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2009年11月13日金曜日

有限会社OEC(オーイーシー) 代表取締役社長 小口俊也氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社OEC(オーイーシー) 代表取締役社長 小口俊也氏登場。


OEC


本文より~


飲食業の奥深さを知り、活動の範囲を広げていく。


父からの誘いがあったのは、ちょうどそんな時であった。むろん、返事は「Yes」。こうして玉川に、尊敬する父との共同作業で、「郷林坊」という初の店舗が誕生した。「父が蕎麦を打ち、私が支配人となって。江戸会席、蕎麦会席をメインにしたお店でした。おかげさまでオープンから、順調に滑り出し、好調な業績を残すことができました。JAS時代の付き合いでパイロットの人や、Jリーグの選手やOBの人たち、女優さんにもいらしていただいて」。評判になる。一方で、小口は、蕎麦や豆腐料理の修業を重ねる。水産加工会社に入って日に何百匹という魚をおろして腕を磨いたこともある。・・・。


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2009年11月3日火曜日

株式会社エスエルディー 代表取締役 青野玄氏登場。


 

SLD

 

本文より~


名門ラ・サールから一流企業へ…の道を選ばなかった理由


同社代表取締役 青野玄氏は福岡県の出身。父親が転勤族だったことから、幼少時代は転校を余儀なくされるが、昔から勉強は得意な方で、中学・高校は名門ラ・サールへ進学する。
「別段、変わったところはなく、普通の子だったと思いますが、小さい頃から周りに流されるのがとにかく嫌いでしたね。ラ・サールに通っていた頃は、周りはほとんど東大進学を目指していました。そうやってそのままエリートサラリーマンになって、一流企業に就職する…という道が、私には描けなかった」と話す青野氏。
そんな青野氏が選んだのはクリエイティブな仕事だった。
「メディアとか映像とか、そういうクリエイティブな仕事なら、受け身ではなく、すごくアグレッシブな人生を送れるのでは…と期待したのです」と青野氏。・・・・・。
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2009年10月29日木曜日

株式会社ケーズカラナリープランニング 代表取締役 越野健太郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社ケーズカラナリープランニング 代表取締役 越野健太郎氏登場


ケーズ


本文より~


飲食店経営の経験ゼロ。初出店は、「神楽坂」に出した60坪の店舗だ。


越野がまず思い付いたのは「ネットショッピングの運営」である。いまの「楽天」のスタイルを考えるとわかりやすい。数人の仲間と共に事業化のプランも立てた。
しかし、資金不足で断念。越野は「いまでも惜しいことをした」と悔しがる。たしかに順調に行けば、日本でネットショッピングを初めて実現していたかもしれない。「楽天」が登場するのは、それから数年後のことである。
構想を断念しなければならなくなったことで、「独立」という思いだけが残ってしまった。そんなとき、ふとひらめいたのが、良く通っていた「Bar」のこと。あの「Bar」でちゃんとした食事を出せばどうなるか、と。後から振り返れば、これが飲食業と越野が、細い糸で結ばれた瞬間だった。・・・。
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株式会社鳥貴族 代表取締役社長 大倉忠司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鳥貴族 代表取締役社長 大倉忠司氏登場。


鳥貴族
本文より~


ビアガーデン、焼き鳥屋…etc。カジュアル居酒屋を追求


幼少期は恥ずかしがり屋だったという大倉氏だが、小学の頃からはスポーツ万能で、学級委員を務めたこともあった。高校まで明確な将来の目標がなかったものの、学生時代にはじめたビアガーデンのアルバイトで一気に飲食業へひかれてゆく。
「ビアガーデンでオーダーテイクなどを経験し、接客業はなんて楽しいんだ!と思いました。当時、お酒も覚えたばかりで、酒のもつ魅力にも取り付かれました(笑)」
そして高校卒業後、大倉氏は辻調理師専門学校へ入学し、和・洋・中をひと通り学ぶ。リーガロイヤルホテルに入社後は、2年間、ホールを経験。その後、キッチンへの異動をすすめられたが、接客が楽しかったのでホールで働き続けたという筋金入りのサービスマンである。
ホテルのかしこまったサービスから、ビアガーデン時代のフランクな接客へ。大倉氏の中で接客を追求する姿勢はより一層強くなり、知人の誘いを受けて焼き鳥店で働くようになる。もちろんカウンター越しの居酒屋の対面接客が魅力だったからだ。・・・・。



2009年10月7日水曜日

株式会社ジャパンフーズコーポレーション 代表取締役 藤原司郎氏登場。

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本文より~


政治の世界から、飲食の世界へ。


昭和61年にOPENした『しゃぶしゃぶうどん茶屋 花咲』をはじめ、『ピッツェリア ラ・パスタ陶』、『伊太利亜料理 ラ・パスタ陶』を展開する株式会社ジャパンフーズコーポレーション。その代表である藤原司郎氏(57歳)は、非常にユニークな経歴を持っている。実は同氏、この会社を設立する前まで、首相をはじめとした様々な政治家の秘書を務めていた人物なのだ。・・・。


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2009年10月1日木曜日

和くら 那倉大輔氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に和くら 那倉大輔氏登場。



Photo_3



本文より~



目的を定め、逆算して、いま何をすべきか、を考える。独立のため、黙々と修行する日々が始まる。



高校卒業後は、サービスが学べるからと、都内の「ホテル専門学校」へ進学した。トムクルーズ主演の「カクテル」と言う映画を観て、バーテンダーを志すのもこの頃。「カクテルの勉強にのめり込んだ」という。だが、卒業後には、「店を持つためには料理ができなければ」と考え、和食料理店を修行先に選び、和の道を進み始める。
那倉の思考は、目的からの逆算で成り立っている。だから、わかりやすい。店を持つという目標に対しても、どのような筋道を立てればいいかをまず思考したのではないか。その計算とシナリオが、動き始めることになる。串焼き、豆腐料理の名店などで那倉は黙々と修行を重ねた。
腕には自信がある「僕の作った料理をぜひ食べて欲しい」と語るほどだ。しかし、不遜とは聞こえない。それだけの努力を伴っているからだ。・・・。



2009年9月9日水曜日

株式会社シーセカンド 代表取締役 佐賀久芳氏登場。

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本文より~


家業の苦境を救うため、鈴丹をスピンアウト。街のショップを一気に8店舗のチェーン店に。
飲食事業を開始したのは、ちょうどそんな頃。


家業のアパレルショップが苦境に立たされつつあった。鈴丹、就職2年後のことである。「北千住にルミネという駅ビルができることになって、路面店の経営が苦しくなってきたんです」。それで、鈴丹を退職。家業の経営に乗り出すことになった。しかし、鈴丹でも路面の経験はゼロ。思考錯誤の末、なんとか店舗を広げていくことが出来たそうだ。


さて、こんな佐賀と飲食店は、どのように結びついていくのか。8店舗ほど展開した際に、佐賀は飲食店を出店している。特に意味はなく、ただ儲かれば…と言う軽い気持ちで始めたそうだ。やがて、何気なく始めたこの飲食業が、彼にとっても大きな意味を持ってくるのだが、そのときはまだ、試しに始めた事業の一つに過ぎなかった。・・・。


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株式会社ニュールック 代表取締役 金本重徳氏登場。

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本文より~


大学か、母の事業か、それとも、父の事業か。3つの選択は、金本に覚悟を植えつけた。


しかし、高校卒業、進路を決定する際に金本は悩んでいる。大学か、焼肉店か、それとも。そう、もうひとつが父親が経営する洋服の製造会社への就職である。共に家業。兄はすでに焼肉店を手伝っている。どうすべきか。悩んだ末、金本は焼肉店を選んでいる。「兄は大学に行けと、でも結局、焼肉店を選ぶことにしました。洋服の製造のほうは20人ぐらいの社員を抱えていたんですが、中国などで縫製などがずいぶん安くできるようになっていましたから、父も、後を継がなくてもいい、と」。その父の言葉ではじめて踏ん切りがついたそうだ。ちょうど同時期、兄が母の店から独立した。金本はまずそちらに就職することになる。・・・。


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2009年8月26日水曜日

株式会社ベイシックス 代表取締役社長 岩澤博氏登場。

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Photo


本文より~


“居酒屋の神様”宇野社長から薫陶を受けて…


岩澤社長はもともとアパレル会社で営業職の仕事に就いていた。
「アパレルは在庫をかかえるし、売掛けとか買掛けを基本とする商売。独立するためのビジネスとしてはリスクが高いと思いました。現金商売がしたかったので、飲食業に着目したのです」と岩澤氏。トラックの運転手をしていた父親を、「早くラクさせてやりたい」という岩澤氏の気持ちも、商売への開眼のきっかけとなった。・・・・


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2009年8月20日木曜日

株式会社ビックスグローブ 代表取締役 山下正夫氏登場。

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Photo


本文より~


レインズの元取締役。「牛角」の急成長を牽引したキーマン


株式会社ビックスグローブを語る上で欠かせないのが、山下社長の経歴だ。
実は山下氏は、「焼肉牛角」を急成長させた株式会社レインズインターナショナルで取締役まで務めた人物なのだ。さらにその後は、株式会社レインズインターナショナル関連会社の株式会社テンポリノベーションを設立している。
山下氏はレインズ時代をこう振り返る。・・・・・・。


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2009年8月12日水曜日

株式会社モチモチ・ドリーム・カンパニー 代表取締役 福田浩幸氏登場。

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本文より~



大手レストランチェーンを退職し、四谷にイタリアレストランを開店



大学卒業後、福田はいったんアパレル関係の会社に就職。2年で退職し、大手のレストランチェーンに転職する。ホールからはじめ、最後には「建て直し屋」のような仕事を任される。「チェーン店ですから、業績が振るわないお店もでてくる。そういう店を建て直してこい、と。3ヵ月で前年月の売上をクリア、半年で予算通りのお店にするのがミッション。それをことごとく達成するから、次々に指令が飛んでくる」と福田。もちろん口でいうほど簡単ではない。光熱費はもちろん料理からスタッフの行動までをチェックし、すべてを見直す。従業員の入れ替えが必要なら、福田はためらわずメスを入れた。経営の本質が「人」であると確信したのは、このとき。・・・・。



2009年8月4日火曜日

株式会社ゆで太郎システム 代表取締役社長 池田智昭氏登場。

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Photo


本文より~


向上心を持った、「フードビジネス」構築のキーパーソンを採用、育成したい


かつてスーパーバイザーとして、何人ものオーナーと接してきた池田だけに懐が広い。
「ゆで太郎システム」のスタッフたちを見る目がそれを物語っている。
「人には、その人なりの考え方があるんですね。だから、社員だからと、ひとくくりにするのではなく、たとえば、店長にならなくてもいいんだという人がいれば、そういう生き方も尊重しなくてはならないと思っています」。・・・・。


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2009年7月23日木曜日

有限会社イートウォーク「AWkitchen(エーダブリュキッチン)」 代表取締役 渡邉明氏登場。

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Photo


本文より~


株式会社HUGEの新川さんは、僕の料理を120点にして提供した…


渡邉社長は一度は大手メーカーに就職し、情報処理系の仕事を経験するものの、やはり料理の道が捨てきれず、ピッツェリアやイタリアレストランで働くようになる。そんな時、人生の転機が訪れる。渡邉氏が26歳の時、株式会社グローバルダイニングの求人広告と出会うのである。
「当時、グローバルダイニングで“タブローズ”という店のスタッフを募集していました。採用担当者の名前を見たら、新川義弘さんの名前が書いてありました。新川さんのことは以前から客として知っていたので、さっそく店の門をたたいてみたのです」と渡邉氏。・・・・。


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2009年7月17日金曜日

ダイタンフード株式会社 代表取締役社長 丹 道夫氏登場。

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Photo


本文より~


他人のために無償ボランティアで始めた店が、後に大ヒット!


同社代表取締役の丹道夫氏はこれまで、弁当屋、不動産業など、さまざまなビジネスをゼロから手がけてすべて成功させてきた敏腕経営者だ。
「最初にスタートさせた弁当屋は、田んぼのど真ん中にありました」と微笑みながら説明しだす丹社長。閑散とした郊外立地にもかかわらず、弁当屋は瞬く間に地元で評判の店となったという。そしてその繁盛ぶりに目を付けた不動産業者がある日、丹氏に近くの駅前物件を紹介した。「いい場所があるのでそこにも出店したらどうか」と。・・・・・・。


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2009年7月9日木曜日

株式会社ザッツエンタープライズ 代表取締役社長 吉村裕氏登場。

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本文より~



文武両道の好青年。発明が得意なことを生かして弁理士に。



同社の吉村裕社長は、佐世保生まれの佐世保育ちである。
地元で食べていたハンバーガーは本当にうまい。この美味しさを東京の皆さまにも味わって欲しかったと「ザッツバーガーカフェ」開業のきっかけを話す吉村社長。
「ハンバーガーを通して佐世保の良さをもっと広めていきたいとの思いからハンバーガーに”佐世保バーガー”と名付けた。そして故郷に恩返ししたい」と郷土愛を熱く語る。
高校時代まで港町・佐世保で過ごした吉村氏は、勉強が大好きな少年だったという。成績は常に“オール5”で、中でもロボット工学に興味を持ち、ロボット研究会などに在籍していたこともある。・・・・。



2009年6月10日水曜日

株式会社APカンパニー 代表取締役社長 米山久氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社APカンパニー 代表取締役社長 米山久氏登場。


Ap


本文より~


人を喜ばせるビジネスが飲食。生きがいを見つけた!


20代の頃からさまざまなビジネスを経営していた米山氏が飲食業に目覚めたのは、ちょうど30歳を過ぎた頃だった。
「単なる金儲けのためのビジネスではなく、自分にとってやりがいがあり、かつ、人のためになるようなビジネスをやりたかった。それを模索していた時に“これだ!”と思ったのが飲食ビジネスだった」と米山氏は振り返る。
米山氏は当時、不動産や販売代理店など複数の事業のうちの一つとして、出身地の東京・八王子で自身の趣味でもあるダーツバーを開店。・・・・・。


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2009年6月3日水曜日

株式会社はなまる 代表取締役社長 河村泰貴氏登場。

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Photo


本文より~


異動を命じられ、うつうつとした日々。それでも…。


店長職でめきめき頭角を現した河村氏は、かなり早い段階でSV職に大抜擢された。しばらくは順風満帆な人生が続くように思われた。しかし28歳の時、突然、転機が訪れた。
「関連会社のシンクタンク部門に出向になったのです。毎日ただひたすら新聞や雑誌を読むだけで、店長のような充実感を味わうことができませんでした。・・・・・・。


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2009年5月23日土曜日

有限会社サービスマート 代表取締役 塩澤浩氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に有限会社サービスマート 代表取締役 塩澤浩氏登場。


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~本文より~


塩澤社長は、会社名をあえて株式会社サービスマートではなく、有限会社サービスマートにしている。“大企業病”にならなうように、有限会社として登記しているのだという。それには社長の10代の頃の苦い経験が生かされている。
「父はダンボール関連の会社を経営していました。企業規模は200億円くらいで、従業員は約400人。だから社長の息子として、将来、父の会社の後を継ぐのだろうなと、幼少の頃から漠然と思っていたのです」。
しかし実際は違った。塩澤氏は大学卒業後、・・・・・・。


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2009年4月29日水曜日

株式会社ワイズクルー・コーポレーション 代表取締役プロデューサー 山川博史氏登場。

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大阪発の躍進企業が、大物歌手の店をプロデュース


歌手・美川憲一氏が監修した本格鉄板焼きダイニング「みかわ」が2008年11月、東京・西麻布で産声を上げた。高級感の漂うエントランスとスタイリッシュな内装は、一流を知る美川氏のこだわりが随所に感じられる大人の極上空間。高品質の黒毛和牛や魚介類の鉄板焼きを中心にしたコース料理を揃え、連日、芸能人などで大盛況している。
同店のプロデュースと運営を受託したのが⑭ワイズクルー・コーポレーションだ。客単価1万2000円の高級店「みかわ」での経験を、「東京でしかできない貴重な経験」と語るのは、同社代表取締役の山川博史氏。
~本文より~


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サンクスマインド株式会社 代表取締役 秋月秀夫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にサンクスマインド株式会社 代表取締役 秋月秀夫氏登場。


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業界独特な人間関係や体質に苦心した創業当初


実家はもちろん、親戚関係も何らかの商売を営んでいることが多かった秋月家。独立起業することについての抵抗は全く感じなかった。奥様も黙って付いてきてくれた。退職で得たキャピタルゲインで、当面の資金もある。ただ一つだけ、決定的な問題があった。それは「飲食業界での経験」。飲食するのは大好きでも、飲食を経営するのはまったくの素人だった。
~本文より~


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