in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社エムアンドエムフーズ 代表取締役 大橋正伸氏登場。
1947年、大阪府庁にできた喫茶室が創業店。
「大海原には、信号もなにもない」と大橋さんは、ジェットスキーの魅力を語る。腕前は、プロクラスだったそう。「18歳の時に大学のともだちの兄貴に誘われて、琵琶湖で乗ったのが最初」とのこと。
社会人になって、証券会社に就職したのも、ジェットスキーをしたかったから。もっとも、その証券会社でもトップクラスの営業成績を残している。
仕事でも、遊びでも、結果を残す敏腕ビジネスマンというイメージが浮かび上がる。
「私は1971年、大阪市内に生まれました。私で3代目になります。私の祖父が大阪府庁に喫茶室を始めたのが始まりです」。
ホームページをみると創業は1947年となっている。戦後すぐの話。「もちろん、私は生まれていません。3人兄弟だった父が、祖父のお店を引き継ぎます」。
大橋さんが生まれたのは1971年。俗にいう第二のベビーブーム。「ぜんぜん勉強はしなかったですね」と大橋さんは笑う。地元の中学を卒業し、私立高校に進学。
「部活とかは無縁で、とにかく、バイクが欲しくて、たこ焼き屋でバイトをしまくっていました」。それで、HONDA CBX、15万円を購入している。
人生を動かした200ドル。
「証券会社には、3年間勤めました。毎週末、海に向かってジェットスキーを楽しみます」。仕事で一定の結果を残し、退職。退職金100万円を握りしめ、ロサンゼルスに向かった。
<どうしてロスだったんですか?>
「昔からロサンゼルスの空気を吸って暮らしたいという思いがあったんです。きっかけは、大学の卒業旅行でロサンゼルスに行ったこと。むちゃくちゃ楽しかったんです」。
<英語はできたんですか?>
「いえいえ、全然できませんでした。最初は、アメリカの知識もなく、土地勘もないので大変で笑」。
<ロスにはどれくらいいたんですか?>
「日本と行き来して合計1年ちかくです。語学学校にも行ったし、アメリカの文化にも触れますが、それ以上に、私の人生に影響があったのは、向こうで人気だった寿司屋ではたらいたことです。そこで、運命のトビラが開きます」。
大橋さんは、いう。
「英語がぜんぜんできないでしょ。4人のアメリカ人が席に座って、私をたぶんからかっていたんです。でも、私はからかわれていることもわからない笑。ひたすら一生懸命、対応していると、だんだん彼らの表情がかわって。向こうはチップの文化でしょ。私に興味をもってくれたのか、私へのチップは200ドルで、過去最高だったんです」。
200ドルが大橋さんの運命のトビラを開ける。「お金の多寡じゃなく、相手に喜んでもらうこと。そんな仕事をしてみたい、と思うんです」。
大橋さんの人生が、動き出す。
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン開業。
「人前で話することはもともと苦手だった」という大橋さんは自己啓発セミナーにも通っている。そこで得た体験をもとに講演を行い、本も出版している。
「ロスから帰国。父親の会社に就職し、父を手伝います。これが27歳の時です」。
ちなみに、祖父から店を引き継がれたお父様は事業を拡大し、当時、日本で3店舗、香港にも4店舗をオープンされていたそうだ。
「私は、エムアンドエムフーズの前身でもある『喫茶議員倶楽部』に専務として就職します。しのぶ庵のユニバーサル・シティウォーク店がオープンしたのは、2001年です」。
ユニバーサル・シティウォーク大阪は、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンに隣接するエンターテインメントショッピング施設。
「裏舞台ですったもんだがあったんですが、無事、しのぶ庵がオープンする運びになります。USJが無料でお客様を招くプレオープンがスタートするんですが、その時は、80席の店に連日800人がいらっしゃいました」。
「ホールが7名、キッチン5名という体制でした。ただ、プレオープンが過ぎたあとに、『渋滞でUSJには行けない』『むちゃむちゃ混雑している』といったマイナスのニュースが流れ、お客様がいっきに減りました」。
<USJにお客様が来ない?>
「そうです。1ヵ月半くらいだったでしょうか? オープンのために金融機関から1億円借り入れていましたからね。眠れない日々がつづきました。もちろん、USJにお客さんがいらっしゃらないので、どうしようもありません」。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
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