2021年10月20日水曜日

10月8日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『日本橋せいとう』様を取り上げました。

10月8日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、老舗ブランドを守りつつ新事業で攻める 創業者の思い受け継いだ3代目の挑戦 『日本橋せいとう』様を取り上げました。

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2021年10月7日木曜日

ファースト商事ホールディングス株式会社 代表取締役 平井克彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“ファースト商事ホールディングス株式会社 代表取締役 平井克彦氏登場。

本文より~

高校生、ファミリーマートで働く。

「日本酒との出会いで、すべてが変わった」と平井氏はつぶやく、何をすればいいかわからない時の話。
平井氏は1967年、新宿で生まれる。三人兄妹の末っ子。末っ子だが面倒みがいい。ケガをした友達がいれば放っておけず親切に手当をしたそうだ。小学生の時はボーイスカウト。中学から高校まで、バスケ部。委員会などに積極的なほうだったという。
「うちは、貧乏なほうだったんじゃないかな。小学校1年生の時にはじめて回転寿司に連れていってもらったんですが、それに感激して、将来、お寿司屋さんになりたいって思ったくらいですから/笑」
「大学には行っていません。高校3年の時からファミリーマートでアルバイトをはじめます。これが、私の原点。じつは、うちの会社の創業店です」。
当時の時給は480円。「市谷薬王寺にあったファミリーマートです。すごく儲かっていましたね」。平井氏が17歳といえば、1984年。バブルのはじまり。
「1号店が成功したから、新店を出すことになりました。じつは、いったん辞めて旅行会社で勤務したりもしたんですが、2年半で営業に向いていないのがわかって/笑。23歳の時に、元のファミリーマートにもどりました」。

27歳、取締役就任。

「2店舗目を出店したのは『府中』です。私はこちらで店長になります」。
平井氏によれば、誰が店長をするかで、コンビニの売り上げは変わるらしい。棚にも、接客にも、仕入れにも、やはり個人差があるからだそうだ。
「府中も、業績はよかったですね。そのあと上司がサブウェイの話をもってきて、社長から『サブウェイをやってくれ』と頼まれます。サブウェイの、まだ、走りの走りの頃です」。
「アメリカ式の経営に驚いた」と平井氏。
「サブウェイでいちばん驚いたのは、そこですね。日本とはちがう。CS(顧客満足)という尺度も、まさに目から鱗。いまも私の大事な『指標』です」。
平井氏の手腕は、サブウェイ本部からも高く評価されたそう。「おかげで、研修店舗にも選ばれ、そのぶん収益もアップしました。それに、教えるのが好きだから、楽しかったですね」。
17歳からコンビニエンスストアではたらき、今度はサブウェイ。
「じつは、旅行会社の時に、上司から『目的意識をもってはたらけ』って言われたことがあって、その一言が、私のターニングポイントです。サブウェイで、その意味が、ストンと腹落ちしました」。
サブウェイ後も、コンビニエンスストアを出店するかたわら、新たに牛角とも契約している。「社長のアンテナが広かったんでしょうね。牛角だってまだ60店舗くらいしかなかった時のことです」。
社長から高く評価され、27歳で、取締役に就任。「就任したのはいいんですが、意味がわかんなくって、本を読み漁りました/笑」。
いかにも、平井氏らしいエピソード。

日本酒に酔う。

27歳で、取締役。いつのまにか、起業という思いがつよくなる。
「34歳の時ですね。いったん退職し、自分でファミリーマートを起業しようと、独立の話を社長にさせてもらったところ、引き留めていただき、逆に『会社を買い取らないか』と打診されたんです。最初は、その気はなかったんですが、『いっしょにやろう』と言ってくれる社員もいて、『わかりました』と。ええ、社名は当時からかわっていません。ファーストっていうのがいいでしょ」。
2000万円で買い取り、5000万円の借り入れをひきついだ。「借金だらけですが、正直、自信がないわけじゃなかった。でないと、やっていませんしね」と、笑う。
しかし、借り入れ額も相当だ。どんな絵を描いていたんだろう?
「やりたかったのは、コンビニの複数出店と飲食店です。飲食店はオリジナルと決めていたんですが、何をすればいいかわからない。そんな時に、吉祥寺のあるお店で、日本酒のマリアージュに出ったんです。あれで、すべてがかわったと思うんです。そりゃもう、私の人生も、含めてね」。

・・・続き

ファースト商事ホールディングス株式会社 代表取締役 平井克彦氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

10月1日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は『大和フーズ』様を取り上げました。

10月1日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」はコロナ禍で懇親会に変化、企業からの注文増で売上突出の宅配焼肉弁当を展開している『大和フーズ』様を取り上げました。

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

2021年9月29日水曜日

株式会社シュベール 代表取締役社長 本橋史郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“株式会社シュベール 代表取締役社長 本橋史郎氏登場。


本文より~

お屋敷に住む、野球少年。

今回ご登場いただいた株式会社シュベールの社長、本橋 史郎氏は1971年10月、東京都の練馬区に生まれる。祖父の代から本橋家のホームグラウンドだったそうだ。
「庭に3メートルくらいの野球ネットがあるくらいでしたから、かなり広い家でしたね。そのネットは、私の練習用です/笑」。
野球は小学生からはじめ、中学校までつづけたという。残念ながら、ネットがどれだけ技術の向上に役立ったかは定かではないが、かなり広めのお屋敷だったのは間違いない。父親の仕事がうまくいっていた証だろう。
「うちの創業は1967年です。法人化したのは、私が1歳の1972年。小学校の頃にはもう15店舗くらいあったんじゃないでしょうか。いうなら、絶好調の頃ですね。父親が海外旅行好きだったこともあって、まったくポピュラーじゃなかったあの頃に、ハワイにも何度となく連れて行ってもらいました。かなり儲かっていたに違いないですね/笑」。
1970年代といえば、大阪で開催された「万国博覧会」で幕を開け、日本の経済が急成長をとげる、黄金の年代でもある。「珈琲」と「喫茶店」が街のエンターテインメントだった時代でもある。
「もともとは地元の小学校に通っていたんですが、途中で私立に編入します。『付属がいいだろう』ということだったと思います。そのままエスカレーターで高校まで進学します。高校時代は、音楽が流行っていて、私もバンドをしていました。平日は友達の家を渡り歩いていましたね」。
高校時代の話を総括すると、本橋氏いわく「ちょっとヤンチャだった」ということになる。
本橋氏が16、17歳といえば、バブル経済の真っ只中。ディスコが流行り、ブランド品が消費されまくり、東京は昼より、夜が明るかった時代である。高校生も、昼夜関係なく、街をさすらっていた。

父親のやまいで、継承の二文字が点灯する。

「私が高校の頃に、父親は、『すずめのお宿』という居酒屋のフランチャイズをはじめます。当時は、酎ハイブームなどがあり、居酒屋もまた大繁盛していた時代です。私も、姉といっしょに店の手伝いに駆り出されていました/笑」。
のちに本橋氏は、シュベールの社長になるわけだが、その当時は、何をどうみていたのだろう。
「私は、高校を卒業していったん日本大学の通信学部に進みます。でも、結局、自主卒業しちゃうんですね。音楽もしていましたし、そうですね、うちの店だけじゃなく、『村さ来』でもアルバイトもしていて。学業より、そっち優先というか。ただ、シュベールに就職したのには、多少訳があって。私が22の時ですね。親父が初老性鬱になってしまったんです」。
父親は「怖い人だった」と本橋氏は言っている。その一方で、経営者としてリスペクトもしていたんだろう。22歳までで人生に影響あった出会いは?とうかがうと、「『すずめのお宿』の社長」という返答だったが、同時に、「初めて父親以外の経営者をみて影響を受けた」ともいっている。
つまり、本橋氏にとって父親は、父親と同時に経営者だったということなのだろう。その父親が弱っている。継承という二文字がハッキリと点灯したのは、この時ではないか。しかし、まだ22歳。ベテラン社員からすれば、ヒヨッコ以外何物でもない。

オレとかわってみないか?

「最初は、イチ社員から・肩書きもなしです」。父親の病に加え、フランチャイズ契約に関する問題もあったそうだ。だから、本業の喫茶店ではなく、居酒屋の社員として入社している。
「それが、22歳の時。社長に就任したのは、それから6年、私が28歳の時です。父親は60歳。じつは、命には別条なかったんですが、脳梗塞になったとこもあって、私からみても事業欲っていうのが薄れてしまったんですね。で、会議の時に『オレとかわってみないか?』って。ハイ、私のほうから言いました」。
本橋氏にすれば、「そうするしかなかった」というのが本音だろう。ただ、準備は整っていたんだろか?
「準備というわけではありませんが、力は示してきました。それまで配属された店舗をことごとく1位にしてきましたからね。それが唯一の準備だったかもしれません」。
飲食もまた数字が支配する世界である。むろん、本橋氏が社長になることに反対だったベテラン社員もいたはずだ。ただ、そういうことも含めて、やる時がきたと思ったのではないだろうか。ただし、28歳。普通なら、まだまだ青二才。老舗の会社の社長に就任することは、ハードルが高かったことだろう。
どんな経営手腕をみせてくれるのだろうか?

粘りつよく。父親の教え。

2021年、本橋氏は50歳になる。28歳から、22年間、経営者として、「シュベール」をひっぱってきた。事業はむろん拡大し、いまや様々なブランドのフランチャイズも展開するに至っている。ホームページを観れば明らかだが、「SUBWAY」、「PRONTO」、「かつや」、「からやま」、関連会社では「シャトレーゼ」や、同業でもある「上島珈琲」「珈琲館」なども展開している。いま調子がいいのは、「かつや」だそう。
「もうすぐ私も父親が病になった歳になるわけですが、そういうのもどこかで意識していたかもしれません。若いうちだと、開発の人間がもってきた話はぜんぶやってきました」。
たしかに、これだけのバリエーションのフランチャイズをやっている会社は少ない。まるで手当たり次第だ。それをうまく機能させているのだから、やはり本橋氏は只者ではない。
そんな敏腕経営者である本橋氏だが、コロナにはやはり頭を抱えているようだ。実際、今まででいちばん辛いのは、「今」とはっきり答えている。
「でも、凹んでいるんじゃないんです。つらい状況ですが、どう乗り越えようかとワクワクもしているんです。今までもたいへんな時はなくはなかったんですが、なんとかしてやろうという楽しい気持ちのほうが強かった気がします」。
ピンチを、楽しむ。いい響きである。
「これは、父親から粘りつよさを教えられたからだと思うんです。簡単にあきらめない/笑。どうすれば、ピンチが好転するか。ハイ、いまも着々と準備をしています」。
3年前に愛知県にあった弁当の製造会社をM&Aしている。大手自動車メーカーの弁当を請け負っていた1日4000食をつくる会社だそう。
「まだまだプラス寄与にはなってないですけどね」と本橋氏。プラスにはなっていなと言いながら、虎視眈々と何かを狙っている気がする。

・・・続き

株式会社シュベール 代表取締役社長 本橋史郎氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に“アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏登場。


本文より~

1969年、生まれ。

「レアな牛乳瓶を探していた」と笑うのは、アイエムエムフードサービスの代表取締役社長、水口氏。なんでも、牛乳瓶のふたでメンコをしていたそうだ。
今はちょっと説明がいるかもしれない。昔の牛乳はガラス瓶で、飲み口は厚めの紙で蓋をされていた。この蓋をメンコに用いていたわけだ。割とポピュラーな遊びだった気がする。水口氏は1969年生まれだから、まだ市内にもメンコの定番ステージとなる路地裏がたくさんあったに違いない。
「兄が1人いるんですが、私は兄とは対照的でした。兄は内向的な人ですが、私はその逆で。インベーダーゲームなど、ゲーセンにも入り浸っていました。とくに何かをしたかったわけではなく、何かになりたかったわけでもなかったですね」。
これは、中学の話。
「高校は先生と相談して、工業科に進みます。私が選択したのは精密系で、時計のしくみなどを勉強しました。意外と思われるかもしれませんが、じつは今の仕事にもつながっています」。
大学には進学せず就職。
「進学は頭になかったです。最初に就職したのは、精密系の製造販売会社です。私はものづくりがしたかったのですが、配属は営業。それもあって1年で退職しました」。
社会人1年生。まだ20歳にもなっていない。人生、迷う年頃だ。しかし、次の道はもう決まっていた。

目指すのは、プロのDJ。プロダクションとの契約が切れる。

どんな道に進んだんですか?
「音楽です。音楽も好きだし、DJに魅了され、『音』をつくるのが好きになります。ディスコでDJもしていました。プロのDJを目指したのはこの頃です」。
ただ、アマではまったく金にはならない。だから、親戚が経営している中華料理屋で仕事をさせてもらった。「仕事をしながら、音楽もしていました。じつは、東京に来たのも音楽のため。私が26歳の時です」。
水口氏は、海外にも渡っている。「そうですね。海外のクラブもみてみたくなって。東京に上京してからは、飲食でバイトです」。
一時、プロダクションにも所属していたらしい。
「あの頃は、やりたいこと以外、やらないというか。プロダクションで小さな仕事をもらって、なんとか生活していたんですが、契約が切れてしまって。新たな活動もするんですが、収入の道が閉ざされます。それでアルバイトをかけもちしていました。その一つが『代官山タブローズ』だったんです」。
「代官山タブローズ」については、いうまでもないだろう。グローバルダイニングのコアブランドの一つ。
「センセーショナルでしたね。何もかもが。スタッフたちは、輝いているし、格好いい。私にすれば。『え? なんで?』って感じでした」。
疑問が、驚きにかわり、魅了される。
「私も、この人たちのようになりたいと思うまで、そんなに時間はかからなかったですね。音楽を趣味にして、飲食へ進もうと思ったのは、これがあったから。30歳の時です」。

飲食のはじまりは、名店「代官山タブローズ」。

「タブローズ」の、当時の月商を聞いて驚いた。MAX8000万円だったそう。水口氏は「タブローズ」で5年。副料理長にも抜擢されている。2000年、「レガート」の立ち上げ時に移って料理長として5年働いたそう。
こうしてみると、精密系の学科もそうだし、音楽もそう。ものづくりが好きなことは一貫している。そういえば、「小学生の頃から母親がどうやって料理作るのか興味をもっていた」という話も伺っている。「ただ、これは、最終的になんですが、じつは、ものづくりだけではなく、作ったもので喜んでもらうことが好きなんだと気づくんです」。
なるほど、深い話だ。
「タブローズでの仕事ですか? そうですね、タブローズはオープンが17時なんですね。私たちキッチンは朝の9時に出勤して、下準備を始めるんですが、もう、フルスピードでやらないとオープンに間に合わない、そんなイメージです。もう、フルパワー、MAXです。しんどくなかったかといえば、うそになりますが、私は、そのギリギリの感じが好きでした。みんなで一致団結して、一つの方向に進んでいくことも含めて」。
「表舞台に出る前の下準備、リハーサルがすごく好きだった」と語っている。
「グローバルダイニングでは、いろんな人に出会います。師匠の渡辺さんにも出会えましたし、じつは、会長の河村 征治ともこの時に出会うんです」。
会長の河村氏というのは、アイエムエムフードサービスの現会長、河村氏のこと。
水口氏と河村氏は、「レガート」を立ち上げるところからいっしょになる。「会長がフードコートをやることになって、いったん離れますが、河村が料理長、私が相方になり、ツートップで、あの『ラボエム』を運営します」。
「河村のことを尊敬している」と水口氏。じつは、河村氏のほうが8歳年下。

一緒にやれば。意見が一致。

河村氏と会社をつくる経緯について、聞いてみた。
「河村は、グローバルダイニングを退職したあと、地元の金沢にもどり起業します。その時、『一緒にやろう』と誘われるんですが、当時は私もいろいろあって『NO』だったんですが、3年くらい経った頃に合流します。グローバルダイニングですか? そうですね。トータル15年いたことになりますね」。
現在、水口氏と河村氏は、社長、会長という立場。だが、話を聞くと面白い。じつは水口氏も1人で起業している。しかも、大成功。
「グローバルダイニングを辞めるときにタイミングだなと思って、私自身も起業します。金沢と東京とロケーションはちがいますが、私も河村もうまくいっていました。ただ、『一緒にやれば…』というのが、2人とも頭のどこかにあって」。
それで合併?
「そうです。意見が一致したわけですね/笑。合併後は、河村が社長で、私は東京管轄の役員という立ち位置でスタートします。お互い分けていたんですが、組織変更にともなって2020年の8月から、河村が会長になり、私が社長に就任。社長になるのは予想外だったので、びっくりしました/笑」。

・・・続き

“アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

9月24日(金)発行の【夕刊フジ×キイストン 飲食業新時代への挑戦】はトリキバーガーを取り上げました。

9月24日(金)発行の【夕刊フジ×キイストン 飲食業新時代への挑戦】はトリキバーガーを展開される「鳥貴族HD」様取り上げました。
もう既に、オープンされる前から多くのメディアに出ておられますが、直接取材させて頂き感じたのは、海外展開含め将来をちゃんと見据えて展開されてますね。
トリキバーガー、強いです!

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)

9月17日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」に『テクニカン 』様を取り上げました。

9月17日(金)発行の夕刊フジ「飲食業 新時代への挑戦」は、おいしさキープ「凍眠ミニ」がヒット 世界16カ国で特許を保有する『テクニカン 』様を取り上げました。

PRバナー

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)