2017年10月4日水曜日

ひなた株式会社 代表取締役 辻 英充氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”ひなた株式会社 代表取締役 辻 英充氏登場。
本文より~

やんちゃ坊主。音楽に夢中になる。

今回、ご登場いただくのは「やきとん ひなた」などを8店舗展開する「ひなた株式会社」の辻 英充氏である。出身は長崎。物心がついた頃には、すでに父親はいなかったという。
「姉弟は4つ上の姉1人です。母は縫製工場とかではたらいていました。小さい頃、ぼくらは祖母、祖父にも育ててもらっていました」。
「勉強はキライだった」と辻氏は笑うが、代わりにスポーツは大好き。小学生の時から野球部に入り、副キャプテンを務めている。もっとも同年代の子どもをいじめているのを監督にみつかるなどして、いつも怒られていたそうだ。「やんちゃだったんですね。昔は」と笑う。
中学でも野球をつづけたが3年になる前に退部した。「小学生の時の監督よりおっかない監督で、殴る蹴るは当たり前。3年になると本気モードになるのがわかっていたから、その前に逃亡したんです(笑)」。
高校は工業系に進む。その頃から音楽に傾倒し、かなりマジメに音楽に打ち込んだ。20歳くらいまでは、真剣モードである。

音楽。その熱、なかなか冷めず。

「高校を卒業して、東京の企業に就職しました。東京に行ったのはバンドをつづけたかったから。ボーカル以外のメンバーみんなで上京しました」。
高校生の頃は、九州大会に出場するなど評価を集めた。自信はあったが、東京ではなかなか芽がでなかったそうである。会社には2年勤め、退職。バンドは自然消滅する。
「それでいったん長崎に戻り、白木屋とライブハウスではたらきました。この時が最初ですね。飲食っていいなと思いったのは」。
ただし、まだバンドへの思いは捨てきれていなかった。それで、福岡へ。
「福岡でも、飲食の仕事をはじめます。もちろん、食べていくために。ところが、就職した会社の社長がパワフルな人で、益々、飲食っていいな、格好いいなと。関門海に転職したのは、21歳の時です。ふぐ料理をやりたくなって、転職したんです」。
音楽の代わりにみつけたのが、「飲食」というもう一つのライブ。

ふぐ料理人に。


「最初は、大阪でと思っていたんですが、ちょうど関門海が東京に進出していた時で、就職したら『東京に行ってくれ』と。私にしたら『また、東京かよ』って感じです(笑)」。
当時は関門海がもっとも勢いがあった時でもある。配属は新橋。ところでどうして「ふぐ」だったんだろう。「なんとなくかな。これだっていう理由はありませんでした。免許を取ったのは、関門海に入社して2年目です。こちらに10年間いました」。
関門海ではすぐに料理長をやらせてもらったそうだ。長崎の先輩もいて可愛がられた。今まで人のいうことを聞かなかった辻氏が、心酔する。「ただ、料理長になるとやっぱり我が出てきて、マニュアルを守らず左遷されちゃいました(笑)」。
マニュアルがうるさかった。それが性に合わなかった。だから、守らない。シンプルな理由である。しかしそれがバレて、左遷だったそうである。いかにも辻氏らしいエピソードである。
「それで、ちょっと頭を打つんです。料理も客観的にみればパッとしなかったし(笑)」。ただ、それで改心する辻氏ではない。「ちょうど上場を控えて小型店を出店していた時です。中板橋店を立ち上げる時に立候補して、店長になったんです」。料理長から店長へ。なんでも、辻氏が初、だったそうだ。
小型店だからか社員は、店長1人。だれも注意する者はいない。
「結構、やる気になって、今度も好き勝手しました」。本気になればなるほど、我が強くなる。「酒も銘柄モノを仕入れて、売上は小型店のなかで1、2位だったんですが、原価とか経費がかかり過ぎて(笑)」。
小型店では、業務委託の道を選択した。業務委託となれば雇用関係はなくなる。企業にすれば、負担が軽くなる。ただ、報酬となり収入は多少上がったが、あくまで給料制である。「固定で40万円くらい」だったそう。その後、社内FC制度ができ、手を挙げた。今度は正真正銘の店主である。しかし、儲からない。そういうしくみだったといえばそれまでだが、だんだんやる気までなくなっていく。
・・・続き

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