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2022年3月8日火曜日

株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏氏登場。

本文より~

カルチャーママとおぼっちゃん。

今回、ご登場いただいたVAプロジェクトの代表、森本氏は1965年、大阪府の豊中市に生まれる。大阪万博が開かれる5年前。「親父と母親と兄貴と私の4人家族です。親父はサラリーマンでしたけど、裕福やったんちゃいますか。いうたら、ぼっちゃんです。まぁ、高度成長の時代でしたから、うちだけが裕福やったわけやないんでしょうが」。
「子どもの頃からピアノを習っていました。カルチャー好きな母親でね。私は好きやない。野球はへたでしたけど、からだ動かすのが大好きでした。将来、なりたいもんいうたら、そやね、プロレスラーやったかな。ブルースリーも大好きやった。でも、太っとったから、あの動きは無理やったやろな。生まれてから一度も『やせている』っていうてくれた人はおらん」。
「エスカレーター進学を狙って、中学から私学です。高校から日本拳法をはじめます。かっこいい? ぜんぜん。汗臭いだけ。でも、好きやってんやろね。好きやないとでけへんで。そやないと、だれが好き好んで汗だくなって、くそうなって、ボロボロなるまで練習すんねん。笑」
大会で優勝したこともあるそうだ。格闘技が好きで、相撲もしていたというから、昔から、からだも大きかったに違いない。カルチャー系からスポーツ系に。格闘技に、次々に専念する息子を、カルチャー好きのお母さまはどんな思いでみつめられていたんだろうか?
少なくとも、ぼっちゃんはとっくに卒業している。

キャプテン森本。

「私は関西大学を卒業して、リクルートに就職するんですけど、当時は青田買いちゅうてね、もう、『来て』『来て』みたいな。大学でも日本拳法やってましたし、キャプテンでしたから、企業がほっといてくれません。飯も食べに連れてくれるし、至れり尽くせりです笑」。
「リクルートがなにやっているかようわかってなかったけど、すごく勢いがあったのは事実です。私が入社したのは、世間様をお騒がせしたリクルート事件が起きる2年前です。職種は、もちろん、営業です」。
当時のリクルートは多士済々。いまもそうかもしれないが起業家もたくさん生まれている。「私はいうたら起業家の走りです。4年、リクルートにいて独立します」。
リクルートにもまれ、社会にもまれ、さて、キャプテン森本はどんな事業を興すんだろうか。話を聞いて、まったく畑違いで、驚いた。

世界でいちばん小さなゲームメーカー。

「私はゲーム会社をつくるんですが、もともとゲームが好きとかそんなんじゃないんです。リクルートに4年いたでしょ。その時思たんが、『リクルートで偉くなったら、しんどいで』やったんです。課長とかになったら、もうどうなるかわからへん。それやったら、サラリーマンをつづけるより、会社つくったほうがええんちゃうかなって」。
「時代もよかったしね。スーパーファミコンの時代です。任天堂さんに行ったら、いろいろ教えてくれて。当時はゲームやりたい人がおおくてね。それで、プログラミングできる人材を雇ってスタートするんです」。
タイトルを聞いて、笑った。
「この会社は2006年に解散するんやけど、解散するまで、だいたい100タイトルくらいはリリースしました。狙うんはスキマです。心理ゲームとかね。タイトルで言うたら、『祇園芸者物語り』とか、『サラリーマン接待マージャン』とか。これトップとったら、あきませんねん。接待やからね。海月育てるゲームもだしました。うれへんかったけど」。
もう、25年前の話。
「プレステとかでて、2Dから3Dになって、一つ開発するにもごっつうコストがかかるようになって。有名なタイトルやったら、いくらコストかけてええんやろうけど、莫大なコストを投じて『祇園芸者物語り/2』や『サラリーマン接待マージャン/2』はようつくらんかった」。
「若い子はいっぱい入社してくれました。会社で寝泊まりしていましたよ。給料は、いわれへんくらい安かったけど、彼らにしたら、うちに入ったら開発用の、お高いマシンをつかえますからね。なかには、その後すごく有名になっている人もいますよ」。
「あのね。みんなうちで経験を積むでしょ。ほんで、ほかの会社を受ける。で、ある日、『〇〇に行きます』って、だれもが知っている有名な社名をいいよんねんな。ほなら、みんな拍手して。なんで、拍手やねん、て。笑」
そうはいうが、心では森本氏もいっしょに拍手をしていたような気もする。そんな人だ。ところでゲーム会社の社長だった森本氏だが、今は立派なIT難民。「エクセルもようでけへん」らしい。
「解散したのは、ビッグタイトルしか残らんような感じやったし、資金ショートもあったけど、けっきょくは私の熱意がなくなったんやと思うわ。うちみたいな小さなメーカーはもうあかん時代やった。だから、解散しよかっていうて」。
2006年といえばスマホでみんながゲームを楽しみはじめた頃だろうか?「あんなちっちゃい画面な。あんなゲームつくったら、都落ちやと思っとった」と言っている。

さすらうニート。

「私の窮状を知って、昔の部下が『恩返しや』いうて、仕事紹介してくれて、パチンコメーカーの下請けやったり、お金がないから、マンションの販売代理をしたり。ちゃんと免許も取って。。ほかにもいろんなことしたなぁ」。
「いちばんってわけやないけど、山本化学っていう会社の社長さんといっしょに『たこ焼きラバー』いうやつで水着つくって。これは世界中をびっくりさせました。それまでとはまったく異なる高性能の水着で、世界記録が何十回でたやろか。TVにも取り上げられて。せやけど、水泳連盟が『あかん』っていいだしよって。『ラバーはあかん』っていいよんねんな。で、せっかく、世界を獲った思うたのに縮小ですわ。でも、水着は今も販売してますねん。『イルカのはだにいちばんちかい水着。』って奴です。専門誌に広告掲載しているんやけど、ぜんぜんうれへん笑」。
皇室に献上する、そうめんの専門店もやったそう。コシがあってむちゃむちゃ旨い、とのこと。「そうめん専門店は4年ほどやったかな。そらぁ、従業員が辞めるいうんやから、辞めざるをえぇへんでしょ」。
あっちにいったり、こっちにいったり。しかし、どこかで、森本氏に助けをもとめてくる人がいる。「クラブの後輩とかもいっぱいいますしね。リクルート時代に知り合ったお客さんとも仲良くさせてもらっていましたし。そうそう、ホームページの作成なんかもしてたかな。ただ、だんだんそういうビジネスが、実体のないもんのように映りだすんです。口だけでうまいこというてね。50歳でニートを辞めるんですが、そのきっかけはやっぱり、実体があるビジネスをしたくなったからやと思うんです」。
それが今の豆乳ですか?
「そう。豆ですね。これに今は魅了されてます」。

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株式会社VAプロジェクト 代表取締役社長 森本和伸氏氏

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2022年3月1日火曜日

焼肉岩崎塾株式会社 代表取締役会長 岩崎幹永氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”焼肉岩崎塾株式会社 代表取締役会長 岩崎幹永氏登場。

本文より~

岩崎家の食卓。

その昔、鉛筆にかぶせるアルミ製のキャップがあった。尖った鉛筆に蓋をするのが主な役割だが、もう一つの使い道のほうが子どもたちには人気があった。ロケットだ。
「そうそう、ぼくと下の弟はよくつるんでいてね。爆竹から火薬を抜いて、あのキャップに詰めて。火をつけたらシューってロケットのように。ただ、ある時、兄貴に言われて火薬をつめすぎたんか、爆発してもうて」。
今回、ご登場いただくのは焼肉岩崎塾の代表取締役会長、岩崎幹永氏。生まれは1945年。終戦の年に生まれている。
兄弟は5人で岩崎氏は4男。兄弟は全員、名を成しているが、とくに三男は国から勲章までもらっている。その昔、「火薬をもっと詰めろ」といった兄貴である。
「私らのルーツは韓国です。父と母が来日します。当時は日本も、韓国もなかったんですが、岩崎家は在日韓国人となります。父親は繊維もやったし、プラスチックの射出成型の会社も経営していました。当時の松下電器やサンヨーの孫請けの仕事をしていました。お手伝いさんもいましたから、裕福だったと思います」。
焼肉の話もでた。「兄弟は男ばっかりの5人です。そりゃ、取り合い。はよ食べなあかんから、ちゃんと焼いてたべたことがありませんね笑」。
牛肉の争奪戦が目に浮かぶ。当時、牛肉は高根の花。食卓にのぼること自体、裕福さの表れだ。
いいものを食べていたからではないだろうが、兄弟は基本、からだがでかい。いちばんは岩崎氏だった。小学校の頃は大阪でいちばんのスピードランナーだったそう。
勉強は社会と英語が得意。勉強は中のちょい下だそうだが、IQテストは1位。IQ138というから、数パーセントのエリート。ただ、本人に偉ぶる様子はない。
「まぁ、やんちゃでしたわ。でもね、喧嘩はやらんし、拳で勝負ってタイプやない。当時の目標ですか? そういうんはあまりあらへんかった。ただ、兄貴たちもそうですが、憧れの人はいましたね」。
岩崎氏にとって、兄弟は自慢の存在。兄弟たちの話になると、饒舌になられる。子どもの頃の賑やかな食卓が、今もつづいているようだ。

梅田の、どぶ池ストリート。

いまや大都市の梅田界隈であるが、岩崎氏が子どもの頃は、どうだったんだろう。
「そうですね。今の関テレのところにはグランドがあってね。ぼくも、そこで野球をしていました。雨が降った翌日はグランドコンディションがぐちゃぐちゃ。ゴロ打ったらセーフです笑」
「ぼくね、高校は中退しているんです。たばこと喧嘩が原因です。ただ、ぼくはどっちかというたら、喧嘩をやめるようにいいに行ったんです。でも、いちばんでかいし、『あいつだろう、首謀者は』みたいになって」。
高校を中退されてから、どうされたんですか?
「親父の会社で仕事をしました。プラスチックの会社です。ただ、4年くらい経った頃かな、テレビでカレッジフットボールを観て、やりたくなってね。それで、高校に入り直しました。それから、神戸学院に進みます。フットボールはできたんですが25歳のときに辞めました。結婚したんです」。
岩崎氏の足跡は、トレースするだけで忙しい。
「クルマも好きだったですね。大学にはアメフトだけのために行っていたんですが、梅田から神戸の大学まで真っ赤なスポーツカーで通っていました」。
6メートルもあるキャデラックを乗り回す。2ドアのロールスのハンドルもにぎった。「ベンツも三台。キャデラックは4台乗ったけど、あれには誰も近づいてこんかった」と笑う。 そりゃそうだろう。アメ車、全盛期。日本車と比較すれば、排気量だって、大ちがい。
「そのぶん仕事はしました。父親の会社を辞めて、独立したのは35歳の時です。昔は、梅田にも丼池(どぶ池)通りっていうのがあってね。そうやね。丸ビルのちょうど向かい側にあった70メートルくらいのストリート。その通りに親父が土地をもっていて、それを譲ってくれたんです。『なんかやれや』いうて」。

店名は、ホルモン焼き食堂 イワサキ。

「そう言われたかって、やりたいもんはあらへん。ただ、なんかやらんと生活できへんし。その時、銀行さんからアドバイスしてもらうんです。それで、私の人生が決まったようなもんですわ。なんもわからんから、とにかくでっかい冷凍庫を買ってね。肉の卸をはじめます」。
「ただ、当時のことでしょ。お客さんはついたんですが、商品のホルモンがいつ入るかわからへん。相手さんに聞いても『そのうち』ですから、どうしようもない」。
「それで、直接働きにでたんです。朝早くから出かけていって、うちに肉をわけてくれるっていう会社の牛をひっぱってくるんです。ひっぱってくるいうても一頭500キロはありますからね。いくら私でも、はさまれたら大変です。片手にやすりをもってね。そっちやない、こっちやって誘導するんです。それでわけてもらったホルモンを卸すようになり、軌道にのります」。
儲かりましたか?
「儲かったんは、儲かったんですが、タンとか、レバーとか、センマイ以外の、シンゾウやミノがあかん。それだけでも、相当なトン数になりますから、もったいないでしょ。それで平成7年にホルモン焼きの店をスタートします。これがむちゃくちゃヒットして。今まで売れへんかったミノやシンゾウも食べてもらえます。もう言うことありません。ただ、ヒットしすぎて、私が仕入れた分だけでは、おっつかなくなっていくんですが」。
これが、焼肉岩崎塾の始まり。店名はホルモン焼き食堂「イワサキ」。
「ぜんぶセルフです。ビールも冷蔵庫からお客さんが出して」。
広い店内でポンポンとビールの栓が開く音がする。
「1日300本は開いていましたから、アサヒビールの人も腰抜かしたはりました」。
濛々と立ち上る煙。その煙の向こうに岩崎氏はなにをみていたんだろうか。

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焼肉岩崎塾株式会社 代表取締役会長 岩崎幹永氏

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2021年9月29日水曜日

アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”に“アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏登場。


本文より~

1969年、生まれ。

「レアな牛乳瓶を探していた」と笑うのは、アイエムエムフードサービスの代表取締役社長、水口氏。なんでも、牛乳瓶のふたでメンコをしていたそうだ。
今はちょっと説明がいるかもしれない。昔の牛乳はガラス瓶で、飲み口は厚めの紙で蓋をされていた。この蓋をメンコに用いていたわけだ。割とポピュラーな遊びだった気がする。水口氏は1969年生まれだから、まだ市内にもメンコの定番ステージとなる路地裏がたくさんあったに違いない。
「兄が1人いるんですが、私は兄とは対照的でした。兄は内向的な人ですが、私はその逆で。インベーダーゲームなど、ゲーセンにも入り浸っていました。とくに何かをしたかったわけではなく、何かになりたかったわけでもなかったですね」。
これは、中学の話。
「高校は先生と相談して、工業科に進みます。私が選択したのは精密系で、時計のしくみなどを勉強しました。意外と思われるかもしれませんが、じつは今の仕事にもつながっています」。
大学には進学せず就職。
「進学は頭になかったです。最初に就職したのは、精密系の製造販売会社です。私はものづくりがしたかったのですが、配属は営業。それもあって1年で退職しました」。
社会人1年生。まだ20歳にもなっていない。人生、迷う年頃だ。しかし、次の道はもう決まっていた。

目指すのは、プロのDJ。プロダクションとの契約が切れる。

どんな道に進んだんですか?
「音楽です。音楽も好きだし、DJに魅了され、『音』をつくるのが好きになります。ディスコでDJもしていました。プロのDJを目指したのはこの頃です」。
ただ、アマではまったく金にはならない。だから、親戚が経営している中華料理屋で仕事をさせてもらった。「仕事をしながら、音楽もしていました。じつは、東京に来たのも音楽のため。私が26歳の時です」。
水口氏は、海外にも渡っている。「そうですね。海外のクラブもみてみたくなって。東京に上京してからは、飲食でバイトです」。
一時、プロダクションにも所属していたらしい。
「あの頃は、やりたいこと以外、やらないというか。プロダクションで小さな仕事をもらって、なんとか生活していたんですが、契約が切れてしまって。新たな活動もするんですが、収入の道が閉ざされます。それでアルバイトをかけもちしていました。その一つが『代官山タブローズ』だったんです」。
「代官山タブローズ」については、いうまでもないだろう。グローバルダイニングのコアブランドの一つ。
「センセーショナルでしたね。何もかもが。スタッフたちは、輝いているし、格好いい。私にすれば。『え? なんで?』って感じでした」。
疑問が、驚きにかわり、魅了される。
「私も、この人たちのようになりたいと思うまで、そんなに時間はかからなかったですね。音楽を趣味にして、飲食へ進もうと思ったのは、これがあったから。30歳の時です」。

飲食のはじまりは、名店「代官山タブローズ」。

「タブローズ」の、当時の月商を聞いて驚いた。MAX8000万円だったそう。水口氏は「タブローズ」で5年。副料理長にも抜擢されている。2000年、「レガート」の立ち上げ時に移って料理長として5年働いたそう。
こうしてみると、精密系の学科もそうだし、音楽もそう。ものづくりが好きなことは一貫している。そういえば、「小学生の頃から母親がどうやって料理作るのか興味をもっていた」という話も伺っている。「ただ、これは、最終的になんですが、じつは、ものづくりだけではなく、作ったもので喜んでもらうことが好きなんだと気づくんです」。
なるほど、深い話だ。
「タブローズでの仕事ですか? そうですね、タブローズはオープンが17時なんですね。私たちキッチンは朝の9時に出勤して、下準備を始めるんですが、もう、フルスピードでやらないとオープンに間に合わない、そんなイメージです。もう、フルパワー、MAXです。しんどくなかったかといえば、うそになりますが、私は、そのギリギリの感じが好きでした。みんなで一致団結して、一つの方向に進んでいくことも含めて」。
「表舞台に出る前の下準備、リハーサルがすごく好きだった」と語っている。
「グローバルダイニングでは、いろんな人に出会います。師匠の渡辺さんにも出会えましたし、じつは、会長の河村 征治ともこの時に出会うんです」。
会長の河村氏というのは、アイエムエムフードサービスの現会長、河村氏のこと。
水口氏と河村氏は、「レガート」を立ち上げるところからいっしょになる。「会長がフードコートをやることになって、いったん離れますが、河村が料理長、私が相方になり、ツートップで、あの『ラボエム』を運営します」。
「河村のことを尊敬している」と水口氏。じつは、河村氏のほうが8歳年下。

一緒にやれば。意見が一致。

河村氏と会社をつくる経緯について、聞いてみた。
「河村は、グローバルダイニングを退職したあと、地元の金沢にもどり起業します。その時、『一緒にやろう』と誘われるんですが、当時は私もいろいろあって『NO』だったんですが、3年くらい経った頃に合流します。グローバルダイニングですか? そうですね。トータル15年いたことになりますね」。
現在、水口氏と河村氏は、社長、会長という立場。だが、話を聞くと面白い。じつは水口氏も1人で起業している。しかも、大成功。
「グローバルダイニングを辞めるときにタイミングだなと思って、私自身も起業します。金沢と東京とロケーションはちがいますが、私も河村もうまくいっていました。ただ、『一緒にやれば…』というのが、2人とも頭のどこかにあって」。
それで合併?
「そうです。意見が一致したわけですね/笑。合併後は、河村が社長で、私は東京管轄の役員という立ち位置でスタートします。お互い分けていたんですが、組織変更にともなって2020年の8月から、河村が会長になり、私が社長に就任。社長になるのは予想外だったので、びっくりしました/笑」。

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アイエムエムフードサービス株式会社 代表取締役社長 水口直文氏

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2021年5月21日金曜日

株式会社ジーフェイス 代表取締役 吉邨一仁氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ジーフェイス 代表取締役 吉邨一仁氏登場。

本文より~

サラリーマンは、何をしている?

「カウンターの向こうに大倉さんがいた」というのは、今回ご登場いただいた株式会社ジーフェイスの代表取締役、吉邨氏。義兄に連れていかれたそうだ。
吉邨氏が「大倉さん」というのは、鳥貴族の創業者、大倉忠司社長のこと。「当時は、鳥貴族もまだ3店舗くらいの頃。義兄に連れていかれたのは1号店。大倉社長がまだ店に立っていらした頃の話です」。
鳥貴族の創業は1985年。大学生になったばかりの吉邨氏が、大倉社長と出会ったのは、その3年後の1988年の頃のことだろう。
「義兄は以前から、大倉さんと親しくさせてもらっていたようです。私が店に入ると、いきなりカウンター越しに面接のようなものがスタートして、『じゃぁ、明日から』みたいな/笑」。
吉邨氏が生まれたのは1970年。東大阪市の瓢箪山出身だそう。父親は腕の立つ板金工で、会社を経営されていた。母親も吉邨氏が小学2年生になった頃から鉄板焼のお店をスタート。「自宅の1階がお店だった」と、吉邨氏はなつかしげに呟く。
「親父の板金は魔法みたいでした。親父は、いつか私に継がせたかったんでしょうが、どんなキズでも、凹みでも完璧に直してしまう。あんなのをみせられたら『できっこない』って思っちゃいます/笑」。
「母親は私が小学2年から10年くらい鉄板焼のお店をやっていました。ありがたいことに、常連さんも多かったですね。自宅兼ですから、お客さんの周りをうろちょろしていた気がします」。
当時、吉邨氏はネクタイをしている人が、宇宙人に思えたそうだ。「会社というところに行って、彼らはいったい何をしているんだ?」
子どもの頃のつぶやきだった。

経営者一族。

「父だけじゃなく、母も、いったら経営者ですから、私にもそのDNAが流れていたんでしょうか。先生やともだちから『あいつはいずれ経営者になる』なんて言われていました」。
いまになって思えば、先生やともだちの予想はズバリ的中しているが、本人が、それを意識するのは高校になってからだそう。
「小学校時代は、ソフトボールや野球、中学からはハンドボールにハマっていましたから、将来のことは…。あ!ただ、ハンドボールをやっていた時は、将来、実業団へ、なんて思っていましたね/笑」。
高校になっても、ハンドボールをつづけるが、部の雰囲気と水が合わず、中学時代の先輩にさそわれて水泳に転向。水泳部のほうは、水があったのだろう。キャプテンまで務めている。
「で、大学ですね。大学は大阪経済大学です。東大阪から抜け出したくて/笑」。
で、大倉社長と出会うと?
「そうです。ただ、大学時代は鳥貴族だけではなく、ほかにも運送会社や食品会社などいろんなアルバイトを経験しています」。} 大倉忠司という偉大な経営者も、まだ、社会に知られていない頃。最初の出会いは、すれ違いに終わったといっていいかもしれない。実際、大学を卒業した吉邨氏は大手建設会社に就職している。

大手建設会社退職は、賭けでもなんでもない。

東証一部上場企業である。橋梁やトンネルの大規模な工事がメイン事業の会社。この会社で、吉邨氏は10年間勤務している。
「資格なども取得しました。営業に移ってからは、けっこういい業績だったと思います。仕事は楽しかったですね。たいはんが公共事業ですから、規模も、金額も大きい。がっつり相手のふところにはいって」。
情報戦争。駆け引きも、ネゴシエーションもある。いえば、大人の世界だ。「そういう世界を楽しんでいたんですが、私を鳥貴族に連れていった義兄がいちはやく鳥貴族のフランチャイズになり、それにつづくようなかたちで私も33歳の時に独立します」。
辞めるにあたっては、反対もあったそう。そりゃ、そうだろう。所長に推薦しようと思っていた、という話もあったそうだ。それ以上に、吉邨氏の決断を危ぶむ声が、そこかしこからあがった。
「何しろ、3月に下の子が生まれ、4月に退職ですからね。ただ、そんななかでも、うちの奥さんだけは何もいわないでいてくれました。あ、そうって/笑」。
奥様の「あ、そう」が、背中を押してくれたといってもいいのではないか。
「大倉社長からは、いろいろアドバイスをいただきました。ええ、もちろん、最初から鳥貴族1本です。やるなら、鳥貴族。それ以外は、眼中になかったです」。冷静に自分自身で分析をしたうえで間違いない、と判断したという。
「まとまった資金はもちろんないから、国金にお金を借りに行くわけじゃないですか。当然、事業計画とか説明するでしょ。大倉社長にもアドバイスいただいて仕上げたものなんですが、それをみせると、担当者が私の不思議なものをみるようにして、『上場企業を辞めて、やきとり屋?』って/笑」
「当時は鳥貴族っていってもまだ知られていなかったんでしょうね? 知り合いも、おんなじような反応でした。『280円均一? なにそれ?』って。
とはいえ、下の子が生まれたばかり。いくらなんでも不安がゼロだったはずはないだろう。ただ、それを口にすると「そう思うのは、鳥貴族のスキームや、そのビジネスを知らないからだ」と言われてしまいそうだから、口をつぐんだ。

オープンの初日にダウン寸前? 以来、16年。

「33歳の時、昭和町に1号店を出店し、現在(2021年)で16年目です。店舗数は16店舗。この1年は、どこもいっしょですが、コロナ禍で経営はたいへんでした。時短営業はもちろん休業した店もありましたので、売上的にはきつい。ただ、いつまでもつづくわけでもないでしょうから」。
もう、未来をみすえている。つよがりではないが、「不安」という言葉を口にしない人かもしれない。キャプテンシーにあふれた人は、そういう人が多い。
「この道にはいって、苦労したことですか? う~ん。忘れちゃったのか、そもそも苦労していないのか/笑」。
とはいえ、1号店オープンの時は、初日に熱をだされたとか?
「あ、そうですよね。あの時はオープンの準備やらで。バイトの面接だけでもたいへんでしたから疲れ切っていたんでしょうね。当日は本部や義兄の店から、助っ人が駆けつけてくれましたので、助かりました。もちろん、私も熱があるのに、ふつうに仕事をしていましたが/笑」。
「出店でいえば、2店舗目をだすまで3年かかっています。そこは苦労の一つですよね。なかなかいい物件がなくて、というのが正直なところです。あ、そうそう、2店舗目を出店する時も金融機関の人から『今のままでも生活できるでしょ。なんで2店舗目をだすの?』なんて言われました。あの時は、『勉強不足だろ』って逆にアドバイスしたかったくらいですね。鳥貴族のことをぜんぜん知らないわけですから」。

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株式会社ジーフェイス 代表取締役 吉邨一仁氏

2021年3月16日火曜日

株式会社N・I 代表取締役 河村則夫氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社N・I 代表取締役 河村則夫氏登場。


本文より~

20歳の大法螺。

小学2年生から野球をはじめ、小・中・高とキャプテンを務めている。
高校は、渋谷高校。公立だが、甲子園出場経験もある名門高校だ。入学当初は部員数も多かったが、「1週間で1/2になった」と河村氏は笑う。
河村氏は早くから試合にも出場し、前述通りキャプテンも務める。だが、河村氏が3年生の時、暴力問題で、出場停止になる。けっきょく、3年時の公式戦はゼロだったそうだ。
就職は、最大手デジタル製品の販売会社へ。「お金がないから、大学進学は最初から頭になかったし、だいたい何も考えてなかったですね。この会社に進んだのは、監督のつながりがあったから。軟式野球部があって、入部するのが条件。野球はともかく、サラリーマンはぜんぜん性に合わなかったですね/笑」
けっきょく、2年で辞めている。
野球をつづけたかったが、限界も感じた。だからといって、下を向かないのが河村氏という人だ。「会社を辞める時には30歳までに独立すると言いふらしていました」と笑う。
「大法螺」と笑う人もいたかもしれない。しかし、本人はちがう。言ったからにはうそつきになりたくない。だから、本人にとっては、大法螺が原動力。これが、河村氏の流儀。とにかく、20歳の時の決意は、「約束」という二文字でロックオンされた。

体力・気合・根性。

「ホームページにも書いていますが、居酒屋で独立したいと、20歳で飲食業界に飛び込みます」。20歳、料理人を志すには、けっして早いほうではない。河村氏も、16歳や17歳の兄弟子に顎でつかわれる様子を想像していたそうだ。ただ、ほかの選択肢がなかったのも事実だし、やりたい思いがつよかった。
「やるからには野球といっしょ、基本が大事だと思いました。それで、お世話になったのが、和食割烹です。こちらで6年、修業させていただきます」。
給料は10万円あるかないか。薄給に映るが、ひと昔前は、これがスタンダード。
「夜は、大手チェーンの居酒屋でアルバイトです。あの頃は1日中、仕事ですね。体力・気合・根性。野球を経験していなかったら、根を上げていたかもしれませんね」。
深夜のバイトは週3日。朝まで仕事をつづけ、その日は、寝ない。2日に一度の睡眠だったが、アドレナリン、全開。「ちからのない奴は、時間を遣うしかない。だから、そうしてきた」と河村氏。
独立という約束に向け、ひた走る。

店長に抜擢されるも、大失敗。

「転機になったのは26歳の時ですね。バイト先の社長から『店を出すから、店長やらへんか?』と声をかけていただきます」。むろん、答えは、「イエス」。割烹を退職し、バイト先に勇んで就職。ただし、店長の経験はない。
「大失敗をやらかします」。
どういうことだろう?
「私が経験してきたのは、野球部だし、割烹の世界です。上下関係はきついし、言葉もきつい。だから、ぜんぜん人がついてきません。アルバイトにも、真剣に怒るもんですから、つづかない」。
それで、大失敗?
「そうです。ただ、いったん外されるんですが、ちがう新店でもう一度、チャンスをもらいます。そちらで起死回生。再度、最初の店にもカムバックし、けっきょく2つの店舗、いずれも大繁盛させることができました」。
「失敗せな、大きくならへん」と河村氏はいう。「わずか、1年でしたが、この1年で経営者としての自信も深まりました」。
失敗を通し、自信といっしょに、人を動かす術も会得した。ちからがないから、時間を遣ったとするなら、濃厚な1年だったにちがいない。

ゴールの向こうが、いちばんの勝負時。

「たまたま隣の駅にいい物件が出て、社長が『やるか』と言ってくださったので、二つ返事で、『やります』と。これが27歳の時です」。
目標より3年早く、ゴールテープを切ったことになる。もちろん、ゴールの向こうが、いちばんの勝負時。結果からいうと、当初は、一進一退というところか。河村氏いわく、きっちりと、コミュニケーションをとったのがいけなかったそうだ。いつかの大失敗と、ある意味、おなじ。到来したチャンスを、もう少しで手放すところだった。
「ある会社に、マネージャーで就職します。店は、つづけていましたから、経営者でありながら、他社のマネージャーになったわけです。給料は、比較にならないくらい下がりましたが、とにかく、様々な経営者にお会いでき、勉強になりました」。
この会社で、河村氏は4年勤めている。マネージャーとして、物件やメニューの開発、給料をはじめとしたさまざまな制度設計にもかかわっている。実践を通し、学んだことも少なくない。じつは、1年で役員にもなっている。
「この4年でできた、仕入先とのネットワークが、のちに大きな財産になります。このあと、こちらの会社を退職し、不良債権を買い取るように店舗をだしていくんですが、仕入れ価格がちがうので、最初から利益が改善することがわかっていました」。
株式会社N・Iを設立したのは、33歳の時。
「向こうの会社では、役員だったんですが、役員といってもやりたいようにはできない。だから、2009年の8月末で退職し、翌9月3日に改めて1号店をオープンします」。
11月には、買い取った3店舗を合わせ、合計4店舗に。「あと1店舗も合わせ、1年で計5店舗出店します」。それから、このインタビューまでおよそ10年。40店舗だし、残っているのは20店舗。スクラップアンドビルド。この数字は、経営判断の早さを示している。
ゴールテープを切ったあとを10年のスパンでみると、大成功といえるのではないだろうか。

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株式会社N・I 代表取締役 河村則夫氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年3月11日木曜日

株式会社ジョージーズ 代表取締役 春名翔仁氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ジョージーズ 代表取締役 春名翔仁氏登場。


本文より~

ドレッドとアロハが、店長とキッチン。

「小さい頃から通知簿に協調性がないと書かれた」と笑う。なんでも、高校まで同様のコメントが繰り返されたそうだ。「ポケモンもやらんかったし、勉強もしなかった。やるのは、したいことだけ。サッカーはその一つ。ロベルトバッジョのPK外しの背中を観て、格好ええなぁと思ってはじめました」。
「そうそう、大学は子どもの頃から『行かへん』っていっていました」。
今回ご登場いただいた春名氏が生まれたのは、昭和61年。姫路城で有名な姫路市。好きなサッカーでは中学2年で初優勝。県大会でベスト8に進んでいる。高校にもサッカー部はあったが、弱小だったそう。試合の日と、バイト以外の日だけの部員だった。 兄弟は2人。「弟がいます。弟は、サッカーで兵庫県の代表になって、推薦で岡山の高校に進みました。私のほうは、高校になってもあいかわらず協調性もなくって/笑」。
パーマをかけ、派手な髪色をした高校生。「そんなんだから、アルバイトも全落ち。ただ、高校2年の時ですね、バイト募集の貼り紙をみて、ある店にとびこんだんです。社長がいらして、『おもろい奴や。夕方になったら またおいで』って。いわば、この一言が、私の飲食人生の号砲です」。
ドレッドにターバンを巻いた人、アフロヘアーはキッチンスタッフ。「オレなんかふつうやんって/笑」。
「就職である会社を受けに行ったんですが、『髪の毛きれますか?』『転勤できますか?』って矢継ぎ早に言われて…。その時に『料理がやりたいん』だって思うんです。それで、けっきょくバイトしていた店に就職することになるんですが、新しくやってきた店長に『料理したいなら、ここじゃないほうがいいよ』っていきなり言われて」。
なにがなんだかわからないなかで、飲食人生が動き出す。

24歳、軽いノリで、オープン。

元町のイタリアンに2年半。
「それなりのリストランテです。ただ、私が入社する2日前に、料理長がスタッフみんなを連れて辞めちゃいまして、料理をしたことがない私が、早くも3番手です。あの頃は朝の8時から深夜2時まで仕事です。休日もなくって、2年半でぶっ倒れました/笑」。
だから、勤務期間2年半。
「いったん姫路にもどるんですが、そのタイミングで、以前のオーナーがアメ村に店をだすから『来い』と言われて。その店で1年半、料理長をさせてもらいました。それから、堀江のカフェのオーナーに引き抜かれて、そちらで店長を務めます。そうこうしているうちに24歳に。高校の卒業文集に『店をやる』と書いた時の、年齢になりました。
じつは、私はすっかり忘れていたんですが、同級生に、『どうすんだ?』って言われて。じゃぁ、みたいな/笑」。
「あの頃はけっこう儲けていましたね。アメ村に行ってからずっと好調で、カフェの店長時代も周りの友達に比べると貰っていたと思います。だから、当時は飲食店を甘くみていたかもしれませんね。イタリアンもいいかな?と思ったんですが、けっこう他にもいい店があるし初期投資も高くなるんで、アジア料理に目を向け、2ヵ月間タイ料理店で修行して堀江で独立しました」。
24歳。希望の船出。ただ、明確な進路はまだ決まっていなかった。

パクチー鍋とパクチー食べ放題。

「1店舗目は楽勝でしたね。赤字になったこともない」と春名氏。「アルバイトと2人だけです。高校の時に、書いていたからスタートしただけで、そうですね、3年くらいは、ふつうです。やる気もそうないから、3年間メニューもおんなじ/笑」。
やる気になったのは、27歳の時。結婚したことで、スイッチONになる。「たまたまも、重なるんですが、東京に行った時に、向こうはもうパクチーブームだったんですね。もちろん、パクチーは知っていましたが、『パクチー鍋ってなんだ』と。大阪では、やっている店がなかったんですね。だから、じゃぁ、それだと」。
ボルテージが上がる。
「食べ放題も、台湾料理の店が1店舗やっているだけで、まだぜんぜんない。それで、パクチー鍋とパクチー食べ放題のお店をはじめます。これが、爆裂ヒット。予約だけで、2回転です」。
お鍋のスープはトムヤンクンと、グリーンカレー。パクチーは、これでもかというくらい器に盛った。「当時は、大阪でいちばんパクチーを買っていましたね。月間70キロ。農家さんにお願いして直取引をさせてもらっていました。料理ってたいてい自宅で食べたほうが安いんですが、パクチーに関するかぎり、うちの店で食べたほうがぜったい安かったですね」。
パクチーブーム。ただ、ブームは長くはつづかない。

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株式会社ジョージーズ 代表取締役 春名翔仁氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年2月17日水曜日

有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏登場。

本文より~

スノボにハマり、プリンスホテル退職。

「大学も、専門学校も頭になかった」と高校時代を語ってくれたのは、有限会社レストランバンクの代表、林 秀光氏。1975年生まれの44歳(2020年のインタビュー時)。
「早く自立したかったですね。なりたかったのは、パティシエか、庭師か、料理人か。けっきょく、『守口プリンスホテル』に就職します。周りは、大卒ばかりでびっくり」。1人暮らし、開始。「守口プリンスホテル」の、正確には製菓部に就職したそうだ。
これで、大好きな「苺のショートケーキ」が、好きなだけ食べられるが、志望動機。製菓部といっても、料理人。ホテルといっても、きびしさはハンパないはず。うまく、スタートできたんだろうか?
「めっちゃめちゃ面白かったです。その頃の私は、料理も、菓子づくりも無縁な、どこにでもいる高校3年生といっしょ。びっくりしますが、『ボール』がわからなかった」。
ボールって、あのボール?
「そうです。『ボールを取ってくれ』と言われて、『?』です/笑。さすがに怒られましたね。とにかく、そんな風に、マイナスのマイナスからのスタートだから、逆に面白かったんだと思います。フランス語もそう。なにもかも新しい」。
林氏は、こちらで、3年半修業する。ちなみに、「守口プリンスホテル」は松下電器が経営元だったそう。つまり、林氏も、松下の社員。松下幸之助氏の著書も読んでいる。
ところで、めちゃ面白かったのに、どうして辞めたんですか?
「じつは、スノーボードにハマって。21歳の時ですね。山ごもりしたくなって辞表をだしました/笑。で、長野の山にこもって2日目に鎖骨骨折です。アホでしょ/笑」。
鎖骨骨折で、1シーズン棒にふることになる。だけど、のめり込んだら止まらないのが、林氏の性格。「日本じゃ無理だから、アメリカに行って、雪山へGOです。雪山を追いかけ、行ったり、来たりの、スノボ人生。悪くなかったですね」。

彼女の一言。

「当時、仕事をしていたのは、堀江の服屋さんの奥にあった小さなバーです。シーズンオフの間、店長をさせてもらっていました」。
仕事は面白かったですか?
「バーの仕事も、めちゃ面白かったですね。『お酒って、面白いやん』って。ケーキの時も、スノボの時もそうですが、一度、ハマると止まらない。勉強もしました」。
「妻と知り合ったのは、25歳の頃。北堀江のカフェで出会います。24時間営業のカフェで、私は19時~翌朝7時までの、夜の店長でした。店長といっても特別、経験を積んだわけじゃなく、ただ、マジメにはたらいていただけです。でも、マジメな人がぜんぜんいてなかったから、それだけで評価されました/笑」
「独立を決意したのは、27歳。決意できたのは、妻の強烈なプッシュがあったおかげです」。
どんなプッシュ?
「彼女は、起業家の娘なんですね。だからかもしれませんが、『私と結婚するんやったら、店もってこい』みたいな/笑」。そりゃたしかに強烈。しかし、そのおかげでいまがある。数多くのスタッフとの出会いも、この一言がはじまり。
「27歳で決意し、独立したのは28歳の時です。芦屋で『焼炉端ばたばた』をオープンしました」。なんでも、ケーキやシュークリームで、と思っていたらしいが、製菓は難しいとなって、炉端になったらしい。
その落差が、林氏らしくもある。

しかし、くすぶりはつづく。

「焼炉端ばたばた」は、どうだったんだろう?
「それが、まったくで/笑。2000万円かけたんですが、日商ゼロの日もふつうにあったくらい」。「あの時は、どうしようもなかった」と林氏。借金があったから、前に進んでいただけ。
「ただ、最低限の売り上げはありましたから、大きな赤字にはならなかった。だから、ぎゃくにやめられなかった」。少額といっても、毎月、赤字が累積する。「希望もなにもなかった。あったのは、絶望感だけです」。
相当、きびかったんですね?
「炉端は、初めてでしょ。最初から、無謀だったんです。知識も、経験もなにもないから、何もできない」。できることと言えば。
「お顔とお名前は、必死で覚えました。注文されたお料理も含めて。名刺をいただいたら、下の名前までインプットです」。それでも、簡単に売り上げアップとはいかない。ただし、あの時の模索は、貴重な財産になっている。
「そう思わないと、やっていられませんよね/笑」。
少なかったが、お客様のなかには、富裕層も、有名人もいた。何しろ、芦屋である。そのなかに、いまも「恩師」と慕う人もいた。
「『お前は目がいいからいける』と言いつづけてくれた人です。偶然なんですが、私が昔から憧れていたケーキショップのオーナーでした」。「すごく紳士だし、人柄がいい」と、べたぼれの様子。
「ショップも、いいんですね。ペンキのカラーもいい。そうそう、それで聞いたんです。『このペンキはどうしたんですか?』って。そうしたらね。『日本になかったから、フランスまで行って買ってきた』って。すごいでしょ」。
読書家で、あそびも格好いい人。こんな人になれたら、いい。人生の目標もできたにちがいない。しかし、くすぶりはつづく。

世界6位で、世界がかわる。

少し上向きになったのは、塚口にオープンした2店舗目の「アレグロ」をオープンしてから。林氏、初挑戦のイタリア料理である。「当時、イタリアンが流行っていたんですね。もちろん、シェフを採用する余裕はない。だから、料理担当は私です。もちろん、イタリア料理なんてしたことがない。でも、これがけっこううまくいって」。
ランチがいい。ただ、ディナーはイマイチ。
「パスタくらいしかちゃんとできなかったですからね。ディナーの料理は…、どうだったんでしょうね/笑」。
上向きはしたが、起爆剤とはいかなかった。3店目は、アレグロの前にだした「じんべえ」。
「じつをいうと、3店とも似たり寄ったりでパッとしなかった。閉店まではいかないけど、大儲けともいかない。でも、あれを境に一転します」。
あれって何ですか?
「天満に、4店舗目を出店します。ピッツァを窯で焼くことができる店を手に入れたんです」。
ピッツァ?
「ナポリのピッツァをやりたくてね。で、それも勉強して、じつは、私、世界6位なんです」。世界的なコンクールで、世界6位になったそう。
「あれは、33歳の時です。それまでギリギリだった数字が、翌日から2割アップ。しかも、全店です。ピッツァとまったく関係ない『じんべえ』まで/笑」。

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有限会社レストランバンク 代表取締役 林 秀光氏

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2021年1月28日木曜日

株式会社てんてん 代表取締役 中島一薫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社てんてん 代表取締役 中島一薫氏登場。


本文より~

お山の大将、態度がでかい。

「おい、ジュースもらってこい」。従兄弟の兄が、命令を下す。「いちぃ、にいぃ、さん~」。
「一つ屋根の下に、祖父母とおじさん家族といっしょに暮らす大家族です。私に命令を下していた従兄弟の兄は元阪神タイガースの川尻選手です。彼は、野球ですが、私はサッカー/笑」。
運動神経は、2人とも抜群。中島氏もサッカーをはじめるといきなり頭角を現す。当時は、「ドラえもんに登場するジャイアンのような存在だった」と笑う。
お山の大将。サッカーはだれより巧かった。なまいき。敬語もつかわない。中学生になっても、でかい態度はかわらない。上級生にすぐ目をつけられた。
休みのベルが鳴れば、上級生が獲物を襲いにくる。多い時には、13人いたそうだ。獲物はむろん、中島氏。
「殴る、蹴るですよ。ともだちも、できやしない。だって、私と親しくしていると、奴らから目をつけられますからね」。殴られても、蹴られても、ビビらなかった。その態度が、いけなかったのだろう。いじめは、加速するばかり。
「1年間、毎日です。あいつらも、よう頑張ったもんですね。こっちは、いくらいじめられても、心は折れへんかったんですけどね」。
話すトーンは軽いが、中身は重い。サッカーはつづけたが、そちらも高校の時に断念している。もっとも、いじめは関係ない。代わりにはじめたのが、キックボクシング。

「お兄ちゃんはできる」というまじない。

自信家。「とにかく、『オレは、できる』と思っている」と中島氏は、笑う。「45歳になった今でも、無限の可能性があると思っているくらいですから」。こちらは、真剣に。
自信があるから、心が折れない。
「私は1975年生まれです。兄弟だけで4人。さっきも言ったように親戚も祖父もいっしょだから大人数です。あのなかもまれて育ちます」。
ただ、小学1年生の時には、東京を離れ、姫路にある父親の実家に移り住んでいる。
サッカーを始めたのは、3年生の頃
「経済的には、そう恵まれてなかったと思います。兄弟も多かったし。それが、だいたいわかっているから、何かをねだったことはなかった。外で、やりたい放題でしたからストレスはなかったですね/笑」。
父も、母も、どんな時も中島氏を信じ、応援してくれたそうだ。「お兄ちゃんは、なんでもできる」。
そう母に、言葉をかけられる度に力がわいた。
心が折れなかったのは、実は、父や母の応援があったからかもしれない。

バイトで、手にした未来図。

大学は大阪の阪南大学に進んでいる。「大学時代はバイトですね。料理にも目覚めます。サッカーのインストラクターもやりましたが、長いのは炉端居酒屋です」。
「できるバイトだったと思いますよ」と中島氏、会心の笑み。なんでも、料理もできるし、接客もできるスーパーバイトだったそう。将来、起業しようと思ったのも、このバイト時代。
「大学2年からですね。お客さんとのふれあいがたまらなく、楽しかった」。バイトのおかげで、将来のしっぽをつかむ。
「大学を卒業して、着物屋に就職します。独立資金のため、給料のいい会社を選びました」。話を聞くと、たしかに、給料がいい。当時で初任給25万円は、なかなかなかったはず。
ただし、営業会社。数字がすべて。ストレスはなかったんだろうか?
「飲食もそうですが、こちらも天職だったんでしょうね/笑。3ヵ月で50人中、3位の成績をおさめます。ただ、かなり引き留めてはいただいたんですが、半年で辞めて、大学時代にアルバイトをしていた店にもどりました。この店には、バイト時代を含めてトータル12年間います」。
「修業だった」と、中島氏。
「一瞬で心の距離をゼロにするコミュニケーションを会得してやろうと思っていました。正直、だれよりファンが多かったのとちがいますか」。お客さんにも、スタッフにも愛され、慕われていた。今の中島氏を観れば、ほぼイメージできる。ただし、このあと、起業するのだが、起業して半年、社員が逃げ出している。

起業と、ともだち。

「独立したのは、32歳の時です。半年くらい経った頃でしょうか。仕事をさぼったスタッフの1人を、キックボクシングの教え子だったこともあって、かなり痛めつけたんですね。それをみた、ほかのスタッフが辞めっていっちゃいます。かなり凹みましたね。当時は、いうなら恐怖で支配するみたいなイメージです。ぜんぜんいいマネジメントじゃないのはわかっても、それしか知らんかったから」。
中島氏がつぶやく。
「あの時、なんで起業しようと思ったのか、真剣に考えました。けっきょく、中学の時のいじめに行き着くんです。1年間、ともだちが1人もいなかった。『これだったんだ』って思います。なんで飲食をしようと思ったのか、独立して店をやろうと思ったのか、それは、ともだちが欲しかったからなんです」。
小さな時から、何一つねだったことのない中島氏が、はじめてねだったものが、ともだちだった。
2020年現在、中島氏は、飲食事業を軸に、通販事業、SDGs社会貢献事業、教育・飲食プロデュース事業を展開している。店舗数は4業態、10店舗。従業員数はアルバイト・パート含め150名。
60社が参加する「楽花成の会」の会長等で多忙を極める。「それ以外にも、小学生のPTAの会長を5年つづけている」と笑う。
大学でも講演し、小学生でも授業をしているというから、驚かされる。お山の大将が、いつの間にか人のために汗を流している。3人の師匠に巡り合ったからだろうか。
負けたくないから、人知れずがむしゃらにがんばった、その時から比べると、人間のスケールが何倍にもなったように映る。人として成長するというのは、こういうことなんだろうか。

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株式会社てんてん 代表取締役 中島一薫氏


2021年1月22日金曜日

株式会社カワード・チャレンジ 代表取締役 新井翔碩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏株式会社カワード・チャレンジ 代表取締役 新井翔碩登場。


本文より~

サッカーと、ラグビーと。

新井 翔碩。名は「しょうせき」と読む。
「翔碩は、お坊さんに決めてもらったありがたい名です。父親は染め職人で、母親は飲食店を経営していました。小さなお店です」。
女きょうだい3人と、新井氏。
「私は末っ子で唯一の男子です。おじいちゃんとおばあちゃんともいっしょに住んでいましたから、大所帯です」。
小学生の頃の話も聞いた。
「ふつうでしたね。ちがうといえば、気が短かったくらいかな。喧嘩ばかりしていましたから。もっとも連敗つづきでしたが/笑」。
野球選手になりたかったが、なぜかサッカーをしていた。中学生になっても、けっきょくサッカー選手。サイドバック、センターバック、ボランチ、ぜんぶ経験した。京都でベスト8まで進んだ。「チームのなかでは、いちばん巧かった」と笑う。
将来は?
「そうですね。どこかで親父の仕事をつぐのかなというのはありましたね。もちろん、まだ子どもだから突き詰めなかったし、高校に進学してから、ラグビーを始めるんですが、すっかりラグビーの世界観にハマってしまいます」。
なんでも「いずれ高校のコーチをしたい」とまで思ったそう。
「生涯つづけたいものに初めて出会ったって感じです。ただ、問題が一つあった。大学に進んでラグビーしようにも勉強はイヤだし、簡単に進学できないこともわかっていましたから。でも、ラグビーはやりたい。『どうしたら、ええんやろ』って」。
ひらめいた。クラブチームがあるやん。

ハローワークに列ができる。

「で、就職してサラリーマンになるんですが、性に合ってなかったんでしょうね。3ヵ月くらいで、『もう辞めたい』って泣き言をいっていました」。
なんでも1年間は、留守番専任だったそう。「さすがに、1年半くらい経って、親父も『もう辞めたら』って。で、退職するんですが…」。
新井氏、19歳。1996年。バブルが弾け、金融危機がスタートした頃。「ハローワークに行ってびっくりです。人があふれています。職を求めて、列をつくっているんです。こりゃ、正社員というのは無理だなと思って、それで飲食店でアルバイトをはじめます」。
いつのまにかラグビーどころじゃなくなっていた。
だが、飲食と出会って、また、ハマる。
「みなさんはどう思うか知りませんが、私はたのしかった。だって、目の前に課題があって、それができるようになるってスポーツといっしょでしょ。最初は、野菜。野菜が切れるようになると、つぎは、魚。今度は、魚がさばけるようになる。どんどん、巧くなる。ラグビーの時といっしょです」。
がむしゃらにはたらいた。これぞ、天職と思ったかもしれない。ただ、社会は好きだけでは渡れない。

脱、京都。

「正社員になるつもりでいたんですが、社長と店長の仲が悪くて、そういうのがイヤになって辞めるんですが、依然、猛烈な氷河期でしたから、ぜんぜんうまくいきません」。
かろうじて中堅クラスの和食の居酒屋に滑りこんだが。「もう、ボロカスです。一体、なにに怒られているか、なにを怒っているのかもわからない。それでも1年ちょっとつづけるんですが、ある時、社長が『くびや』いうてね。くびを宣言されます/笑」。
転々とした。「22歳になって、オレ、何やってんねんって/笑」。
「さすがにそうなるでしょ。それで、知り合いもいない神戸でゼロリセットや、と」。新生活を開始する軍資金は20万円。幸い、住まいもみつかり、職にもありつけた。
「京都とはぜんぜん違った」と新井氏。
「京都時代は朝6時に出勤して、きっつい仕事して、それでも虫の居所が悪かったら怒鳴り散らされます。でも、こっちは違った。おなじことやっても評価がちがうんです」。
京都時代とおなじように、朝いちばんで出勤した。楽しかった頃が蘇り、調子があがる。店長にもなった。「27歳くらいの時ですね。自分の店をやりたいなと思ったのは。でも、そのまままっすぐ開業ってわけじゃないんです」。
「このまま飲食だけでいいんだろうか」と思ったそう。「ちがった世界もみておくべきだと思ったし、19歳からの1年半の、消化不良のサラリーマン生活。あれがすべてじゃないと思いたい、と」。

リクルートで、2回目のサラリーマン生活。

「こんなに、楽しくてええんかと思いました」。
転職したのは、リクルートのホットペッパー事業部。
「才能っていうのがあるんでしょうね。神戸エリアで1位になりましたし、全国でも2回、表彰されています。飲食ではたらくっていうのは、いろんな意味で修業です。でも、リクルートでは同年代と、熱く、楽しく、はたらける。修業じゃないんですが、修業とおなじように、ちからが付きます」。
ただ、限界も知る。新井氏は才能といったが、上には上がいたそうだ。
「でも、この数年間は、私にとって業種はちがっても貴重な経験になりました。飲食だけでは気づけなかった世界。逆に、飲食で、こんな世界観やチームがつくれたらな、と」。
リクルートを退職し、「おかげ小町」をオープンしたのは、新井氏が31歳の時。新井氏は、人生を消去法で選択してきたというが、けっしてそれだけじゃないだろう。
削って、削って、残ったものはピュアなかたまり。飲食は、新井氏のピュアな思いがかたちになったものに違いない。スタートは、アルバイトのみ。
「けっこう、自信はあったんですが、スタートから大きく躓きます。うちのオープンといっしょに、『豚インフルエンザ』が流行ります。1ヵ月は、ぜんぜん客もいない。誤算どころか、大誤算です/笑」。
「とはいえ、それほど長引かなかったのが、幸いしました。ホットペッパーの営業をしていましたから、来店数を上げる方法は知っていました。だから、あとは、来たいただいたお客様をいかに大事にするかで勝負が決まる」。
お茶の葉も、「一杯ごとにちがうものにした」という。「とにかく必死です。ルールも、マニュアルもなんにもない。ただ、目の前のお客様に必死です」。
2号店は、韓国料理店。今度は、出店と同時にブームが来た。「だから、スタートダッシュは最高だったんです。でも、すぐに、どこにいってもサムギョプサルになって。これはあかんと、すぐにクローズしました」。
イメージでいえば、1勝1敗。 でも、本質は0勝だった。

迷走する経営。

「お金はなくなるし、揉め事だらけやし、かげで社長、つまり私ですが、私の悪口はいうとるわで、いっしょにはたらいてくれてた子が鬱にもなってしもたり。そりゃもう、客サービスどころやない。なかの人間関係がぐちゃぐちゃなんですから」。
4年間で、韓国料理の店を含めると、計3店舗出店した。当初、思い描いた世界とは、ぜんぜんちがう。豚インフルエンザのせいでも、ブームのせいでもない、もっと本質的なこと。
「けっきょく、もう一度、やり直すしかないと思いました。私自身が先頭に立って。『くずし割烹 こまじろ』をオープンさせて、そうですね、半年は休んでいません。10キロは体重が減りました」。
「正直いうと、2009年に創業してから2016年までの7年間は、もうかってもいなかった」と新井氏は笑う。人間関係がぐちゃぐちゃになり、経営体制もつくることができなかった。
どうすればいい。
「むちゃくちゃ勉強しました」。4年目、頭を打ちに打って、リクルート時代にできなかったもう一つの修業がスタートする。
「決算書や、政治の本も読みました。松下幸之助さんや稲盛和夫さんの本にもかじりついて。ヒントは本の、いろんなところに落ちていました。経営理念だと思ったのも、この時です」。
迷走していた経営に、終止符が打たれるのだろうか。とにもかくにも、今度の修業は新井という「人」を試す修業だったのかもしれない。

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株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏株式会社カワード・チャレンジ 代表取締役 新井翔碩


株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏登場。

本文より~

子どもの頃と、卒業前の、二つの誓い。

おとなしい少年だった。太っていたし、コンプレックスもあった。
「だいたい活発なタイプじゃなかったし、スポーツも勉強もぜんぜんパッとしない/笑。勉強でも、スポーツでも勝たらへんから、いつか社長になっていちばんになると思っていた」と細川氏。
小学校でもいろいろ習い事をしたが、卒業と同時にやめた。代わりに中学から始めたソフトテニスは、大学まで10年間つづけている。「補欠だったが、楽しかった」と笑う。特に、試合が好きだったそう。
「高校になって、初めてなりたい職業ができます。建築士です。これは、いまでも好きなんですが、神社、ビル、個人宅…といった建造物がとにかく好き。だから、大学も建築系に進もうと思っていました」。
ただ進んだのは山口県にある「東亜大学」の、建築ではなく、コンピューター学科。
「4年間通いましたがプログラミングはイマイチ」と笑う。
「とにかく、初めての一人暮らしです。それに、地方からいろんな奴が進学してくるでしょ。私は、滋賀のいなか育ち。出会う奴はみんなインパクトがあったし、そんな出会いも含めて、楽しくてしかたなかった4年間でした」。
なかでも、いつも一緒だった5名のメンバーとは大の仲良し。サーフィンも、多少の悪さも、いつも一緒にした。卒業前には、「大物になって再会しよう」という誓いまで立てている。

滋賀のJA(農業協同組合)に就職。農業との出会い。

「大阪のほうで就職が決まっていたんです。でも、親父が『どうしても滋賀で』というもんですから、けっきょく滋賀県のJAに就職しました」。
JAの仕事は楽しかったですか?
「常々、辞めたいとは思っていました/笑。でもね、ちゃんと仕事はしていたし、楽しんでもいましたよ。ただ、30歳までには独立すると決めていましたから、仕事だけではなく、何をどうすればいいかアンテナはつねに立てていました。けっきょく、28歳で独立するんですが」。
「社長になる」「大物になって再会する」。
二つの誓いを果たすには、独立は、たしかに効率的な手段。しかし、経験のない飲食での独立には、リスクもなくはない。
けっきょくのところ、なにがきっかけで、「飲食で」となり、なにが細川氏の背中を押したのだろう。
「JAには6年間いたんですが、やりたいことがみつからなかったから離れなかったというのが正解です」。
つまり、やりたいことがみつかったわけですね?
「そうです。それが飲食。きっかけは和民の渡邉美樹さんをTVで観たこと。渡邉さんの話に感動して、渡邊さんの本を読んで。渡邉さんは水商売を産業にした人でしょ。スケールがでかい。尊敬もしましたし、オレも、そんなかいことをやりたいと思ってしまったんです」。
とはいっても、農業しか知らない?
「そうなんです。だから、本屋に行って片っ端から独立関連の本を読み漁ります。だいたい書いてあるのはおなじなんですね。だから、そっちはいいというか、わかったんですが、料理ができない。飲食なのに、致命的でしょ。それで、最初の失敗です/笑」。

失敗と起業と、ロケットダッシュと。

「学生時代のバイトもガソリンスタンド。飲食はもちろんですが、料理に至ってはやったことがない。だから、じつは料理のコンサルタントと契約したんです」。手付金200万円。けっして小さな額ではない。「2006年の年末に辞表をだし、翌年の3月に退職します。コンサルタントとは、2006年に契約。年が明け、3月に退職できそうだったんで、正月にコンサルタントに連絡を入れたんですが」
つながらない?。
「そうなんですよね。最初は、お正月だからかな、と思っていたんですが」
虎の子でもある200万円はむろん、返済されず。「ともだちに観に行ってもらったんですが、倒産したあとでした」。ある意味、致命的な失敗。
しかし、これであきらめないのが、細川氏の真骨頂。
「別のコンサルタントにお願いしました。だって、ここであきらめては何も始まらないですから。今度は、無事、サポートしていただいて、2007年の10月に1号店をオープンします。メンバーは大学のともだちとサーフィン仲間の2人です」。
スタートダッシュは、どうでしたか?
「これが、すごい。ロケットダッシュです。爆発的だったといってもオーバーじゃないくらい。2号店、3号店とパンパンと出店します。ただ、しばらくして、リーマン・ショックと道路交通法が改正され、Wパンチです。1号店が郊外だったものですから、道路交通法の改正は、直撃です」。
おまけに育成が追い付かず、2号店、3号店もうまくいかない。細川氏が現場を離れると、顕著に業績が悪化した。「かべにぶつかった」と細川氏は表現している。「飲食のある、あるですね」。今なら笑えるが、当時は表情もひきつったはずだ。
どうなっていくんだろうか?

・・・続き

株式会社nadeshico 代表取締役 細川雄也氏