2016年11月25日金曜日

株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社石はら 代表取締役 石原誠二氏登場。
本文より~

石原家の話。

蕎麦屋といえば、古風な造りが頭に浮かぶが、蕎麦「石はら」は和モダンなイメージで、なかでも3店あるうちの1店舗でもある学芸大学店は、「蕎麦カフェ」といった趣だ。旨い蕎麦はもちろんだが、蕎麦前と言われる「だしまき玉子」や「蕎麦がき」などのつまみも、これまた旨い。
つまみで一杯やりながら、蕎麦で〆る。これが、江戸っ子の流儀なのだ。
さて、今回、ご登場いただくのは、その粋な蕎麦「石はら」の店主であり、株式会社石はらの代表でもある石原誠二氏である。
石原氏は1966年、東京都世田谷区で生まれる。
「兄が生まれ、1歳違いで、私が生まれました。お金がなかったから、2人も育てられないと、私は一時、捨てられる運命にあったそうです(笑)」。
むろん、そんな親の事情を知っていたわけではないが、「父親がオレをみる目が、兄を見る時とは違う」と思っていたそうだ。望まれなかったわけではないが、石原家に、それだけの余裕がなかった頃の話である。
「事実を知ったのは、ずいぶん大人になってからです。知ったからといって、何かがかわるわけもなかったですが、なんとなく、それまでのことが腑に落ちたのは事実です」。
親子で好きな球団がわかれていた。最初は、石原氏だけが巨人ファンで、父母兄は、阪神ファン。石原氏1人が違う球団を応援していることを知って、母は、石原氏とおなじ球団を熱心に声援するようになる。
1対3という構図は、母にとっても辛い構図だったのかもしれない。

高校進学で一波乱。

「兄も、私もそうですが、小学校の頃から番長みたいな存在でした。兄は、あることがきっかけで、中学から性格がかわるんですが、私はそのまま。野球もつづけ、中学時代には区の大会で準優勝しました。私はキャチャー5番です」。
遊んでもいたが、部活にもまじめに取り組んでいた。高校でもつづけるつもりだったが…。
「ぜんぶ、すべっちゃったんです(笑)。3校くらい受験したんですが、ことごとく(笑)。そうなると、中学浪人です。あの時は、ちょっとやばかったですね。でも、最終的には2次募集で、ある私立高校に合格します。それが、実は、たいへんな高校だったんです」。
入学したのは、2次募集の石原氏らをいれて350名。たばこの煙がもうもうとたち込め、授業にでてくる生徒も少なかった。「野球部もあるにはあったんです。でも、グラウンドが小さかったのと、戦績を聞いて辞めました。弱すぎなんです(笑)」。
学校の成績は、最初だけトップテン入りした。2次募集で進学しただけに、最初からその高校を狙っていた生徒たちとはさすがに差があった。
「最初の頃だけ」と笑うが、もともと石原氏は、頭の回転が早いほうだ。
「親父がばくちばっかりやっていたもんですが、子どもの頃からいろいろつき合わされて、そのおかげで計算はめっぽう早くなったんです。小学生の時は、クラスでいちばん頭がいいって子にも、算数だけは負けませんでしたから」。
しかし、むろん、勉強はしなければだめになる。卒業時には「真ん中くらい」になったのは、勉強をせずに済ましたからだろう。大学には、進む気もなかった。

居酒屋が専門学校だった。

「兄はいろいろ買ってもらっていたと思いますが、私はぜんぜんでした。だから、中学3年の頃からアルバイトをはじめ、そうですね、高校を卒業する時には7~80種類のバイトを経験していました(笑)」。賭け事も経験する。なかでも麻雀は得意だった。
ところでバイトでもらったお金はどうしたんだろう。貯金とかしたんだろうか。
「それがぜんぜんです。もらったぶんだけ使っちゃいます」。江戸っ子は宵越しの金を持たないというが、子どもでもそうなのだろうか。
「私は結局、大学にはいかず、専門学校に進むんですが、こちらも、なかなか気が入りません。とくに居酒屋のバイトを始めてしまったもんですから、朝3時に帰宅という日がつづいて、正直にいえば、1年で学校にいったのは10回くらいで、結局、退学してしまいました」。
今思えば、居酒屋が専門学校だったのかもしれない。「この時、お客様から、『この仕事に向いているね、キミ』って言われるんです。あの一言がいまに生きていると思うんです」。

・・・続き

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