2015年5月31日日曜日

武田あかねの密着撮影(仕事からプライベートまで)風景。

うちの武田の仕事からプライベートまで密着撮影がありました。
7月下旬からオンエアされます。
うちのイケメンたち?!も一緒に撮影されてました。


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2015年5月26日火曜日

株式会社ヴォーノテーブルコーポレーション 代表者 武藤進哉氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ヴォーノテーブルコーポレーション 代表者 武藤進哉氏場。
本文より~

高校までの武藤の話。

少年武藤は大の野球好きで、小学1年生からソフトボールに没頭した。5年生になる頃には主将に選ばれた。最高は県大会2位。立派な数字である。gers
武藤が生まれたのは1982年。出身は群馬県高崎市。4歳から埼玉県浦和市で過ごしている。
父は日本工業経済新聞社の記者で、平日はいっしょに食事をすることも稀だった。母は専業主婦。兄弟は4人で、武藤が長男。妹が2人、弟が1人いる。
武藤がソフトボールをはじめると、父はおなじチームにコーチとして参加した。1年生から入団するケースは、父もコーチとして参加すること。そういう決まりがあったのかもしれない。ともあれ、長男と父が入団したことで武藤家はソフトボール漬けとなる。
「お兄ちゃんがソフトボールをはじめて、父さんもコーチになって、うちはソフトボール漬けの家になった」。武藤の弟や妹に聞けば、こう言って苦笑するかもしれない。
ソフトボールに熱中したが、いうまでもなく目標は野球選手だった。夏休みも返上して、練習した。公園で素振りを繰り返す日々。休日になれば、父も武藤の練習に付き合った。
中学に入って、ソフトボールから軟式野球に転向した。1年の秋からレギュラーに抜擢された。肩も強かったし、足も速かったからだ。
「中学でもキャプテンを務めていました。中学の時は、県で4位が最高です。私は中学でもピッチャーを務めていました。バッターでいえば、アベレージヒッターですね」。
軟式野球だったが、スカウトの目に止まったようだ。ある高校から「来ないか」と誘われた。「野球ばかりで、勉強は全然でしょ。そういうこともあって、セレクションに参加して推薦で進学させていただきました。埼玉には、『浦和学院』などの強豪校も少なくないんですが、さすがに浦和じゃレギュラーにもなれないだろうと思っていたので、ちょうどいい高校からお誘いを受けたと思いました。県でベスト4くらいの『南陵高校』という高校です」。
高校でも、野球漬け。野球が真ん中にあって、それ以外には関心がなかった。
「高校生にもなってくるとさすがに異性も意識するようになるでしょ。でも、それどころじゃなかった。恋愛する時間も、グレたりする時間もついになかった(笑)。朝早くから朝練して、授業が終わってから全体練習、それからまた2時間くらい個々人で練習です」。
ヘトヘトになる毎日だった。しかし、高校にもなると、立ち位置もわかるようになる。「いまの阪神の遊撃手と対戦したことがあるんです。おなじ高校生とは思えませんでした。スイングスピードもそうだし、身体能力が、私たちと全然、違うんです」。
高校になっても「いつかはプロへ」という思いがあったそうだが、現実の距離は、相当離れていることも知ったはずだ。

大学進学。広がる未来。

一浪した。「明治に行きたかった」が、日大に進むことになった。やっぱり野球部ですか? と聞くと、「最初はサークルとかも調べたんですが、どうも違うなと。野球をやるより、宴会が主みたいな…。で、野球を辞めて、基本はバイト生活。この時、バイトしたのが、あのレインズだったんです」。
それまで野球しかしてこなかった。もっとも高校時代、一度だけ「王将」でバイトをしたことがある。「楽しくてしかたなかった」そうだ。大学でも飲食を選択したのは、王将でのバイトの印象が良かったからだろうか。
「オープニングの言葉にも惹かれて」と武藤。レインズの新業態「土間土間」のオープニング店舗だった。「私の店で4号店です。牛角はある程度、確立していましたが、土間土間はこれから。オープニングということもあって、むちゃくちゃ楽しかったですね。長くなると、社員さんとそうかわらない仕事までするようになっていました。ただ、仕事は楽しかったんだけれど、だからって店長になろうとは思わなかった。単純な話ですが、店長が、可愛そうなくらい仕事尽くめだったからです」。
飲食に惹かれる一方で、武藤は営業という仕事にも挑戦した。「新聞の勧誘です。こちらでバイトをするうちにやっぱり営業だな、と。当時、土間土間とこちらの給料を合わせて30~40万円くらいあったんですが、時間給で換算すれば断然、新聞の勧誘のほうが良かったからです(笑)」。
飲食は楽しい。しかし、仕事の目的は、それだけではないだろう。であれば、営業職のほうがいい、という選択だったはずだ。とはいえ、営業を選択したものの、入社した会社は「飲食」をサポートする事業を行っていた。飲食と武藤は、付かず離れずの距離だった。入社したのは「店舗流通ネット株式会社」。みなさんも一度はこの社名を聞かれたことがあるはずだ。

・・・・続き

株式会社ヴォーノテーブルコーポレーション 代表者 武藤進哉氏
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2015年5月25日月曜日

TKSグループ神里会長の書籍『めし屋の親父 60歳からの挑戦』!!

5月23日、TKSグループの「神里会長の還暦を祝う会」でした。
TKS関係者はじめ各メーカーの皆さん・卸、飲食経営者などなど100名以上のすばらしい会でした。
やはり、神里会長の人望ですね。
神里会長専属司会のMUGENの内山社長の司会もさすがでした。
社員の皆さんによる“恋するフォーチュンクッキー♫”
サプライズ 書籍!!
DAIGO氏の協力で書籍のオビ書いてもらいました。
ジャーナリスト中村さんがあいさつに・・・
ちょっと長いのでカットされました(笑)
キイストンプロデュースされてもらいました。

2015年5月19日火曜日

株式会社サードプレイス 代表取締役 岡山浩之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サードプレイス 代表取締役 岡山浩之氏場。
本文より~

野球選手に憧れて。

岡山が生まれたのは1975年4月2日。豊島区で生まれ、練馬区で育った、というから根っからの東京人である。3人兄弟の末っ子で、学校の水泳記録を塗り替えた兄2人ほど速くなかったが、運動もでき、勉強もでき、野球も巧かった。「早稲田実業学校中等部」に進学したのも、いずれ「甲子園」「プロ野球」という目標があったから。
「中学も、高校も男子校です。浮いた話はぜんぜんない(笑)。とにかく野球漬けです。私はエースで4番。当時、同じ区に強豪校が2校あって、期待はされていたんですが、都大会には進めませんでした。粒揃いだったんですが、チームワークがバラバラだったんです(笑)」。
中学から高校へは、100%進学できるそうだ。ただし、「早実」の2文字に惹かれた、多くの優秀な生徒たちが外部からも進学してくる。野球もまた同じである。
「私たちが中学でやっていたのは軟式です。硬式ではシニアという組織があって、そこから、推薦で凄いのが入ってきます。先輩たちも凄くて、最初は、先輩らが放るボールが見えなかったくらいです」。

早稲田実業、入学。

「ボールが見えねぇ」。岡山はそう呟きつつも、白旗は絶対、挙げなかった。「負けねぇぞ」。同期の部員は16人。2年の春の大会にはいち早くベンチ入りも果たした。しかし、この大会では指揮官がおらず1回戦コールド負け。早実の野球部の歴史のなかでも記録的な大敗を喫することになる。
「それまで監督をしてくださっていた和田明監督がお亡くなりになって、一つの歴史が終わったんです。一方、当時、東東京では帝京高校が頭一つ抜けていて、甲子園でも優勝していたもんですから、『あそこには、勝ってこないよな』ってムードが蔓延していたんです。そのムードが試合にも出たんでしょう」。
いつまでも、指揮官不在というわけにはいかない。代わりに登場したのは33歳の熱血指導者だった。
「新任の監督も、和田監督の教え子の一人だったそうです。そりゃ、熱い人で、とにかく最初はみんなボコボコにされました。巧くて調子に乗っている奴は特に、ね。で、その監督がいいます。『オレたちは、日本でいちばんの帝京高校を倒さないと甲子園には出られない』。もっともな話です。だから私たちもうんうんと頷きました。でも、次の一言に愕然としたんです。『だから、日本一の練習をするんだ』って。オイオイ、マジかよです(笑)」。
日本一の猛練習。成果は、すぐに出た。秋の公式戦で、次々コールド勝ちをおさめていく。「とにかくみんなバカスカ打って。私は5番で4割打っていたんですが、それでもチームでビリから2番目でした」。
いつの間にかチームに自信が溢れるようになる。「帝京にだって負けない。負けるわけがない」。そんな気分にもなっていた。しかし、最後の最後で、勝負の女神がほほ笑んだのは、相手チームのほうだった。
「あとひとつ勝てば甲子園だったんですが、日没コールドで敗戦しました。え、そんなルールってあるの?って感じです(笑)」。
試合には負けたが、もう心は折れなかった。
「最後の夏の大会まで、まだまだ鍛えることができる」と思ったから。

大学時代。

「熱血監督との出会いもそうですが、高校時代は、私の人生のなかで大きな意味を持つ3年間だったと思います」と岡山はいう。
その高校時代、岡山は、いくつかのことを心に決めたそうだ。
「ひとつは、高校時代は、野球だけを真剣にやろう、と。もうひとつは、『負のオーラ』をださないようにしよう、ということです。『負のオーラ』は、私のいけないところで、当時は、何かにつけ、すごく短気で周りに当たり散らしていたんです。だから、そういうのをやめようと。それからです。人に対して怒らなくなって、人付き合いもずいぶん違うようになっていきました」。
「今でも怒らない」というからある意味、凄い決意である。
ともあれ、高校時代も野球漬け。
真っ黒になりながら、白球を追い続けた。ところが、最後の最後、岡山はもう一つの試練を受けることになる。 帝京高校との試合。シーソゲームで、9回裏。1点入れられて同点にされてしまったが、この回を切り抜ければ、延長戦に突入する。その時、岡山はレフトを守っていた。背番号は「1」。エースナンバーを付けた岡山が守るレフトに白球が舞い上がった。誰もが、これでスリーアウトと思った瞬間、ボールがグラブから零れ落ちた。
「結局、それで逆転され、サヨナラ負けになってしまいます」。岡山は頭を抱え込んだ。「すべてを終わらせてしまった」と思ったからである。
しかし、このミスから逃げることなく、早稲田大学に進んだ岡山はやはり野球を続けた。早慶戦。憧れのグランドにも立った。
 4年間もまたあっという間に過ぎた。「大学時代もいろいろな経験をしました。凄い選手もたくさん見ました。実力は及ばなかったかもしれないが、密かに2年くらいまでは、いつかプロへと思っていました。しかし、この4年間で、できない自分を認められたというか、できないことにも、ちゃんと向き合えるようになったんだと思います」。
苦労もした。限界も感じたことだろう。しかし、それらを受け入れることで、岡山は更に強くなったはずだ。

・・・・続き

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2015年5月15日金曜日

大井町で初のオイスターバー『MICHI OYSTER BAR』のオープン!!

本日5月15日(金)、大井町で初のオイスターバー『MICHI OYSTER BAR』オープンです。
大井町は私の生活行動範囲ですからうれしいですね。
DRの谷脇社長と一緒に写真撮りましたが、私の頭(おでこ)が輝いてたのでアップ控えました(涙)

http://www.hotpepper.jp/strJ001118527/

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阿波 耕平オーナーシェフの『武蔵小杉のもつ屋じゅうに12』に行ってきました。

昨日は、キイストンで京王プラザホテルからの転職の際、キイストンに社会人インターンやってくれた阿波 耕平オーナーシェフのお店『武蔵小杉のもつ屋じゅうに12』に行ってきました。

京王プラザホテルや、鉄人・陳健一 氏のもとで計7年修業した料理の腕前あるだけに美味しいかったです。


短い期間でしたが、阿波君、大手中心に飲食の戦士たちの社長取材を10社以上取ってくれ、なんとぐるなびに転職成功!!
明るく気が利くだけあって人物的にもお墨付き。
お店も大繁盛しています。
是非、武蔵小杉に行かれたら『武蔵小杉のもつ屋じゅうに12』もお立ち寄りください。

阿波君との縁は、とこなつ家の鈴木さんがつないでくれました。
ほんとありがたいです。
(エスパー伊東ではありません 笑)
阿波オーナーシェフのお店、大繁盛しています
 (陳直伝!正宗四川麻婆豆腐)
(店主の本気チャーハン、旨い!!)
(朝締めの新鮮なモツ)
しかし、阿波君といい、キイストンでインターンやってくれた人たちは皆優秀な人材ばっかりで嬉しいです。