2024年11月5日火曜日

有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏登場。

本文より~

少年時代に、はやくも独立を志す。

徳島県、出身。もともとお父様が徳島で和食店を経営されていたそうだが、増田さんが小学低学年の時に渡米。サンノゼで鮨屋をオープンされたそう。
父親の影響だろうか。少年時代から独立を志していたという。
「小学校の低学年の頃にはもう独立する気満々でした。算数や数学は独立に役立つと、それだけはちゃんと勉強していたくらいです」。
「高校はすぐに退学しています。このままだと流されてしまうと思ったからです。そのあと、居酒屋に就職します。父にも呼ばれてアメリカにも行きました」。
3ヵ月くらいいたそうだが、「アメリカはちっとも面白くなかった」と笑う。
「父は私にアメリカの店を継がせたかったようですが、言葉も全然、しゃべれないのに、そりゃ無理ですよね」。
数学だけじゃなく、英語もいるとは、さすがに想像外。もっとも心が動かなかったのは、父の店を継ぐつもりがなかった証。
ちなみに、徳島にあった和食店は、お母様が引き継がれたそうだ。
「小さい時は野球をしていました。ピッチャーかショート。キャプテンも務めていました。高校は、飲食の免許が取れるとの触れ込みだったので、そちらの高校に進んだんですが、さきほど言ったように、すぐに退学します。2週間しかいなかったです。入学してすぐに、この学校に3年通ったら、絶対、遊び人になってしまうと思ったからです(笑)」。
中退というレッテルは気にならなかった。中卒も、高卒も、大卒も経営者には関係がないからだ。

少年、東京へ。

海の向こうから、そんな息子をみて、お父様はアメリカに誘われたんだろう。増田さんが17歳の頃の話だそう。
ホームページで増田さんは、<私は実家が和食料理屋だったということから、自然な流れでこの世界に入りました。15歳から徳島、そして大阪で修行生活を送った後、ご縁があり19歳で東京に出てきました。>と綴られている。
大阪というのは、食い倒れの街のど真ん中、心斎橋。
「じつはその頃から、ちょくちょく東京に遊びに来ていたんです」。まだまだピュアな青年。「東京には、観たこともないようなレストランやカフェがあって、もう最高でした。それで、たまらなくなって、東京へ移住します。19歳の時です」。
<その時に出会ったのが「魚真」ですか?>
「そうなんです。有名な魚屋さんの飲食部門で、私はその『魚真』に就職します。父や母の背中をみて、飲食に惹かれ、独立を志しました。修業もしました。ただ、私の今の原点はというと、こちらの『魚真』です」。
増田さんが修業していた時から、かなり経つが、「魚真」さんは今も元気に経営されていて、都内に数店舗をオープンされている。さすが、魚屋の飲食部門、グルメサイトの評価点はすこぶる高い。

次の道探し。

「合計8年お世話になりました。社長が目をかけ、かわいがってくださいました。もう感謝しかないですね。『魚真』を選択した理由ですか? それは、たまたま下北沢を歩いていて。ちょうど魚を勉強したいと思ってたタイミングだったので、ここがいいかな、と。ほんと、偶然だったんです」。
<いかがでした?>
「むろん、勉強になりました。1年くらいで原宿に異動になります。東京なんて、徳島生まれの私からすれば、異国です。なかでも原宿ですからね。ただ、ネオン街の下でも、ちがった道に進まず、料理に真剣に向き合えたのは、やはり『魚真』だったからじゃないでしょうか。」
<それだけ仕事に魅了されたということですね?>
「そうです。『乾いたスポンジ』って、よくそういう表現をされると思うんですが、まさに、その通りで、吸収の8年間だったと思います」。
<少年時代から目標だった独立はどうなりましたか?>
「独立はもちろん、忘れていません。25歳で独立をめざしていたんですが、若くみられたのか、どこの不動産に行っても相手にされません。当時は、ネットなんかない時代です。だから、あっちの駅で降りて、こっちの駅でも降りて。まぁ、それも宝探しなんですが、みつけても若造だって相手にされない。それで、先に法人を設立しました」。

魚真からの独立。

さて、ここからが、今回の本番。
増田さんは28歳で、「魚真」から独立。自由が丘に創業店をオープンする。すると、初月から月商600万円を叩き出す。「600万円から翌月には700万円、さらに800万円となり、1000万円をオーバーするようになりました」。
22坪40席、家賃63万円。
「私のプランでは、2000万円は必要だったんですが、銀行、公庫を合計しても1000万円くらいしか貸してもらえませんでした。でも、もうあとにはひけなくて。じつは魚真の社長から800万円お借りしました」。
社長に相談すると、すぐに貸してくださったそうだ。もちろん、恩人からお借りしたぶん、プレッシャーはでかい。「半年は1日も休まなかったですね」。
<ふんばりどころですものね?>
「そうです。当時、自由が丘には、それほど多くお店がありませんでしたし、若い兄ちゃんが魚を巧みにさばいて、ライブでお出しするようなお店もなかった。それが、功を奏したんだと思います。社長にお借りした800万円はすぐに返済できました」。
<2年目には2号店をオープンしていますね?>
「55坪85席くらいで、個室を多くしました。家賃は150万円。ただ、私が新店をカバーすると、本店の業績が下がります」。
「月商300万円まで激減した」というからヤバイ。やはり、飲食はシステムではなく、人なのだろう。その一方で3店舗目を目黒にオープン。業績が落ち込んだ本店は、沖縄料理に業態変更する。
「最初は、さらに下がったんですが、しばらくしてV字に回復します」。
うまくいかなくても、ひるまない。類まれな行動力で突破する。

・・・続き

有限会社ケイキフードサービス 代表取締役 増田圭紀氏

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2024年10月31日木曜日

10月30日(水)、日本フードサービス協会創立50周年記念式典にて。

日本フードサービス協会創立50周年記念式典&パーティーに参加しました。

ありがたいことにキイストン、会員企業表彰して頂きました。
少しは飲食業界で認められてきたのかな…(笑)
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2024年10月29日火曜日

株式会社トラスパレンテ 代表 森 直史氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社トラスパレンテ 代表 森 直史氏登場。

本文より~

中学1年、バブルが弾ける。

裕福だった。
武蔵野美術大学を卒業し、東京大学大学院に進んだという異色の経歴をもつお父様は、美術大学出身とは結びつかない不動産業を営んでおられた。時はバブル。不動産バブルに乗った会社は絶好調。大盤振る舞いの日がつづく。
ところが、バブルが弾けて事情は一転する。
森さんが、中学3年生の時の話。
「自宅もなくなり、一家は散り散りです」。動揺して何もできない。
「父は、能天気な人で頼りにならなかった」と森さんは笑う。自分が率先して動かなくてはいけなかった。住む場所がなく、母方の親戚の家で暮らしていたそうだ。
「あの時は、多くの親戚の方に迷惑をかけた」と森さんは苦笑する。
森さんが中学1年だから、1992年の話。バブルが崩壊する、まさに、その時。
森さんは1979年に東京で生まれている。
「勉強もまぁまぁできましたが、とにかく足が速かった」と、小学生の頃の話を聞くと、そういう回答。校内で1位。地元の大会でも、つねに先頭でゴールを駆け抜けた。
学校が終わると、父親の会社に遊びに行った。20人くらいの従業員がいたというから、さぞ可愛がられたにちがいない。
「小学生の頃は、不動産会社って面白そうだなって思っていました」と森さん。
そういうこともすべてひっくるめて反転する。
「高1の頃からファミレスでアルバイトをしていました」。「はたらくことが性に合っていた」という。ファミレスのほかに、父の仕事関連でアルバイトもした。ペンキ、内装、外壁塗装。こちらも案外、面白かったといっている。
高校になって親戚の家から離れ、父親が借りたビルで2年ちかく暮らしている。そのビルもある日突然、十数人が現れてすべての家財が差し押さえられ、出なくてはいけなくなった。まさに、波瀾万丈。ただ、そのなかで、小さな芽が育ち始める。
その昔、家族みんなで食卓を囲んだ、そのシーンが映像になる。バイト先のファミレスでテーブルを囲む家族を観て、森さんは、微笑んでいたにちがいない。
森さんは、そういう人。

ケーキ職人、偏差値60。

「高校を卒業して、調理師免許を取得できる専門学校に1年半通います。その後、ホテルに就職してケーキのセクションではたらきます。ケーキには興味がなかったんですが、やってみると案外、楽しい」。
ただし、料理人になるという志を捨てきれず、イタリアレストランに転職。ケーキを担当しながら仕込みもサポートした。
「でもね。向いてなかった。いのちを奪うような作業が苦痛だったんです」。「前菜は、楽しかったんですけどね」と苦笑する。
ただ、ケーキと覚悟が決まったのは、その後。
「ある日、先輩に『森は、ケーキなら偏差値60くらいある』って言われたんです。『ただね。63あたりからレベルを上げるのが難しくなるよ』って」。
まっすぐな青年を動かすシンプルな言霊だった。
「あの一言で、ケーキで行こう」と。
まだまだ極める価値があると思ったに違いない。
これが、森さん、22歳の時の話。
「父親をみていましたが、サラリーマンにはなりたくなかったですね」。お父様を観られていて、怖くはなかったですか?と重ねて、不躾な質問をすると、「いいえ」ときっぱりと否定する。
そして、「20歳の時には、店名まで決めていた」という。
朝5時に家をでて、深夜2時に帰宅する。そんな生活がつづいた。じつは、森さんは早くに結婚している。ほぼ自宅にいなく、奥様にも負担をかけてしまった。

すべて背負って、イタリアへ渡る。

「精神的に負担をかけたこともあって生活をかえないといけないと思って。私自身の仕事も一区切りついたタイミングだったので、思い切ってイタリアに渡ります」。
お金が潤沢にあったわけではない。片道キップ。「向こうで仕事をしないと、帰国もできなかった」と森さん。幸い、すぐに仕事はみつかった。
「2人ともイタリアに渡りました。妻は語学学校にいって、私も仕事がみつかります」。
厨房に入るといきなり「ショーケースに並べるケーキをつくれ」と言われたそうだ。仕事のことなら言葉もわかる。パティシエ森のケーキが、イタリアで初披露され、ショーケースを飾る。
イタリアでの生活はいかがでしたか?とたずねると「生活環境も変わり、私自身も仕事ができたんで悪くはないというか。けっきょく、4年ちかくイタリアで生活をします」。
たいへんなことはなかった? 
「そうですね。ある時フィレンツェの2つ星レストランのシェフが声をかけてくれたんです。『ボローニャに新店をオープンするから手伝ってほしい』って。それでボローニャに行くんですが、工期が半年ほど遅れて無職になってしまいました。あの時は、たいへんと言えばたいへんでした。観光地のボローニャは、その頃、閑散期で仕事がありません。だから、皿洗いをしていたんです」。
ブラジル、パキスタン、インド、さまざまな国の人が居た洗い場は、異国の世界。
「とにかく、たいへんな世界でしたね。差別もあった」。
森さんが「これを乗り越えたら、もうなにも辛くない」と思ったくらいだから、相当、きつい差別と、狡猾な世界だったんだろう。それでも、森さんは下を向かない。

・・・続き

株式会社トラスパレンテ 代表 森 直史氏

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株式会社鈴木チャンピオン 店長:鈴木昌平氏(オーナー鈴木おさむ氏)登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社鈴木チャンピオン 店長:鈴木昌平氏(オーナー鈴木おさむ氏)登場。

本文より~

プロレスラーになろうと、相撲道場に通い始める。

「小学6年生で100キロあった」というから、たしかに巨漢。「当時は背も高かった」と今回、ご登場いただいた<メシ酒場「鈴木ちゃん」奥目黒>の店長、鈴木さん。
インタビューに同席してくださったオーナーの鈴木おさむさんは、苗字が同じ鈴木さんのことを「昌平」と呼ぶ。
それにならって、店長を「昌平さん」、オーナーの鈴木さんを「おさむさん」と表記させていただくことにする。ちなみに、おさむさんは現在TOC向けファンド「スタートアップファクトリー」の代表を務める鈴木おさむさんである。
「私は大阪の箕面出身です。父親の仕事の関係で生まれてしばらくは宮崎にいましたが、小学生で箕面のお隣の池田市の学校に通って、中学で箕面の学校に進みます」。
お姉さんが1人いる。
「こどもの頃はテニス、水泳、少林寺、柔道とかですね。あの頃は、新日本プロレスの橋本真也さんに憧れて、将来はプロレスラーになろうと思っていました。相撲と出会ったのは、その延長で、プロレスラーになる、いいステップになるかな、と」。
「勉強は得意じゃなかったし、からだを動かすのが好きでしたからね」。
相撲道場に通い始めたのは、中学2年生のとき。のちに昌平さんは、あの白鵬関の付き人になるが、当時、力士は視野の外の世界だった。

角界入り。力士、「鈴木山 昌平」、誕生。

「道場の先生の紹介で、相撲クラブがある京都の高校に進みます」。自宅から2時間かかったというから驚かされる。「昔はつよかった高校ですが、私が入学した頃は、他校のほうがつよかったですね」。
昌平さんは、そのけっしてつよくない学校から、新星のように頭角を現す。
<角界入りはもう既定路線?>
「いいえ、ヘルニアになっていましたから、実は角界入りは先生たちに反対されていました。その身体ではもたないっていって。ただ、そういう(相撲界に入る)流れになって」。
「ヘルニアの原因はわからないんです。ただ、私なりには、ヒザを痛めて、それをカバーしていたことがいけなかったのかな、と」。
ヘルニアという爆弾を抱えながらも、昌平さんは、相撲の世界に入る。ある意味、プロレス以上に、過酷なスポーツ。身長174センチ、体重130キロ。力士のなかでは小柄なほう。
成績はどうだったんだろう? ネットで検索してみた。
所属は宮城野部屋。四股名は「鈴木山 昌平」で、のちに「一秦 昌平」に改名している。初土俵は2000年3月、最終場所は2005年1月。生涯の戦歴は99勝94敗となっていた。
「現役は5年です。力士の頃からヘルニアが悪化して、サポートの仕事もしていて、『ちゃんこ』もつくっていました。料理をはじめたのは、その頃。今になっては、野菜のカットや、魚の処理という基礎からスタートできたのがよかったですね」。
むろん、葛藤がないわけではなかった。力士をあきらめ、サポート役に回るのは辛い選択だったにちがいない。
ただし、「ちゃんこ」を食べて「旨い」と歓声をあげる先輩力士や後輩力士をみるのは、心優しい昌平さんにとって喜びの一つだった、そんな気もする。
このあと、いったん角界から離れ、箕面にもどっていた昌平さんに一本の連絡が入る。
白鵬関からの連絡だった。

ちゃんこ鍋が、取り持つ縁。その始まり。

「白鵬関は、私より一つ下で、同じ宮城野部屋の、いったら後輩です。力士の頃から親しくさせていただいていました。それもあって付き人をさせていただくことになりました」。
横綱に駆け上がる白鵬関にとっても、一つちがいの昌平さんの存在は大きかったのではないか。
ちなみに、白鵬関はモンゴル国ウランバートル市出身。第69代横綱。ウィキペディアによると好物は焼肉と納豆。むろん、昌平さんは、ご存知だろう。身長は192センチ、体重155キロ。
「付き人を5年させていただきました。今でも親交はあります。彼は、昌平ちゃんとか、昌平さんとかっていうかな」。
2人並べば体格差はあきらか。昌平さんとは20センチちかくの体格差がある。付き人を辞め、ふたたび大阪にもどっていた昌平さんは、ある力士の断髪式があって上京する。
その時、声がかかる。
「今度、今田耕司さんのご自宅でパーティーがあるんだけど、ちゃんこをつくってくれない?って話です。私でええんかなって、そうは思いましたが、せっかく声をかけていただいたんで作らせてもらいました。で、そのパーティーに、おさむさんがいらしていて」。
2人の鈴木がはじめて出会うことになる。
「昌平の『ちゃんこ』が、縁結びの神様ですね」と、今度はおさむさんがいう。
「いつか飲食をしたいなと思っていたんですが、プランがあったわけじゃありません。ただ、今田さんのうちでいただいた鍋が旨くて、これだ!って。ちゃんこをつくってくれた昌平と連絡先を交換して。もう、その当日ですよね。いっしょにやりませんかって、オファーさせていただいたのは」。
「そうです。私にすれば、狐につままれたっていうか。半信半疑というか。だって、私は素人同然ですしね。でも話はトントン拍子に進んで、お鍋の会が2月で」。
「4月にはもうお店が決まっていたよね」と、こちらは、オーナーのおさむさん。
「そうです。駅チカのロケーションで、『ちゃんこ鍋』のお店をオープンさせていただくことになりました」。
「ただ5年で赤字6000万円! 鍋って、冬と夏であれだけ集客に差があるなんて知らなかった」とおさむさんがいうと、「冬だと1500万円って月があったんですが、夏は、さっぱりで」と昌平さん。
「ゴールデンウイークが過ぎると、鍋の需要は少なくなっちゃったよね」。
「ですね。桜の季節くらいまで。そうなると、家賃の90万円が重くのしかかってきます。フロアは狭く、3フロアだったので、人件費もかさみました」。
「みんな素人だから、最初は、そういうことに気づかなかった。2012年にオープンして、2017年にクローズします。でも、僕は、それで終わりにしたくなかった。昌平の料理は旨かったし、昌平の人柄も生かしたい(笑)。だって、中目黒じゃ、僕より顔が広くなっていたしね」。

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株式会社鈴木チャンピオン 店長:鈴木昌平氏(オーナー鈴木おさむ氏)

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2024年10月25日金曜日

「カンリーAI面接」初期販売パートナーであるキイストン社の販売実績が貢献したことを受け・・・、いい響き(笑)

 「カンリーAI面接」初期販売パートナーであるキイストン社の販売実績が貢献したことを受け、販売パートナープログラムの拡充を決定

『カンリーAI面接』とは

『カンリーAI面接』は、店舗におけるアルバイト・パート選考を自動でマッチング&合否判定することを目指しており、面接業務をAI活用により自動化を支援するサービスです。

例えば、AIによる面接対応や合否判断のサポートなど、面接データを元に自店舗にマッチした候補者選定をAIが支援し、選考活動をアシストすることで、店舗スタッフが本来行うべき業務に集中できるアルバイト採用の環境を実現します。

店舗スタッフの「アルバイト採用の面接業務をAIで完全自動化」する世界を目指し、第1弾(24年10月時点)では録画面接、音声データ文字起こし機能およびAI要約機能をご提供しております。

なお、10月8日(火)のサービスリリースお知らせの通り、リリース時点で100社を超えるお客様からのお申し込みをいただいております。

プレスリリース:https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000293.000037205.html


人材採用部門は江川中心動いております。
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2024年10月24日木曜日

キイストン設立33年目に突入!

 早いものでキイストンは10月22日で33年目に突入しました。

30年以上やると元従業員の人たちからの連絡はとてもうれしいです。

33年経ちましたが、あと33年となると94歳、恐らく私はもうこの世の中には存在してませんね・・・(涙)

なのでこれからは今を大事にちょっとした喜びを複数味わい続けてたいです。

そのためにも、今期は今までと違い、キイストンの強みを最大限に生かすように「飲食の戦士たち」を中心に計画的に進めています(笑)

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2024年10月22日火曜日

株式会社JAM Restaurant Corporation 代表取締役 飯高晶之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社JAM Restaurant Corporation 代表取締役 飯高晶之氏登場。

本文より~

バスケとギターと。

「剣道から逃げ出したいと、バスケを始めた」と笑う。小学5年生の頃の話。
「スラムダンクの影響もありましたが、剣道を辞める口実になれば、正直、なんでもよかったんです」と、今回、登場いただいたJAM Restaurant Corporationの代表 飯高 晶之さん。
何でもよかったわけだが、才能があったんだろう。中学に上がると1年からレギュラー。ただ、調子に乗りすぎてこっぴどく叱られ、反省する。素直に、反省するあたり、ピュアな少年だったにちがいない。
「チームをはじめて意識したのも、この時」と、飯高さん。やがて、飯高さんは、キャプテンを務めることになる。
高校は推薦で、日体荏原へ。いよいよ、高校デビュー。ハイレベルな世界が観られると思ったやさき、挫折のにがさを知った。1年の時に、股関節の炎症を起こした飯高さんは、けっきょく退部してしいる。
好きなバスケットボールから離れたことで、鬱屈した高校生活がスタートする。そんな生活をいっぺんさせたのが、ギターだった。
「これも、きっかけはなんとなく。ともだちのバンドを観てシンプルに『面白そうだ』と思ったのが始まりです。モテそうだし、やってみるかなと高校3年生の時に初めてギターを弾きます」。
ギターと、ボーカルも時々務めた。好きなアーティストは? とうかがうと、ラモーンズやクラッシュ、ビートルズなどの名が挙がった。
「大学進学は頭になかった」と飯高さん。
<バンドで食べていく?>
「そう。仲間といっしょに割といいところまでいったんですけどね」と笑う。

バイトでスーシェフに。そして、独立。

飯高さんは、1982年に東京都大田区に生まれる。お父様は、不動産業をされていて羽振りもよかったそうだ。
「小さい時から海外によく連れて行ってもらいました。最初に行ったのはフィジーです。これが6歳くらいの時で、小学生の頃にはハワイとかサイパンとかにも」。
ただ、中学に上がると、思春期に突入。「親といっしょに行くのが恥ずかしくなって、行かなくなった」と笑う。
バスケットボールに熱中したことも理由の一つだったにちがいない。
さて、そのバスケットボールからも離れ、バンドからも離れた飯高さん。つぎに出会ったのが、飲食だった。
「渋谷にある中華料理店でスタートして、系列のお台場のイタリアンに異動します。21歳頃の話です」。
最初は、とくに面白いと思っていなかったそうだが、だんだんと飲食の世界に惹かれるようになった。
「その店で2年半はたらき、独立します」。バイトだが、スーシェフになっている。
ただ、2年半は、早い。
「そうなんです。ただ、独立しようと思って辞めたわけじゃなくって、最初は海外を放浪するつもりだったんです」。
海外は小さな頃からなんども行ったから、興味もあったし、ふつうの人と比較してハードルも低かったにちがいない。どこに行くつもりだったんだろう。
だが、お姉さんの一言で、海を渡ることはなくなった。

投資額300万円の小さなイタリアレストラン。

「姉が大田区の池上にある物件を紹介してくれたんです。親父の会社で、仕事をしていたからなんですが」。
調べてみると、300万円くらいでオープンできそうだった。
「独立するなら若いうちがいいでしょ。失敗してもリカバーできるし、リスクも少なそうだからやってみようかな、と」。
<それが、始まり?>
「そうです。もともと計画していたわけじゃないし、そういう意味では、創業したのも、たまたまそういうタイミングだったというしかないですね」。
<いかがでした?>
「食べていけるくらいで、パッとしませんでした」と飯高さんは苦笑する。
「ただ、今、うちの幹部は、その時のお客さん。カウンターの向こうから『はたらかせてください』って言ってきてくれた連中なんです」。
業績はともかく、若者が惹かれる何かがあったのはまちがいない。そして、彼らの選択もまちがっていなかった。
ホームページをひらくと、うつくしい飲食の世界が目に飛び込んでくる。その始まりが、この家賃15万円の小さなイタリアレストランだったというから、感慨深い。
ちなみに、グルメサイトもみたが、すべてのブランドで高い評価点を獲得している。お台場のレストランで、わずか2年半でスーシェフに登り詰めたことからもわかる通り、料理の才能も豊かだったんだろう。
<バスケもそうだし、ギターもそう。なんでも、簡単にできちゃうんですね?>と軽く話をふると、「でもね、突き詰めたことがなかった」と意味深な回答。
料理は、奥が深い。経営も、突き詰めなければ、意味がない。その裏返しのように聞こえた。もう、創業して18年目になる。

2年半のスパンでオープンする新ブランド。

「ほぼ2年スパンで出店している」という。2024年6月現在、以下のブランドをオープンしている。
<豚とワインを愉しむ本気イタリアン「Gazzo」>
<大型パーティも可能なイタリアン「Allegro」>
<フランス料理・ウェディングレストランJAM ORCHESTRA(ジャムオーケストラ)>
<銘柄鶏や地鶏を使った鳥料理と水炊き鍋料理の居酒屋鳥肌(とりはだ)>
<レストランウェディング対応可能なイタリアンレストランAllegro Kanazawa(アレグロ カナザワ)>
<イタリアンレストラン・ジビエ料理・炭焼き肉バル「braceria BAVA(ブラチェリアバーヴァ)」
いずれも評価点が高いのは、すでに表記した通りだが、百聞は一見に如かずのことわざ通り、興味がある人はぜひ、ホームページをご覧いただきたい。熱量まで、伝わってくるはずだ。
飯高さんは、理不尽をきらう。バイト時代には、その日の気分で仕事をするシェフが気にくわなかった。だから、負けるものかと、朝から晩まで料理と格闘した。
その2年半について、くわしく語らなかったが、けっして才能の一言で片づけてはいけない苦労も、努力もあったのは、まちがいない。ゴツゴツした岩にぶつかり、飯高さんの人格もまた磨かれたにちがいない。
その人格に惹かれ、40名の社員が、いま飯高さんの下ではたらいている。社員の半数が料理人というから、組織は重層だ。女性スタッフも多いらしい。
ちなみに、社員は、最良2年で店舗を異動するそうだ。だから、交流も盛ん。その結果、チャレンジできる風土も、根付いている。
とかく、レストランが評価されがちだが、それ以上に組織が評価されてもいいのではないかと思った。

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