2025年8月14日木曜日

「飲食の戦士たち」が1並びの1,111回となりました。

 「飲食の戦士たち」がなんと掲載が1,111回となりました。

この「飲食の戦士たち」のブランディングにもっと磨きをかけるため、再現ショートドラマに加え、書籍も本格的に動かしていきます。

キイストンの出版事業は、書籍販売が目的ではありません。本の力で社長のビジョンや想いを可視化し、“カタチ” に残すことでより採用の強い武器として活用してもらいます。

只今、出版事業のランディングページ作成中です。

また、再現ショートドラマも制作プロデューサーで監督だった市川さんのあとを受けseason2も進めていきます。

キイストンの新たなオリジナルの商品作りに力入れます。

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)   

1月10日新たに開局したBS10、プロ野球中継の食事提供のサポートしています。

 2025年1月10日に開局したBS10のプロ野球中継の合間(5回裏、試合終了後に各2分)に解説者の方に食事提供していただく飲食企業様をキイストンで選定し依頼し、番組のサポートをさせてもらっています。

このBS10(https://www.bs10.jp/20241029_bs10/)は、株式会社ジャパネットホールディングス(本社:長崎県佐世保市/代表取締役社長 兼CEO:髙⽥旭⼈) のグループ会社でBS放送事業を担う株式会社ジャパネットブロードキャスティング(本社:東京都中央区/社長執行役員:佐藤崇充)が運営しています。

マリノ様食事提供(解説者:工藤公康氏)
鶏ヤロー様食事提供(解説者:今江敏晃氏)
KIWAMI様食事提供(解説者:平石洋介氏と今井敏晃氏)
プログレ様食事提供(解説者:糸井嘉男氏)
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年8月12日火曜日

株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社WAS 代表取締役 宇野優司氏登場。

本文より~

大学進学までの、勘違いと気付きと。

「大きな勘違いだった」と笑うのは、今回、ご登場いただいた株式会社WASの代表取締役、宇野 優司さん。
「小学校って、学年順位も公表されないでしょ。私の通信簿はオールAだったし、スポーツでも、それ以外でも目立っていたから天才くらいに思っていて、将来は東大だと(笑)」。
宇野さんは1992年1月に静岡県の沼津市に生まれている。なんでも「沼津生まれ、裾野育ち」なんだそう。お父様は大手企業勤務のサラリーマン。ゴルフにもいそがしかったが、食べるのがお好きだったんだろう。土・日には家族を連れて外食を楽しんだ。
宇野さんが飲食に進む、背景の一つだという。
中学に上がった宇野さんは冒頭の話通り、大きな勘違いに気づくことになる。
「中学になると学年ごとに順位がでるんです。私は内心、将来、東大生だと思っていましたから、当然、1位だろうと。でも、結果は12位だったんです」。
愕然とした。
「でも、この時にはまだ、私にはサッカーがあったんです」。
12位でも凡人からすれば悪くはないが、宇野さんはあっさり東大の道は忘れ、今度は小学生時代トッププレイヤーだったサッカーにのめり込む。
「そんなにつよい学校でもなかったんです。だから、私がトップスターで、みんなをひっぱっていました」。
これも、勘違い。ただしくいうと、井の中の蛙。
「高校に進むと、サッカーもけっしてトップじゃないことに気づきます」。
<上には、上がいる?>
「そうですね。スポーツもそうですが、勉強が得意なやつもたくさんいましたし、サッカーも巧いやつがたくさんいて、レギュラーでもなかったです」。
ただ、サッカーで汗を流したことは無駄じゃなかった。
「サッカーを通し、食がスポーツのパフォーマンスに影響することを知って、それで『食』の世界に進むことに決めたんです」。
大学では「管理栄養士」の資格が取得可能な学部を専攻。勉強のためだといって、ドイツ・フランスにも渡っている。もちろん、無事、「栄養士」の資格を取得。これが、今の強みの一つとなっている。

Globridge入社と代表の大塚誠さんとの出会い。

宇野さんは大学時代を、「濃厚で、貴重な4年間だった」と表現する。
「じつは、サッカーを引退してからの半年間、初めて猛勉強したんです」。
なんでも1日10時間が日課だったそう。
「それでも、国公立は落ちちゃったんですが、勉強がふつうになり、勉強する体力がついたと思うんです。だから、大学に進んでも勉強が苦にならず、わりと勉強熱心な学生だったと思います」。
アルバイトでも、学んだ。
「バイト先は4年間おなじで、フレンチ出身のオーナーから、食のイロハ、料理の哲学を教えていただきました」。
  たぶん、新鮮だったのだろう。栄養学と料理を真摯に学んだ。
当時の話を聞くと、少しずつ、今の宇野さんがリアルなカタチになっていく。
「大学では、8割が女子ということもあって、例えばバーベキューをしようとなったら私に声がかかるんです」。
みんなのリーダー。今度は、勘違いではなかった。ちなみに、現在、WASの副社長は大学時代の友人、スタッフには、当時の後輩が5人いる。
「大学時代に飲食を経営するノウハウまですべて頭に刻みこんだと思っていました。これも、勘違いといえば勘違いだったんですが」。
宇野さんは、起業をめざす学生たちに人気の、先進的な飲食企業「株式会社Globridge」に就職する。(Globridgeについては、コチラを御覧ください。)
当時、採用に注力していたGlobridgeには、新卒50人が入社する。起業家をめざす、野心のある学生たちだ。
そのなかでも、当然、トップランナーをめざして走り出した宇野さんだったが、ふたたび挫折を経験する。
「成績は配属に左右されますし、いくらでも言い訳はできるんです。実際、分析もできています。ただ、楽勝だと思っていたのにトップじゃないことに愕然としました」。
宇野さんはそういうが、トップか、トップではないことにどれだけのちがいがあるのだろう。宇野さんは飲食に進んだ最終的な理由を、「私の生活の横にはつねに食があったから」と言っている。
栄養士の資格を取り、食品加工系の研究室では、素材から缶詰をつくる研究もしてきた。深い知識をもとめ、大金をはたいてドイツ・フランスに渡り、学んでいる。
もとフレンチのオーナーから教わったことも、トップになることではなかったはずだ。それでも「トップを取れなかった」と悔しがる宇野さんは、狙わなくても、トップを穫れるくらいに思い込んでいたのかもしれない。
それとも、宇野さんがいうトップとは、比較対象として位置づけられるトップではなく、登るべき山の頂きのようなものなのだろうか。
ともあれ、悔しがる宇野さんを評価した人がいた。 Globridgeの代表である大塚誠さんだ。

Globrideの5年間と、世界のDELLと。

<Globrideには、合計何年いらしたんですか?>
「5年です。最初の3年間は正直、消化不良でしたが、4年目からオーストラリアの新事業にタッチさせていただき、状況がいっぺん」。
異国での事業の立ち上げ。
宇野さんともいっしょにオーストラリアに渡り、現在、オーストラリアでも事業を行っている、現「株式会社REBEL」の代表取締役、堀場健太さんにも、この飲食の戦士たちにご登場いただいている。
「5年目、堀場さんは、そのまま向こうに残りますが、私は帰国し、今度は、大塚さんの下で新事業にかかわります」。
すべてが勉強だった。
「私の人生のなかで、大塚さんとの出会いはやはり大きい。 もちろん、1年ですが異国での経験もいい勉強になりました」。
「オーストラリア人は、はたらかない!」と、宇野さん。「でもね、ビジネスはちゃんとまわっているんです」と笑う。
国民性の違いだけで片付けてはいけないが、スタッフも、お客さんもただひたすら楽天的で、明るかった。
「日本じゃ、とくに飲食は、24時間365日はたらくという印象があるでしょ。それが、全然違った。でも、そのなかでも、私たちは日本の飲食人の代表選手のように、24時間365日はたらいていました。そのギャップのおかげで、私のなかに芯のようなものができた気がします」。
5年のうち、最初の3年は、凹みつづけた3年。その後の2年は、「思ってもいなかった世界へ、代表の大塚さんが連れて行ってくれた」という。
「辞めるときも大塚さんと食事をして、叱られるんじゃなく、逆に激励していただいて」。
起業家を育てるという大塚さんにとっても、望むところだろう。ただし、宇野さんは起業に走らず、転職する。その先がユニークだ。
世界のDELLである。

異文化での挫折と、起業。

「当時はまだ、飲食で起業しようとは思っていなかったんです。ただ、BtoBの経験がなかったもんですから、そのピースを埋めようと。それに、今からは何をするにしてもITを知らないといけないと思って」。
「食がつねに私の隣にあったので飲食で、今仕事をしていると言いましたが、ビジョンは、日本の文化を世界へ発信すること。これが、テーマです」。
<だから、世界のDELLだったんですね?>
「そうです。内定いただいたなかで、いちばんスケールも大きかったこともあって」。
<このあと起業ですね? これは既定路線ですか?>
「もともとは30歳までDELLで勉強するつもりだったんですが」と宇野さんは苦笑する。
「私にとっては、DELLもまた異文化だったんです。まわりとの歯車が噛み合うことがなく。不本意でしたが28歳で退職します。そのあと、じつはアメリカの企業からオファーを受け、海を渡る予定だったんですが、コロナ禍となり、アメリカ行きが実質上、不可能になりました。これが、今、飲食の世界にいる直接的な理由です」。
<どういうことだろう?>
「アメリカ行きを断念しなければいけなくなって、どうしようかと迷っているときに、オーストラリア時代の上司、現在はREBEL社長の堀場さんにオファーをいただいたんです」。
<それが、飲食だったんですか?>
「そうです。堀場さんとREBELの日本国内事業の立ち上げを、3か月(2020年の4~6月)取り組みました。コロナでの緊急事態宣言下のバーチャルレストラン事業でした。そして、私自身、起業の思いがあったので、同じくコロナ禍の下でしたが、2020年の10月14日に株式会社WASを設立します」。
ホームページで宇野さんはつぎのように、創業の背景を語っている。
<株式会社WASは、“温故知新”の理念のもと「日本の伝統を世界に発信し、未来へ感応させる。」という想いで創業しました。>
その日本の伝統とは、「UMAMI」である。

・・・続き

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2025年8月5日火曜日

株式会社ココロオドル 代表取締役社長 杉本健司氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ココロオドル 代表取締役社長 杉本健司氏登場。

本文より~

進め、美容師へ。

高校に数ヵ月通っただけで辞めている。
「当時は、さきのことは何一つイメージしていなかった」と、今回、ご登場いただいた株式会社ココロオドルの社長、杉本さん。
杉本さんは1983年8月、神奈川県の平塚で生まれている。
「中学からバスケットボールをはじめます。バスケというより漫画の世界にあこがれて。ワルい世界に憧れて、だんだんと目つきの悪い連中とつるむようになって」。
当時の平塚は「治安が悪かった」と杉本さん。ただ、高校を辞め、冷めた頭で未来をみようとすると、さすがに不安になった。
「悪くすればどこまで落ちていく気がして。さすがに、抵抗があった」と杉本さん。
「だから、つるんでいた仲間と距離を置こうと、美容室に就職したんです」。これが、杉本さん物語りの始まり。
「ぼくらの世代って、テレビドラマのビューティフルライフに影響されている人が多いんです。ぼくもその一人で(笑)。ファッションや音楽が好きだったところに、あのドラマでしょ。はたらくなら、美容師だって」。
はたらきながら、美容師の専門学校にも進んだ。
「何年か経って、当時勤めていた美容室の先輩に、代官山で美容室をオープンするからいっしょにやらないかって誘われたんです」。
<独立に誘われたのは、センスが認められたから?>と、質問すると、杉本さんは苦笑いする。
「イメージは頭のなかにあるんですが(笑)」。
まだ、ヘアスタイリストとは名乗れない。それでも、独立の舞台は代官山。心が踊った。
「でもね。競争がはげしかったからでしょうか。現実は甘くなかったです」。客が来ない。ハサミをにぎっても、髪を切ることができなかった。給料もでなかったそうだ。
当時の心境は、どうだったんだろう? 
「そりゃ、困ったなとは思っていましたが、結婚していたわけじゃないし、それに資金をだしているわけでもなかったので。ただ、給料がないと生活できないでしょ。だから、ダブルワークしていいですか? って先輩に言ってみたんです」。
<答えは、もちろん、YESですよね?>
「そりゃ、だめと言えません(笑)。ただ、ぼくのほうも、真剣にやろうってわけじゃなく、給料がでるようになるまでと思っていたんで、軽い気分でバイトをはじめます」。
美容室が終わってからのダブルワーク。はじめたのは、飲食店でのアルバイトだった。
「で、はじめてみてわかったんですが、時給換算すると美容師と比べて、断然、飲食がいいです」と杉本さんは笑う。
しかも、いまは、無給。だんだんと美容師の世界が色褪せてみえた。
「お金がすべてじゃないですが、片や無給でしょ。こっちは、深夜バイトだったこともあって、断然いい」。
<それで、飲食ですか?>
「6年も美容師でしたから、そう単純じゃないですね。いま思うと、つづけるのもありだったかもしれません、ただ、当時のぼくは、さっき言いかけましたが、頭にイメージがあっても不器用だからうまく再現できなかったんです。だから、頭のどこかで、辞めどきかなって思っていたんです」。

表参道、ファッショナブルなメガネショップ。

「先輩に話をしてダブルワークを解消させてもらって、飲食のバイト1本に絞ります」。
若かったから体力は有り余っている。「深夜までバイトして、40万円」と杉本さん。
<美容師とは大違い?>
「ヘタをすると、ダブルスコアですね(笑)、仕事はともかく、お金を儲けるっていうのは、楽しかったですね」。
ただし、その日暮らし。カリスマ美容師という、一つだけあった目標はなくなった。
<お金はどうしました?>と、聞くと、「服が好きって言っていたと思うんですが、全力で買いまくりました」。
「服と酒」と杉本さん。トレンドには、敏感。アンテナが高い。インスタグラムで、好きなブランドを追いかけた。
のちに、この時の体験が、ある結果を生むのだが、それは、つぎの話。
「フリーター生活はだいたい2年です。メガネショップに勤めて、終止符を打ちます」。
<メガネショップ?>
「表参道にある、芸能人も贔屓にしているスタイリッシュなメガネショップです。アパレルもいいかなと思ったんですが、メガネってファッションのキーアイテムですから。それに、大好きなショップだったんです」。
お気に入りの服に、お気に入りのメガネ。杉本さんは、スタイリッシュなスタイルで表参道を歩いた。
ところが、ある日、上司ともめて、退職。高校と、おなじようなスピードだった。
「辞めたのはいいんですが、メガネを売掛で買っていたもんですから、そのぶん、給料からひかれます」。
残ったのはまともに生活できる金額じゃなかったそう。困り果てた杉本さんは実家に戻り、かつてアルバイトした飲食店に顔をだした。
美容師→飲食→メガネショップ→飲食。杉本さんの社会人歴を単純化するとこうなる。ところで、その飲食店、じつはレインズインターナショナルの直営店だった。
26歳のときである。

やるか、破産か。

「特別、秀でたものは昔からなに一つありません。美容師だってテクニックがあったわけじゃないし、飲食でも、なにかが得意だったわけじゃない。ただ、変化に対応するのはうまかったんでしょうね。美容師のときも、飲食のときも、メガネショップのときだって、業種がちがっても売上だけは悪くなかったんです」。
むろん、レインズインターナショナルに入社してからも高い業績を残す。
「渋谷店で店長をしているとき、こういうのも縁なんでしょうね。コロワイドがレインズをM&Aするという話が流れだしたんです」。
<レインズインターナショナルが、コロワイドに>というのは飲食の世界で話題になった。
「渋谷の店長をしていましたが、レインズにも、コロワイドにも興味があったわけではありません。ただ、コロワイド化されていくと、ぼくとはちがう方向へ会社が進み始めるんです」。
「これもタイミング」と、杉本さん。そのとき、急成長中の飲食ベンチャーから声がかかった。
<転職回数でいうと、7回目?>
「それくらいになるかもしれませんね。ただ、そのベンチャーで仕事をしてしばらく経ったとき、美容師のときと同様、独立する先輩に誘われて、いっしょに飲食店をオープンします」。
先輩につぐ、ナンバー2だった。
<美容師のときと今回で、独立は2度目ですね?>
「そうですね。ただ、様子はちがいます。今回も、資金はだしていなかったんですが、名義を貸していたんです」。
<名義貸し?>
「独立っていうのは、むずかしいですね。今回も、業績が悪化。今回は名義を貸していたので1000万円以上の借金ができてしまうんです」。
「ロケーションに問題があった」と杉本さん。複数店舗をオープンしていただけに、赤字額も少なくなかった。
スタッフの給料が遅延する。
「家賃も未払でした。さすがにきついな、と。もう、自己破産するか、それとも、ぼくが経営者となって独立するか、です。経験上、独立してうまくいけば借金返済は可能です」。
ただ、開業資金はない。
「それで、ひとまず、ココロオドルの前身である『杉本フーズ』を設立して、ぼく名義だった西新宿の店舗を先輩から譲ってもらいます。というか、そもそもぼくの名義ですからね」。
「杉本フーズの事業目的は借金の返済」と杉本さん。
甘い誘いに乗ったことを悔やむような人ではないが、今回は、悩む時間もなかった。

・・・続き

株式会社ココロオドル 代表取締役社長 杉本健司氏

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2025年8月2日土曜日

小学校6年、下地区の公民館にて。 

 懐かしい小学校6年、下地区の1〜5年生のたちとの写真。

下地区は私1人だけだったのでリーダーでした。

私が知ってるだけでも4人が既に病気でか亡くなってます。

人生ってあっという間に終えるので悔いのないようにしたい。

キイストンのCMで、この写真使いました!

2025年8月1日金曜日

哀しいな、もう話せない・会えない。

2023.9.23  送ったショートメール、これがTさんとの最後となりました。

「声が聞けて良かったです!

俺にとっては学生時代の1番信頼出来る大切な人なんで、少しでも元気になってもらわないと、いじられませんからね(笑)

細見」

それから気にはなってましたが、何かあったら連絡あるだろうと思ってたので、このまま月日が経ち、何か虫の知らせか分かりませんが、気になってケータイに電話してみたら「現在使われておりません」と…。

嫌な予感したので、Tさんを知ってるところに連絡したら、メールの返信あり、“亡くなってた“と。

今年亡くなったことは分かりましたが、かなりショック受けました。


Tさんと初めて会ったのが、45年ほど前の大学1年生の夏の全体育会の1〜2年合同合宿の時でした。

道中のバスの中で後ろの席に陣取り、騒いでて超ウザかったのがTさん、合宿先でもウザかったのは記憶に残ってます。

それが、不思議とまたまた1年弱に体育会の依頼で選挙応援することになり、同じエリアに住んでたTさんと一緒に市会議員の選挙応援で駆り出された。

期間は3〜4週間だったと思う。

これがあったから、Tさんとすごく熱くて濃い間柄になりました!

「えっ、なんでまた超嫌なTさんと一緒?…」という気持ちでしたが、俺のことがいじりやすかったのか、日を重ねるごとに会話が弾んでいきました。

当時、19〜20歳の学生の私たちは、選挙ポスターを貼ってもらうため個人宅に飛び込み、お願いして回ったが、Tさん1位、私は2位と勝てませんでした。

話はおもしろくて、うまいし頭はキレるし、また候補者演説の司会、応援カーでのアナウンス嬢ならぬアナウンス男子!

当時Tさん、20歳じゃなかったかな…。

俗に言う天才肌の人でした。

振り返ると、この経験が後のリクルートで実績作れたキッカケかもしれません。

Tさんとは、その後何故か縁は切れず、社会人になっても繋がってました。

いつも頑張ってる私をまるで弟子を見るかのように一目おいてくれてました。

そんなTさんが亡くなったので、また1人理解者がいなくなり、寂しい限りです。

辻(谷口)浩一さん、お墓参りに行きたいです。


2025年7月29日火曜日

株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏登場。

本文より~

ユーモアいっぱいの剣道少年。

無口で職人気質の電気技術者である父と、明るく社交的な美容師の母の第二子として生まれた島田氏。幼少期は明るくユーモアがあり、友人も多かった。
小学校前半で野球に熱中するも、4年生の時剣道に転向。中学でも剣道を続け初段を取得した。しかし、その後進学した帝京八王子高校には剣道部がなく、他に打ち込むものも見つからなかったため帰宅部に。
「厳しい学校でアルバイトは禁止だったんですが、通学に片道1時間かかる距離を逆手に取り、地元の馬車道グループでこっそりバイトしていました」。
と当時を振り返る。

“一国一城の主”を夢見た学生時代。

高校卒業後、帝京大学に入学。「18歳の時には、一国一城の主になりたいと思っていた」と語る通り、大学の授業は必要最低限にとどめ、バーテンダーを目指し、羽村市小作台で「Kitchen Bar麦」や「おかず屋でん」を経営していた有限会社麦企画にアルバイトとして入社。学生時代の4年間を麦企画で過ごした。
就職活動はせず、卒業後はワーキング・ホリデーを選択し、単身オーストラリアへ。ゴールドコーストのマリンスポーツ会社で1年間働いたものの、「自分探しのつもりだったんですけど……結局、何も見つかりませんでしたね」と苦笑い。帰国後は再び麦企画の門を叩き、正社員として勤務することになった。
「麦企画では飲食店の楽しさを覚えました。FL管理なども学んだのもその頃です」。
と謙遜するが、2002年9月の立川店オープン以降、勢いに乗っていた麦企画での経験はかけがえのないものだったと語っている。後に妻となる女性と出会ったのも、この麦企画時代だった。

“夢見るフリーター”が掴んだ転機。

27歳で独立を決意した島田氏は、麦企画を退社。父親と同じ電気工事の仕事に就きながら、独立準備を進めていた。
そんなある日、地元で居酒屋を営む知人から異業種交流会に誘われる。
「その人に『会費、5000円な』って言われたんですけど、当時ぜんぜん金がなくて。奥さんに『この日だけはどうしても』ってもらった5000円を握りしめて、その異業種交流会に参加したんです」。
異業種交流会といえば名刺交換。島田氏が用意したのは、肩書きに「夢見るフリーター」と記した自作の名刺だった。
この一文に強く反応したのが、ラーメン業界で名を馳せる五ノ神製作所の伊藤社長だ。
「“夢見るフリーター”か。君、面白いね」。
という伊藤社長の言葉に対し、島田氏は、「今は“夢見てるだけの”フリーターですけど、いつか店を出します」と、ユーモアたっぷりに切り返した。
機転の利いた会話術は、子どものころから変わっていないようだ。
「伊藤さんに、『これからどんな店をやりたいの?』って聞かれて、手打ちうどん居酒屋の話をしたんです。そしたら『うどんの売り方はわからないけど、ラーメン作りなら教えてあげれるよ?』って誘ってくれて」。
麦企画で居酒屋の経験があり、地元には「武蔵のうどん」というご当地うどんがあったこと、さらに若者のアルコール離れを考慮し、「昼は手打ちうどん、夜は居酒屋」というスタイルを考えていた島田氏にとって、ここで初めて「ラーメン」という選択肢が浮上する。
「『独立したいと思ってます。それでもいいですか?』って聞いたら、『いいよ』って。それで翌日に電気工事の仕事を辞めて、その次の日には五ノ神製作所に入社しました」。
電光石火の決断が、彼の人生を大きく変えることになった。

“自分の味”で勝負。

「本当は5年くらい修行するつもりだったんですけど、妻が信じている風水の先生に『今が絶好のチャンス。この機を逃すと(この先)10年は独立しないほうがいい』って言われて、勢いで独立を決めました」。
伊藤社長に独立の旨を伝えると、「お前、そんなんで独立するのかよ」と呆れつつも、「じゃあ、何ラーメンをやるんだ?」と問いかけられた。
「え?僕は何ラーメンを作るんだっけ?」。
独立したい気持ちばかりが先走り、何を作るか考えていなかったという島田氏。仕事の帰りにコンビニに寄り、カップラーメンコーナーをじっと眺めていると、ある事に気づいた。
「売り場の3分の1を、某大手企業のカップ麺が占めてたんですよ。で、“愛され続けて30年”ってキャッチフレーズを見て、『よっしゃ、この味なら30年は大丈夫だ!』って思って、チリ・トマトヌードルと、シーフードヌードルとカレーヌードルでいこうって決めたんです」。
さっそく、「3つ揃って、カッパヌードルでいきます」と伊藤社長に報告。それを聞いた社長は、心底感心したように「お前、成功するわ」とつぶやいた。
肝心の物件探しは難航した。やっと見つけたのは、横並び3軒の真ん中で、その3軒とも4~5年間空室という 、いわゆる“死に物件”。唯一のメリットは、広さ14坪で家賃9万円、駐車場5台分を借りて合計12万円と格安なことくらいだった。
「こういう店を嫌う人は多いけど、僕は嫌な感じしなかったですね」。
この実用的な判断力もまた、島田氏の強みだろう。
開業資金は、信用金庫からの借入金600万円に自己資金を加えた800万円。居抜き物件だったこともあり、改装費は可能な限り抑えた。風水の先生から「入口に龍の絵、反対側には虎の絵、盛り塩も」とアドバイスを受け、邪気払いも怠らなかった。
2012年3月24日、米軍基地の町・福生市に「カッパヌードル」をオープン。伊藤社長の支援や、モジャモジャ時代のファンの口コミが功を奏し、初月から200万円を売り上げた。
天下の〇ップヌードルをパロディにした店はすぐさま話題となり、テレビ出演の依頼も舞い込んだ。これで一躍ブレイクかと思いきや、突然、屋号や商品名の変更を余儀なくされる。俗にいう、“大人の事情”というヤツである。
落ち込んでいても仕方がないと、「カッパ64」として再スタート。チリ・トマトヌードルも「トマトラーメン」に変更した。ちなみに店名の「64」は、九九の「八八(はっぱ)64」とカッパを掛けたものらしい。
「JRのポイントカードをパロディにしたポイントカードも作りましたけど、こっちは何も言われてません(笑)。やっぱり、お店を出すときは、どれだけ口コミされる要素を持てるかが勝負だと思うので、ユーモアは大事にしてました」。
このセンス、さすがとしか言いようがない。

・・・続き

株式会社カッパジャパン 代表取締役 島田拓郎氏

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2025年7月28日月曜日

常に心がワクワクする仕事心掛けてます。

ここ数年で飲食店とアニメやゲームのコラボがとても多くなりました。
それだけ効果がいいんでしょうね。

キイストンも複数のコラボにも関わってますが、飲食店舗を活用した、もっと心が躍るワクワクするイベントなどもやってみたいな・・・と。

「飲食の戦士たち」のおかげで、キイストンも業界内での認知が出てきて仕事になっております。
少しでも飲食業界に恩返しができれば・・・。

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2025年7月25日金曜日

7月23日、25日と金井智秀氏、Yahoo!ニュースに2掲載されました!!

スシローのグループ会社の杉玉の立ち上げから社長経験もされた株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏、Yahoo!ニュースにも掲載!!

さる4月25日、オランダ第2の都市、ロッテルダム(人口約65万人)に日本食レストランがオープンした。店名は「MUSUBU結」。店舗規模は30坪・50席、フードメニューはとんかつ、すし、もつ煮、肉じゃが、等々、全部で約70品目、日本の大衆的な定番はほとんどそろっている。客単価は昼が25ユーロ(3500円から4000円あたり)、夜は50ユーロ(8000円あたり)。夜の50ユーロとは、日本で食事をする感覚では3500円あたりに相当するという。要するに、日本の大衆的な居酒屋である。・・・(前編)

Yahoo!ニュース前編


このお話は、飲食業の経営者やコンサルタントとして活動してきた人物「金井智秀」氏が、50歳を期にしてオランダで飲食業をスタートさせたというもの。ここのポイントは、「なぜ、オランダなのか?」「これから、どのようなことを考えているのか?」ということだ。
・・・(後編)

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2025年7月23日水曜日

ホイッスル三好様の「揚州商人」、スゴいプレミアム会員誕生!!(Yahoo!ニュースより)

Yahoo!ニュースより。

「月額費300円で、1回の食事が1560円お得になる」会員制度をつくったラーメン店「揚州商人」


「月額費300円で、1回の食事が1560円お得になる」――このような会員制度を、7月16日より行っているのが、“中国ラーメン”を標榜する「揚州商人」である(経営/株式会社ホイッスル三好、本社/東京都杉並区、代表/三好一太朗)。この内容について、一例を挙げると、「杏仁豆腐:無料(通常価格510円)」+「生ビール2杯:300円×2(同670円×2」+「パーコー:310円(同620円)」となっている。このサービスは、同社が2021年8月より導入している会員制度「プレミアム会員」の更新版である。
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2025年7月22日火曜日

スシローのグループ会社の杉玉の立ち上げから社長経験もされた株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” スシローのグループ会社の杉玉の立ち上げから社長経験もされた株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏登場。

本文より~

金井、少年の話。

「瀬戸内海の小波しか知らんやつらに、ハワイの大きな波を知ってほしいんじゃ」。
波に向かって、お父様は、そうつぶやいた。
この一言はハワイで行われるヨットレースに色々なメンバーを載せて苦戦が続き、「これだけ大金をかけて、なぜ負けるレースをするのか」とお母様に詰問された時のお父様の回答。当時、お父様は西日本ヨット協会の会長だったそう。
今回、ご登場いただいた株式会社GRACIASの代表、金井智秀さんは1974年、広島で生まれる、お父様はパチンコ店などのアミューズメントパークやタクシー会社を経営。事業のかたわら、上記の通り、法政大学ヨット部でキャプテンを務め、西日本ヨット協会の会長も務められていたそうである。
もう一つ、「祖父も、父も、広島の暴力団追放の会の会長だった」と金井さん。「うちの会社のパチンコ店に銃弾を打ち込まれたこともある」というからおだやかではない。
「祖父が釜山から日本に渡ってきます。これが我が家のルーツです。祖父は広島の朝銀の理事長も務めていたそうです。父もそうですが、2人とも周囲からの人望が厚かったそうです」。
言葉の端々から、お祖父様やお父様を尊敬している金井さんの様子が読み取れる。ただし、祖父も、お父様も金井さんがそれぞれ13歳、17歳のときになくなっている。
「私は、中学から千葉県の暁星国際に入学し、寮生活を送っています」。サッカーが上手く、ブラジル留学に行ったと聞いていたから、サッカー推薦かと思っていたが、これが、金井家の教育方針だったよう。
「兄も姉も、全寮制の学校に進んでします」。お姉さんに至っては、歩いていける学校で、寮生活を送っていたそうだ。
「中学でも、もちろんサッカー部」という金井さんに、<ところで、千葉でしょ。広島弁は?>と聞くと、「そうなんです。だから、最初のあだなはヤクザでした」と爆笑する。
温厚な顔つきだが、怒らせれば怖い。方言だけではなく、威圧感があったにちがいない。
「暁星国際は、中高一貫校です。私は、サッカー部では1年からレギュラーでした」。さすが、ブラジルに留学するだけある。「最初はフォワードだったんですが、だんだん試合を支配するミッドフィルダーになっていきます」。
この話を聞いて、今の金井さんのルーツがわかった気がした。
「一方、寮生活でも室長や、寮長も務めます。生徒会でも、体育委員を6年間、体育祭の実行委員長も務めました」。
<すごいですね?>というと「サッカーはともかく、寮長になったのは、『毒をもって毒を制すためだ』って、先生らに言われてました」と笑う。
おおよそ、ここまでが金井さんが、子どもだった頃の話。
ちなみに、金井さんによると、「父が他界してからは、相続争いもあって、父の会社は事業縮小し、かなり前になくなっている」とのことである。

日本LCAへ。冒険の始まり。

金井さんの最終学歴は、武蔵大学、経済学部金融学科中退となるか、千葉県私立暁星国際高等学校卒となるか。
「高校を卒業し、2年浪人して武蔵大学に進むんですが、カプリチョーザでバイトにはまって2年生の途中で辞めてしまいます。なので学歴は高卒になってします。1996年ですから、22歳のときですね。母方の叔父が経営する株式会社コリーヌに就職して、 サンマルク高知知寄店の店長に就任します」。
金井さんからいただいたプロフィールによれば、「サンマルク全国100店舗の『顧客満足度アンケート評価』で全国一位を獲得」とある。
大学中退、高卒、いずれにしても、サンマルク店長が、金井さんの経歴の始まりとなる。
簡単にご紹介する。
1996年:株式会社コリーヌ入社
1999年:日本LCA入社
1999年:株式会社イデア・リンク設立・取締役就任
2004年:同社の代表取締役専務に就任(翌年 代表取締役社長)/株式上場(IPO)を目指し事業計画策定、企業運営に従事する。
<日本LCAに入社した理由は?>と聞いてみた。
「縁があったのはたしかですね。じつは当時、付き合っていた彼女が、勝手に色々な会社に履歴書を送ったんです。僕は学歴がないからどこも入れないと思っていた」と笑う。日本LCA以外にも送っていたそうだが、縁があって、日本LCAに入社することになったのだという。
日本LCAは、当時、東証二部上場のコンサルティング会社である。ベンチャー・リンクは関連会社で、サンマルクを通し、縁があった。叔父さんの会社、コリーヌは、顧客の1社でもあったそう。
「入社すると、高卒は私だけ。アウェイです。私以外は、早慶、関関同立が当たり前、東大生、京大生もいましたからね」。そもそも、彼女が送った一通の履歴書がはじまり。そこからして、ユニークだ。
「学歴はなかったですが、私はサンマルクで現場の実践経験を積んでいます。だから、実践力はちがいます」。
日本LCAに入社した金井さんは、フランチャイズ支援事業部に配属され、フランチャイズ本部の展開支援を行っていく。
「じつは、サンマルクで店舗の経験を積んだあと、ある会社で、物件開発の営業職も経験していたんです。だから、残すは経営だと。日本LCAに入社したのは、経営を学ぶという意図もあったんです」。
実践レベルから、経営をみることができる金井さんは評価され、入社して半年で、株式会社イデア・リンク(現イデア・プラス)設立とともに、取締役に就任する。
「朝礼で人事が発表されるんですが、私もぜんぜん知らなくて。私ともう一人が抜擢されたんですが。もう一人は若手のエースでしたから、みんなそうだよな、ってなって。でも、『もう一人のあいつはだれだ?』って(笑)」。

社長、就任。

社内でも、ノーマークだった青年が、4年後、代表権をもち、その翌年には社長に就任。IPOに向け、爆走する。
「その原動力になったのが、『銀のさら』です。5年で上場と決めていましたので、そのためにはセールスが60億円で、事業の平均利益率は11%で7億円。新店の開業費やその他の経費を引いても上場できる業績になります。父の会社の衰退をみていたからでしょうね。資金繰りはネガティブに考えるタイプなんです。だから、慎重に数字を組み立てます」。
資金繰りにはネガティブだったが、事業はポジティブに動かしていく。「銀のさら」については、金井さんより、むしろ親会社の日本LCAが展開に慎重だった。半年で24店舗を出店する計画を作成したからだ。だが、金井さんは社内の慎重論まで押し切り進めていく。
「銀のさら」をスタートさせたことで、すべてが一気にふくれあがる。
「店舗数もそうですし、社員も20人からいっきに100名です。しかも、最初はまったくうまく業績が立ち上がりません。大流血です。さすがに会長からも、『もう出店はするな』と」。
<いま振り返っていちばんつらいときは>と聞くと金井さんは、この時の話を挙げる。
「銀のさらの本部からもすぐには利益があがらないと聞いていたんですが。それでも当時、宅配すしってブルーオーシャンだったんです。だから、アクセルをふんだんですが」。
2ヵ月経っても、3ヵ月経っても業績は上向かない。途方に暮れる。判断が間違っていたのか。「でもね。4ヵ月目になって、あれ?って。はじめて黒字化するんです」。
なんで、なぜ? コンサルだけあって、偶然では片付けない。
「すると、一定の法則がみえてきたんです。具体的には、ある一定の顧客数になると、黒字化するという法則です。もちろん、お客様のセグメントなど、多少、異なるファクターはあるんですが、4ヵ月かけ、ある程度の認知を獲得できたから黒字化したと仮定してみたんです」
「だったらね」と金井さんはニヤリと笑う。
金井さんはさらに大胆な戦略を立て、果敢に打って出る。
「本部の制御を振り切って、オープンと同時に半額キャンペーンをはじめます。最初、『全品半額』ってやったもんだから大パニックになっちゃって(笑)。ただ、認知度はオープンと同時にアップして。このあと開店する店は半額は3品に絞るんですが、それでもめちゃめちゃ売れて、初月から利益がでるようになります。それ以外にも思わぬ副産物ですが、メニューを絞って沢山売れた事がスタッフのいいトレーニングになったんです」。
この金井さん流の戦略が大ヒットし、予定通り半年で24店舗も「銀のさら」をオープン。そのあとも出店を継続した。オープンすると、とたんに黒字化するから会社の利益もアップする。またFC本部ではなく、イデア・リンク単体で関西限定ながらTVCMも放映した。「放映料が5000万円。さすがに慎重な意見もありましたが、私達のシミュレーションでは、十分採算がとれると判断。電通さんといっしょにしかけます」。
子どもが100点とったり、サッカーでゴールを決めたりした、ちょっといい日に「銀のさら」、というシンプルな広告。これがまた功を奏す。
「結構順調で、私のミッションだったIPOまで、あと一歩だったんです」。
<だった?>
「そう、親会社の業績が悪くなって」と、金井さん。
「なにが苦しかったかっていうと、社員に上場すると宣言していたもんですから。みんな会社を信じて。持株会もあったし、上場に期待している人もいたんですよ。でも、できない。みんなでめちゃくちゃがんばってきたのに。親会社のせいだなんていえないでしょ。もちろん大きくなれたのも親会社のおかげだし。誰のせいにもできず自身の罪悪感が大きくなりました」。
仕事に集中できず、「会社を抜け出して近所のゲームセンターに逃げ込んだこともある」と、肩を落として笑う。
その昔、お父様が若い選手たちにハワイの大波をみせたように、金井さんも、多くのスタッフに、彼らがみたこともない世界をみせてやりたかったにちがいない。だから、肩を落とす。

スシローで、<鮨居酒屋 杉玉>を開発する。

温厚なタイプだが、怒ると怖い、という印象。そういうことはもう書いた。このとき、金井さんは、なにかに向け、怒っていたにちがいない。その一方で、悔しくて、申し訳なくて、ゲーセンに逃げ込むことしかできなかったんだろう。
話を進めよう。
このあと、金井さんは、イデア・リンクのM&Aを完了させ、代表取締役を退任。株式会社GRACIASを設立して、代表取締役に就任。経営コンサルティング業務をスタートする。
その一方で、コリーヌ、そう、あのサンマルクを運営していた、金井さんのスタート地点でもあるコリーヌにもどっている。今度は、店長ではなかった。スポンサー選定した上でプレパッケージ型の民事再生を実施する。
倒産から救ったという見方もできるが、結果としては反省の多い毎日だった。
この時、生まれた縁もあって、今度は、スシローにこわれて入社している。もう一度、時系列で追いかけてみよう。
2016年:株式会社セントリングス取締役に就任(2022年退任)
2017年、株式会社スシロークリエイティブダイニング 代表取締役に就任。
<「鮨居酒屋 杉玉」を開発されたのは、このときですね?>
「そうです。最初は、コンサルティングから入って、杉玉の事業開発をして、その後に取締役に就任させてもらいました」。
「鮨居酒屋 杉玉」は、回転寿司チェーンの「スシロー」が手がける、大衆寿司居酒屋。酒蔵などで新酒ができたことを知らせるために軒先に吊るされる、スギの葉を集めてボール状にした「杉玉(酒林)」が、ネーミングの由来。
金井さんのセンスがうかがえる。
<ただ、このあと、退任され、スシローを離れていらっしゃいますね?>
「2019年の年末ですね。もちろん、つづけていくという選択肢がありましたし、それがいちばんだった気がします。経済的にも、スケールだって、やれることも沢山るし、やはり企業規模がでかいですからね」。
<そのぶん、できることもでかい?>
「そうです。でもね。これでいいかなって。うまく言語化できないんですが、安定していることで逆に不安になるんです。自分がいなくてもできると思うし」。
約束された年収、未来、それは冒険でもなんでもなかった。
「瀬戸内海の小波じゃ、私も満足できなかったんでしょうね」と、金井さんは笑う。

・・・続き

株式会社GRACIAS 代表 金井智秀氏

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2025年7月17日木曜日

7月14日、フードスタジアムに掲載頂きました。

 フードスタジアムに掲載頂きました。

【内側の人たち】連載1,100回を達成した「飲食の戦士たち」を運営する株式会社キイストン 細見 昇市社長スペシャルインタビュー!

ありがとうございます。
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン



2025年7月15日火曜日

株式会社ホイッスル三好 代表取締役社長 三好一太朗氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち” 株式会社ホイッスル三好 代表取締役社長 三好一太朗氏登場。

本文より~

曽祖父、祖父、父、そして。

日本の敗戦で、日本と中国は戦勝国と敗戦国の関係になった。今回、ご登場いただいたホイッスル三好の2代目社長、三好さんの曽祖父様が事業を起こしたのは、そういう頃だった。
「初代の曽祖父が来日したのは日中戦争の頃です。床屋からスタートして、日本人女性と結婚します」。
曽祖父、祖父、父。初代の曽祖父から数えると、三好さんで4代目となる。だから三好さんは、「ワンエイス(1/8)」だそう。
「曾祖父が日本に来て年月が流れ、生まれたハーフの祖父は、戦後、千住大橋でラーメン『正華』をオープンします。これは太平洋戦争のあとで、中国は戦勝国でしたから、その特権で、小麦がいくらでも手に入ったそうです」。
-------かなり繁盛したそうですね?----
「ええ。のちに浅草の雷門の近くに5階建のビルをつくり、新たに店をオープンします。祖父は事業家で14軒くらいの飲食店をつくったそうです。日本ではじめて会員制のバーをオープンしたとも聞いています」。
飲食だけではなかった。パチンコ店もオープンし、利益は相当、膨らんだ。「鬼怒川にロイヤルホテルがあったんですが、それも祖父の事業の一つでした」。
少し気になって「鬼怒川ロイヤルホテル」を調べてみると、創業は1962年。創業時の名称は「ホテル正華」だった。ラーメン店とおなじ「正華」。ちなみに、「鬼怒川ロイヤルホテル」となったのは1972年のこと。
祖父は、日本に帰化し、松田と名乗った。
「三好というのは、祖母の姓です。私の父は4人兄弟の3男で、大学を卒業して、祖父が経営する中華料理店に就職します」。
ウエイターからスタートしたお父様だったが、半年で専務に昇格。前回、お父様である三好比呂己氏にインタビューさせていただいたときに、お父様は当時のことを次のように振り返られている。
「父(三好比呂己氏にすれば祖父)が事業家で、私といったらお金持ちのボンボンの典型です。父の中華料理店に就職したときも、次期社長くらいに思っていてね。ところが、入社すると『ウエイターからはじめろ』と言われるんです」。
「ウェイター?」、様子がちかうぞ。

父、三好比呂己の話。

「突き放すようなトーンだったもんですから、あのときは、いくらチャランポランな私でもさすがにまずい、と。だから、心を入れ替えて、がむしゃらにはたらきました。そうこうしているうちに、半年が経ち、父に認められたのか、専務に昇格します」。
「しかし、半年、がむしゃらにはたらいてきたでしょ。そう長くつづきません。当時、鬼怒川のホテル(「ホテル正華」のこと)がオープンして、父はそちらにいたもんですから、私を監視する人がいない。そうこうしているうちに、またいい加減な性格が顔を出して。今度は、ぐうたら専務の出来上がり。専務という立場ですから、そりゃ、まずいですね」。
お父様である三好比呂己氏が25歳の頃の話。
「それから3年経った頃に、祖父がからだを悪くして、専務の父が会社を継承するという話になったそうです」。これは、三好さんの言葉。
「で、社長業なんてできないと悩んでいたときに、あの自己啓発プログラムに出会ったそうです」。
三好さんが「あの」というのはアメリカの教育家ポール・J・マイヤーの提唱した教育プログラム「サクセス・モチベーション・インスティチュート」(SMI)のこと。
のちに、お父様の三好比呂己氏は、SMIの代理店をつくり、7年連続、セールス世界1位を獲得されている。こちらについては、お父様にインタビューさせていただいた前回の記事に詳しく描かれている。2億円の遺産をけり、裸一貫で飛び出されたときの様子も含めて。

167人中、165番目。

「ここまでは、私が生まれる前のお話です」と三好さん。
ちなみに、裸一貫でスタートしたお父様は、SMIプログラムの代理店の権利を獲得し、セールスを開始。のちに「株式会社ダイナミックスパースンズ東京」を設立。
設立2年目から7年間、世界一を獲得。なんでも世界に3000社の代理店があり、1万人のセールスマンがいるなかでの世界一。快挙である。
「株式会社ダイナミックスパースンズ東京」の設立は1985年とあった。三好さんが生まれる2年前のこと。
それはともかく、ここからは改めて三好さんの話を始める。
「運動できないし、勉強はもっとできない少年だった」と三好さんは笑う。
「中学2年生の頃ですが、この成績ではどの高校にも進学できないと太鼓判を押されたくらいです(笑)」。
-------社長にもそんなときがあったんですね?-----
「長男がボンクラのままじゃいけないってことで、とにかく、次々と習い事をさせられ、塾にも通います。でも、いっこうに成績は上がりません(笑)」。
------なにか別なことに興味があったとか?-----
「ズバリ、そうなんです。うちの父もそうなんですが、とくに叔父がモーター雑誌で有名な『三栄書房』の創業者で、自身もレーサーで大会で優勝もしたこともあって、何よりあのカーオブザイヤーの審査員長でした」。
ポルシェ911にも、BMWにもよく乗せてもらったという。
「そういう叔父の影響をもろに受けて、車に興味をもち、スポーツができないのに、将来、レーサーになると誓っていたんです」。
レースのテレビゲームに熱中。スポーツはかろうじてサッカーはしたが、勉強はまったくしない。
------レーサーとはかっこいいですね?------
「目標はかっこいいんですが、さっきの中学の話でいうと、生徒数が167人で、私はちゃんと学校にも通っていたんですが、165番目でした。中2になった頃、あまりの成績の悪さに、父が激怒して3人の家庭教師をつけられてしまいます」。

猛特訓の結果は?

1日10時間の猛勉強。「猛特訓」といったほうがいいかもしれない。
「父の昔を知ると、チャランポランな性格をちゃんと受け継いだんだなと笑いたくもなりますが、当時も、今もですが、父は私にとっても偉大な存在です」。
------お父様とお祖父様のような関係ですね?------
「かもしれません、私の人生は、すべて父がレールをひき、その上をトロッコ電車のように走るノロマな存在が、私だったんです」。
サーキットをかけるレーサーとは、だいぶ、異なる生き様だった。
もっとも、10時間の猛特訓は伊達ではない。最終的には英語ではトップ校に合格するレベルだったそうだ。
ただし、高校進学は、三好さんが思い描くようなバラ色ではなかった。

高校1年生。親子の盃?

高校に進学したものの、たのしい高校生活とは無縁だった、と三好さん。
------玉川学園高等部に進学されています------
「ボンボン高校です(笑)。合格が決まり、これで父の呪縛からも解放されたと思ったその日のことです。父が、初めて『オレの事業を、継ぐか、継がないか、どっちだ?』っていうんです。そりゃ、少しは、父の事業にも興味があったのは事実です。しかし、レーサーにチャレンジしてもいない。だって、高校1年生ですよ」。
ちなみに、お父様が「継ぐか」といったのは、世界トップを獲得したダイナミックスパースンズ東京ではなく、のちにオープンした「中国ラーメン揚州商人」を経営するホイッスル三好のこと。
------高校1年生、それはまだ決められないですね------
「でしょ。でも父は迫るわけですよ。最初はレーサーが、ぐるぐる頭のなかをかけまわっていたんですが、だんだんと、そうはいえないような気になって。4代目という響きも悪くない」。
「それで、『継ぐ』といったら、父は『そうか』といって、語り始めるんです。なにか特別な、秘伝みたいなもんだろうかと思っていたら、先代、つまり父が『オレも言われて、その通りにしてきた。先代のいうことは絶対、逆らうな』って。先代が、白といえば、カラスも白だって」。
まるで、親分、子分。
最初の指令が親分のお父様から下りる。
------アルバイトの話ですね?-----
「そうです。『継ぐんだったら、じゃあ、アルバイトだ』と。父の相手、つまり私ですが、まだ、高校生ですよ。父親が高校1年の息子に言いますか? でも、もう、父の命令は絶対です」。
マクドナルド下北沢店9ヵ月、サイゼリヤ浜田山店半年、お父様のお店でもある揚州商人9ヵ月、ポポラマーマは4ヵ月、どうとんぼり神座4ヵ月。合計32ヵ月。単純計算でいうと、高校生活36ヵ月のうち、32ヵ月、バイトしたことになる。
「部活もできないし、勉強もできない。高校から、跡継ぎ修行です」。僧侶の修行のような厳格な、精神修行のようなイメージがある。
------印象に残っているバイトはあるか?------と聞くと、マクドナルドと三好さん。なんでも鉄拳がとんできたという。
「ミスを連発していた私も悪かった。でも、胸ぐらをつかまれてね。その日は、泣きながらバイトです。父に恐る恐る辞めてもいいかと聞くと、『いいよ』って軽く言うんです。いいんだって胸をなで下ろすんですが、そのあと、『だがな、いま逃げ出すか、皆から惜しまれて辞めるか、そのちがいは大きいぞ』っていうんです。ピュアな高校生には、その一言が刺さります。『だよな』って」。
改心して高校生は目覚めたようにシフトを入れまくって、ときには学校まで休んだ。ボンクラが、貴重なプレイヤーになるまで、9ヵ月。
「9ヵ月経った頃、数ヵ月前、私を殴った先輩が猫なで声で『これからも頼むわ!』って言うんです。その一言をきいて、『じゃぁ、辞めさせてもらいます』と(笑)」。
恨みがあったわけではなく、目標を駆け抜けたから。
「もともと父から5ヵ所って数字も指定されていたんです。だから、マクドナルドだけにいるわけにはいかない(笑)」。

高校時代の修行が終了。大学に進学すると、深夜のシフトに入れと、指令が下りる。

「2件目は、サイゼリヤと決めていました、マクドナルドともちがって、こちらも衝撃的でした。すべてが、合理的。歩幅から、からだの向きまですべて理論立て、計算し尽くされています」。
感動した、と三好さん。あまりに感動して、毎日、マニュアルを読んだ。
「そういう一つひとつが、頭に残るんです、学校では、教えられない貴重な体験でした。もちろん、まだ2件目、3件目は、父が経営する揚州商人のオープニングに入れと、初めて父から指定されます。経営者の息子っていうのは、シークレットにして、オープンに参加します。店長だけには、父が言っていたようで、だからでしょうね。周りが驚くほどこっぴどく叱りながら育ててくださいました」。
「効率や、合理性でいうと、マクドナルドやサイゼリヤと比較するまでもありません。ただ、父はSMIプログラムの世界一の経営者です。気合と根性と言えばそれまでですが、店全体がモチベーションにあふれて、お客様へのハートは、マニュアルやシステムとはちがう、強烈なパワーをもっていたように思いますね」。
------そのあとも、ポポラマーマと、どうとんぼり神座、こちらもお父様の指示?------
「いえ、揚州商人以外は、すべて私が決めてはたらきました。神座で修行終了かというと、そうではありませんでした。大学に進んでからは、深夜の仕事ができるようになるでしょ。だから、1年間、揚州商人の深夜の現場ではたらきます」。
------勉強きらいで、チャランポランな三好さんはいったい、どこにいったんでしょうね------
「そうですね。なんだかんだと言って、父親が絶対だったからでしょうね。今思うと、きょうだいは私の下に妹と弟がいるんですが、長男の私に、父も母も何かを掛けていた気がします(笑)。大学2年生になると、『もう現場はいい』といって、ちがった宿題がでてきました」。
------どんなふうな?------
『今度は、これはと思うショップに行き、レポートしろ』って」。
レポートは200店を超えたそう。なかでも印象に残っているのは? と聞くと「モンスーン・カフェ」との回答。グローバルダイニングの名店だ。
「記憶に残っているのは、サービスもそうですが、やはり料理ですね」。
息子がマーケットリサーチに精をだす頃、父親が経営する「揚州商人」は、初めて赤字を計上していた。「私が大学3年の夏かな。父がはじめて弱音を吐くんです。『赤字の原因は、オレの経営ミスだ』って。父は『出店を急ぎすぎた』というのです」。
-----初めてのお父様の弱音、どう受け取られましたか?------

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