in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にGOLDEN EYE SPARK株式会社 代表 鶴 洋輔氏登場。
佐賀県の靴屋。
佐賀藩は、鍋島藩とも言われている。鍋島藩の菩提寺である高伝寺の住職だった曾祖父が、鍋島藩の藩主から土地を下賜され百姓をはじめたのが、鶴さんが知る鶴家のルーツ。
祖父は一転、東京に上京し、大学に通いながら、今回1万円札の顔になった、あの渋沢栄一翁の書生を務めていたとのこと。東京で生まれた父は戦時下、祖父とともにルーツがある佐賀に疎開。やがて、鶴さんが生まれる。
「私が生まれた頃にはすでに佐賀県で靴屋を経営していました。もともと祖父がはじめ、父の代で福岡にも進出して、大規模になっていきますが、大店立地法にのまれ、縮小していきます」。
「私は3人兄弟で、1つちがいの兄と、3つ下に弟がいます。今兄はJR東日本系列の日本ホテルに、弟は整形外科医としてそれぞれの道に進んでいます」。
銀座に、ラムしゃぶ金の目オープン。それまでのお話。
「私は、大阪本社の機械系の株式会社ワキタ(東証)という商社に入社します。ただ、商社でも海外に行くことがなく、大阪本社転勤を言い渡されたときに転職を決意し、アルテック株式会社(東証)というシステムの商社に就職します。こちらでは年に3~4回、輸入元のメーカーへの海外出張があり、主にドイツやベルギー、米国など欧米諸国にでかけていました。ドイツのハノーバーで毎年CEBITという展示会があって、そこで新規商権を見つけて日本の代理店の権利を得て、製品をローカライズして販売することが自分でビジネスを動かす実感があり楽しかったです」。
一方、大学時代に知り合い結婚したという奥様は日本エアシステムでCAになられ、大空で上質なサービスを行っておられた。その時の教官が現在の日本航空の社長である鳥取三津子さんだったとか。
「私も、妻も、仕事がいそがしく、結婚したのは私が34歳で、彼女が32歳のとき。そのときに彼女はCAを辞め、銀座本店の運営をサポートしていました」。
<銀座店?>
「ええ、そうです。今の『ラムしゃぶ金の目』の銀座本店で、創業店です」。
ホームページで沿革をみると2000年6月、東京都中央区銀座八丁目(現銀座本店)にて「ラムしゃぶ金の目」開業とある。これが、鶴さんがいう銀座の店のこと。
奥様は、北海道の名士の流れをくまれている。
「妻の実家は、創業1923年の山﨑火薬銃砲店という会社を経営し、花火の製造打ち上げ、建材商社を運営しています。今、うちの店でお出ししている『ラムしゃぶ』は、工場などでふるまわれていた北海道の郷土料理です」。
なんでも、山﨑火薬銃砲店の初代創業者、山﨑桑永さんが関係者に振る舞っていたことが始まりで、2023年でラムしゃぶも100周年となるそうだ。
奥様がCAを退職し、店の運営をサポートされていた話は聞いたが、創業者が気になる。「創業した初代の店長は、彼女の母親で、私の義母です」。
「もともと義母は富良野の出身です。以前から、銀座に店を出したいと言っていたそうで、妻の弟が大学を卒業したときに、長年の思いを実現されました。ただ、飲食店の経営ははじめて。接客もわからないから、娘の、つまり、私の妻をサポート役にしてスタートします。実質は、妻がゼロから店をつくった格好です」。
もう一度、オープンに目を向けると、2000年6月。鶴さんが27歳で、奥様が25歳のとき。まだ、結婚は先の話だが、鶴さんは、サポート役だった奥様をなにかと励まされたのではないだろうか。
華々しくオープンした「ラムしゃぶ金の目」は、オープンして2週間が過ぎると、まったくふるわなくなった。
芸能人もトリコにした「ラムしゃぶ」。
「最初の1週間は無料キャンペーンです。その翌週は半額キャンペーン。その2週間は、まぁ、当然ですが、順調でした。ですが、通常営業になると、ぴたりとお客さんがいらっしゃらなくなったそうです」。
ほぼ来店ゼロの日も何度かあったそうだ。ギリギリの状態で2年。2002年になって、雑誌の取材で俳優の阿藤 快さんが来られて好転する。
「阿藤さんのおかげですね。そのあと、彦摩呂さん、いとうまいこさんも来てくださって。水前寺清子さんは妻の実家にもお泊りになっています」。
<水前寺さんが、実家に?>
「そうなんですよ。妻は、接客はもちろん店の運営やサービス、メニューの開発などオールマイティに仕事をしていて、義母は宣伝マンというか、ホールですね。芸能人がおいでになっても、まったくいつもとおなじで(笑)」。すぐに、ともだちになられるそうだ。言葉だって、ため口。
「そういうオープンな性格だからでしょうね。来店いただいた水前寺さんともすぐに親しくなって。その意味では、やはり、『ラムしゃぶ金の目』を作っただけではなく、育てたのもまた、義母でしょうね」。
「ラムしゃぶ」という、めずらしい料理に、一定の評価がつき、珍しさが逆に興味を惹くきっかけになったのかもしれない。
その後結婚し、4人の子宝に恵まれる。
店舗管理システム「Gシステム」設計構築と満足サービス。
鶴さんがお店で一番始めにおこなったのが、店舗のシステム化、誰でも同様なお客様に満足いただけるサービスを目指して、システムを構築した。
先ずは開店準備から閉店までの通常運営で欠かせないオペレーションから、お客様が来店されて、お帰りいただくまでの満足サービス、そして閉店に向けたオペレーションの平準化。
お客様が滞在されてお帰りになる限られた時間の中でお客様に「また来よう」といっていただけるまで提供し続けるサービスを行っている。
ラムしゃぶ金の目、新宿店オープン。しかし、ふたたび。
改めて、年表を綴るとつぎのようになっている。
2000年6月「ラムしゃぶ金の目」銀座にオープン→2010年11月新宿店オープン→2016年5月六本木店オープン→2017年4月渋谷店オープン→2018年5月目池袋店オープン→2019年8月初のFC店舗「銀座ラムしゃぶ金の目千葉柏店」オープン。
鶴さんが経営に参加したのは新宿店がオープンする半年前の2011年のこと。「義母の他界がきっかけになった」と鶴さん。鶴さんは、入社して1年かかることなく、新宿店のオープンにこぎつけている。もちろん、鶴さんにとっても飲食店の経営は初めて。
「最初は、グループ会社としてスタートし、のちに私個人の会社として出店を重ね、今、いっしょになっています。だから、じつは妻と私の共同代表なんです」と鶴さん。
<新宿店は、鶴さんの仕事ってことですね?>
「そうです。グループの会社ということで資本をわけてスタートします。鉄板焼だったお店を居抜きで、取得。キッチンを3分の1にするなど改修もして1000万円くらいかけてオープンしました」。
<いかがでした?>
「それがですね。狙いが外れたというか、ぜんぜんダメで(笑)」。
<今の繁盛ぶりからは、イメージしにくいですね>
鶴さんは「やるからには『ラムしゃぶを広げたい』という義母の願いを実現したかった」という。「そして、ラムしゃぶのカテゴリーで、金の目をいちばんにしていこう、と。そういう思いが強かったですし、私自身、実績を残したかったのも事実です」。
「ラムが珍しいというのは、新宿店でもいっしょですね。だから、業績も銀座店をトレースします。うちのラム肉はまったくクセがないんですが、一般的にラム肉はクセがつよいと、そういう思い込みがあったんでしょう。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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