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2023年3月30日木曜日

株式会社ひらまつ 代表取締役兼CEO 遠藤 久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ひらまつ 代表取締役兼CEO 遠藤 久氏登場。

本文より~

日本でエリートとして自信に漲った中での渡米。アメリカで苦戦する。

鼻高々に向かったアメリカで四面楚歌に遭った。唯一の理解者のはずの、家族からも、そっぽを向かれた。
「日本マクドナルドからマネージャーとしてアメリカに渡ります。全従業員の中から選ばれたのですから鼻高々です。しかし、イメージとは、全く異なる世界が待っていました」。
店では、アルバイトのメキシカンに軽くいなされた。駐在に同行した奥様からは、毎日のように「日本に帰りたい」と言われた。
「けっこうきつかったですね。でも、いい試練になりました。日本で仕事ができていると思っていたのは大間違いでした。私ではなく、私の役職が仕事をしていただけ。それに気づけただけでも財産になった気がします。所詮日本から来たマネージャーなんて、アメリカ人にとっては偉くもなんでもない。シンプルに仕事ができるかどうかなのです」。
最初に会話を覚えたのは、英語ではなく、片言のスパニッシュ。「簡単なコミュニケーションです。仕事ができることを示しつつ、同時に言葉を交わしていくと、だんだんと心を開いてくれました」。
ようやく仕事の仲間から認められて、世界が変わり始める。
奥様の日本へのホームシックははどうだったのだろう?
「日本にいた頃は、家族よりも、仕事優先でしたからね。それで良いと思っていました。しかし、アメリカに来て、それでは良くないことに気づいたのです笑。そういう意味では、わたしの家族にとっても、この時のアメリカ生活はなくてはならないものだったように思います」。
当初、毎日のように「帰りたい」と嘆いていた奥様は、帰国時には一転、「日本には帰りたくない」とアメリカの環境にすっかり慣れ親しんでいたらしい。きっと、渡米を機に得た家族の時間を失いたくなかったのではないだろうか。
ちなみに、遠藤氏は赴任してから2年後にはゼネラルマネージャーに昇進している。

就職先は日本マクドナルド。

「どうしてもマクドナルドの話になってしまうなあ」とご本人。遠藤氏の今はマクドナルド時代を抜きには語れない。ご本人は、「創業者の藤田さんとプロ経営者の原田さんという、2人の偉大な経営者にお仕えした、数少ない人間です」という。
ちなみに、日本マクドナルドが銀座に一号店をオープンしたのは、遠藤氏が11歳の1971年のこと。当時の人たちにとって、アメリカから来たハンバーガーは自由の象徴だったのではないか。
それまで馴染みのないファーストフードという食文化の開国でもある。
「私は1960年7月、東京に生まれました。東京生まれ、東京育ちです」。大学は早稲田大学。「私は格闘技やラグビーなどのスポーツが好きです。ラグビーは、高校から始め、本当は大学でも続けたかったのですが、一浪したこともあり大学ではサークルレベル。それでも、ラグビーで学んだチームで何かを成すということは今の私の信条にもなっています」。
日本マクドナルドには新卒で入社。
当時、飲食業の企業を就職先に選ぶ大学生は少ない中、なぜマクドナルドを選んだのか。
「サービスに携わる職業が良いと考えて、百貨店など数社から内定をいただいていたのですが、マクドナルドの面接を受け、マクドナルドの『ピープルビジネス』への考えに感動してしまって。それからは、日本マクドナルド一筋でした笑」。
マクドナルドは採用面接を受ける学生にもお客様扱いだったと、他社の選考で受けた印象との違いを語る。当時は、縁故採用が盛んで、採用活動も今のようにスマートで公平なものではなかった。応募者に対し、お客様のように接する企業は少なかったはず。マクドナルドは、採用でも、時代に先行していたのかもしれない。
「当時は積極出店の頃ですからね。新卒だけで400人はいました。アルバイト上りが6割、外部採用が4割ほど。アルバイト経験者は、ファーストマネージャーまで昇進できるのですが、その先の昇進ではやはり差がついていましたね」。 遠藤氏自身は5年サイクルで昇進を繰り返していたらしい。ちなみに、新卒同期で唯一の執行役員就任。日本マクドナルドの栄光の時代、苦戦の時代、そして奇跡の回復も経験してきた。

日本マクドナルドの役員退任。その後、社長を歴任する。

「2001年から2004年までアメリカにおりました。当時、本国のマクドナルドも日本流のやり方だけだと限界が来るとわかっていたのでしょうね。アウト・オブ・ザ・ボックスが必要だということで」。
その中で、遠藤氏の渡米は、日本法人の従業員を育成する計画の一環だったのかもしれない。「実際、いろいろ気づかされるのですが、マーケティングや、グローバル人材としての教育も受けました。実をいうと、妻だけではなく、私もアメリカが気に入って、こちらでの生活を続けたいと思い始めていたのです」。
本国のマクドナルドの不安が的中し、日本マクドナルドの業績が傾きはじめる。次期社長に、アップルコンピュータから原田泳幸氏が招聘されたのはこの頃。「アメリカで原田さんとお会いして、色々お話しているうちに、日本に戻ってこい、と笑」。
日本に戻り、本国仕込みの仕事を行い、昇進・昇格を繰り返し、役員へと登り詰める。
「50歳になった頃ですね。日本マクドナルドが、世界のマクドナルドの一部のようになっていったものですから、有能なグローバル人材が次々採用され、重要なポストに登用されていくのです。私自身、もう50歳ということもありましたし、この中でトップは狙えないなと判断して退職を決めました」。
こうして日本マクドナルド時代でのキャリアは終焉を迎えるが、マクドナルド的な経営学は実践を通し、からだの隅々まで沁み込んでいる。
そして、ここからの遠藤氏の経歴もまたすごい。
2013年~2014年、株式会社すかいらーくで執行役員に就任。2014年~2017年、株式会社スイートスタイル、代表取締役社長として初めて社長を経験、その後、2017年~2019年、エムアイフードスタイル、代表取締役社長。そして、2020年6月から現在の株式会社ひらまつの代表取締役兼CEOに就任する。

・・・続き

株式会社ひらまつ 代表取締役兼CEO 遠藤 久氏

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2018年10月2日火曜日

株式会社ひらまつ 代表取締役社長 陣内孝也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に 株式会社ひらまつ 代表取締役社長 陣内孝也氏登場。
本文より~

フランス料理と少年。

「料理天国」というTV番組があった。1975年にスタートし、1992年までオンエアされていたから、長寿番組の一つに数えてもいいだろう。「料理バラエティ番組」の走りともなる番組だ。料理の監修は「大阪あべの辻調理師専門学校」だ。
「うちの母親が料理上手だったんです。PTAで料理教室を開いていたくらいで。その母の手伝いをしているうちに、私自身も料理の道をめざすようになりました。フランス料理に興味をもったのは、TV番組の『料理天国』がきっかけです」。
こう語るのは、株式会社ひらまつの代表取締役社長 陣内 孝也氏。
もう一度、「料理天国」に目を向けると、スタートが1975年。ちょうど、陣内氏が10歳の頃である。10代の前半で、料理に興味をもつ男子は、そういないのではないか。しかも、陣内氏が興味をもったのはフランス料理。ふつう、10歳の少年と、フランス料理は、そうつながらない。
中学に入り、陣内氏は吹奏楽を始めた。その一方で、この頃からすでに「辻調理師専門学校」に関心があったそうで、パンフレットも入手していたというから驚く。
「高校を卒業してから、大阪です。関東に『辻調理師専門学校』がなかったからです」。思い切った行動に映るが、それまでの陣内氏を知れば、当然の道だとわかる。
「当時は1クラス200人で、20クラスありました。そう、4000人ですね」。
4000人。調理師になる学生が、集った。
「大阪阿倍野の学校を卒業したあと、私はおなじ辻調理師専門学校のフランス校に進みます。秋のコースだったので、半年間です。フランスにある現地のレストランでも研修を受けました」。
10月に帰国。そして「株式会社ひらまつ」に入社している。

「ひらまつ亭」の仕事。

陣内氏が人生のたいはんを過ごすことになる「株式会社ひらまつ」についても触れておこう。
「ひらまつ」は1982年、西麻布にオープンした24席のフランス料理店「ひらまつ亭」が起源である。平松シェフと奥様、ほか2名の従業員でスタートしたそうである。
「当時は、フランス料理ブームだったこともあって、『ひらまつ亭』にはたくさんのお客様がおみえになり、ランチでも行列が絶えず、1日の売上は40~50万円になったと聞いています」と陣内氏。
1988年、広尾に移転し、拡張。1991年には初のレストランウエディング事業を開始。1993年には広尾に「カフェ・デ・プレ 広尾」をオープンし、カフェ事業をスタート。1994年に、法人登記し、現在の株式会社ひらまつを設立。それ以降も、クオリティの高い店舗を出店し、日本にフランスの文化を定着させていく。
印象的なのは、2001年、パリに「レストランひらまつ サンルイアンリル」をオープンしたことだ。更に翌2002年には、ミシュランガイドで一つ星を獲得している。オープン4ヶ月での星獲得はミシュラン史上最短ということだ。
更に現在では、株式も東証一部に上場。
高級飲食店での上場は世界をみても数少ない。
平松シェフは、「ひらまつ亭」という種を蒔き、日本にフランスの文化を育てた。その一方で、数多くのプロフェッショナルを育成してきた。その1人が、陣内氏というわけだ。
現在、平松氏は会長となり、陣内氏が社長となっている。また近年は「滞在するレストラン」というコンセプトでホテル事業を展開し、陣内氏もこれに尽力している。

料理人には、向かない、という一言で胸のつかえがとれた。

さて、陣内氏が入社したのは20歳で、平松氏もまだ30代半ば。「ひらまつ亭」は、平松シェフを中心に、若手のメンバー10名で運営されるようになる。
「私は、当然、料理人希望です。ただ、当時は、お客様と接することを勉強してからということで、1年間、ホールでサービスを学びました。案外、向いていたのかもしれません。そして、1年後から厨房に入ることになりました」。
人気のフレンチ「ひらまつ亭」の厨房だ。胸も高まったことだろう。ただ、厨房の世界はきびしい。
「料理が好きなだけでは務まらないきびしさを感じました。ですが、厨房内でうまく立ち回れないとシェフに怒られるんですが、先輩たちもいっしょになって怒られてくれたりしてね。ええ、とにかく、つながりがつよかったです」。
平松シェフは厳しい人だったが、それは料理だけではなく、人づくりにも妥協しなかったからだろう。
「給料は、ぜったい手渡し。そして、1人1人にちゃんと声かけてくださるんです。その心遣い一つからも、シェフが我々をどう思ってみているか。私たちはちゃんとわかっていました」。
「メンバーからすれば、オヤジみたいな存在で」と陣内氏。ただ、このオヤジと慕う平松氏から、ある時、辛辣な言葉をかけられてしまう。
「そうなんです。ある日、シェフから『ハッキリいうと、陣内は、一流の料理人になれないと思う』って、そう言われてしまいます。でも、その一方で『一流のサービス人にはなれると思うよ』と言われたんです」。
料理人には向かない、というのがその意味だろう。
「私も実をいうと、その頃、料理より、サービスに興味があったんです。ただ、料理人への気持ちがゼロじゃなかったし、怒られて逃げ出すようなことはしたくなかったので、意地で頑張っていたんです。だから、実はこの一言は私にとっては、救いの一言だったんです」。
・・・続き
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