2014年10月14日火曜日

日本料理 一凛 店主 橋本幹造氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”日本料理 一凛 店主 橋本幹造氏登場。
本文より~

少年橋本が、スポーツカーを乗り回すようになるまで。

建築家だった父が他界したのは、橋本が9つの時。
「うちの父は、駅や老人ホームなど公共性の高い、人の役に立つ建物を好んで建てていたようです。まだ幼いこともあって鮮明な記憶はないのですが、とにかく『良く働く父』というイメージです。仕事ばかりで、ほとんど家にもいませんでした」。
2人兄弟。兄は、スポーツが好きな少年だったそう。
父親が亡くなってからも、経済的には不自由しなかった。
「母子家庭に負い目を感じたことはない」と橋本。
とはいえ、父がいる時は年4回外食に行き、旅行も年に1回は行っていたが、そういうわけにはいかなった。
「母が仕事に出ているときは、私がお米を研いだりしていました。全然、苦にはなりません。そういえば、小さな頃から手先は器用なほうで、絵を描いて賞を貰ったりもしていました」。
京都から神戸に移ったのは、小学4年生の時。母の実家が神戸のほうだったから。そのまま神戸の中学に進んだ。成績は、学年でも上位だったが、中学2年になって嫌気が差した。代わりに、車やバイクに俄然、興味を持つようになる。
当時のことを橋本は次のように語っている。
「中学2年の頃ですね。その頃はまだ成績も学年で3位くらいだったんですが、兄貴の影響もあってか、車にハマリだします。タミヤのプラモデルも相当作ったし、ラジコンも購入しました。そっちばかりに関心が向き、もう勉強するのもイヤだったし、最初は高校にも進学しないつもりだったんです」。
「ところが、兄に説得され、かろうじて高校には進学しました。進学はしたものの、学校よりアルバイトに精を出しました。とにかく、早く高校を卒業してクルマを買いたい一心だったんです。この時のアルバイトが、私と飲食との初めての出会いでした」。
アルバイト先は、中華料理店。
厨房で洗い物を担当。調理もかじった。いま思えば、調理の基礎を学んだのはこれが最初。
高校を卒業後、念願のスポーツカーを購入。「寝る間を惜しんで乗り回した」。
車に乗る。それ以外に目標はなかった。やりたいことも、特段、思い浮かばない。
ただし、車が好きだったのは事実だが、スポーツカーを乗り回したのは、目立ちたい一心だったそうだ。

給料、ガソリン代に消える。

「高校の冬休み、就職先を探しました。忙しそうな店なら働かせてくれるだろうと、ある日本料理店を覗きました。実際忙しそうだったので、事情を説明したら、そのままアルバイトをすることになりました。その流れでそちらに就職させてもらいました」。
「『師弟』という言葉と、その言葉の意味を知ったのはこの時です。店主が出勤する、それだけで店の雰囲気が一変しました。『全員が、ピシッ』となるイメージです」。
休みは月に3回。しかも、不定期。次の休みがいつかも決まっていない。それで給与は参萬円弱。
「最初に給料をもらったときに、なにか間違いではないかと恐る恐る尋ねたんですが、間違いでもなんでもなかったです。逆に、説教されました(笑)」。
  たしかに住み込みで部屋もあったし、賄もあったから、修業の身で贅沢は言えない。ただし、少なかった。愛車のガソリン代に、すべて吐き出した。
金欠になると、休みの日でも店に行って、賄を食べていたという。
なんとも健気な青年像が思い浮かんだが、橋本本人は、苦労とは思っていなかったようだ。
むしろ、周りの先輩たちに可愛がってもらえて、たいへんだと思ったことは一度もなかった、というくらいである。
しかし…、と話は続いた。
「しかし、勤めるようになって3年経った頃。高校の同窓会があったんです。そのとき、同い年の連中がどれだけ儲けているのかを知ることとなりました」。
あまりの差に唖然とした。というか、社会というものが、初めて垣間見えた。ハングリー精神が突然目覚め、咆哮をあげる。仕事に対する思いも一変した。
眼の色も変わったことだろう。
とにかく忙しい。次々に仕事をしていった。ただ、今までのように目標もなく、淡々とこなしていたのではない。
吸収できるものはすべて、吸収するつもりで仕事に臨んだ。
「当時は、観て盗めでしょ。観て、盗んで、自分で練習するしかない時代です。すぐに、難しい料理を担当できるわけでもなかったんです」。
結局、5年間働いた。偶然選んだ店だが、人生を左右する、日本料理の基礎を得る事のできた店。相当な実力が付いていた。23歳。橋本は可愛がってくれた、師匠から卒業した。
その頃には、給料も少しだけアップしていたそうである。・・・続き
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