“飲食の戦士たち”に意気な寿し処阿部を運営されている有限会社寿し処阿部 代表取締役 阿部 浩氏を取り上げました。
寿司職人。少年の決意。
ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ、阿部少年が漕ぐ自転車が来ると決まっておかしな音がした。ペダルを漕ぐ、靴からは親指と小指がそろって顔をだしていた。
新潟県、南魚沼郡(現在、南魚沼市)、1980年頃の話。
「父母と兄妹3人の5人暮らしです。おやじも、おふくろもマジメな人で、おやじはスキー場で仕事をして、お袋は一日中、内職をしていました」。
「母親がふとんのなかで眠っているのをみたことがない」と阿部さんはいう。子どもたちが川で歓声を上げる夏の日も、雪がしんしんと降る冬の夜も。
「ちっちゃい頃からお金がない。絵に描いたような貧乏でした。ゲームも買ってもらえなかったし、靴も破れたまま。自転車のタイヤも擦り切れちゃって」。そして、冒頭の話となった。
「その頃はもうスキー場で勤務をしていたように思いますが、父はもともと炭焼き職人でした。東京の錦糸町から疎開してきた母と山のなかで出会い、結婚して二人して町に降りてきたそうです」。
町に降りたお父様はタクシーの運転手などをされていたそうだ。
「とにかく、お金がありません。ゲームもない。家のためと思いながら、半分は、そういう世界から逃げ出したかったんでしょうね。『中学卒業したら寿司職人になるから、高校には行かなくていい』って言っていたんです」。
「そもそもは漁師になろうと思っていた」と阿部さん。
「でも、中一くらいになると漁師が不安定だというのがわかってきて、だったら、しゃべるのも好きで、魚も好き。オレに似合うのは寿司職人だろうと」。
中一で、進路決定。
「予定通り、突き進むつもりだったんですが、母親が『高校だけは』っていうもんですから、高校には進学して、そして、寿司職人へ、です」。
高校を卒業した阿部さんは、東京行の列車に乗った。
東京へ。修業時代、始まる。
阿部さんが修行先に選んだのは大手寿司チェーン店。12年修行し、目標通り30歳で独立。広尾に「意気な寿し処阿部」をオープンする。
修業時代の手取りは9万円からスタート。22歳からは独立に向け、月10万円を貯蓄した。
修業時代の話。
阿部さんは新宿伊勢丹に6年、六本木に5年、築地に1年、チェーン店だが、そのなかでも高級店を渡り歩いた。
「就業時間は9時から23時だったんですが、私は立ち食いそばを食べて7時に出勤。これが日課でした」。
だれもいない。1日は静寂のなかスタートした。
「でも、おんなじように蕎麦を食べて、1時間くらいあとからやってくる先輩がいて。これが、いじわるな奴で。『まだそこまでしかできてねぇのか』って」。
静寂は毎日、その一言で破られた。
「寿司もにぎらせてくれないからね」と阿部さん。しかし、独立後、そのイヤな先輩を、阿部さんは採用し、今では「専務となって働いてもらっている」という。
「私のあとに独立したんだけど、うまくいかなかった。オープンのときにアドバイスしたこともあって放っておけなかった」と、過去のいきさつを水に流している。
「今のうちの連中にも、おんなじようにキツくあたっているらしいよ。あれは性格なんだろうね」と笑う。
阿部というひとが、混沌としてくる。プラスも、マイナスもない。ただ、ひとを見捨てない。
だから今、様々なバックボーンをもったスタッフが阿部さんの下で職人となって働いている。
多様な人物を採用し始めたのはいつ頃から?とたずねると、しばらく黙ったあと「最初からかな」と言って阿部さんは笑った。
創業と、借金まみれの一番弟子と。
「一言目に、『金を貸してくれ』だったかな」と、オープンからともに働いた一番弟子についても話をしてくれた。
「とにかく30歳で独立と決めていたんで、お金も1000万円程度ためていました。父からも1000万円借りて、兄の口利きで金融機関からも1000万円。ロケーションは広尾で、と決めていたんで、家賃もそれなりでしょ」。
合計3000万円。
しかし、うち270万円をサラ金に返済している。
「前職で私の下で働いていました。私がある日、厳しく叱ると、その日からいなくなった。私が独立してオープンするとき、だれかいないかと探していたらたまたま『奴ならいる』ということになって」。
そして、しばらくぶりに出会った彼は、再会するなり「お金を貸して欲しい」といったそうだ。
「私が辞めさせたわけじゃないけど、引き金を引いたという思いもあったし、やつの顔をみていると放っておけなかったんです」。
問い詰め、聞き出した借金の額が270万円。「借りているサラ金をぜんぶ回って返した」と阿部さん。
当時、その後輩さんは23歳。啖呵を切って、札束を叩き返す阿部さんの横で、泣いていたそうだ。
「お金は、ちゃんと働いて返してくれました。それ以上に彼がいたんで、オープンから満席になるお客様に対応できました」。
2人して、店に寝泊まりした。
「23時にクローズなんですが、ときには2時くらいまでお客さんが帰らない。それから片付けをして、生ビールを1杯ずつ飲んで朝になって私は買い出し、彼も準備をはじめてくれました」。
寿司職人、阿部と、経営者、阿部。
「結婚も30歳の時」と阿部さん。
「お店をつくるのにお金がかかったから披露宴をするお金もなかった。だから、8月にオープンするんだけど、オープン前にお店で披露宴です」。
借金を肩代わりした一番弟子もいたはずだ。
初月は270万円、半年後には500万円をオーバーする。
「利益も残ったけど、経営の勉強はしてこなかったからね。PLもよくわかんない。なんとなく500万円くらいいったらいいだろうって計算機を叩いていたんです」。
2号店は5年後、今度は無借金でオープンしている。
「経費は多少つかったけど、私の給料はスタッフといっしょ。ぜんぶ会社に注ぎ込んでいきました。コロナのときまでずっとそうでした」。
お金より、スタッフとお客様。
経営の軸は「ひとを大事にすること」。
お母様の教えだった。
そんな阿部さんの下には、ひとがこぞってやってきた。だから採用で困ったことはない。
とはいえ、やってくる人は様々だ。
「いろんな奴がいるよね。でも、おんなじ人間だからね」。
現在「意気な寿し処阿部」は、都内に8店舗、80人の社員が阿部さんの下で働いている。
貫かれているのは、経営者、阿部の「人ファースト」の経営の姿勢だ。ちなみに、そんな阿部さんの姿はフジテレビの「ザ・ノンフィクション」で取り上げられている。
・・・続き
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