2018年2月6日火曜日

株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社エヌクリエート 代表取締役 山本敦之氏登場。
本文より~

孤独な少年。

4歳の時に、両親が離婚。その時の記憶はまだ鮮明だ。それ以来、育ての親は、祖父と祖母だった。祖父からもぶん殴られて育った。「父からも、好かれてはいなかった」という。
4歳から剣道を習った。全国大会出場の常連になる。中野区の大会では優勝は、いつも山本氏のものだった。いまも中野区では名前が残っているそうだ。「認められたかったんだったと思う」と山本氏はもらす。
2つ違いの兄と比べられたことも少なくない。「お小遣いも、明らかに違った」と笑う。いま思えば、それらすべてがバネになった。
中・高は、ケンカの日々だった。目立っていたのだろう。なにがあっても、山本氏が原因と決めつけられた。
「私にとって、祖父が大きなカベでした。いつか超えてやると思っていました。どうしてでしょうね。たぶん理不尽だったんです。たとえば私が、剣道でいくら優勝してもぜんぜん認めてくれない。そういうことに対して、反抗していたんだと思います」。
心のなかに、いつもモヤモヤと何かがくすぶっていた。
高校を卒業してからは、外国語の専門学校に進んだ。昔から英語が得意で、商社で勤務しようと思っていたからだ。ただ、道は違う方向につながっていた。

結婚を転機に、無謀なチャレンジを開始する。

「18歳からサーフィンを始めたんです。これが、楽しくて、そちらが主になっちゃうんです。サーファーなのにサラリーマンのヘアスタイルっていうのは、どうかなって(笑)。それで、当時、バイトをしていた内装業者に、そのまま就職することにしました」。
商社と内装業者。失礼な話だが、まるで異なる職業だ。「でも、若い時って、そんなもんでしょ」と山本氏。選択が間違っていたという思いはないようだ。
「ただ、しばらくして転職します。小さな会社だったもんですから。22歳の時に、規模の大きなゼネコンに移りました」。
職人をつづけながら、「監理」の仕事もするようになった。給料は悪くなかった。その一方で、サーフィンはつづけた。サーフィンをするために、海外まで出かけたことがある。
「あの頃、頭のなかはサーフィンのことで埋め尽くされていました。でも、どこかで、こういう生活をつづけていてはいけないなと思ってもいたんです。そんなときに、ひとりの女性と知り合いました」。
それがいまの奥様だ。
ふつう結婚ともなれば、そうそう転職はできない。しかし、山本氏は、真剣に仕事をするために、もう一度ステージを回転させた。
無謀といえば無謀だろう。山本氏が選んだのは、ラーメン。むろん、料理の経験はない。真っ白な素人である。

逃げ出さなかったのは、それだけラーメンに惹かれたからかもしれない。

それから山本氏は4年半に亘り、永福町にある、都内でも、最もきびしいと評判のラーメン店で勤務する。
「ラーメンが好きだったんです。真剣に仕事に打ち込むなら、これだと。いくつかあるなかで、最高の一杯だったラーメン店の門を叩きます」。
面接はなんと7回を数えたそうだ。
「それくらいは、当然の店です。だって、みられているのは、根性だけですから」。
休みは、ない。
「月に3日。休みがあるにはあったんです。でも、休みの日も『4~5時間は、はたらくもんだ』と言われて」。むろん、拘束時間は長い。1日15時間。
新婚なのに、山本氏が、妻と過ごす時間は限られていた。しかも、自宅でも、山本氏はラーメンをつくった。食材を調べては、新たな味の掛け合わせを追求する。奥様とはすれ違いの日々。一心不乱にラーメンづくりに没頭する山本氏をみて、奥様はどう思われていたんだろう。
「きつかったですね。あの頃は相当。私もだし、女房も」。いつのまにか、食卓には、離婚届がおかれるようになっていたそうである。
「どうしてでしょうね。あの頃は、根性だけはだれにも負けないと思っていたもんですから、折れることができなかったんです。それに、結婚して、逃げ道もなかった。だから、やるしかなかったし、ラーメンが、それだけ私を惹きつけたとも言えるじゃないでしょうか」。
・・・続き
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