“書籍出しませんか?“
https://www.keys.ne.jp/
“書籍出しませんか?“
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社サガミホールディングス 代表取締役社長 大西尚真氏登場。
「『味の民芸』は、サガミが東京にはじめて進出した際、モデルにしたうどんチェーンです。ただし買収時点ではブランド力が低下し、業績も落ち込んでいたのです」と大西氏は振り返る。
<原因はなんだったと分析されていますか?>
「小麦の質を下げて原価を抑えたことが最大の要因でした」。
<つまり、味が落ちた?>
大西さんは、深く頷く。
買収前にサガミの役員たちは「味の民芸」に覆面調査に出向いたそう。当時、役員だった大西さんも、その1人。
「おいしければ勝ち。その逆が負け。7店舗まわって0勝7敗。全敗でした」。
役員のなかでも大西さんの評価はもっとも厳しかったそうだ。その厳しく採点した大西さんが共同代表として経営に参画することになるのだから、縁とはわからない。
ミッションはV字回復。
0勝7敗の重みが、大西さんにのしかかる。
「当時、サガミは仲間という意識で買収に臨みます。ただ、現場では融和的とはいきません。仲間だからこそ、今までのやり方を否定しないと、ともに進むことができないんです」。
「実をいうと」と大西さん。
「最初は、私も客数が何人、うどんが何万食、サガミは生産ラインをもっていますから、うまくいけばその売上で買収コストを償却できるなと電卓を叩いていたんです。でも、二つの会社が一つになるのは、そう簡単なことではありませんでした」。
大西さんは当時を思い出しながら慎重に言葉を紡ぐ。
「私のミッションは『味の民芸』をV字回復です。現状を否定しないといけない立場です。ただ、従業員はみな『味の民芸』に誇りをもっていました。それ自体は、もちろん悪いことではありません。ただ、私からすると、それが大きな障壁でした」。
外様の代表に冷酷な目が注がれる。
「ただ、いつだったかな。サガミの社章を外して出社したんです。目ざとく気付いた、ある社員が『社章、どうされたんですか?』って聞くもんですから、『だって、オレはもう味の民芸の人間だから』と言ったんです。すると、その一言で、周りの表情がかわるんです。どうやら『数年でサガミに戻るんだろ』と思われていたようなんですね」。
それが一つのターニングポイント。
信頼という空気に包まれたことで、大西さんの言葉がスタッフの心に届くようになる。
「調査結果は0勝7敗。すべての店舗が期待を下回っていた。しかし、ここから新たに始めよう」と店長やマネージャーたちに伝えたことが、再生の出発点となった。
じつは大西さんには、以前にも「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。2019年のことで、すでに「味の民芸フードサービス株式会社」の代表取締役社長に就任されていた。
当時のお話を思い出しながら、簡単にプロフィールをご紹介する。
大西さんは1962年、岐阜県の<徹夜踊りと城下町>で有名な「郡上八幡」に生まれる。小学4年生から夕刊の配達をはじめ、高校3年まで続けている。大西さんに言わせれば、数少ない自慢の一つ。
高校卒業後、名古屋にある専門学校に通いながらサガミでアルバイトを開始する。
大西さんの仕事ぶりを評価した創業者から「学費は出してやる。だから、正社員になれ、と誘われた」逸話をもつ。その創業者への返答も逸話の一つ。
「ぼくはお金で動く男ではないですよ」。
大西さんは、まっすぐ創業者を見て、そう言った。
お金では動かないが、恩義では動く。卒業後、大西さんは何かと支援してくれた創業者に感謝して、サガミに就職する。
創業者の期待を裏切らず、出店攻勢をかけるサガミにとって、貴重な戦力となっていく。サガミ大型店1号店の店長を務め、そののちもマネージャー、運営部長、営業部長、子会社社長と要職を次々と経験。サガミの躍進に貢献する。
「味の民芸フードサービス株式会社」の社長に就任し、低迷していた業績をV字回復したのは、このあと。そして、現在はサガミホールディングスの社長を務めている。
ところで、V字回復の経緯も、当時、詳しく語っていただいた。
「サガミが東京に進出したとき『味の民芸』はライバルでしたし、モデルでもあったんです。なかでも『手延べうどん』は『味の民芸』の象徴だったんです。つまり、圧倒的にうまい。しかし、私が覆面調査に行ったときにはその味はすっかり落ちていました」。
「原因は、簡単で原料の小麦です」と大西さんは当時もそう言っていた。
味の民芸の役員会議で小麦の仕入れの話になった。原価優先の話になったとき、温厚な大西さんが気色ばみ、猛然と反発する。
そのときの心境を前回、以下のように述べられている。
「あのおいしい『手延べうどん』がなくなっちゃ復活も再生もない。何より、従業員が自信を取り戻せない。でもね。『うどんだけで2000万円のコストアップになるんだぞ』って。でも、そんなので引き下がれない。だったら買わなきゃ(買収しなきゃ)いいわけでしょ。買ったからには、責任を持たなきゃいけない。お客様にも、そして従業員にもね」。
当初は、生産ラインが倍増するとコストメリットがあるとふんでいた大西さんに、2000万円が重くのしかかる。ただ、それでもひるまない。
「味の民芸」を守る。
その意志がこの会議ではっきりと示された。むろん、復活の狼煙でもある。
「おいしいうどんができない。涙を流してね。『悔しい』というスタッフがいた」と大西さん。原価をかけないからだ。「味の民芸」のうどんを誰より愛するスタッフだった。
「裏切れんでしょ。そう言われたらさ」。
大きな責任を背負ったが、同じ飲食人、気持ちは痛いほどわかる。だから、乗り越えてやると心を定めた。
「まず、メニューを変えたんです。それが私の最初の仕事だった。もちろん、原料の小麦を見直し、民芸自慢のうどんにリメイクです」。
原価を上げた分、メニューミックスで客単価を100円上げた。客数が減るのは、想定内。ところが、客数が10%伸びた。
「あれは、いい意味で計算外でした。それ以上に嬉しいこともあったんです」。
「スタッフがね」と大西さん。
「『お客様が『おうどんが、おいしくなったっておっしゃるんです』って、次々と報告に来るんです」。
喜びに包まれたスタッフの顔は今も忘れない。
「涙を流させていたのも、経営者だし、幸せなあの顔をつくるのも経営者。経営者の本質を知った気がします」。
ときは過ぎ、快走をはじめた「味の民芸」を、コロナが襲う。
この時の様子。
「サガミは愛知です。味の民芸は東京。東京と愛知でまったく温度差があったんです」と大西さんは笑う。
今だから、笑えるのだろう。
「私が、コロナだからっていっても、本部の人間は、そうですねぇくらいの返答なんです。 こっち(東京)は、小池知事が緊急事態宣言だってやっているのに、危機感がぜんぜん伝わらないんです。それで、もう、本部のメッセージを待っていられなかったので、私が民芸全店にビデオメッセージを送ったんです」。
「従業員の命を守る」と大西さんは覚悟を決める。
「家族構成を調べて、お年寄りと同居していたり、2歳までの子どもがいたりするスタッフは休業を申請しなさい、と。仕事は守るが、命は自分たちで守ってもらわないといけない、と」。
ところが、誰も申請に来なかったそうだ。
「みんなたいへんなのはわかっていたんです。せっかく業績がV字で回復して、誰もが仕事に誇りを取り戻していたときですからね。みんなもたぶんもう負けるわけにはいかなかったんでしょう。『休む』じゃなく、『店頭でお弁当を販売しましょう』『デリバリーしましょう』って言ってくるんです。こりゃ、やっぱりすごい組織だな、と。頼もしくもなり、だからこそ、私もコロナに負けるわけにはいかなかった」。
退職勧告はもちろんしない。
「ただ、深夜専任のスタッフには、先が見えないから辞めていただいた。それだけはどうしようもなかった」と、顔をしかめる。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社鶏ヤロー 代表取締役 和田成司氏登場。
本文より~和田さんに、ご登場いただいたのは7年前。当時、メニューをみて、ビックリした記憶がある。実際、前回の記事には<角ハイボール50円、焼酎99円、生ビール280円>驚きの金額を挙げている。
念のため、現在、2025年8月のメニューも調べてみて、ふたたび唸った。レモンサワー50円、ハイボール99円、焼酎199円、生ビール299円。若干の値上げはあるものの、それでも圧倒的な低価格をキープ。物価高の今、激安スーパーでもこの金額はなかなかないだろう。
その一方で、型破りな加盟金はさすがに値上がりしていた。鶏ヤローの<加盟店募集のページ>には<FC加盟者募集!!加盟金200万円!!(加盟金調子こいて値上げしました!!ちょい前は50万、もっと昔は50円)>と赤裸々につづられていて、いかにも和田さんらしいと、笑ってしまった。
愛着込めて、<鶏ヤロー、このヤロー>である。
ちなみに、<勝率95%以上(実績)の激安FCシステム!>とつづく。
前回のインタビュー時は、加盟金、50円。比較すると、天文学的なアップだが、加盟金200万円、ロイヤリティ月10万円は、けっして高くはない。
社内独立組も18名となっていた。店舗数は格段にアップしていて、2025年8月現在、88店舗。前回比で4倍以上となっている。
時代に竿をさしつつ、呑んべぇたちのオアシスを守り、快進撃をつづけてきた鶏ヤロー。今一度、経営者の和田さんにスポットをあててみた。
和田さんが生まれたのは、1982年12月13日。
<起業という目標を掲げたのはいつ頃から?>と聞くと「超貧乏だった」と、子どもの頃の話をする。
「うちは兄弟が3人で、上に姉と兄がいます。私と兄は小学校がちがうんです。体育の時間になると、いつも指をさされます」。
理由を聞くと、体操服を買うお金がなくて、和田さんが着ていたのは兄のお下がりだったから。当然、他校の名が入っている。
「お金のことでしょっちゅう父と母がケンカをしていました。だからでしょうね。母はいつも『お金持ちになりなさい』っていうんです」。
<刷り込まれた?>
「でしょうね。お金があることが幸せだと。つまり、幸せになるためには、お金もちにならないといけない。お金持ちになるためには、社長にならないといけない。だから、起業」。
シンプルな論法。
小学生、中学生では、空手に、キックボクシング。高校はバイト三昧。
「偏差値30の高校です。だからじゃないですが、バイトにも寛容で初めて飲食店でバイトを始めます。これが面白くて。起業と飲食が結びつくきっかけになります」。
和田さんは、高校卒業後、専門学校で調理を学び、焼肉屋「鳴尾」で修業し、27歳で独立している。結婚はさらに早く、21歳の時。独立の際には2人目のお子さんができた頃だそう。
ところで、専門学校の頃までと、今の和田さんを比べると、同じ匂いがするものの、ロジカルな印象が加わってくる。
「『鳴尾』の社長と出会って、根っこは同じなんでしょうが考え方はかわりました。社長とお会いするまで、本を読んだこともなかったです(笑)」。
和田さんが「鳴尾」に就職したのは21歳の時。なんでもできると信じる年頃。その社長から、いきなり「本を読め」と言われたそうだ。
推薦本は「船井論語の人生編」<船井 幸雄著、中島 孝志著>だった。この「船井論語」を「人生で一番読んだ本」という。上司に進められてもたいていの人は読んだふりをする。実際、「ちゃんと読んだのは和田だけ」と言われたそうだ。
「読んだって表現じゃ物足りません。あの本、3回、ループしてますから(笑)。読んで終わりでもない。31章の1章ごとに、読み終わると作文を提出しなきゃいけませんでした」。
<教科書以外の本としてはハードルも高いですよね?>
「教科書だってろくに読んでないんですから、そりゃハードルどころじゃない。内容だって頭に入らないし、ぜんぜんつまらない。でも、社長にそういうと『じゃぁ』といって赤線を引くんです。そして『赤線のところだけでいいから読め』って」。
21歳、仕事も忙しい。だが、仕事の合間に、仕事、終わりに、「船井論語」を開いた。「2回、3回目になると、俄然、面白くなってきた」と和田さん。
本に没頭すると、活字の世界が立体になって現れる。和田さんの行動も変化したはず。まさに、バイブルとの出会い。
「当時は、流行っていたEXILEも知らなかった」と和田さんは笑う。TVも、ネットもみなかったからだ。
21歳から修業を開始し、27歳で独立。起業に向け、400万円を貯蓄した。本にも没頭した。嬉しいことに「飲食の戦士たちも毎週読んでいた」そうである。
理論だけじゃない。起業へのつよい思い。
「ほんとうは、親友といっしょにやるはずだったんです。でも、あいつは高校卒業して亡くなった。だから、あいつのぶんまで、やんなきゃ殴られます」。
さて、さて。話を進めると、1号店、オープンである。
<焼肉からのスタートでしたね?>
「柏駅の西口、雑居ビルの3階。店名は『牛ヒレ』。25坪、家賃は25万円。月商300~500万円でしたから、利益は悪くなかったです。スタッフもやる気があって、それで半年後、亀有の牛角のあとに2号店をオープンするんです」。
そして、和田さんは苦笑いする。
「昭和の焼肉っていうか、レトロ感をだしたかったんです。でも、歴史があってこその風合いなんでしょうね。つくりもんで、タイムスリップ感なんてでるわけない(笑)」。
「それにね」といったん言葉を切って、「亀有はマーケットがきつい」と。詳細を聞くとたしかに「きつい」。毎月60万円キャッシュアウトしていったそう。
もちろん、それで凹む和田さんではない。仲間もいる。
「それで、どうしたらいいんだろうか?って。で、つぎにオープンしたのが、居酒屋『鮭ヤロー』です」。
<鮭ヤロー?>
「ええ、居酒屋はロースターがいらないから初期投資が少なくて済みます。だから居酒屋だと思ったんですが、じつは、調理の学校に行っているのに料理ができません。ただ、鮭は大好きで、鮭だったらさばけたんです。サーモンだったらなんとかできそうだとヘンな自信があって」。
<それで、2号店の失敗を含め、大逆転しようと、サーモン一本で勝負する『鮭ヤロー』がオープンするんですね?>
「ええ、」と和田さん。
<波乱万丈の幕開け>と見出しをつけたが、その幕は、鮭ヤローのオープンと同時に、開けた。
「サーモンは当時から人気だったんですよ」。
<でも、来ない?>
「いくら好きでも、サーモンだけじゃだめだったんでしょうね。追い打ちをかけるようにサーモンの値段が上がっていくんです」。
その時、和田さんはTVに初デビューしている。
「TVニュースにでたんです。サーモンの高騰で苦しんでいるオーナーとしてインタビューいただいたんです」。
毎月、家賃以上のマイナス。
ただそれだけじゃなかった。
「2号店は3ヵ月でクローズします。3号店もマイナス。唯一、黒字だった1号店の売上まで下がります」。
業績が悪くなると、仲間と思っていたスタッフが蜘蛛の子を散らすように去っていった。
もっとも信頼していた店長にも裏切られる。
「450万円、口座の有り金すべてが下ろされていたんです」。
決裁しやすいように通帳を渡していたそうだ。
「最悪でした。お金がないから給料も払えない。それで、姉と父にお金を借りて、それでも足りなかったんで、消費者金融に行って」。
スタッフのため、仲間のためだったが、ついには、お金もなくなって。「1号店を閉めて、鮭ヤローでワンオペです。ポテトフライや、からあげとメニューも広げたから、少しずつお客さんも来て、ワンオペなら25万円くらいは給料が取ることができたんです」。
その時、和田さんはどんな顔をしていたんだろう。
やりたかったのは、そんな仕事じゃない。もちろん、お母さまがおっしゃった金持ちとはほどとおい。借金だけは人並み以上にある。
「1年半くらいですね。お店に泊まり込みです。深夜、お客さんがいなくなると、急につらくなるんです」。
涙をぬぐう。でも、とまらない。
「フライドポテトでしょ。枝豆でしょ。からあげだってやって。で、オレは何をしてんだって」。
「そんな、あるとき」と和田さん。
「あるとき、ふと思いついて10年後の自分に手紙を書いたんです。そのとき、10年後を想像するんですが、逆に業績が悪くなったのも、スタッフがいなくなったのも、全部自分の責任だと気付くんです」。
「どうして売上があがらないんだ」と、スタッフを責め、怒鳴ったこともあったという。
「そう、そういうことも含めて。問題はオレにあった。じゃぁ、オレがかわればいい」。
・・・続き
2019年2月掲載 (旧社名)株式会社遊ダイニングプロジェクト 代表取締役 和田成司氏
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”にオルニ株式会社 代表取締役 熊崎雅崇氏登場。
高齢のご夫婦が営む一軒のラーメン店。その暖簾をくぐった瞬間から、物語は動き出した。
きっかけは、熊崎さんが尊敬してやまないSHOWROOM株式会社 代表であり、ベストセラー作家の前田裕二さんからの一本の連絡。
「熊くん、明日、愛媛に行ける?」
詳しい説明はなかったが、その声には不思議な力があった。「行きます」と即答。
翌日、松山の繁華街にある小さな店へ。カウンターの奥にはご夫婦、そして前田さんが連れてきた大手ラーメンチェーンの経営者らが集まり、店内は熱気と緊張感に包まれていた。
体調不良と後継者不足で、店は一週間後に閉店するという。
丼から立ちのぼる湯気、しじみの香り。一口すすれば、澄んだ黄金色のスープが体の芯まで染み渡る。
この味を絶やしてはいけない。
スープを飲み干すころには、壮大な構想が頭に浮かんでいた。
熊崎さんは、兵庫県の三田市で19歳まで過ごしている。地図でみればわかるが、三田市は兵庫県の南東部に位置するベッドタウンである。
自然が残るなか熊崎少年はサッカーに勉学に打ち込んだ。
勉強もでき、スポーツもできる。サッカーでは小学校から県選抜。才能だけで、ほかの選手に負けるとは思わなかった。「将来は、Jリーガーになるかくらいに思っていました。でも、人生、そううまくいきません」と熊崎さんは笑う。
高校に入ると様子がちがった。サッカーは2軍スタート。
「中学生の頃から知っている選手もいたんです。私より下と思っていた彼らが1軍にまじり、ぼくはまさかの2軍」。
「それだけじゃない」と熊崎さん。
「中学のときは、トップクラスだった勉強ですが、順位が発表されると、280人中、269番」。
「え? といって、固まってしまった」と笑う。
「京大や、神大に進む生徒も多い兵庫県のトップ校でしたから、中学とは、こちらも様子がちがいます。サッカーも、中学のときは練習しなくても巧かったんです。練習もしなかったから差がついちゃっていたんでしょうね」。
<投稿プラットフォーム「note」に当時のことを「プライドが地面に落ちた」と書かれています>
「ぶっちゃけ天才だと思い込んでましたから(笑)。はじめて現実を知って、思い込みとのギャップに驚き、ぼくが、まとっていたプライドがガラガラと崩れ落ちたんです」。
残ったのは、何者でもない、ただの高校生。
プライドは地面に落ちてなくなったが、「このままで終われるか」と、はじめて真剣に練習に打ち込んだ。天才とまではいわないが、才能があったのはまちがいなかったんだろう。練習に打ち込んだ結果、半年後には2軍のリーグで得点王になって、1軍に昇格している。3年時は副キャプテンだ。
<大逆転ですね、勉強のほうはいかがでしたか。大学受験が待っています>
「兵庫だし、京大や神大に進む生徒もいたんで、サッカーほど挽回できませんでしたが、まぁ、どこか受かるだろうと高をくくっていました」。
<しかし?>
「そう、人生、やはり甘くないです。大敗です。滑り止めも役立ちませんでした(笑)」。
掲示板に受験番号がない。歓声をあげる群衆のなかを、肩を落として歩き、来た道を帰るしかなかった。
「地獄の入口がひらく音がした」と熊崎さんは、表現している。でも、そうなんだろうか。じつは、未来のトビラがひらく音だったかもしれないのである。
<1年、浪人生活の末、立教大学に進まれています。どうして、立教だったんですか?>
「三ノ宮の予備校で、チア部出身という女の子から『立教に日本一のダンスサークルがある』と聞いた。これがきっかけですね。当時、三代目 J SOUL BROTHERS が流行っていて。そうか、東京か、ダンスか、立教かって」。
「東京」「ダンス」、この二文字が、熊崎さんの視界を広げる。
「ぼく以外、サッカー部はほぼ全員、現役合格だったんです。なんでオレだけ? みたいな、ね。でも、東京でしょ。ダンスでしょ。元気がでてくるんです。当時は、東京と聞くとわくわくする、三田の田舎者だったんでしょうね」。
熊崎さんの頭の中で、立教に進学→東京生活がスタート→ダンスをマスター三代目J SOUL BROTHERSの世界へ、というプランが立ち上がる。
立教大学、無事、合格。熊崎さんは、念願のダンスサークルに入会する。立教の学生だけではなく、東大生や一般人も参加できるフリーなサークルだったという。
<ダンスのほうの才能は?>
熊崎さんは、ふふふ、と笑ったあと、「サッカーなら小学生からですからね。でも、ダンスは初心者です。だから、プライドもない。とはいっても、どこかでいちばんじゃないと気がすまない性格だから、ダンスじゃなく、SNSや会計ですね、そっちで目立ってやろうと」。
「気づけば、サークルの代表に選出されていた」と熊崎さん。代表になった熊崎さんは宣言する。
「日本一をめざす」と。
しかも、「大会に出場したい人、全員で日本一を目指す」と。
<メンバーを巻き込むちからですね>
「いい経験ができたと思います。宣言通り、日本一も獲得しましたしね」。
<それは、すごい、勲章ですね>
熊崎さんは「そうですね」と誇らしげに微笑む。
三田の田舎モンは、東京で日本一になった。
大学を卒業した熊崎さんは、人事部の熱量に惹かれて転職サイトの大手「エン・ジャパン」に就職する。翌年、縁あって、SoftBankに転職。最年少でマネージャーに昇格し、予算5億円のプロジェクトを担当することになる。
「当時は社長になろうという想いがつよかったですね」。サークルで代表の経験があり、日本一も獲得、同年代とは、望む未来がちがった。
「エンジニアを含め、30~40人の部下をもってサービスをゼロから立ち上げる予算5億円のプロジェクトでした。1年目は投資です。2年目、売上が立ち上がってくるはずだったんですが(笑)」。
話を聞くと、海外で先行しているサービスだったそう。
SoftBankを退職した理由を聞くと、プロジェクトの失敗ではなかった。
「きっかけは母親の死です。ぼくが25歳のとき。そのとき、人はいつかなくなる、いのちがあるうちにやりたいことを人生をかけてやらなきゃいけないと。その思いを抑えきれずに辞表を提出したんです」。
上層部の方々から慰留されたという。ただ、熊崎さんの意志はかたい。
「想いを語ると最終的には『わかった』と。いつか社長同士で酒でも酌み交わそうって背中を押してくださったんです」。
「やりたいことを人生をかけてやらなきゃいけない」と、SoftBankを退職したが、じつは、なにを「やりたいか」「やるべきか」がなかった。
「とにかく、組織のなかにいちゃ甘えてしまう。ぼく自身を追い込むためにフリーになったというのが真相です。そうやって未知の大海原に出航します」。
羅針盤はない。だが、進まないといけないという、強迫観念に似た思いがあったのではないだろうか。
「前田」という人物がいた。自身のバックグラウンドと似ていた。前田さんとの出会いを聞くと、熊崎さんは2冊の本を挙げる。
「大学4年の就活中のことです。前田裕二さんの『メモの魔力』と『人生の勝算』という本に出会ったのがはじまりです」。
この時の話も、じつは熊崎さんがnoteに詳細に記載されている。
「母の死で“人生の有限さ”を骨の髄まで思い知った」と語り、自身と同様のバックグラウンドをもつ前田さんの生き様に強烈な感銘を受けたと記している。そして、つぎのようにも語っている。「SoftBank に退職願を出し、命の使い道をまっさらな地図に描き直した」。
もう少し、熊崎さんが記した文字を追いかける。
「2023年5月9日。前田さんが登壇されるというイベントをXで見かけた。青山ブックセンターで開かれた『スタートアップ企業の実践論』出版記念イベント。最前列に座ったものの、緊張で質問の手が上がらなかった。その夜すぐに前田さんのオンラインサロンへ飛び込む。11月。サロンのプレゼン大会で優勝。翌年2024年1月、サロンの運営メンバーへ」。
大海原の向こうにみえた灯台に向かい全速力で進んでいく。
「フリーランスとして、パーソナルジムの立ち上げ支援やアプリ制作の支援を行いつつ、前田さんをお手伝いします」と熊崎さん。ちなみに、前田さんというのは、すでに書いた通り、SHOWROOM株式会社の代表、前田 裕二さんのことである。
そして、2024年7月。その前田さんから声がかかった。
「熊くん、明日、愛媛に行ける?」
「ラーメンと聞いたとき2秒、フリーズした」と熊崎さんは笑う。
「ただ、何をすべきかと悩んでいましたし、何より前田さんといっしょに何かができると思うと気持ちが高まり、2秒後には、行きます、と」。
前田さんに同行したのは熊崎さんだけではなかった。
「有名なラーメン店の経営者をはじめとした、ぼくからすると雲の上の存在のようなメンバーがチームを組んで愛媛に向かいます。ぼくは、カメラマンです」。
ラーメンを食べ終わったあと、喧々諤々のミーティングが行われたそうだ。もちろん主題は「しじみラーメン」について。「事業を継承するのを前提に話が進みます。専門的な話も多く、ついていけない部分もありましたが、とにかく、会話の熱量がハンパなかったですね」。
カメラマンとして同行したが、ミッションは撮影だけではなかった、そのミーティングの会話も含め、頭に叩き込む。
なぜなら、熊崎さんこそ、この店、「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の事業を継ぐ主人公だったからだ。
「話を聞きながら、プレッシャーはハンパなかった」と熊崎さんは振り返る。その時食べた「しじみラーメン」の味はどうだったんだろう?
その後、正式に事業譲渡の話がまとまる。熊崎さんは「私が後継者です」と、ご夫婦に頭を下げた。その時から、熊崎さんを主人公にしたリブランディングが開始される。
「計36日」と熊崎さんは指を折る。8月から9月にかけ、「父ちゃん」「母ちゃん」からラーメンづくりを叩き込まれた。
残すほうも必死、学ぶほうも必死。
「最初は、東京でオープンする予定だったんで、いったん東京に戻るんですが、愛媛のお店をお任せできる人をご紹介いただけたので、東京からとんぼ返りで愛媛に行き、今度は、その人にぼくが指導します」。
「はじめての弟子」と、熊崎さんは笑う。
「ぼくとしても、そのお店は残しておきたかったんです。父ちゃん、母ちゃんの想いをつぐわけですから。『本店』として残すことで、ストーリー性もあるでしょ。そういうのを大切にしたかったんです」。
「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」は、愛媛県の松山の繁華街にある。
「もともと、おかあさんがスナックを経営し、お酒をふるまってきたそうなんです。お酒に酔ったお客さんを癒やしてあげようとはじめたのが、しじみラーメン」。
「しじみにはオルニチンというアミノ酸の一種が、ほかの食材と比べても大量に含まれていて。これがアルコールの分解を促します。〆に、しじみラーメンを食べると二日酔いしないのは、そのためです」。
飲んだあとに〆。
だから「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」の営業時間は、夜から深夜にかけて。「しじみラーメン父ちゃん母ちゃん」を引き継いだ、「生しじみラーメン『オルニ』」も、おなじ時間帯で営業している。
東京、愛媛を何度も行き来するうちに、確信めいた思いが頭に宿ったそうだ。熊崎さんはいう。
「『しじみラーメン父ちゃん母ちゃん』のラーメンは、たしかに旨い。でも、有名だったわけではありません」。
「にもかかわらず、2人が作る一杯のラーメンを囲んで、日本を代表するようなラーメン店の店主や、ビジネスの世界をリードする人たちが、熱く、真剣に語るんです。なぜ、あれほど真剣だったのか、その理由の根っこがみえてきたとき、これはすごい世界に足を踏み入れたんじゃないかな、と」。
「つまり、前田さんが偶然見つけたこのしじみラーメンは、世界を穫るポテンシャルを秘めていることに気づくんです」。
学生時代は「日本一だ」といった。今度は「世界一」。
だからだろう。それに気づいた熊崎さんは、「しじみ」にのめり込む。今や「しじみ」の専門家。「しじみ」の話になると、さらに雄弁になる。
「うちのしじみは、すべて島根県の宍道湖から直送されてきます。宍道湖のなかでも南部のしじみを送ってもらっています」。
<どうして、南部なんですか?>
「北部は砂地が多く、南部は泥なんです。泥のほうが栄養が豊富で、南部のしじみは日本はもちろん、世界でもトップクラスなんです」。
調べると「しじみ」は、複数の種があり、中国や台湾が原産の「タイワンシジミ」は、アメリカやヨーロッパにも生息域を広げているそうだ。
日本の場合は、市場に出回るしじみの99%以上がヤマトシジミ。なかでも宍道湖は、ヤマトシジミの全漁獲量の4割以上を占めているとのことだ。
貝はもちろん海外でも、人気の食材。クラムチャウダーやボンゴレなどが思い浮かぶ。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に合同会社関内産業 代表 陳佑妹(チン ユウマイ)氏登場。
「平潭島」と書いて、「ピンタン」と読む。中国福建省の最大の島で今や観光で潤っている。ただし、今回、ご登場いただいた関内産業の陳さんがいた頃は島全体が貧しく、父母と、兄妹3人の生活は、けっして恵まれたものではなかったという。
「島をでることもひと仕事だった」と陳さん。当時は小さな船しかなく、荒れる海峡を渡ることができなかったらしい。
いうならば、孤島である。
孤島でも、人々の暮らしは、つつましく営まれていた。
「父と母の教育は褒めることでした」と陳さん。教育というより、息子、娘が大好きすぎて褒めることしかできなかったのかもしれない。
お母様は、10人兄妹のちょうど真ん中。頭が切れる人だったらしい。
「弟や妹はもちろん、歳の離れたお兄さんたちまで、なにかあれば、母に相談していたそうです。やさしくて明るくて、とにかく、人の話をちゃんと聞く人でしたから、たぶん相談もしやすかったんですね。でも、母親は学校にも行っていないので、字が読めないんです。だから、メールで相談が送られてきても、『電話じゃなきゃだめ』って(笑)」。
大陸から離れた平潭島では、識字率も低かったにちがいない。
「でも、母がいうことに間違いはないから、みんな頼ってくるんですよね」。
たしかに、やることにもまちがいがない。息子2人と娘1人を上手に育て、兄2人は、今や中国で2000人の従業員を擁する有名企業の経営者。陳さんもまた、日本で飲食店を経営している。
じつは、陳さん、中国にいた頃から経営者で、平潭島で「文房具店」を経営している。
「兄妹の仲は昔も今もいいですね。兄は2人とも私のことが大好きなんです」。
そんな大好きな妹が海を渡ると言い出したときには、父母はもちろん、兄2人も、さぞ、驚き、心配されたことだろう。
ちなみに、ここで言う海は、平潭島と大陸の間の海峡ではなく、大海原のことだ。
<どうして、日本へ?>
「私、高校を卒業するまで平潭島をでたことがなかったんです。だから、平潭島から、でたいと(笑)」。
海峡の向こうにある文化に興味をもつ旺盛な好奇心は、母になってもかわっていなかった。
「さっきも言いましたが、平潭島でもビジネスをしていたんです。私の子どもたちは小さい頃から仕事を手伝ってくれて、今、横にいる息子は計算が得意で、小学1年生で、お釣りも間違わなかったです」。
その息子、楊業煌さんは、現在24歳。日本の中央大学に在学し、学業のかたわら、子どもの頃と同様、母の陳さんの仕事を支援している。
「彼は中学生のときに、ネット通販の事業を起こして、その頃からビジネスの世界に浸かっているんです。今はまだ学生ですから、私のサポートをしていて起業もしていませんが。飲食店の経営と、法律事務所を経営したいと言っています」。
<法律事務所?>
「そうです。彼は今、中央大学の法学部の学生です。私たち外国人が帰化することなく、異国の日本で暮らしていくために法律をマスターしようと中央大学に進学しました。そうだよね?」。
陳さんは、息子の楊さんをみる。
「来年か、再来年には弁護士の資格を取得する予定です。その一方で、飲食という、こちらは私にとっては趣味にちかいんですが、飲食の経営も行っていきたいです」。
息子をみる陳さんの目はやさしい。たぶん、陳さんのお母様も、息子、娘をそういう目でみていたんだろう。
2人は「ケンカもしたことがない」という。陳さんが、息子の楊さんを生んだのは、20代前半。「親子というより、ともだち」と、歳のちかい親子はそう言って笑う。
改めて、来日についての話をうかがうと、将来に向かって走るつよい母の姿が浮かび上がった。
「外の世界をみる。それが、私の当時のミッションだった気がします。当時、平潭島はさっきもいいましたが、今のように繁栄していませんでした。だから、島からでるのは息子たちの道標になると思ったんです。日本に来たのは親戚も少なくありませんでしたし、2010年の頃でいうと、やはり日本はアジアのなかでも憧れの国だったんです」。
息子2人を父母に託し、遠く離れた日本での生活がスタートする。それからおよそ8年後、息子たちを日本に呼び寄せるが、その間、陳さんは1人で奮闘した。
「最初は日本語がわからないでしょ。息子なんかは1年でマスターしましたが、私は15年経った今もまだつたないです。来日当初はつたないというレベルじゃなく、ぜんぜんわかりません。生活をしないといけないんで、飲食店で接客のアルバイトをして勉強しようと思ったんですが、日本語がしゃべれないので、コップ洗いです(笑)」。
慣れない異国での生活。言葉、文化のカベを、陳さんは年月をかけ、その一つひとつをクリアしていく。人とも、ふれあう。
<起業するきっかけは?>とうかがうと、アルバイト先の女性オーナーが「共同で経営しようと誘ってくれたこと」という。
あらためて、楊さんにお話を聞く。
「楊さんが来日されたのは、何歳の時ですか?」。
「20歳の時です。ママ(楊さんは、母親である陳さんをそう呼ぶ)から日本に来なさいと言われて、弟と2人で来日します」。
ちなみに弟は薬学部に通いながら、お店の手伝いをしているそうだ。
<「海王酒場 舞」をオープンされたのは、大学2年の時と聞いています>
「2023年の11月ですから、そうなりますね。ママがさっきお話したように、私は12歳からネットビジネスをやっていました。希少価値の高い靴をネットで販売していたんです。月商をいうと、みんなひいちゃうと思うので言いませんが、当時からお金儲けには関心があったんです。中国で大成功している叔父さんたちの影響もあったんだと思います。ただ、異国でビジネスとなると、やはりむずかしい。言葉のちがいも、文化のちがいもありますから。そのなかで唯一飲食は、ハードルが低く、私にもできるだろうと」。
「息子が飲食店をしようといったのは、コロナ禍の下でした。本来、飲食店にとってマイナスだったんですが、私たちにすればラッキーで、またとないロケーションでオープンできました」。
こちらはお母様の陳さん。
「ママの言う通りで、今『海王酒場 舞』があるのは、ヘンな言い方になりますが、コロナのおかげです」。 コロナ禍で多くの飲食店が閉店するなか、「今こそチャンス」と考えた陳さん親子は、空き物件を探し、駅前のビルに出店を決めた。
物件はスケルトンからのスタート。最初はデザイナーに任せた図面に満足できず、楊さんが自ら設計を引き継いだという。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社アントレスト(Entrest Co. Ltd.) 代表取締役 中岸孝介氏登場。
「起業家」という言葉を学生たちが使いはじめたのはいつ頃だろう? AIに聞いてみると「1990年代後半から2000年代にかけて」という回答だった。
たしかに、1990年代後半に入ると、ITベンチャーのブームが到来。大学でも「アントレプレナーシップ教育(起業家教育)」が科目となったほか、ビジネスプランのコンテストも様々なメディアで取り上げられていた気がする。
今回、ご登場いただいたアントレストの代表取締役、中岸孝介さんは1980年生まれだから、ズバリ、その年代の申し子でもある。
「私は1980年、京都府の、今の木津川市に生まれます。京都と奈良の境にちかく、田舎といえば、田舎ですね。もともと東大阪市の工場で働いていた祖父が、起業し工場を木津川市に建設、父が継承。最盛期には30名程度のスタッフが勤務していました」。
祖父の時代もそうだが、お父様に代替わりしてからも業績はよく、羽振りも悪くなかった。「車好きでもない父親がリンカーンに乗っていた」と笑う。外食も少なくなかったそうである。
1980年代はバブルに向かって経済がひた走りに走っていくとき。「私が起業という言葉を使い始めたのは、中学くらい。いうまでもないですが、祖父や父の影響です」。
サラリーマンが色褪せていく時代でもあったんだろう。中岸さんの話をきいて、起業家ブームの遠因が、この頃にあったんだと気づくことになる。
「たしかに、私の起業原点は、あの頃の祖父や父の姿でまちがいないですね」。
中岸さんは、中学生の頃から早くも「起業する」と公言していたそうだ。その言葉に、惹かれるように仲間ができた。
「今ね、芸能界でいちばん注目されている事務所があるんですが、その事務所の経営者はその頃から馬があって、四六時中いっしょにいた友人です」。
ニキビづらの少年2人が、起業について、あつく語っていたんだろう。「高校に進むと、のちにいっしょに起業する有村さんと出会います」。
のちに共同経営者となる有村さんは立教大学に進み、中岸さんは京都産業大学に進学している。ちなみに、中岸さんは、小学生からラグビー、中学、野球、高校でふたたびラグビーとスポーツ少年でもある。
「いっしょに起業について語り合ったともだちは東京に行き、有村さんも立教だから東京へ。その友人は東京で有村さんが運営する起業家サークルに参加して、いっしょにビッグになろうぜって」。
青年となり、語り合うことで、起業家熱が加速する。
その頃、中岸さんはアメリカに渡っている。
「大学を1年間休学して、アメリカで暮らします。そして、帰国してからですね。彼らに影響されて、京都でもなんかしようと、私が発起人となってイベントを開催します」。
<葵祭、祇園祭、時代祭といった京都三大祭り、プラスワンのことですね?>
「そうです。四大祭りをめざして開催します。起業家の方々にもプレゼンしてスポンサーになっていただいて、数百万円かけて。1万人くらいのイベントになりました」。
学生のエネルギーに、大人たちが資金を投下した。
「4年はつづいたと思うんですが、発起人の私は、1年で東京へ上京するもんですから、かかわったのは1年だけでした」。
<なにかきっかけがあったんですか?>
「私が大学4年の12月くらいですね。就職は、もちろん、まったく頭にありませんでした。私同様、起業しか頭にないような仲間が有村さんや、もう一人の友人以外にもいて、みんなでなにかをしようとなったんです。彼らと合流するため上京して、あるレコード関係のベンチャー企業で、はたらきます」。
女子高生をつかったマーケティング会社だったそう。「ルーズソックス」や、「路上の歌姫」という言葉をつくった会社だと中岸さん。「私は、オフィスに住み込んではたらいていました。住込みといっても、デスクの横で寝ていただけなんですが(笑)」。
もう一人、住み込んでいた人がいる。
「有村さんですよね。彼は、渡邉美樹さんの『青年社長』に感化されて、飲食で起業するといって、ある会社に就職して、社長さんの自宅に住み込んでいました。起業の準備は1年間と決めていたそうで、早く、すべてをマスターするなら、社長にへばりつくことだと」。
有村さんが飲食店開業に向けひた走る一方で、中岸さんらは、路上のライブをサポートし、歌姫をデビューさせることに熱中した。芸能界とのパイプもできる。
「そうなんですね。じつは、私と有村さん以外にも4人の仲間がいて、小・中から起業を語り合った奴もそのうちの1人で、有村さんの話をきいて『じゃあ、みんなで飲食を』ってなったんです」。
起業家、6人。
野望もある、アンテナも高い、ネットワークも生まれつつあった。
<それにしても、どうして飲食だったんですか?>
「もちろん、歌の世界とか、芸能とか、そういうカテゴリーに惹かれてはいましたが、有村さんが飲食といい、私はじつは料理が好きだったもんですから、そこからスタートだと。ただ、6人のうちの3人は、けっきょく離れていきました」。
けっきょく、起業は有村さんと、もう一人京都からいっしょに上京した3人で行うことになる。
「仲間割れとかそういうことじゃなくって。最初は『渋谷で、イタリアン』なんていってたんですが、そんな洒落たレストランにだれも行ったことがなくって。唯一の飲食経験者の有村さんも居酒屋だったんで、最終的に虎ノ門で『炉端』をオープンすることになったんです」。
<渋谷が虎ノ門になり、イタリアンが炉端になったわけですね?>
「それで、『じゃオレは下りる』と、小・中いっしょだった奴は、芸能の世界にもどります。今も交流があり、いちばんの友人なんですが、あのときはさすがに険悪なムードになりました」。
<イタリアンと炉端、たしかに響きがちがう(笑)>
「感度の高い女子がひいきにするおしゃれなイタリアンと、かたや『飲んべぇ』の聖地みたいな炉端でしょ。私を含め、残った3人も『居酒屋』って響きがちょっとイヤで(笑)」。
だから、「炉端」といっても、一つずつ手づくり。価格は抑えたが、原価も惜しまなかった。
「正直にいうと、原価って意識がなかったんです(笑)。とにかく、お客様に喜んでいただこうと。それに炉端っていってもチープな料理ももだしたくない」。
チラシも配りまくる。創業者の1人、有村さんは、あるメディアのインタビューで「深夜にチラシ持って走り回ってるアイツらは誰だ?」という口コミが広がったとおっしゃっている。
原価を無視した手づくりの料理と、宣伝効果が重なりオープン後、すぐに軌道に乗る。店名は「さくらさく」。2004年、虎ノ門に咲いたもう一つ「さくら」である。
「当時のキャッチフレーズは100店舗だったんです」。「アントレプレナー」と「レストラン」「最上級のest」。飲食における最高の起業集団という想いを込めて、社名を「アントレスト」と命名した。
毎夜、客の喧騒が店を包む。
「このあと、神楽坂に「つみき」、新宿に「いちりん」をオープンしていきます」。正確には、2004年に「さくらさく」、翌2005年「つみき」、その翌年の2006年には、「いちりん」ほか3店舗をつぎつぎオープンしている。
このときがいちばん厳しかったというのは、2006年からの快進撃のうらがわで、中岸さんが感じていたこと。「じつは、大阪の飲食店からいただいたコンサルティングの依頼を受け、私がそちらに行っていたこともあって、業績が真っ赤になっていくんです」。
<無理がたたった?>
「というか、私たちが無知だったんでしょうね、起業という二文字ばかりおいかけ、エンジンはもちろんあったんですが、経営のノウハウもない若造でした」。
経営の甘さをおぎなおうと、コンサルタントを採用。それが、落とし穴となったようだ。
「コンサルタントが悪いというより、効率化の落とし穴ですね。『さくらさく』は、素人目線で、どうすればお客様が喜んでくださるか、それだけを思って経営していたんです。その思いをスタッフみんなで共有して。でも、それが、効率、効率になっちゃって」。
「いちりん」につづく、2店舗も予想を外す。「お金もなくなった」と中岸さん。
「そのとき、ある飲食の経営者が資金を援助してくださって、事務所まで間借りさせてくださったんです。そのおかげで今があるのは、事実ですね」。
いきおいと、センスだけで、船出した。風を読み間違え、座礁した。ただ、<それが、かえってよかった>と言っては怒られてしまうだろうか?
「『魚串さくらさく』は2009年にリリースした自社ブランドです。炉端で仕事をしているとき、魚を食べるお客様をみているとどうも食べにくそうなんですね。じゃぁ、焼鳥のようなサイズにして、串に刺すとどうだろうか、と」。
この魚と串のコラボレーションが、ヒットする。その一方、辛酸を嘗めたことで、経営への関心、スキルも向上する。ネットワークも広がった。
「先日、この『飲食の戦士たち』にも登場されていましたが、あの井戸さんや花光さんが絶好調だった頃。私たちも、井戸さんや花光さんを真似て、初期投資をかけずに、つぎつぎ『魚串』をオープンしていきます」。
「魚串」をライセンス化する。最盛期には20店舗まで拡大したが、当初のキャッチフレーズの100には程遠い。いまだ、5分の1である。
「ロケーションの問題もあって、だんだんと魚串が停滞するなかで、有村さんが牛角の創業者の西山さん主催の『西山塾』に入り、その縁で、『焼肉ライク』の起業に参加することになったんです」。
8年前というから、2017年頃のことだろうか? 「焼肉ライク」1号店オープンは2018年のことである。
ちなみに、この中岸さんのインタビューに度々、登場する有村さんは、「焼肉ライク」の初代社長である有村壮央さんのこと。有村さんは現在、中小外食企業にマーケティングとマネジメントを移植する「株式会社カチアリ」を経営されている。
面白い記事も書かれているので、「有村壮央」「焼肉ライク」で検索してみてはどうだろうか。
「有村さんから株式を買い取りましたので、株主の比率は今、当初出資してくれた友人たちが10%程度で、あとは、私です」。当然、代表取締役社長となったのは、中岸さんである。
<有村さんが抜けたことで、なにかかわりましたか?>
「当時は、有村さんはもう、現場にはでていなかったんで、そうですね。特段、影響があったわけじゃないです。ただ、有村さんはカリスマ性があって、それでみんなをひっぱっていくタイプで、私は、どちらかというと、仕組みや制度を大事にするタイプなので、そこはスタッフからみてかわったかな、と」。
中岸さんが社長になり、評価制度も整えたという。中岸さんと有村さんは、仲違いしたわけではない。 アントレストが「焼肉ライク」を9店舗も運営していることからも、その関係がうかがえる。「焼肉ライク」を育てた有村さんのノウハウをわけてもらい、フランチャイズビジネスも拡大していく予定だ。
話は少しもどり、経営権を獲得し、社長になった中岸さん。その中岸さんをまっていたのは、そう、あのコロナだった。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)
in-職(いんしょく)ハイパーの“飲食の戦士たち”に株式会社pangaea 代表取締役 進藤幸紘氏登場。
今回、ご登場いただいたパンゲアの進藤さんは1986年11月生まれ。小・中・高と、千葉県内で過ごし、高校にはバスケットボールの推薦で進学している。
「小学校からバスケットボールをはじめました。背が高かったぶん、評価をいただいたんだと思います」。
バスケットボールに熱中したが、それ以上に関心があったのが、飲食。なかでもフレンチが大好きだったという。
「中学1年のときに両親が離婚。私は母の下で暮らします。父は工場勤務のまじめなタイプだったんですが、母は大病院で栄養管理士をしていて、エネルギッシュでバリバリのキャリアウーマンでした」。
進藤さんに影響を受けた人を聞くと、まっさきにお母様の名を挙げる。
「私が高校に進学したあと、母は新興住宅街にでマンションを購入します」。
父にも頼らないキャリアウーマンの母。
「管理栄養士ですから料理もうまくって」と進藤さん。カレーには決まってお頭付きの海老が添えられていたそうだ。「外食も多く、レストランからラーメンまで、ジャンル関係なく、食べさせてもらいました」。
なかでも行くのが楽しみだったのが、フレンチレストラン。「当時で1人8000円くらいでしたから、かなりハイエンドなフレンチでした」。
母とともに、食すフレンチ。その甘い一時と、料理の奥深さ。進藤さんが飲食の世界へ進みたいと思ったのは、自然な流れだったのかもしれない。
「母が『外食に行くよ』っていうとパブロフの犬じゃないですが、その一言で心が踊ります。レストランに行く前、本屋さんに寄るんです。母も私も漫画が好きで、ある日一冊の漫画に出会います」。
「『大使閣下の料理人』っていう、在ベトナム日本大使公邸料理人が、主人公の漫画です。食卓外交や、ベトナムの市場の人たちとの交流が描かれていました」。
バスケットボールと、料理。もちろん、プロになるなら、料理人。
「青学クラスは、合格判定だったんですが、進むならシェフだとエコール辻東京(現、辻調理師専門学校 東京)に進みます」。
オープンキャンパスで、「エコール辻東京」を訪れた際、有名なシェフと出会い、「絶対、来ます」と宣言したそうだ。
ここまでが、進藤さんの食の目覚めのお話。
「千葉のうちからエコール辻東京まで、片道2時間半かかりました。9時の始業に遅刻すると、講義を受けさせてもらえません」。通勤のサラリーマンとまじって、満員電車で通学。
「エコール辻東京は、実践的な学校だったんです。教科書も多く、リュックには大量の本と、包丁が入っていました」。
すし詰めのなか、教科書を貪るように読んだ。
「1年生の学校ですが、入学料、授業料は高くって、年間200万円です。全額、母に頼っていたので、絶対、シェフにならないといけなかったんです」。
満員電車に揺られながら、教科書を貪るように読む、進藤さんの姿が浮かび上がる。学校が終わると、溜池山王のハイエンドなレストランでバイトが始まる。
バイトも真剣。
そのレストランは、カリフォルニア・フレンチだったという。カリフォルニア・フレンチは、カリフォルニアの食文化とフランス料理の技術が融合した独創的な料理スタイルのことだ。進藤さんは、その一皿一皿に、魅了されていく。
料理に対する感度が高い。料理人の才能を一つ挙げるなら、これ。一般人とは、みる世界がちがうのだろう。幾層にも重なったレシピの一つひとつを解像度高く、みることができる、それが料理人である。
エコール辻東京を卒業した19歳の進藤さんは、このレストランに就職。2年、勤務して、「料理とパティシエを経験した」ということだ。進藤さんは脇目もふらず、プロの料理人への道を突き進んでいく。
ところが、このあと転機が訪れる。
「そのレストランを退職して、田崎真也さんプロデュースの『レストランS』で勤務させていただきます。田崎真也さんっていうのは、あの世界一のソムリエです」。
「レストランS」で勤務をはじめた進藤さんは、1年で「エキスパート資格」を取得している。「エキスパート資格」を調べてみると、一般社団法人日本ソムリエ協会(J.S.A.)が認定する、ワインをはじめとする酒類や食全般に関する専門知識とテイスティング能力を認定する民間資格とあった。
ソムリエと匹敵する、資格だそう。
しかし、料理人ではなく、ソムリエ?と、疑問が浮かび上がる。
「一つの転機は、やはり田崎さんとの出会いですね。じつは、田崎さんから「きみはサービスのほうがいいよ』と助言をいただいたんです」と進藤さん。
進藤さんは、その一言に素直に従った。
田崎さんは、進藤さんになにをみたのだろう。一方、進藤さんは、その一言をどう受け止めたんだろう。
結果として、その一言は、進藤さんの人生のターニングポイントとなる。進藤さんは、そののち、「レストランS」に転職し、4年間勤務することになる。
世界一のソムリエのアドバイスで、視界が広がった。
「4年、勤めたあと、ロンドンに渡ります。パリとロンドンどちらにするか迷ったんですが、田崎さんから『ロンドンがいい』とアドバイスされ、じつは、私も、学校の卒業旅行でパリへ、母の会合かなにかでいっしょにロンドンへも行ったことがあって、比較することができたんで行くならロンドンかな、と」。
ワーキングホリデーで2年、ロンドンのレストランで勤務する。勤務したのは「ヨーロッパで3本の指に入ると言われているワインリストを持つ2つ星のレストランだった」という。
ほかにも、IWC(International Wine Challenge)の酒部門で酒ジャッジメントを経験したほか、在英日本大使館でのサービスを行うなど、「大使閣下の料理人」と同様に、世界で研鑽した。
「帰国後、『ベージュアランデュカス東京』でソムリエとして勤務します。ただ、その時、突発性難聴を患い、飲食現場を離れざるを得なくなってしまいます。それでは、私が志していた世界へたどりつくことができません。だから、それを奇貨として、ワインの勉強を徹底的にスタートします。最初にワインを輸入するインポーターに勤め、そのつぎは、日々、20種類くらいのワインをテイスティングするリカーショップではたらきます。合計3年、ワインの世界にどっぷり浸かることができました」。
料理人の志を封印して、サービススタッフとして高みをめざしてきた。そんな進藤さんには、もう一つめざすものがあった。むろん、独立である。
すでに、30歳。チャレンジするには、十分なキャリアも積んでいる。
「じつは、その30歳の時、学生時代の先輩と独立の計画を立てていたんです。でも、オープン前に頓挫してしまいました」。
<どういうことだろう?>
「契約した物件が、重飲食不可だったんです。それで、投資しようとしていたお金をすべてなくしてしまいます。オープンもできないから、仕事もない。『明日からどう生きる?』という世界です」。
仕事もない。心も折れた。
「その時、ある先輩が、サブライムに招いてくださったんです」。
「サブライム?と 思う人もいるかもしれないですが、その当時、サブライムはハイエンドなレストランを経営していたんです」。
サブライムといえば、代表の花光雅丸さんが有名だ。2025年3月、久々に「飲食の戦士たち」にも登場いただいている。
コロナ禍で、サブライムを手放し、現在は「beagle」を経営。その経緯は、コチラで。
さて、新たな道を進むべく、サブライムに入社した進藤さんだったが、マネージャーとして着任したフレンチブランドの業績が今一つだったそう。
「それで、中華業態にブランドチェンジして、少量で多品目を楽しめる『series』をオープンします」。
「series」はオープンしてわずか8ヶ月でミシュラン一つ星を獲得。現在、進藤さんの手も、花光さんの手も離れたが、「ミシュランガイド東京2025」で5年連続で一つ星を獲得している。
進藤さんは、このあと、コロナ禍の下で「パンゲア」を設立。念願の代表として新たなスタートを切る。
・・・続き
(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)