2025年4月24日木曜日

「食べログ求人」、これからが楽しみです。

「食べログ求人」、これからが楽しみです。

「求人飲食店ドットコム」の競合になるのかな・・・。

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株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏登場。

本文より~

ピアノと、少年と。

教室にピアノの音が響く。メロディが流れだすと、だれもが口を閉ざした。
「授業でピアノを弾いたとたん噂になって」。
これは、今回、ご登場いただいたバルニバービ インターフェイスの代表、中村さんが中学生の時の話。「小学2年生のときに、ともだちがオルガンでドラクエを弾いていて、かっこいいなと思って、ピアノを習いにいったのが始まりです」。
「中村はピアノがめちゃくちゃ巧い」。噂は学校中に広がって、合唱コンクールでも卒業式でもピアノを披露することになった。ホームページの自己紹介では「ピアノはショパンまで」と書いてあった。
「運動は苦手だった」と中村さんは正直だ。
「サッカー部に入りましたが、ほぼ幽霊部員。運動はイマイチでしたが、音楽は得意でしたから、将来は音大へ、なんて思っていました。でも、実際は京都外大です(笑)」。
「うちはガチガチの公務員一家ですから、息子の私にもとにかく『公務員になりなさい』と言っていました」。
実は、中村さん、公務員の試験を受けている。
「数学が苦手で、大学も外大でしょ。語学はできたんですが。公務員はマルチな分野の知識がないと、ちょっと無理。で、だんだん就活自体も面倒になって、公務員どころか就職もせずフリーター生活をはじめます」。
中村さんは、高校時代、大阪・梅田にオープンした「リッツカールトン」のオープニングスタッフとして採用されている。「こちらは高校時代の話です。リッツカールトンに直接採用いただたわけじゃなく、配膳会社に登録していましたから、ほかのホテルや芸能人のディナーショーでも配膳の仕事をしています」。
中村さんは、大学4年までこの仕事をつづけている。もっとも、就職で外食は選択肢になかった。
「車が好きだったんで、ディーラーもいいかな、とは思っていたんですが」と中村さんは苦笑する。飲食はもちろん、音楽の道もまた、なかったようだ。

バルニバービと、カミングアウトと。

「卒業してからは俗に言うフリーターになって、倉庫の仕事と、ワインバーの仕事をかけもちしていました。倉庫の仕事がいま一つだったこともあって、ワインバー1本にします。そうなると昼が暇でしょ。そのとき、バルニバービの求人に出会ったんです。7月にアルバイトで入り、翌年1月に正社員に登用いただきました」。
バルニバービは1995年、大阪の南船場に1号店となる 「アマーク・ド・パラディ」をオープンしている。以来、様々なカフェをオープンし、現在は「地方創再生事業」にも乗り出している。
「当時は、まだ10店舗程度で、何者かもわからないようなフェーズでしたが、バルニバービの世界観が私には似合っていたんだと思います」。
「でなきゃ、今頃、息苦しくて」と中村さんは笑う。中村さんは「セクシャリティがバイセクシャル」なんだという。
「カミングアウトは25歳のとき。バルニバービに就職していて、ある上司に相談したのが最初です」。
そのときの上司とは「バルニバービ オーガストの田中亮平社長」のこと。
田中さんとの関係についてもうかがった。
「田中さんにお会いしたのは、2004年にカフェカーブに配属になったときです」。
「田中さんのほうが3つ上」と中村さん。たがいにないモノをもっていたという2人は、上司と部下という関係でもあったが、ともにたたかってきた仲間でもあった。
田中さんの役職が上がると、いっしょに中村さんの役職もあがった。
「田中さんも経歴がユニークで、大学時代に柔道で世界2位になっていたり、前職が警察官だったりで。でも、公務員って頑張っても、頑張らなくても給料はおなじでしょ。そういう世界が、いやになってバルニバービに転職してきたそうです」。そういって、中村さんは可笑しそうに笑う。

バルニバービの初の子会社。

「田中さんと出会った『カフェカーブ』は、バルニバービの初の子会社です。そこからも、だんだんと分かれ、今(2024年)では、10の子会社があります。私が社長を務めるバルニバービ インターフェイスもその一つ。バルニバービが店をオープンして、子会社が、その店を運営するというスタイルです」。
「会社単位ですから、ハンドリングもわりと自由です。利益は、本体とシェアしますから、利益を上げれば当然、みんなのギャランティもあがる。運営の方法も私たち主導で行っていきますので、実績があがれば自信になりますし、失敗も含め、それが経験になっていきます。この経験はグループの新たな店づくりに参加したときや、独立して店をするときにも役立ちます」。
たしかに、たしかに。すでに独立した人も少なくないらしい。「うちでは、独立希望者も積極的に採用し、独立の支援も行っています。バルニバービのネットワークをそのまま利用することもできますから、比較的独立のハードルは低いです」。
ところで、田中さんに最初にカミングアウトしたときの話。田中さんは、どんな反応だったんだろう。
「田中さんは、ぜんぜん驚かないで、逆に半泣きになってはやく気づいてやれなくて、ごめん、って。田中さんのおかげでマイノリティっていう意識が、いい意味でなくなりました」。
以来、2人は、互いの得意分野と苦手分野をカバーするようにして、二人三脚で、業績を上げてきた。
「仕事のパートナーっていうとおこがましいですが。そうそう、じつは、このインタビューが始まる少し前にも話をしていたんです」。
2人の関係がうかがえる話ですね?。「そうですね。実際、いっしょに店をやったのは3~4年ですが」。田中さんが子会社の社長になると、中村さんが、執行役員となって田中さんをサポートしてきた。
切磋琢磨、というのは、この2人のことをいうのだろう。「性格もちがうし、思考もちがう。ちがうからこそ、気づきもあるし、おぎなうこともできたと、私はそういうふうに思っています。もちろん、感謝は尽きません」。

・・・続き

株式会社バルニバービ インターフェイス 代表取締役社長 中村雅仁氏

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2025年4月15日火曜日

「飲食の戦士たち」シリーズ“書籍編”もスタートします。

「飲食の戦士たち」見て、いろんな出版社がアプローチしてます。

採用の武器としては書籍は強いツールとなります。

「飲食の戦士たち」シリーズ“再現ショートドラマ編(season2)”に続き、コロナ前から進めてた「飲食の戦士たち」シリーズ“書籍編”を2025年は5冊やる予定です。

74歳、人生で“やり残した夢”に挑む――とんきゅう株式会社・矢田部武久会長が綴る、感動の実話ノンフィクション!

新刊『Feel The Earth 74歳アメリカ大陸縦断トラック・キャンパー夫婦旅』刊行のお知らせ

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キイストンよりニュースリリース配信しました。

株式会社ピアッティーベッラ 代表取締役社長 髙上 彬氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピアッティーベッラ 代表取締役社長 髙上 彬氏登場。

本文より~

高校を卒業するまでの、髙上さんの話。

「中学入学早々、どつかれた」と笑う。
今回、ご登場いただいたのは株式会社ピアッティーベッラの代表取締役社長、髙上 彬さん。ピアッティーベッラは、あのバルニバービの子会社の一つ。
バルニバービのグループ会社は、バルニバービ インターフェイス、バルニバービ オーガスト、バルニバービ ウィルワークスにつづき、今回で4社目となる。出会ったのは、いずれも異色のキャラクターだった。今回も、「どつかれた」から話がスタートしたから、期待せずにはいられない。
では、お話をうかがっていこう。
「私は小学6年生まで神戸市で育ちます。小学生の頃の楽しみは、祖父が経営する酒場のお手伝い。毎日のように通ってお小遣いをもらっていました」。
小学生にとっては確かに楽しいアルバイト。さぞ、赤ら顔の大人たちに可愛がられたことだろう。
「中学から広島に引っ越し、私はバスケットボールを始めます。どつかれたのは、この時。髪の毛を染めていたのがあかんかったですね。バスケットボールの成績は市で2位、県でベスト4、近畿大会まで進みました」。
「もし戻れるならもう一回やってみたい」と、当時の話をしながら、髙上さんは目を細める。「監督から、彬は誰より『楽しんどけ』『笑っとけ』と言われていました。副キャプテンで、ムードメーカーだったんです」。
最初から意識していたわけではないが、そう言われて、「はじめて意識してやるようになった」とのこと。
これは、今も実践していることの一つだそう。
「バスケットボールを引退した後、ボクシングを始めました。母親から『男は格闘技やれ』と言われていたんです。階級はバンタムあたりです。高校3年間はボクシング漬けでしたが、プロは意識していなかったです。ただ、楽しいからつづけていたっていうのが、正解です」。
小学生の時と背丈はちがうが、あの時とおなじように「大人に混ざってやってるのが楽しかった」らしい。
ボクシングのかたわら、ダンス教室にも通っている。
ボクシングに、ダンス。だれよりも笑って、たたかい、踊っていたに違いない。その一方で、「じつは、高校1年の時から海外に関心があって行ってみたいと思っていたんです」。
話は、いろいろなところに飛んでいく。

バンクーバー。ストリップと黄昏時のメキシコ。

「黒人の文化っていうんでしょうか、彼らの音楽にハマってダンスが好きになって。その延長線上で、海外に行きたいと思うようになるんです」。
行動力は、ピカイチ。今までの話でもわかるが、高校を卒業するとためらうことなく日本を離れる。
「学生ビザで、カナダのバンクーバーに渡ります」。「じつは、辻調理師専門学校にも興味があった」という。
やりたいことが、満載。バンクーバーでのお話もうかがったが、いかにも髙上さんらしかった。
「語学を覚えなきゃいけないんですが、私の場合は、ストリップ劇場でマスターします」。
<ストリップ?>
「ストリップといっても、ワンドリンクをオーダーすればいいだけです。ストリップとお酒を楽しみながら、会話を楽しむ感じです」。
なんだかバンクーバーっぽい。ただ、そのバンクーバーっぽいロケーションのなかで、東洋から来た青年は、どんなふうに映っていたんだろう。
ドレッドヘアで、リンゴを齧り、自転車に乗る。風景がいい感じに後方に流れていく。「そう、そういうのをやりたかったんですが、買った自転車は、その日にパクられます(笑)」。
旅にも出た。
「もともと、海外に行く目的の一つに人見知りを直すっていうのがあったんですね。周りからはムードメーカーなんて言われていたんですが、じつは案外、人見知りで」。
<だから旅にでた?>
「そうです。1人でテントで野宿したこともありますし、ともだちと2人でメキシコまで行こうと言って、国境で色々あって、なぜか私だけメキシコに放り出されて。もう、黄昏時だったんですが、ギャングみたいな人がいっぱいいて(笑)」。
「もうあかん、と思った」とこちらを笑わせてくれる。
言葉は、つたないままでもなんとか通じたそうだ。
青年時代の1ページ。
「バイトは、ホットドッグショップで」。
ボディーランゲージ入りのコミュニケーションで、ホットドッグを渡し、お客様と会話する様子が目に浮かんできた。

かっこいい、飲食店。

バンクーバーでの留学生活は2年。帰国した髙上さんは、広告代理店に就職する。
「求人広告の代理店で、私の戦場はスナックビルでした(笑)」。契約をいただくために、スナックに飛び込んでいたんだろうか?
「じつは、この仕事が、今の仕事に就くきっかけ」と髙上さん。
<どういうことだろう?>
「心斎橋の、これはスナックじゃなく、カフェに営業をかけた時に相手の担当者がむちゃくちゃ格好いい人で。営業マンの私がぎゃくに心をつかまれてしまって」。
<それでどうしました?>
「急に、飲食へ進みたくなるんです。ただ、働くにしても、飲食店は言うたら山のようにあるでしょ。それで、リサーチしようと思って厨房設備のメーカーでアルバイトを始めます」。
<いいお店はみつかりましたか?>
髙上さんは、「うん」とうなづく。 
「ある日、イタリア人がオーナーのレストランに冷蔵庫を設置しに行くんです」。
急な階段を上がる。その急な階段が「イタリアにある洒落たレストランのようだった」と髙上さん。内装も、イタリアさながらで、当時はめずらしいピザ窯もおいてあったそう。
厨房からは、笑い声がもれてくる。「オーナーも男前で、とにかく、かっこいいの一言。翌日さっそく、食事に行きました」。
トントン拍子とは、このこと。
食べに行って旨かった→働かせて→じゃあ、明日から。
「君は『ジャコミ(GIACOMI)』ねと、あだ名までつけられた」と笑う。
このあだ名は今使用しているジャコモ(GIACOMO)とは意味合いが少し違うらしい。
ジャコミは、イタリア語圏の男性名で、どちらかというと小さい子供につかうあだ名。バルニバービで働く中でGIACOMO(ジャコモ)に、大人になろうという気持ちを込め、現在ではGIACOMO(ジャコモ)を名乗っているそう。
それにしても、翌日からとは営業の仕事のほうはどうしたんだろうと、多少、気にはなるが、はしょってつぎに進む。

イタリアレストランから、バルニバービへ。

「オーナーはイタリア人でしたが、従業員は日本人です。ホールからスタートします。厳しかったですね。朝から夜までです。2年半くらい経ってポジションが空いたのでキッチンに配属してもらったんですが、こちらもむちゃくちゃ厳しかったです。でも、そのおかげで、本格的なイタリア料理をマスターできました」。
「合計5年働いた」という。
「流行っていましたしね。私も正直、天狗になっていたと思うんです。ホールの時にはソムリエの資格を取得していましたし、もちろん、料理は本格イタリアンです」。
<退職されたのは、どうして?>
「この頃には、もう立派な飲食人ですから、いつかは独立というのが頭にあって。この店では料理はマスターできたんですが、お金のことはオーナー以外ノータッチ。経営に関してなにか言おうもんなら、『出ていけぇ~』ってなるようなオーナーだったもんですから。経営について勉強できる店に移ろうと思っていたんです」。
<それがバルニバービ?>
「正確にいうと、バルニバービの創業者で現会長の佐藤裕久さんがちょくちょく食事にいらしてたんです」。
<佐藤さんもかっこいいですよね>
「そうですね。で、それが縁で、バルニバービではたらかせていただくことになりました。最初に配属されたのは、『アマークドパラディ』で、席数60席。私は、数字のほうを管理したかったから、ホールとして採用いただきました」。
「ぶっちゃけ、下にみていた」と、髙上さん。
「当時、バルニバービって言えばガーブだったんですが、私たちからすればカフェでしょ。こっちは、本格イタリアンですから。料理については、特に下にみていたんです。でも、すぐに鼻を折られたっていうか」。
「とんでもない人がいた」と髙上さん。
バルニバービの創業メンバーで、内定をもらっていた就職先を蹴って、創業者の佐藤さんと冒険にでた人だという。「もう、むちゃくちゃ怒られた」と笑いも多少ひきつる。

佐藤会長からの一言。

「入社してすぐにランチ、担当です。『なにをやってもいい。とにかく、ランチのセールスをあげろ!』って。そんなことを言われても、なにをどうすればいいかわからない。窮地に追い込まれます」。
<どうされたんですか?>
「もう、捨て身で、『じゃんけん大会』でしょ。『◯◯さんを連れてきたら、ドリンク一杯サービス!』なんて無理くり企画を絞りだして。ところが、案外、その捨て身の企画があたって、ランチが大盛りあがり」。
飲食のカテゴリーが、食事一つでないことがわかった。お客様がハッピーになる。飲食の正体は、たぶん、これ。ジャンルは、その方法論のちがいなのかもしれない。
<佐藤会長とは、お会いされましたか?>
「入社してからは、そうそう話す機会はなかったです。ただ、一度、食事をする機会をいただいて」。
「経済か、経営か、そういう話を期待していた」と、髙上さん。経営を知るのが、バルニバービに転職した理由だったから、それも当然だ。
「でも食事の間、佐藤はぜんぜんそんな話はしないんです。こっちはなにか指導して欲しいんですが。ただ、その時、言われたことは今も鮮明に頭に残っています」。
<何を話してくださったんですか?>
「佐藤会長って言うたら、私らからしたら、むちゃくちゃかっこいい神のような経営者です。さぞ、かっこいいことをおっしゃるんだろうと。話についていけるか心配していたんです。でも、ね。昔、中学の時、バスケの監督に言われたようなことを言うんです」。
「へぇ、佐藤さんも、こんな泥臭いこと言うんや。そうか、飲食の大事なことはやっぱりそこなんやって」。
むちゃくちゃ感動したにちがいない。たぶん、飲食の仕事をしている限り、忘れない。
佐藤さんは、髙上さんをみてつぎのように言われたそうだ。
「お前の仲間は笑っているか? お前はだれより笑っているか?」

・・・続き

株式会社ピアッティーベッラ 代表取締役社長 髙上 彬氏

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2025年4月12日土曜日

2025年度スタートしました!

 205年4月より新しい期がスタートしました。

前期は点数でいうと70点くらいですかね。

決めた目標に対して、アクシデントさえなかったら達成しました。

ただ部門でばらつきが大きかったのが反省材料です。

今期は各部門の戦略をもっと練って臨みます。

おかげさまで戦略型の人材採用会社=求人会社のキイストンは、食べログ正規代理店が現在38社に絞られましたが、悲願のトップ10入り(2024.12〜2025.2)出来ました。

皆の頑張りに、ただただ感謝です。

また、人材紹介部門は特定技能に力を入れていきます。

といっても、実績はほぼゼロからのスタートですが、

特定技能の分野でも業界内でシェア取れたらと考えてます。

もちろん、求人メディア部門はキイストンの本業なのでがガンガン行かせます!

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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年4月8日火曜日

『鰻の成瀬』のフランチャイズビジネスインキュベーション株式会社 代表取締役社長 山本昌弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”『鰻の成瀬』のフランチャイズビジネスインキュベーション株式会社 代表取締役社長 山本昌弘氏登場。

本文より~

人の話を聞かない、何を考えてるかわからん奴。

山本氏が生まれたのは、京都にほど近い滋賀県高島郡(現在は市)。山本家は両親のみならず、祖父母や伯父伯母までもがみな公務員。3つ上の兄も教師というお堅いお家柄だ。
― じゃあ、小さいころからずっと「お前も将来は公務員に」って言われたんでしょうね ―
「言われたかどうか記憶にないくらい、人の話を聞いてなかったですね(笑)」。
周りからは「何を考えているかわからん奴」と思われるほど、自由奔放・唯我独尊。地元の小学校を卒業後、実家から電車で45分もかかる大津市内の私立学校に入学したのも、何をしでかすか分からない息子への親の配慮からだった。運動神経は抜群で、陸上部では3000m走で市内2位になるほどの実力を持っていたが、2年生になると毎週実施される英単語や漢字テストの補習に追われ、それどころではなくなる。別に勉強が苦手だったわけではない。親友のせいで、勉強することを“やめた”のだ。
「中学時代、一番仲良かった子が、学校で一番頭良くてね。ほかのことは努力すればだいたいなんとかなったけど、勉強だけはそいつに絶対勝てないし、一番になれない。『僕が勝負するのはここ(勉強)じゃないな』ってことで、勉強するのをやめました。僕が勉強しなくなったのは、絶対あいつのせいですよ」。
中・高時代、特になりたいと思うものはなかった。強いて言えば、海外への憧れだろうか。当時流行っていた「世界ウルルン滞在記」や「あいのり」以外に、母親の存在も影響した。教職を辞め専業主婦になった山本氏の母は、子育て終了後オペラ歌手に転身。日本とイタリアを行き来する生活をしていた。

イタリア留学で生きる術を学ぶ。

「世の中の人はもっと英語を喋れると思ってたんです。だから英語圏に行ってもしかたがないし、人と同じことをしても自分の特徴にならない。人と違うことをしようって」。
そこで選んだのがイタリア・ローマへの留学だ。母親のこともあり、「イタリアなら反対されにくいだろう」という計算もあった。その目論見通り、高校卒業と同時に山本氏はイタリアへと旅立つが、そこで待ち受けていたのは言葉の壁だった。
「ホームステイ先の人があれこれ説明してくれるんだけど、イタリア語だから全く分からないんですよ。バスの停留所が分からなくて終点まで行っちゃったり、お風呂のガスの使い方が分からなくて、4月なのに冷水シャワーを浴びたり。このままじゃ生きていくのもヤバいと思ってイタリア語を必死に勉強しました」。
もともと集中力があるのだろう。イタリア生活が3か月を過ぎたころ、突然先生の言葉が聞き取れるようになった。しかしヒアリング力を身に着けた途端、学校に行かなくなりアルバイトや夜遊び三昧。あれこれ言ってくるホームステイ先に嫌気がさし、ついには家を出てひとり暮らしを始めてしまう。親からの仕送りを“無限”と勘違いし、お金をガンガン引き出して怒られたが、そんなことは気にせず、どこまでも自由奔放だったという。

ECCで「使えないヤツ」から「トップセールスマン」に。

3年間のイタリア遊学、もとい留学を終えた山本氏は、帰国後英会話スクールのECCに就職するも、入社早々「使えないヤツ」とのレッテルを貼られてしまう。イタリアで悠々自適に暮らしていたため、PCスキルはおろかクラブやサークル活動を通じて社会性を学んだ経験もなかった。その上、面接時の「英語以外の言語が話せますか?」という質問には、「(英語は話せないけど)イタリア語が喋れます」と答えての入社だ。普通なら萎縮しそうなものだが、「どうやったら周囲をぎゃふんと言わせられるかなー」と考えていたというから驚きだ。
「自分のことを全く知らないお客様と対峙する新規営業(入会案内)なら、他の社員と同じスタート地点で戦える」と踏んだ山本氏は、そこに全力を注いだ。こうして、落ちこぼれだった新入社員が半年後には中部地区でダントツの営業成績を収める。さらに、FCであるECCジュニア(子供向け英会話教室)の収益に注目し、FCビジネスにも興味を抱くようになった。
トップ営業マンから店長に昇格した山本氏は、現場の仕事よりも責任者としての業務に忙殺されることが多くなっていった。会議に出席したり、ハンコを押したり、そんな日々を続けるうち、胸中に危機感が芽生えていく。「このままでは井の中の蛙だ。個人の能力を高めるためには、新たな世界に飛び込んだほうがいい」そう判断した山本氏は、トップセールスという栄光の座を自ら放棄した。

加盟店の目線に立ったサポートで、再びトップの座に。

山本氏が次に選んだのは、ハウスクリーニングのおそうじ本舗だった。入社後はとにかく大人しく、目立たないようにした。上司の言うことには「はい」と答えつつ、水面下で独自の営業スタイルを構築。そして1年後、再び営業の頂点に立った。
― お仕事はなんだったんですか? ―
「スーパーバイザー(SV)です。売上げアップのためのアドバイスやサポートと、本部が提供する販促品を加盟店に購入してもらうこと。本部と加盟店、両方の利益を考えるんです」。
― 成績を上げるコツは? ―
「加盟店のオーナーさんに、『山本は味方だ』って認識してもらうことですね。あれこれ指示するんじゃなく、『オーナーさんが今できそうな方法はAとBとCがあるけど、自分ができそうなものはありますか?』って、自分で決めてもらうんです。初期費用払ってFCで独立しようって人が、他人から命令されたいはずはないじゃないですか。自分で決めたことだと思わせたほうが、オーナーさんのモチベーションを維持しやすいんです」。
山本氏には「いくら店長といっても所詮は雇われなのに、本部は本当にうるさい。しかもごちゃごちゃいう癖に、責任だけはこっちに取らせようとする」というECC時代の不愉快な思い出があった。加盟店に寄り添ったサポートの重要性に早くから気づいていたのは、そうした経験をしていたからだ。

・・・続き
『鰻の成瀬』のフランチャイズビジネスインキュベーション株式会社 代表取締役社長 山本昌弘氏
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2025年4月2日水曜日

株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏登場。

本文より~

世界でただ一人の日米ゴルフ・ティーチングプロA級資格保持者。

飲食業で名をあげる社長には多才な人が少なくないが、その中でも三木智映子氏のプロフィールは群を抜いている。
全米女子プロゴルフ協会(USLPGA)と、日本女子プロゴルフ協会(JLPGA)のティーチングプロフェッショナルA級資格を持つ世界でただ一人の女性にして、40年の歴史を誇るイタリア料理専門店・ミキインターナショナルの二代目社長。2021年開催の東京オリンピックゴルフ競技のテクニカルオフィシャルに指名される一方、在日イタリア商工会議所からは、『男性優位の日本の飲食業界で、女性ならではの感性とセンスを生かし、イタリア料理界に影響力を持つ女性経営者のひとり』として第1回「Phenomena賞」を授与されている。
ゴルフとイタリア料理。全く異なる2つの分野でプロとして活躍するのだから、どれほど切れ者の女性だろうかと思いきや、取材では開口一番「私はやんちゃで、すっごくおてんばでした(笑)」と屈託のない素顔を覗かせる。
それでは、「子供の頃は庭の木や塀に登ったり、木から木へと飛び移ったりして遊んでいた」という彼女のドラマティックな半生を見ていこう。

一世を風靡した「スパゲティーファクトリー」と、伝説の名店「パッパガッロ」。

智映子氏の父・三木忠彦氏が「スパゲティーファクトリー」をオープンしたのは、今からおよそ半世紀前。和風アサリや明太子、納豆など和風スパゲッティだけで100種類ものメニューがあふれ、そのジャンルの先駆けとして一世を風靡した名店である。寡黙だがインテリアセンスが抜群で、数字にも才覚があり、およそ10年で4~5店舗を構えるほどに成長した。
「でも、料理人たちにこう言われたんだそうです。『スパゲッティはイタリア料理なのに、僕たちはスパゲッティしか作れない。しかも和風しか作れない。僕たちはスパゲッティ以外のイタリア料理も作りたい!』って」。
従業員の切なる訴えを機に、本格イタリアンの道に進むことを決意した忠彦氏が目を付けたのは、イタリア料理「カプリチョーザ」だった。忠彦氏は飲食業界に入る前はインテリア会社に勤務していた背景があり、カプリチョーザ本店の設計をさせてもらった関係だった。今では国内外に100店舗を構えるものの、当時はまだ渋谷の1店舗だけ。そこに料理人を送り本場のイタリア料理を学ばせた。
1985年には株式会社 ミキインターナショナルを設立し、今では伝説の名店と謳われる「パッパガッロ」を世田谷代田の環七沿いにオープン。元JALのグランドホステスで接客や折衝が得意だった智映子氏の母が社長に就任し、以後同社を拡大させていくことになる。
「円筒形で目立つ建物だったのですが、初めはお客様もまばらで。当時まだ小さかった私は、サクラとして毎日のようにお店に連れて行かれました。最初は美味しいものが食べられて嬉しかったのですが、さすがに毎日となると、大好きなアイスクリームさえ残すという、食いしん坊の私としては衝撃の出来事がありました」。
娘のサクラぶりが功を奏したかはともかく、「パッパガッロ」の人気は80年代に起こったイタ飯ブームに乗り上昇、テレビや雑誌に何百回も取り上げられ店はますます繁盛していった。
この第一号店の成功により、ミキインターナショナルも店舗を増やしていったが、日本の至る所でイタ飯屋が増えていった。そこで、他社との差別化を考え、「“本場・本物”に徹底してこだわる」というミキインターナショナルの基本方針が確立。今も料理人をイタリアの提携店で修業させ、日本流にアレンジしない本場に忠実な味を再現。そしてホールスタッフにはお手本とするイタリア本場の店舗と同じおもてなしを学ばせている。

「お嬢様」というレッテルが、独立心の糧に。

さて、今回の主人公である智映子氏に話を戻そう。
三木家の第二子として誕生した智映子氏は、前述のとおり木登りが得意なおてんば娘だった。母は兄の教育にことさら熱心な一方、娘に対しては放任、さらに通っていた小中高一貫校が自由な校風だったこともありのびのび育った智映子氏だが、幼いころから「三木家のお嬢様」という扱いには我慢がならなかったという。
「祖父や両親はすごいかもしれないけど、私は私。私自身を見て欲しかった。だから『自分の力で生きていこう』って、ずっと思っていたんです」。
高校入学後は傘屋でアルバイトを始めた。当時はバブル経済に突入したばかりで値の張る傘が飛ぶように売れ、雨の日には傘の売り上げだけで100万円に達したと話す。月々のバイト代が10万円を超えていたというから、なんとも景気のいい話ではないか。ただ、アルバイトにのめり込みすぎて、高校を欠席することもあったらしい。ところが、もともと放任主義の両親のみならず、学校からも注意されることはなかったそうだ。
「高校の同窓会で、当時の担任の先生に『あの時、なぜ私のことを注意しなかったんですか?』って尋ねたんです。そしたら『お前のスイッチは俺が押してもダメだと思ってたからな。お前のスイッチはいつか入る、いつかやるヤツだって思ってた』って言われました」。
ひとたびこの“スイッチ”が入ると爆発的な力を発揮するのが智映子氏だ。たとえば、試合が秒で終わるほど下手だった高校時代のテニス部では、負けた悔しさから一人で猛練習を繰り返し、3年生の引退試合では見事すべて勝利を勝ち取っている。生来の運動神経の良さと負けず嫌いがうかがえるエピソードだ。

ゴルフを始めたきっかけは、父の何気ない一言。

女子大に進学した智映子氏は、ゴルフ部の美しくきらびやかな先輩たちやユニフォームの可愛らしさに惹かれ、幼少期から時折言われていた「智映子はゴルフに向いていると思う」という父の言葉をきっかけに入部を果たす。高校時代はアルバイトに明け暮れて父親と少し距離ができていたが、父親は大喜びしてゴルフレッスンにも通わせてくれた。
「ただ体育会系にありがちな理不尽なルールが多くて、一年生はいつも走らされてばっかり。『もう走りたくない。スポーツは実力の世界だから、まっすぐ、圧倒的に遠くへ飛ばしさえすれば、私も歩けるはず!』と思って、人一倍練習しました。それで、いつの間にかすごく飛ぶようになっていたんです」。
それからはぐんぐん腕を上げ、一年生ながら学外の試合にも出場するほどになった。しかし、18歳でゴルフを始め、強豪校の選手でもない智映子氏のことなど誰も知らない。そのため、試合で無視されることも少なくなかったそうだ。
「ここは実力の世界。実力を示して、相手が会話したくなるようにすればいいって、また練習を重ねました」。
彼女のゴルフに対する“スイッチ”が、こうして「ON」になった。

夢を打ち砕いた交通事故。

さらなる高みを目指し、智映子氏はアメリカ西海岸にある世界最高峰の「レッドベターゴルフアカデミー」に通い始めた。ゴルフ部に入って初めてのラウンドは150台だったスコアもわずか1年で90~80台、翌年には70台を叩き出し、メキメキと腕をあげていく。大学4年春と秋の大会ではフィールドでのベストスコア、メダリストも獲得した。プロの道を選んだ彼女は大学卒業と同時に渡米するが、猛反対していた母はそれ以降一度も連絡をくれなかったという。
LPGAの下部ツアー「ミニツアー」(野球でいうマイナーリーグ)に参戦して約3年が過ぎ、智映子氏のゴルフ人生は最高潮に達していた。そして「さあこれからトップツアーに参加しよう!」という矢先、人生最大の不幸が彼女を襲う。それは高速道路上の事故だった。まっすぐ運転していた智映子氏の車に左車線の車が後方から追突した。ハンドルを握っていた左手の関節が一瞬で7つずれた。ゴルファーの命ともいえる左親指を大きく損傷し、ツアープロへの道は完全に絶たれた。全てに絶望して泣きながら実家に電話した智映子氏に、母はこう言い放った。
「せっかくそこまでいったんだから、何らかのカタチにしてきなさい」。
母の厳しい言葉に智映子氏は、悲しさから一転、できる事に目を向けられるようになった。選手として習っていたアカデミーの先生を訪ねる。すると、「智映子はティーチングが向いている」という意外な言葉が返ってきた。こうして新たな希望を抱いた彼女は、指導者として再びゴルフと向き合う決意をする。その後は修練を重ね、ついに日本人で3人目(当時)となるUSLPGAのティーチングプロ資格を取得した。しばらくアメリカ西海岸でレッスン活動をし生徒が増えていたが、先代の社長である母の病気を告げられ、帰国を決意する。
帰国後にはJLPGAのティーチングプロ A級資格も取得し、ゴルフ指導の道に進むつもりでいた智映子氏だったが、母の急死を機に人生で三度目の転期を迎えることになる。それは二代目としての社長就任だった。

・・・続き
株式会社 ミキインターナショナル 代表取締役 三木智映子氏
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2025年3月26日水曜日

株式会社ミナト開発/株式会社モアナ 代表取締役 安田典弘氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ミナト開発/株式会社モアナ 代表取締役 安田典弘氏登場。

本文より~

高校3年で350万円のスープラを乗り回す!

安田氏の父親は福島県出身。安田氏が生まれたころに妻の出身地である小田原へと移り、建設業に着手。個人事業主としてスタートし徐々に商売を拡大、下請けを使わず自らできる範囲で業務を受注した。事業規模はさほど大きくなかったものの、時代背景もあり仕事は順調だったという。マイホームを購入してからは朝から晩まで黙々と働き、ギャンブルや派手なことには一切手を出さなかった。そんな父の唯一の道楽は車で、車庫にはクラウンやジャガーが並んでいたそうだ。
安田家の次男として生まれた安田典弘氏は、地元で義務教育を終え、マンモス校として知られる相洋高校に入学。運動神経には自信があり、また部活が必修だったことからとりあえず野球部に入るが、2~3か月で退部。その後は一転してアルバイトに精を出す日々を送る。レストランの厨房や旅館でのバイトに加え、週末には実家の仕事を手伝うこともあった。
車好きの父親に似たらしく、高校3年生の夏休み前に免許を取得。さっそく7年落ちの中古車を購入している。
「高校3年の暮れに就職が決まったんで、次は思い切って新車を買ったんです。スープラで、当時350万円くらいだったかな」。
- 就職が決まったとはいえ、そんな大金を返すあてはあったんですか? -
「就職先は、秦野にあるスタンレー電気でした。先輩に『工場勤務なら3交代で20~25万になる』って言われて、僕もそれを希望してね。ところが、そういう話で入ったのになぜか定時(の部署)に配属されて、手取りは結局10万もなかったんですよ」。
「せめてガソリン代くらい」と週末には父親の仕事を手伝っていたが、勤務先から副業禁止を言い渡されてしまう。業務内容や給与に不満があった安田氏はスタンレー電気を退職し、そのまま父親の会社に就職。その後、高校時代からの彼女と結婚し3人の子宝に恵まれた。その末っ子が愛里さんだ。

33歳で独立するも、コロナを機に事業を手放す。

- 社長の人生に影響を与えた人物はいますか? -
「僕の父親と、あと同級生のお父さんですね。父はとにかく黙々と仕事をするタイプで、友達のお父さんは同業者だったんですが、結構派手に、手広く事業をされていました。同じ業種でもやり方が全く違うんですよ。その両方のいいところを見せてもらったっていうのは、良かったと思います」。
営業スタイルの異なる2人の経営者に触れるうち、父親との意見の違いが明確になってきた。父のことは尊敬しているし、喧嘩もしたくない。でもこのままでは衝突してしまう。
当時33歳だった安田氏は独立を決意。15年間勤めた父の会社を辞め、新たに建設会社を立ち上げた。同社はリーマンショックを乗り越え、最盛期には従業員20人超の規模に成長。小田原から東京に進出するなど、事業は順調に進んでいった。
しかし、2020年初頭以降のコロナ禍が安田氏を襲う。ワクチンの接種が始まるかどうかという矢先、新型コロナに感染してしまったのだ。
「肺炎を併発して、2週間ほど入院しました。結構重症で、エクモ(体外式膜型人工肺)の装着寸前までいったんです」。
一時は死を覚悟したという安田氏。一命は取り留めたものの肺機能の回復に時間を要し、後遺症にも悩まされた。いったんすべてを整理しようと部下に会社を譲渡したものの、旧知の取引先から再起を促され、建物の解体や造成工事、リフォームを手掛ける㈱ミナト開発を設立。以前のような規模ではないが、これまでの経験と人脈を活かして業績は順調に推移している。

娘の夢を叶えてやりたい。

コロナ禍は、末娘の愛里さんにも大きな影響を及ぼした。ライブや撮影会の中止で活動が制限されたことから、所属グループ「ラストアイドル」は2020年5月末に解散。「学業に戻るか、留学するか……」芸能活動を終えた愛里さんは自分の進路について悩んでいた。
自宅にこもる生活の中で、今まで何気なく口にしてきた食に対する考え方が変わっていったという愛里さん。多忙で外食が多い父には、より健康的な料理を食べてもらいたい。母が収集した素晴らしい食器を活用したい……。愛里さんが出した結論は、「自分の店を持つこと」だった。もともと料理が好きで、自身のSNSに公開した手料理が評判だったことも背中を押した。
そんな娘の決意を全面的に支援したいと思うのが、親心というものだろう。仕事柄、物件探しやリフォームはお手のもの、地元小田原には絶品の干物やブランド豚の『和豚もちぶた』を扱う知人もいる。娘の目指す『身体に優しい料理』というコンセプトにピッタリではないか。安田氏はそう考えた。
そんな折、麻布十番駅から徒歩3分という好立地に新築物件が出た。10坪弱という広さは、娘が一人できりもりするのにちょうどいい。店のコンセプトや設計はすべて娘に任せ、安田氏は必要な部分だけ支援した。こうして2022年11月、母の味を前面に押し出す「安田食堂」がオープンした。
「料理はすべて娘が一人で作っていて、客回りは姪っ子が担当してくれています。え?姪ですか?あの子もかわいいですよ(笑)」。
これはもう食べに行くしかない。

株式会社モアナで、飲食業界に本格進出。

「愛里の店でも使っている『和豚もちぶた』の会社は、僕の知り合いなんですよ。その豚肉を使った店舗展開をと考え、株式会社モアナを設立しました」。
建設業から飲食分野への本格参入を決めた安田氏が選んだのは、調理人不要でオペレーションが容易な豚丼だ。この3月中旬にオープンするという店の名は『もあちゃん食堂』、第一号店は現在インバウンド需要急増中の浅草に開業する。元はバーだったというその物件はビルの2階で、4階はオーナーの住居。中古物件ということもあり、立地の割に家賃が控えめという好条件だ。こうした物件を“掘り出す”能力は、安田氏の本業(建設業)ならではの強みといえるだろう。
「実は今、目黒のクラフトビレッジ西小山で実験的な店を出してはいるんですよ。ここはスタッフ育成が主目的なので、大々的な宣伝は控えていますが。基本メニューは豚丼だけで、居酒屋風にはしません。今後はインバウンド客向けに展開していく予定です」。
安田氏にとって、飲食業と直接関わるのは高校時代のアルバイト以来だ。ほぼ未経験からの参入ではあるが、すでに信頼できる仕入先を確保し、好物件を探し出す力も秘めている。『もあちゃん食堂』が訪日客の人気を集め、浅草の新名所となることに期待したい。

株式会社ミナト開発/株式会社モアナ 代表取締役 安田典弘氏

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2025年3月18日火曜日

麺JAPAN株式会社 代表取締役 坂田敦宏氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”麺JAPAN株式会社 代表取締役 坂田敦宏氏登場。

本文より~

中卒、日雇いバイト。21歳で起業す。

「中学3年の時、日雇いのバイトで日給が3000円。悪くなかったから中学を卒業して、それを仕事にした」と、今回ご登場いただいた麺JAPANの代表、坂田 敦宏さん。
 じつは、坂田さんには2020年、「飲食の戦士たち」にご登場いただいている。今回で2回目。以前の坂田さんがアップデートして、もどってきてくださった。そんな感じで話がスタートした。
 「だから、中卒。こればっかりは何年経っても変わらないね(笑)」。
 中学を卒業した坂田さんは、建設現場を転々とした。鳶職もしたし、塗装もした。基本は日雇いバイト。それでいて、21歳で起業しているからユニークだ。
 <「成り上がり」ですよね?>
 「そう。永ちゃんの本を読んでね」。
 <きっかけはたしか、ダンプのなかの会話でしたね?>
 親方がダンプのなかで言うんだよね。『坂田さぁ、学歴がない奴が金持ちになろうと思ったら独立しかないんだぜ』って。毎日のように聞かされていたから、刷り込まれちゃって。19歳の時に、今まで漫画本しか買ったことがなかったのに本屋に行って」。
「成り上がり」は、いうまでもなく、矢沢永吉氏のベストセラー。「独立しかない」×「成り上がり」。2つのワードが交錯する。
「20歳で起業しようと決意して、21歳でハウスクリーニングで独立します。バブルの時だったけど、あんまり儲からなかった(笑)」。
それでも、のちに法人化し、ビルメンテナンス業を中心にフランチャイズを展開。リフォームや人材派遣、業務請負、IT、芸能、コンサルティングと次々と事業を立ち上げ、11社のグループ会社を育てている。
<まさに「成り上がり」ですね?>
「21歳で起業して、30代前半までは、そうですね。たしかに、成り上がっていました。売上も、グループで20億円くらいあったからね」。ただ、不慮の事故をきっかけに30代後半から、舞台は暗転する。

絶対、治るから。奇跡の復活。

その時の様子をもう一度、うかがった。
「40歳の時に倒産です。地元に戻ってタクシーの運転手を3ヵ月半しています。そして、43歳ですね。脳幹出血です」。
「幸い命は取りとめましたが、『半身不随は免れない』と言われました。当時あった仕事はすべてキャンセルして、2年間はリハビリに専念。ドクターから言語障害と半身不随といわれた絶望のなかで、看護師さんとリハビリの先生だけが『立てるようになれるかも』と励ましてくれたんです。それが、嬉しくて、力にもなって」。
今、坂田さんはYouTubeでも登場されているが、一般の人とまったくかわらない。「ここまで回復するのは珍しいです。以前にも言いましたが、NHKから取材も受け、珍しい症例としてテレビ出演しているんです」。
奇跡のような話は、それで終わらない。
<それからまた起業されますね?>
「リハビリが終わって、奇跡的な回復をするんですが、それは、支援してくださった看護師さんやリハビリの先生のおかげ。だから、そういう医療従事者の人に恩返しする事業を、と。もう一度、事業を開始します。今度は、リハビリをサポートしてくれた人たちに恩返しする事業です」。
2014年、坂田さんは「訪問看護ステーションリカバリー」を運営するRecovery International株式会社を設立する。訪問看護ステーション事業だ。坂田さん自身が、つい数ヵ月前まで利用者だったから訪問看護のニーズはだれよりわかっていた。
ちなみに、このRecovery Internationalは、2024年現在、東証に上場している。坂田さんは、当時、取締役会長職を経て、現在は株主という立場で事業を支援しているそうだ。
からだも、事業も、不死鳥のように蘇っている。
「そりゃ、つらかったよね。倒産でしょ。半身不随でしょ。天国から、真っ逆さまです。でもね。看護師さんとリハビリの先生の『立てるようになれるかも』って。あの一言のおかげで、からだはもちろん、事業まで復活することができました」。
「この数年で、性格も温厚になり、怒らなくなった」と笑っておられたのが印象的だった。その話をすると、「でも、実は温厚になったというより、怒ると血圧が上がるから注意しているだけ」と、笑った。

・・・続き

麺JAPAN株式会社 代表取締役 坂田敦宏氏

<2020年7月掲載 株式会社和僑ホールディングス 代表取締役社長 坂田敦宏氏>

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2025年3月11日火曜日

C-United株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”C-United株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏登場。

本文より~

C-Unitedの代表、友成勇樹が描くビジョン。

とにかく、話のスケールが大きい。
「日本飲食業株式会社のような気持ちで経営している」と、今回ご登場いただいたC-United株式会社の代表、友成勇樹さん。
その友成さんが率いる「C-United」は、2021年4月、珈琲館株式会社と株式会社シャノアールが統合することで誕生している。現在は「カフェ・ド・クリエ」も加わり、首都圏の様々な街で“一杯のコーヒーに心をこめて“提供。カフェ業界の頂点に立つ会社の1社となっている。
主要ブランドは「珈琲館」「カフェ・ベローチェ」「カフェ・ド・クリエ」。
ところで、友成さんにインタビューするのは今回が2回目となる。初回時にご紹介したプロフィールは以下。
<1963年、東京都文京区生まれ。中央大学卒。「日本マクドナルド」に入社し、異例のスピード昇進を重ねる。34歳から米国マクドナルド本社(シカゴ)へ。米国KGSMにてMBA修了。4年の海外勤務を経て帰国したあと、新会社の社長に抜擢。その後日本マクドナルドを退社し、独立後、飲食関連会社を立ち上げる。以降、モスフードサービスの顧問に就任。関連会社の会長職などを務めたのち、2018年7月に珈琲館の社長に就任する>
「日本マクドナルド」「モスフードサービス」、そして「珈琲館」。 いずれも日本を代表する飲食チェーンである。

34歳の青年が手にした辞令は「シカゴに行け」だった。

「日本マクドナルド」に入社し、25歳で店長に、30歳でスーパーバイザーに昇進。そして、34歳になった友成さんに下りた辞令は「シカゴに行け」だった。
「最初の辞令では『長野(冬季オリンピック担当)に行け』だったんですが、すぐに取り消され、『もう少し遠いところになった』と言われた」と、一度目のインタビュー時に面白可笑しく話してくださったのを記憶している。
そのシカゴで、MBAを取得。3年目からはアメリカ本社でプロフェッサーとして勤務。「世界のマクドナルドの本社ですからね。いい経験にもなりました」と軽くおっしゃったが、むろん、異例の人事。世界でも数名しかいないプロフェッサーへの抜擢だった。
38歳で、帰国。そして、新会社の社長に就任する。
友成さんの事業プロフィールは学生時代からスタート。中央大学在学中、新宿にレストランを開業する。だが、卒業前にクローズ。2000万円の借金を背負って「日本マクドナルド」に就職している。
25歳での店長昇進は、有能な人材が多い「日本マクドナルド」のなかでも異例の人事。「借金があったから頑張らないわけにはいかなかった」と友成さんは笑う。
さて、数年ぶりにお会いした友成さんは、「珈琲館」の社長から「C-United」の社長になっていた。その経緯から、今回のインタビューが始まった。

珈琲館の再生と、シャノアール(ベローチェ)の買収。

「珈琲館の社長になったのは、2018年の7月です。私が社長に就任した当初は、さすがに厳しい状況でした。珈琲館はフランチャイズがメイン事業ですが、本部機能が脆弱で、フランチャイズを支援する体制が十分に整っていませんでした」。
FCオーナーとの会話を重ね、同時に本部機能を整備するなどして「珈琲館」のリブランディングに着手する。
その結果、400万円~450万円だった平均月商(直営店)が、数年で約1.8倍になる(FC店の売上も約1.4倍アップ)。店舗数は、2025年1月現在、200店(内、直営100店)、最盛期に比べると30店舗くらい少ないが、法人契約が1.8倍にアップしている。
「今までは、個人オーナー、いわゆるシングルストアが多かったんですが、法人契約が進んでいることで、今まで以上に店舗数の拡大が期待できます」とのこと。
この「珈琲館」再生の最中の2020年、友成さんは株式会社シャノアールを買収している。
「シャノアールが運営するカフェ・ベローチェは、珈琲館とは違って、都会のオアシスとしてビジネスパーソンに支持されているのがストロングポイントでした」。
「from toの中間点」と友成さんは表現する。簡単にいうと、移動の合間に「いっぷくする」ということだろう。この「いっぷく」需要は案外、大きい。
今なら、プレゼンテーションに向かう途中に立ち寄り、ノートパソコンを起動し、企画書を作成しているビジネスパーソンもいるだろう。
友成さんが言う通り、シナジー効果も期待できる。
だから、新星、「C-United」は、新たな期待を背負いつつも、華々しくスタートする。そのはずだった。しかし、スタート直後、友成さんは大きな溜息をつくことになる。

コロナ禍と、一杯の珈琲の価値と。

「シャノアール社買収については、旧珈琲館株式会社の社員でも一部の人間しか知りませんでしたし、あちらも同様です」。
友成さんが、初めてシャノアール社を訪れた際の話。
「買収について、初めて聞くスタッフもいたようです。だからか、みんな私をみて、『こいつはだれだ?!』って(笑)」。
見解のちがいもあった。
「現場のスタッフたちは『店は儲かっている』っていうんです。マーケティングのメンバーも『プロモーションを仕掛け、売上は上がっている』っていうんです。たしかに、部署ごとでいえばPLは黒字。でも、全体は赤字だったんです」。
「だれも財務を理解していなかった」と友成さんは溜息をつく。だが、友成さんの溜息は、これだけではなかった。
「C-Unitedは2020年2月1日にスタートします」。
<コロナですね?>
「そう、ズバリ、コロナとおなじタイミングでした。都心ではビジネスパーソンの移動がなくなります。だから、ベローチェは大変だったんです」。
<資金繰りが苦しくなる?>
「そもそも赤字ですからね。そこに、コロナです。いつ終焉するかもわかりませんでした」。
ついに友成さんの口から深い溜息が漏れる。溜息を耳にした前任の社長が役員報酬の全額カットを申し出たほどだ。
その後もコロナ禍はつづいたが、行政から「協力金」が支給されるようになり、一息つくことができた。
もちろん、友成さんも黙っていたわけではない。
「シャノアールが所有していた研修施設があって、そこがいい値段で売却できたんです」。ほかにも「オープンが目の前だった新業態があったんですが、結局、オープンしないまま撤退させてもらいました」。カフェ以外、重荷になるブランドはすべてクローズする。
大胆な行動は、友成さんの真骨頂だ。
だが、コロナ禍は世界中を覆い尽くしたまま。
「コーヒーショップは『不要不急』の代表と言われた」と友成さんは笑う。
「たしかに、定食とかじゃないですからね。だからといって、ほんとに『いらない』わけじゃありません。必要だからこそ、珈琲館は50年以上つづいてきたんです」。
「くつろぎといった目に見えない部分で、コーヒーショップの役割がある」と、友成さんは語る。
「コーヒーそのものは不要不急かもしれませんが、くつろいで、ひといきつく空間もコーヒーショップの役割なんです。その役割からいうと、けっして不要じゃないんです。だから、閉めたくなかった」とも。
友成さんのなかでも、葛藤があったにちがいない。
だが、歩みは止めない。
コロナ禍の渦中の2022年には「カフェ・ド・クリエ」を買収している。そして、コロナ禍が終焉した今、業績はV字回復。
「2023年度でいうと、飲食全体の戻りが約80%ですが、カフェは約90%なんです。そのなかで私たち、C-Unitedは約140%を実現しています」。
そう言って、胸を張る。社会にとって、コーヒーショップがいかに重要な存在かを改めて示す結果になったからだ。

・・・続き

C-United株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏

<2019年9月掲載 珈琲館株式会社 代表取締役社長 友成勇樹氏>

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