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2023年3月14日火曜日

株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏登場。

本文より~

バイト先は大阪王将。高校生離れした鍋使いで、バイトがバレる。

「調理実習で炒飯をつくったのがいけなかった」と、今回ご登場いただいた鳥生氏が笑う。なにがいけなかったというと。「うちの高校はアルバイトが禁止されていたんです。でも、つい、いつもの要領で炒飯をつくったものだから」。
バレてしまった?
「そう、プロみたいじゃなく、プロそのものですからね笑」。
鳥生氏が生まれたのは、1978年7月19日。
鳥生という苗字はかわっているように思ったが、愛媛県の今治には多いらしい。ちなみに、お父様が愛媛出身。鳥生氏自身は大阪の枚方市生まれ。兄弟は2名。
鳥生氏は長男で2つ下の次男は、特待生で同志社大学に進み、現在は大手企業での社長の秘書を務めておられるそうだ。
「小さい頃から、今みたいな性格だった気がしますね。明るくて。これはたぶん母親似。日曜日には、みんなでハイキングが日課でした。これは、父の趣味です」。
お父様は、個人事業主として金型の設計をされていたそう。なんでも、鳥生氏が小学校くらいに独立されたそうだ。理数系で数字が好きで寡黙なタイプとのこと。
スポーツはサッカー。
「小学高学年から高校で膝を怪我するまでは、サッカー漬けです」。
アルバイトは、そのあと?
「そうです。ちかくにある『大阪王将』にアポなしで突撃し、『アルバイトさせてください』って笑」。
とびこんだわけですか?
「それで、私の人生が決まるんだから、不思議ですね」。

大阪王将と鳥生氏。

「料理人がかっこよかったですね」。
たしかに、それはわかる。中華鍋ひとつでいろんな料理をつくりだす料理人は、食のクリエイターだ。炒飯ならこう。鍋を火にかけ玉子を投入。お玉でかき混ぜ、ご飯と具材を追加。お玉で調味料を救い上げ、適量を鍋のなかに流し込む。五徳と鍋底がリズミカルな音を奏で、ご飯と具材と玉子がはねあがる。そして、完成。まるで、芸術。自宅では、もちろん、真似ができない。
「見様見真似でしたが、私も賄いをつくらせていただくようになっていきます。もちろん、プロにはかないませんが、少しずつプロにちかい料理ができるようになっていきました」。
「大阪王将」は1969年、大阪の京橋で誕生する。餃子専門店としてスタート。
たしかに昔は「餃子とビール」だけだった気がする。関西人のなかでは、「餃子=大阪王将」というイメージがつよいのではないか。
餃子専門店から、いまのメニュースタイルになるのは、創業者のご子息、現イートアンドホールディングス代表取締役会長CEOの文野直樹氏が2代目の社長となられた時から。むろん、鳥生氏がアルバイトをはじめた頃はすでに現在、同様、中華料理店の幅広いメニューとなっていたはずである。
「私がアルバイトを始めたのは、比較的、大型店でした。料理はこちらで修業させていただいたりしたわけですが、のちにラーメン部門の『よってこや』に異動しました。こちらは10坪少しの小型店舗」。
「よってこや」は「京都鶏ガラとんこつ屋台の味」。今や大阪王将の主要ブランドの一つだが、当時はまだスタートしたばかり。
「高校3年の12月に南口にオープンし、その半年後に寝屋川にもオープンします」。
「よってこや」の興隆に一役買った鳥生氏だが、むろん、アルバイター。就職したわけではなく、鳥生氏も、まさか大阪王将に就職するとは思っていなかったのではないだろうか。
接点はあったが、交差しただけで、離れ離れとなるのは、むろん、ある話。

激戦区、恵比寿での新店オープンに駆り出されるアルバイター。

「高校を卒業してからはいったん2年制の専門学校に進みます。当時は、スポーツ関連の仕事に就ければと思っていました。だから、進んだのもインストラクターを養成する専門学校です」。
ただし、1年生の終わりに退学している。
「スポーツ系ということもあって、体力維持のため20時以降のバイトが禁止されていたんです。が、そういうわけにはいかないでしょ。そういうこともあって、退学してフリーター生活がスタートします」。
なんでも、学校からクレームの電話が入ったらしい。ところで、その頃にはもう、バイトといっても経験は長い。新店立ち上げも経験済。
「そういうキャリアを評価いただいて、直営店を恵比寿にオープンする時に声がかかります。文野社長と出会ったのは、その時が最初です」。
関西弁の青年が、大都会東京の恵比寿で奮闘する。
「当時の恵比寿は、ラーメン激戦区だったのでけっこうたいへんでしたね。私自身はオープンから4ヵ月ほど向こうで仕事をさせてもらって、いったん状況が落ち着いたこともあって大阪にもどります」。
ミッションコンプリート?
「そうですね。なんといってもアルバイトですしね(笑)」。
ところで、「大阪王将」以外でも、アルバイトは経験されましたか?
「もちろん、トラックに乗ったり、そうそう営業の仕事も経験しました。いろんな経験を積みながら、私自身がやりたいことを模索していた、そんな数年間だった気がします。大学に進学したともだちが社会人デビューする時には、多少、焦ったりもしましたが、私が社会人デビューするのは、2年後の、2002年の10月、24歳の時です」。
もちろん、就職先は大阪王将ですよね?
「色々、模索したうえで、行き着いたのが『大阪王将』でした。ほかにも色々、あったんでしょうが、私はこれで正解だったと思っています。うちの両親も、いつの間にか『大阪王将』のファンだったので、反対もされず、逆に喜んでくれていましたし」。
高校3年間から密接な関係を保ってきた舞台で、晴れて正社員となった鳥生氏は、どんな仕事をしていくんだろうか。
「6~7年ちかく関西で店長を経験し、再度、東京です」。
今度も、東京遠征で実績を残し、関西にUターン。関西マネージャーになり、ラーメン部門の指揮を執ることになった。「大阪王将」はむろん、規模が大きい分スタッフも多いわけだが「よってこや」を東西で極めた人は、そういないはず。「大阪王将のラーメン部門に、鳥生氏あり」と言われたのではないだろうか。

太陽のトマト麺と無料券。

2023年現在、「大阪王将」ラーメン部門には、「よってこや」の他に「太陽のトマト麺」というブランドがある。もちろん、いずれも鳥生氏が密にかかわっている。
「イタリアンとラーメンが融合して生まれたのが『太陽のトマト麺』。トマトのうまみが凝縮されたヘルシーなラーメンです」。
ブランドサイトの「歩み」をみると、最初は<鶏パイタン麺専門店「よりみち屋錦糸町店」としてオープン>したそう。それが2005年のことで、翌年、メニューを刷新 トマトらーめん専門店として再スタート。名称が「太陽のトマト麺」となったのは2007年のこと。
鳥生氏が「太陽のトマト麺」を担当するのは、2008年「大阪 福島駅前支店」オープンの時。
「東京でヒットした『太陽のトマト麺』だったんですが、関西ではイマイチというか。なかなか想定通りの結果がでません」。
どうされたんですか?
「東京で実績もありましたし、1度食べていただければと。いわゆるラーメンとは異なりますが、だから逆に唯一の存在として注目されてもいいと思っていました。で、『そうか、TVに取り上げられたら』と、安直ですがTV局に日参して、警備員さんに毎日、無料券を配布して笑」。
狙い通り、TV局の人が来た?
「そうなんです。TV関係のお客様がいらっしゃるようになってしばらくして関西の朝の人気番組でオンエアされました。反響があったようで、それ以来、雑誌やTVで取り上げられ、『太陽のトマト麺』がメディアを彩ります」。
ちなみに、グルメサイトをみてみると評価は高い、高い。「これは、ハマる」といった口コミもあった。関西では、まだ大阪の2店舗だが、ラーメンの新ジャンルとして確固たる地位を築いているのが、これ一つからでも理解できる。
やがて、鳥生氏はラーメン部門を統括するようになり、執行役員に名を連ねることになる。

・・・続き

株式会社一品香 代表取締役社長 鳥生恒平氏

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2018年12月29日土曜日

12月28日発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」は、「イートアンド」様です。

60代・70代で頑張ってる人、働きたい人を応援!(キイストン寄稿)

12月28日(金)発行の夕刊フジ「over60(ロクマル)世代応援企業30」の第12回(12社/30社)はイートアンド様です。 「社員とパートを合わせた従業員数は約1150人、定年は60歳ですが、以後は1年ごとの契約で上限はありません。シニア社員は3人ですが、皆さん経験を積み重ねた方ばかりです。そのシニア社員の1人が関西工場で品質管理を担当している北畑幸治氏(61)です。
(夕刊フジより)
「over60(ロクマル)世代応援企業30」の取材を70歳の元編集プロダクション社長の土金さんにお願いしております。
ライター


【氏名】土金哲夫(ツチガネテツオ)
【生年月日】昭和23(1948)年9月25日
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2018年11月6日火曜日

イートアンド株式会社 代表取締役社長 仲田浩康氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にイートアンド株式会社 代表取締役社長 仲田浩康氏登場。
本文より~

インベーダーと大阪王将。

その昔、大阪では、国鉄の環状線はもちろん、私鉄のどの駅を降りても、駅前には「大阪王将」があった。メニューは、たしか餃子とビール。当時、高校生だった私は、友人といっしょに頻繁に餃子を食べに行った。「10人前食べれば、無料」。一度は、挑戦してみたかったが、いまだ出来ずじまいである。
ところで、以前、2代目社長である文野直樹氏を取材した際、昭和50年前半ばになって、業績が下降した要因としてインベーダーゲームの登場を挙げられていた。興味深い指摘だったので、いまも記憶している。
文野氏の言う通り、インベーダーゲームをはじめ、アーケードゲームの登場によって、「食」は、身近なレジャーの座を奪われたと言っていい。
ちなみに、当時、餃子1人前が100円。インベーダーゲームも100円。いままで100円玉をにぎって大阪王将に向かっていた学生たちが、同じように100円玉をにぎりゲームセンターへ向かった。いまになって思えば、インベーダーたちは、大阪王将のファンを狙い撃ちしたかのようである。
さて、その「大阪王将」。
いまではご存じのように、餃子とビール以外にも、バラエティ豊かな料理の数々がある。郊外に出店するなど、駅前というイメージも薄れてきているのではないか。その「大阪王将」を運営してきたイートアンドは、「大阪王将」以外にもラーメン店の「よってこや」など多数のブランドを展開している。
ただ、それだけではない。
文野氏を取材した際、今後は食品メーカーに舵を切るようなお話しをされていた。具体的には「中食」と「内食(冷凍食品)」を挙げられていたはずだ。
その一つ、「冷凍食品」がいまや外食と匹敵する規模に育っていると伺った。立役者は、ダイエーで勤務されてきた仲田浩康氏。今回、ご登場いただいた飲食の戦士である。

高卒、巨大な流通企業で暴れる。

仲田氏は、1964年4月26日、大阪の豊中市に生まれる。3人きょうだいの長男。父親は印刷会社を経営していた。少年時代は、だれもが慕うリーダー的存在。
運動はできるほうだったが、勉強は「まぁまぁだった」と笑う。
「旅行に行った記憶は少ないですが、外食は多かったですね。昔ですからね。外食はそれほど、日常的ではなかった。そういう意味では、珍しいほうだったと思います」。もっとも、レストランと言えるようなシャレた店ではない。「ごはんやさんです/笑」と仲田氏。
「躾は、きびしくなかったんじゃないかな。ノビノビ、放任主義です」。少年野球ではキャプテン。人気者だった。
中・高は、仲田氏曰く、「なんちゃって」野球部。高校卒業後は大学に進学せず、はたらきはじめた。就職先は、当時、流通業界のトップランナーだったダイエーである。
「配属されたのは、魚売り場でした。いちおうサラリーマンなんですが、商売人ぽい仕事です」。実は、仲田氏。「父親をみていたから、経営者ではなくサラリーマンになりたかった」そう。経営の難しさを、理解していたからだろう。
「ただ、その一方で、商売に興味があったのは事実です」。
もともと、やんちゃな性格である。型にハマるのがいやだった。だから、お世辞にも態度がいいとは言えない。しかし、結果で周りを黙らせた。
23歳で主任に昇格。異例中の異例だったそう。学歴など関係なかった。商売人の素地が群を抜いていた証でもある。それからも目をひくように出世し、27歳でシニアマネージャー、31歳で課長、32歳で副支配人になっている。
「人生のターニングポイントを挙げると、3つです。一つは、ダイエーという巨大な流通会社に就職できたこと。そして、そのダイエーで経営のノウハウを吸収できたこと。もう一つはイートアンドの面接をうけたことです」。
副支配人といっても、巨大なダイエーからすれば、末端である。できることは、少ない。ならば、と転職を決意しても不思議ではない。
仲田氏のダイエー時代が幕を閉じる。

「大阪王将」に転職。

「まさか、私が社長になるとは思っていなかったし、打診された時も、実はお断りしたんです。文野会長とは5歳くらいしか離れていないし、禅譲なんてイメージでもなかったですからね/笑」。
本人がどう思ったとしても、文野氏は、もう決めておられたのだろう。食品事業の立役者である仲田氏以外、いまからの「大阪王将」の舵を取れる人間はいない、と。
すでに書いた通り、今では、外食事業と食品事業の事業比率は50対50となっている。仲田氏が仕掛けた「冷凍食品」、なかでも、<水も油もいらない羽根つき餃子>が急速に市場に浸透したからだ。(現在では<油・水・フタもいらない羽根つき餃子>へと進化している)
「ダイエーを退職して、イートアンドに転職したのは36歳。2000年の8月です。ええ、紹介やヘッドハンティングとかではなく、ふつうに転職雑誌をみて」。
給料も大幅に下がったそうだ。大阪王将では、一兵卒。経験でひいきもされなかったから、当然といえば当然だ。とはいえ、具体的な数字を聞いてわかったが、相当な落差があったのは事実。何が、それほどまでに仲田氏を惹きつけたのだろう。
「一口で言えば、『大阪王将』という会社の可能性かもしれません。私自身、一兵卒で入社するんですが、入社1年ぐらいで部門長に就任します。会社に、可能性があるからですね。当時の社長、文野からは『外食以外を大きくしてくれ』と言われます。当時は、外食が60億円、食品が5億円。外食以外を大きくするのが私のミッションですから、まずは、この5億円をどう大きくするか、です」。
実は、仲田氏は、イートアンドの株式上場にも貢献している。当時、常務だった仲田氏は、プロジェクトリーダーとなり、上場まで導いている。この上場においても、「食品事業」に対する評価はカギになったはずである。
「我々にとって大きな転機だったのは、生産事業に舵を切ったことだと思っています。外食事業も、食品事業も出口という発想です。つまり、収益の源泉がどこにあるかというと、外食でも、食品でもなく、生産機能なんです」。
むろん、「大阪王将」という絶対的なブランドがある。そのブランドによって、食品事業が成り立っているのは間違いない。つまり、「大阪王将」というブランドが、収益の根源でもあるのだ。このちからを、外食だけではなく、食品にも展開し、押し広げたことが仲田氏の功績だろう。
もっとも、いかに「大阪王将」のブランドをもってしても、「最初は、まるで相手にされなかった」と仲田氏はいう。いくぶんか怒りのニュアンスを含んだ、その口ぶりから、当時、第一線で奮闘した仲田氏の姿が思い浮かぶ。
ともかく、仲田氏の話を聞いていると、何度も「生産事業」というキーワードが登場する。この言葉が、ユニークだ。そもそも、外食企業が「食品事業」の比率を、これほどまでに高めた例はほかにないし、この言葉自体が「大阪王将」の原点回帰を表しているような気がするからだ。
・・・続き
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