2016年11月8日火曜日

アウトバックステーキハウス株式会社オーエムツーダイニング 代表取締役社長 伊丹俊彦氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”アウトバックステーキハウス株式会社オーエムツーダイニング 代表取締役社長 伊丹俊彦氏登場。

大学合格まで。

「大阪の吹田市で万国博覧会が開かれた時は、ちょうど大阪にいた」と伊丹氏は子ども時代を振り返る。「1970年ですよね。小学4.年生でした」。太陽の塔を中心に、各国の館が並び、日本中から人が訪れた。アメリカ館の「月の石」をみるために、数時間におよぶ行列ができたそうである。
もともと伊丹氏は、岩手県で生まれている。小野田セメントに勤めていた父が、典型的な転勤族で、東京、富山、大阪、ふたたび東京と渡り歩き、家族も転々とした。伊丹氏が言う通り、万国博覧会が開催された1970年は、ちょうど大阪で、しかも、開催市の吹田で暮らしていたそうだ。
「いまではマンションが林立したような街ですが、当時はまだ山もあり、田畑も多かった。遊び場には、苦労しませんでした」。なんでも、「万博につづく秘密の抜け道もあった」そうだ。
兄弟は、2人いる。伊丹氏が末っ子で長男とは7つ、次男とは2つ離れている。「上の兄2人が優秀だったもんですから、なにかとコンプレックスがあったのは事実ですね。もっとも高校までは、だれだれの弟っていうことで得していたような気もしますが(笑)」。
親子5人、落ち着いたのは、2度目の東京で暮らし始めてからだ。東京にもどったのは、伊丹氏が小学6年生の時である。「それからは転勤なしですね。あっても、親父1人の単身でした。両親はもともと、三重県。母方は、住職です。これは、のちに私の問題にもなるんですが、ともかく、小学6年生で東京にもどって、落ち着きます。中学を卒業するまでは、サッカーをしていました。次男がサッカーをしていたので、その影響です。ただし、兄の時とは違って、試合では1回も勝っていませんが(笑)」。
高校でも、サッカーをつづけようと思ったが、巧い選手ばかりで、「気後れして、入部を見送った」と笑う。「中学までは兄のあとを追いかけていたんですが、高校はそうはいきません。彼らとちがって、勉強もそうできなかったから。次男は、慶応に進みましたが、私は、明治。それも前日に、読んでいた箇所がそのまま出るといった奇跡もあって、です(笑)」。

就職と倒産。


「大学受験の時にはもう一つの選択肢がありました。さきほど言った母方の住職の話です。お寺を継ぐ人がいなくて、どうだということになったんです。いま思えば、悪くはないんですが、大学もそちらのほうに行かないといけないし、祖父には申し訳なかったんですが、辞退しました。いまそのお寺は、私たちとは関係のない方が住職をされています」。つまり、住職という道を捨てて、選んだのが、明治大学だった。
どんな大学生でしたか? と伺った。「そうですね。大学では、放送研究会に入りました。50人くらいいて、うち3分の1が女子です。あの頃は、真剣にスポーツアナになりたいと思っていました。野球観戦に行って、ネット裏で、1人実況中継を行っていました」。
ラジオを聴くのも、大好きで、それも勉強だった。スポーツアナをめざし、テレ朝を受検したが、惜しくも不合格。スイッチを切り替えた。
「それで就職したのは、TVとはまったく関係のない、大沢商会(一部上場企業)です。入社できたのは良かったんですが、2年目くらいの時に倒産してしまいます。1部上場企業の大型倒産でしたから、当時は、結構、大きな波紋を呼びました」。
配属されたのは、経理だったから、ある程度、推測できる位置にいたが、それでもまだペイペイである。「そうですね。倒産するとは思っていませんでした。2月に倒産し、残務処理やなにやらで5月くらいまでは勤務していました」。
ところで、伊丹氏は「転職マニアだ」と自嘲するが、これが、最初の転職の引き金となった。

・・・続き

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