちらでも勉強させてもらいました」。
じつは、そのアルバイト先に就職している。
「2年くらいですね。大阪の梅田のお店でした。ただ、和食と言えばやはり京都。いつか京都で仕事をしたいと思っていました」。
人のご縁で希望がかなって京都のホテルで勤務を開始する。「ザ・料理人」の世界が広がっていったと胸を膨らませる。料理長がピラミッドの頂点、絶対的な権力者だった。「今なら、パワハラで、アウト」と笑う。
「朝の2~3時から朝食の準備がスタートします。仕事が終わるのは22時なので、睡眠時間もそうありません。ホテルなので、給与はまだ恵まれていましたが、みんな辞めていきました」。
辞めていくというより、逃げ出すといったほうが正しい表現なのだろう。ただ、榎本氏は、違っていた。「『頼まれ事は試し事』っていうでしょ。たぶん、部活でも、何でもいっしょだと思うんですが、先輩や上司に何か言われたら、試されているんだと思って、すぐに取り組むように心がけていました」。
練習もした。深夜の厨房は榎本氏の、オンステージ。
「自分で食材を買ってきて、みんなが帰ったあと練習しましたね」。
海老天に花が咲く。「あれも、このホテルならではの、美しく仕上げる方法があって」と榎本氏。だし巻き卵も、何度も繰り返し、焼いた。
「私が深夜に練習しているのを耳にされたんだと思います。ある時から私にだけ料理長自ら指導してくださるようになったんです」。
見込まれた?
「どうでしょうか? ただ、かわいがっていただきましたし、不思議なことに、私は手をあげられたこともなかったですね」。
もっとも榎本氏は、ただのイエスマンではない。むしろ、逆だった。
「おかしいことはおかしいとハッキリと口にしていました。ひょっとしたら、そういうところも評価いただけたのかもしれません」。

割烹へ。お客様との言葉のキャッチボールが榎本氏を魅了する。

「スタッフが休みだって、料理長はおかまいなしです。『なんであいつがいないんだ』って。急に呼び出されたりするんです。さすがに、理不尽だし、シフトもなかったので、朝から夜までずっと仕事。やっていられない、というスタッフの気持ちもわかります。だから、とにかくシフトを組みましょうと、打診させてもらいました」。
鍋がとんでくるかと思っていたが、案外、簡単に了承されたそう。ただ、これが、のちに一つの事件を生む。ただし、そちらは本題ではない。
「目をかけていただくようになって、いろいろ仕事も紹介していただきました」。
仕事?
「ヘルプという奴です。私が休みの時に、あっちに行け、次はこっちへ、と。京都市内や滋賀県などの和食店で仕事をさせていただいた。それも、今の財産になっています」。
1日行けば、3~4万円の日当がでたらしい。だから、文句もない。「濃厚な2年間でした。私の料理人の骨格ができたのは、間違いなくこちらのホテルです」。
「次は、大阪の梅田にあるカウンターと座敷の割烹料理店で仕事をします。大きな店じゃなかったですが、調理場を3人で回していましたから、それも経験になりました」。
カウンター初デビューですね?
「そうですね。カウンター越しにお客様の表情をみる、料理人にとっては、ある意味、最高の世界です。でも、いきなりお客様から叱られてしまって、あの時はけっこう凹みました」。
「その方は常連さんで、お好きなビールの銘柄があったんですが、それを知らずに、『どれになさいますか?』って聞いちゃったんですね。関西の、常連さんはキツイです(笑)。でも、そういうことがあって、食器には盛ることができない、おもてなしも大事なんだと知りました」。
「経済新聞も読みました。経済や政治がわかっていなくっちゃ会話もできないですからね」。
いつしか大企業の部長クラスとも会話が弾むようになっていた。それも財産。関西の数年間は、榎本氏を一人前の料理人にするのに十分な時間だったのかもしれない。

部下が育つとやることがない。

結婚を機に関東にもどる。「当時、『せんざん』はまだ2店舗でした。会社を起業されて3年くらいの頃です」。知人の紹介だったらしい。
「3社くらい面接が進んでいたんですが、知人の紹介ということもあって、受けてみることにしました」。
いかがでした?
「最初から衝撃的でした。当時の社長(のちに会長。2022年7月に亡くなられている)と私は、12歳、離れているんですが、社長の言葉一つひとつがすごく心に刺さりました」。
「当時の私は、『5年後に独立する』なんていっていましたが、明確な目標だったわけではありません。私の話に耳を傾けてくれたうえで、社長はぜんぜん違うことを言います」。
「当時、料理人は、社会的に下にみられていたんです。そりゃそうですよね。新聞といえば競馬新聞か、スポーツ新聞。時間があけば、パチンコです。だから、下にみられても当然、だったんですが、社長は、そんな世界をひっくり返すっていうんです。料理人の社会的なステイタスをあげる、それが、私の使命なんだと。考えてるスケールが違うんです。圧倒的な差です」。
この会社は必ず成長すると、冷静な判断もしたそうだ。ただ、それ以上に社長に魅了される。すぐにお世話になることを決断したそうだ。
「せんざん」には、「海鮮茶屋」というショルダーがつく。ホームページをみれば、新鮮な海鮮料理が目にとびこんでくる。宴会需要も取り込める大箱。いままでとは異なるステージだった。
「楽しくさせていただいたんですが、5年目の頃に、一度、退職願を書きました」。
どうしてですか?
「料理長になっていましたから、部下を育てるのが私の仕事でした。ただ、部下が育つとやることがない。オープンもなかったので、私が『せんざん』でやることがなくなっちゃったんです(笑)」。
「店をやらないか」という誘いもタイミングよくあったそう。
「ただ、社長に退職願を持って行ったら、泣かれてしまって。それで思いとどまりました。泣かれたら弱いのは昔からです(笑)」。
じつは、2人して泣きながら会話をしたそうだ。「私にとって、あんな人はほかにいないですよ。真剣に話してくださる社長をみて、私も目頭が熱くなって」。
翌月、榎本氏は店長に任命される。料理ではトップだが、店長の経験はない。
「何かにチャレンジさせておかないと、風船のようにどこかに行ってしまうと思われたんでしょうね(笑)。もちろん、ホールも、店長も初めてですから、わからないことだらけ。頼りなかったんでしょう。パートさんを含めて、みんなが私を助けてくれるようになりました。『店長、こうしたほうがいいですよ』『それより、こちらのほうがいいです』って。じつは、そのおかげで、みんなが一つになれた気がします」。
気が付くと売り上げが驚くほどアップしていた。
それからも、新ブランドの立ち上げなどに駆り出される。いつしか社長にとっても、榎本氏にとっても、互いになくてはならない存在になっていた。
榎本氏を社長に、社長がそう思ったのも、当然のことだろう。

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株式会社せんざん 代表取締役 榎本正勝氏

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