2025年12月25日木曜日

働く社員がより充実してもっと仕事に頑張れるようにと…。

キイストンでは、労災保険の他に「ハイパーメディカル」(AIG損保)に2018年から加入してます。

この補償は、仕事中はもちろん勤務外の事でも、保険が下りるようになっております。

私も含め、活用しとても助かってます。


従業員抱えてる経営者の方に、おすすめです。 


また、Netflix見放題のベネフィットワンにも会社負担で加入し、年末のおせち料理はもう7〜8になりますが、各社員の家庭(親御さんに贈る人多い)に届けてます。

キイストンで当たり前にやってることが、他社ではあまり聞かないので、在籍してるとその手厚さわからないかも(笑)。


キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
 ~一つでも多く圧倒的に強い武器を持ち、 ワクワクしようぜ!ワクワクさせようぜ!~

戦略型総合人材採用サービス会社キイストン

2025年12月24日水曜日

2025年もあと少し。

2025年もあと1週間を切りました。

この1年振り返ると改めて人的ネットワークと損得よりも役に立てることを優先に考え長い付き合いがとても大事で、それが体現された1年でした。

1.人を増やさずしても売上上がるのがわかった。

2.営業力なくても真摯に対応すれば仕事になる。

3.「飲食の戦士たち」を続けてきたおかげで、新しいもの、新しい出会いが自然に増えてきた。

4.AIが劇的に進歩してるので、さらにビジネスチャンスが増えた。

5.部門分けて戦略考えることで具体的な動きに繋がった。

6.大きな風呂敷広げるより堅い目標を確実に作ることが結果早速に繋がるイメージができた。

※気持ちはいつも大風呂敷ですが(笑)


これも社員、外部ブレーン、商材提供企業様、取引先様、「飲食の戦士たち」掲載企業様、これに元キイストン卒業生のおかげ。

2026年は新しい試みを2〜3スタートさせます。

楽しみ・楽しみ!


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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン


2025年12月23日火曜日

株式会社イタリアントマト 代表取締役社長 兼 キーコーヒー株式会社 取締役 副社長執行役員 小澤信宏氏登場。

“飲食の戦士たち”に名古屋の 株式会社イタリアントマト 代表取締役社長 兼 キーコーヒー株式会社 取締役 副社長執行役員 小澤信宏氏を取り上げました。

本文より~

キーコーヒーとイタリアントマト。

今回、舞台となるイタリアントマトが創業したのは1978年6月。JR「八王子駅」前に1号店がオープンした。1980年代には「イタトマ」の愛称で若者から親しまれていた。
今回ご登場いただいた株式会社イタリアントマトの現代表である小澤さんも「大学生の頃、デートといえばお洒落な雰囲気にひかれてイタトマに行った」と言っている。
このイタリアントマト、現在はキーコーヒー株式会社のグループ会社。実は、小澤さんはキーコーヒーの副社長でもある。
「キーコーヒーは1920年、今から105年前に横浜で創業しました。コーヒー豆の輸入・卸を本業にスタート。当時、コーヒーは高級品で、有名な百貨店やレストランが主要なお客様だったそうです。私がキーコーヒーに新卒で入社したのは1982年です」。
一方、イタリアントマトの創業は1978年。最初から資本関係があったわけではない。
「1986年、ナムコさんがイタリアントマトを買収します。イタリアントマトはキーコーヒーの取引先でしたから、ナムコさんとのお付き合いがスタートします」。
「あれは、日本でもセルフカフェが流行の兆しを見せていた90年代半ばのことです」と小澤さん。
「外資系の大手カフェチェーンが日本にも入って来ていましたので、日本でもセルフカフェが流行しそうだとナムコさんと話をして。だったら、やりましょう、と。五分五分の出資で、株式会社アイ・アンド・ケイ(I&K)を設立して、セルフカフェの『イタリアン・トマト カフェジュニア』(以下「カフェジュニア」)の展開を始めます」。
小澤さんも、主要な人物として関わっている。
「1982年に入社した私は、営業所に9年間いて、10年目から本社で仕事をしています。営業所のときは個人の喫茶店が対象で、本部に異動してからは法人が対象です。『カフェジュニア』はフランチャイズ方式で展開していくんですが、メニューづくりからFC展開まで、すべてキーコーヒーが協力・主導していました」。
小澤さんは、営業として飛び回った。
「そうするとですね。300店舗くらいになって、親会社のイタリアントマトの店舗数を上回ってしまうんです。人間だと、子が親より大きくなるのは自然なことですが、ビジネスですからね。整理する必要があるということでイタリアントマトがI&Kを吸収合併します」。
その時点で、キーコーヒーの資本がイタリアントマトに入る。「I&Kは、5分5分の出資だったのが、イタリアントマトの株式が加わったので、キーコーヒーの比率は30%くらいに下がりました」。
これが、2002年9月のこと。小澤さん42歳。2005年4月になると、ナムコが保有していたイタリアントマトの株式をキーコーヒーに譲渡。イタリアントマトはキーコーヒーの連結子会社となる。
翌月の5月2日、ナムコとバンダイが経営統合を発表。「そう、それで、9月29日に『株式会社バンダイナムコホールディングス』を設立されたんです」。
その後、2024年1月12日、バンダイナムコは保有していたイタリアントマトの全株式をキーコーヒーに譲渡。これによってイタリアントマトとキーコーヒーの関係はより深くなり、現在は完全子会社となっている。
このときの社長は、小澤さんである。
「グループ内にカフェをもつことで、リアルな情報収集ができ、キーコーヒーのお客様への提案にフィードバックできるようになりました。今では、イタリアントマトのほかにも、1946年創業の老舗洋菓子店『アマンド』や『銀座ルノアール』、直近では京都の有名店、老舗喫茶『イノダコーヒ』などもグループに仲間入りし、カフェ事業を拡大しています」。
キーコーヒーでも副社長を務める小澤さんのハンドリングが、キーコーヒーの飲食事業拡大のカギを握っている。
「まさか、これほど長くキーコーヒーとお付き合いをつづけるとは思っていなかったんですけどね」。
副社長の小澤さんは、そう言って笑った。

数学の神様。

小澤さんが生まれたのは1960年。東京板橋出身。「両親が福島からでてきて、結婚して、私たち姉弟が生まれます」。
「福島には今も本家があって、親戚もたくさんいます。何しろ親父は7人兄弟だし、母親の方も兄弟が多いから、いとこも多いんです」。
子どもの頃はからだが弱かった小澤さんは、夏休みには決まって福島へ向かい、休みを丸々、福島で過ごした。
「当時の東京は高度成長に入る頃です。うちの父親は建設業だったんですが、あちこちで重機の音が鳴り響き、まるで東京という街を建設しているような時期だったんです」。
「人口も急増する頃です。私が通っていた小学校も一校じゃ生徒を抱えきれなくなって、3つの小学校に分かれます。準備期間もなかったんでしょう。教室が急造されたプレハブってときもありました」。
プレハブ小屋で学ぶ子どもたち。
そのなかで、小澤さんは「算数の神様」と言われていた。
「からだは弱かったんだけど、頭はよかったんじゃないかな」。
IQはギフテッドクラス。学年では堂々1位。
「私を含め、優秀な生徒が4人いまして。これが、今も付き合いがあるくらい仲良しで。新学期が始まるでしょ。最初の2週間で教科書の問題をぜんぶ解いて。あとは好きなことをしていました」。
「とくに私は算数、中学からは数学なんですが、それが得意で。『算数の神様』って言われていました。それで、何をどう計算違いをしたのか、数字が得意だから公認会計士になると宣言していたんです」と笑う。
中学になっても仲良しの4人は競い合った。
「彼らとは中学時代はサッカー部でも一緒でした。ただ、高校はバラバラ。小・中一緒だったから、そろそろ別れようって計画的にバラバラになったんです」。
小澤さんが進学したのは、有名な進学校。
「先生は、安全パイを言ってくるんです。私的にはもうワンランク上の学校を狙いたかったです。でも、それはダメってなって。先生が勧め、私が進学したのは私学マンモス校で、男子校でした」。
高校で小澤さんはゴルフ部に入る。
「中学はサッカー部だったでしょ。とにかく、走るんです。おかげで体は鍛えられて健康になったけれど。もう走るのはこりごりだと思って、ゴルフなら走らないと考えたんですが、これがまた走るんですね」。
体が強くなった神様は、中・高とグラウンドを走り回った。

浪人断念、母との約束。

高校時代を経て、大学入試。「私の時から共通一次試験がスタートしたんです」。
得意の数学、国語や英語ならなんとかなるはずだったが、社会や理科は、不得意だった。
「結果は明らかだから浪人するって、受験の前から覚悟を決めていたんです。練習のために受験した青山学院大学に合格したのですが、もっと上のランクの国立大学を目指したいと思い、行く気はありませんでした」。
青山学院大学はいい大学だが、偏差値だけでいうともっと上を目指したかったという。
「私は入学に乗り気ではなかったのに、母がその気になっちゃって。寄付金も、入学金も用意したからって。おまけに学生証に使う写真まで用意してあったんです」。
お母様の想いをスルーするのは、憚られた。
「だから、申込みだけと思って青学のある渋谷に二人して出かけて。その帰り、母と初めて二人で喫茶店に入るんです」。
二人は、コーヒーを注文した。
「母は大事な役目を果たしたような安堵の表情で、コーヒーを飲みながら『おいしいね』って何度も言っていました」。
そのコーヒーは偶然だったが、新発売された『トアルコ トラジャ』。『トアルコ トラジャ』は、キーコーヒーがインドネシア共和国、スラウェシ島のトラジャ地方にある自社農園で生産・販売するフラッグシップブランドのコーヒーだ。
もちろん、その時点では将来、まさか自分がキーコーヒーに入社するとはわかるはずはない。だが、お母様は、そのコーヒーを「微笑みながら、いとおしく飲まれていた」そう。
反抗期もありお母様と喫茶店でコーヒーを飲むなんてことがこの日までなかったという。
「その翌朝、母は突然の病で亡くなりました」。
小澤さんは少し遠くを見ながら、淡々と話す。
奇しくもそこの喫茶店での何気ないひと時が小澤さんと母との最期の思い出となった。
「予備校も申し込んでいたんですが、結局、青学に進学します」。
母が喜ぶ姿を願ってのことだった。
「ついでに、公認会計士もあきらめた」と言って、こちらを笑わせる。

ふらっと、運命が傾いた。

「大学は経済学部ですが、数学好きな理系タイプだったんで、電機メーカーを受験し、内定もいただいていました」。
話はとび、就活の話である。
「内定をもらっていたから余裕があったのかもしれません。なぜか、あのとき母と飲んだ『トアルコ トラジャ』が気になって。ふらっとキーコーヒーの説明会に立ち寄ったんです」。
「それが運の尽きだった」と、ふたたび、こちらを笑わせる。
「最終面接まで進んで、当時の会長から『君は『トアルコ トラジャ』の申し子になれ。期待しているからな』とまるで運命かのように言われて」。
「とにかく、会長に背中を押され、入社しました」。
じつは、小澤さん。大学時代も喫茶店でアルバイトをしている。
「大学4年間、池袋の喫茶店でアルバイトをしていました。オーナーにはすごくよくしていただいて。そのオーナーは、今、うちのフランチャイズに加盟してくださっているんです。再会したときは、お互いびっくりしました」。
これも、ひとつの運命。「喫茶店」を舞台に、運命の針が回る。
「キーコーヒーですか? キーコーヒーには22歳で入社して、今65歳ですから43年間、離してくれませんでした」と小澤さん。「大好きな会社」と、顔に書いてある。
「当初の9年間は、首都圏の営業所でコーヒー豆の営業です」。
当時は5年くらいで異動するのが一般的だったが、小澤さんは最初に配属された営業所で9年間、勤めている。
「人事異動のタイミングもあり、なかなかその営業所から動くことがなかったんです。ひとつの営業所にそこまで長くいるのは珍しい。おかげで、新卒から今にいたるまでずっと東京で暮らしています」。
10年目になって、希望していた本社へと辞令が下りた。異動先の部署では、法人が客先となった。
コーヒー文化も花咲き、キーコーヒーも絶好調。小澤さんの業績も絶好調だったにちがいない。
ちなみに、当時、取引先から、「課長のポストを用意するから、転職してきませんか」「部長の椅子を用意します」などとオファーをいただいたそう。
「そう言われると、心が傾いて、ふら~~~っと行ってしまいそうだったんですが」。小澤さんは、時々、ジョークか本心か、わからない口調で話をする。
誘いに乗らなかったのは、キーコーヒーが大好きだったからだろうが、それをいうと「腐れ縁だから」と、おっしゃるにちがいない。

・・・続き

株式会社イタリアントマト 代表取締役社長 兼 キーコーヒー株式会社 取締役 副社長執行役員 小澤信宏氏

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2025年12月17日水曜日

株式会社ぐっとくるダイニング 代表取締役 岩田 聡氏登場。

“飲食の戦士たち”に名古屋の株式会社ぐっとくるダイニング 代表取締役 岩田 聡氏を取り上げました。

本文より~

「ちかい」が、行動原理。

今回、ご登場いただいた岩田さんは1984年5月、名古屋市の港区に生まれている。お父様は大手のメーカーで長年務められた。上下関係に厳しく、兄妹に囲まれた岩田さんは「父にも、兄にも頭が上がらなかった」と笑う。
先生の影響で小学生の頃からギターを弾いた。趣味程度というが、なかなか達者に違いない。
中学1年からバレーボールを始め、高校1年でリタイア。回転すしでアルバイトを始めている。
「特別、バレーボールに夢中だったわけではなく、中2のときは顧問の先生がいなくなったもんですから、新しい先生が来るまで部活動自体がなかったくらいで」。
活動エリアは、基本、自宅周辺。じつは、高校選びも、大学選びも自宅からの距離で決めた。
「中学も、地元なんですが通学に歩きで25分。それがきつくて」と笑う。
ギターにも、それほど熱中しなかった。特別な野望も何もない。
飲食でアルバイトをして印象はどうだったか、聞いてみた。
「大学生になってからも飲食店でアルバイトをするんですが、当時は、飲食の仕事をするとは思ってもなかったし、むしろ絶対、やりたくないと思っていたくらいです」。
どうして?と質問を重ねた。
「だってね。最初の回転すしの会社が今でいうブラック。店長は休みなしで働いていましたし、副店長が、お金をくすねたうえに、会社といろいろ揉めているのをみて、なんちゅう世界だって思っていたんです」。
ちかくで、気楽にはたらければそれでよかったから、その世界には染まらなかった。
「大学生になってバイトしたのが、ある鰻屋さんで。料理人の世界だったから、殴る、蹴るが日常だったんです」。
飲食で働いたが、そのぶん飲食との距離が遠ざかる。
人生の針が動いたのは、バイト先で出会ったおじさんたちとの出会いだった。
  「そのおじさんたちは、クルマ関係の会社の経営者だったんです。でも、夕方になると、やってくるんです。今でいうWワークですね。その人らを手伝って、私も部品をオークションに出品したりして。起業家のマネごとをしていたんです」。
さらに針が動く。ある経営者と出会ったからだ。
「飲食業の経営者の方です。知り合いに誘われたんです。『岩田って、就職しないんだろ。昔から独立するっていってたし、手伝ってみないか』って」。

飲食の世界と、勉強の日々と。

「とくに好きじゃなかったんですが、飲食店の経験はあったし、独立の勉強になるかな、と」。
人生の針が、ぐるぐる、回る、回る。
とにかく忙しい。目の回るような業務量をこなす毎日が続いたそうだ。
「オープンしたのは、小さな飲食店でした。愛知では、まだ珍しいタイプの飲食店だったこともあって、ひっきりなしにお客様がいらっしゃいました」。
日々が、ぐるぐる回転する。とにかく毎日が刺激的で、毎日が発見だった。
「私はキッチンだったんですが、カウンターで料理をしていたもんですから、お客さんとの距離がちかい、ちかい。『旨かった』とか『ごちそうさま』とか。そういう言葉が、活力にかわっていくんです。もっと、喜ばせたいな、って」。
「人間性も評価された」と岩田さんはいう。笑い合う、常連客と、岩田さんがいた。
だんだんと飲食が好きになった?とたずねると、岩田さんは大きく頷いた。

独立と自社ブランドの立ち上げと。

「計5年の在籍の間で、新ブランドの起ち上げや様々なことを経験させていただきました」。
飲食を好きにさせた常連客も、今の、岩田さんづくりに一役買っている。
その後、岩田さんは28歳のときに独立。1・2号店は業務委託での運営だったが、3号店目で自社ブランド「肴屋八兵衛」を開発・運営している。
「この3号店がオープンから好調で。そこからは自社ブランドの展開を進めてきました」。
独自ブランドは経営者岩田の、誕生を祝うかのように繁盛した。

・・・続き

株式会社ぐっとくるダイニング 代表取締役 岩田 聡氏

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2025年12月11日木曜日

意気な寿し処阿部を運営されている有限会社寿し処阿部 代表取締役 阿部 浩氏登場。

“飲食の戦士たち”に意気な寿し処阿部を運営されている有限会社寿し処阿部 代表取締役 阿部 浩氏を取り上げました。

本文より~

寿司職人。少年の決意。

ガタガタ、ガタガタ、ガタガタ、阿部少年が漕ぐ自転車が来ると決まっておかしな音がした。ペダルを漕ぐ、靴からは親指と小指がそろって顔をだしていた。
新潟県、南魚沼郡(現在、南魚沼市)、1980年頃の話。
「父母と兄妹3人の5人暮らしです。おやじも、おふくろもマジメな人で、おやじはスキー場で仕事をして、お袋は一日中、内職をしていました」。
「母親がふとんのなかで眠っているのをみたことがない」と阿部さんはいう。子どもたちが川で歓声を上げる夏の日も、雪がしんしんと降る冬の夜も。
「ちっちゃい頃からお金がない。絵に描いたような貧乏でした。ゲームも買ってもらえなかったし、靴も破れたまま。自転車のタイヤも擦り切れちゃって」。そして、冒頭の話となった。
「その頃はもうスキー場で勤務をしていたように思いますが、父はもともと炭焼き職人でした。東京の錦糸町から疎開してきた母と山のなかで出会い、結婚して二人して町に降りてきたそうです」。
町に降りたお父様はタクシーの運転手などをされていたそうだ。
「とにかく、お金がありません。ゲームもない。家のためと思いながら、半分は、そういう世界から逃げ出したかったんでしょうね。『中学卒業したら寿司職人になるから、高校には行かなくていい』って言っていたんです」。
「そもそもは漁師になろうと思っていた」と阿部さん。
「でも、中一くらいになると漁師が不安定だというのがわかってきて、だったら、しゃべるのも好きで、魚も好き。オレに似合うのは寿司職人だろうと」。
中一で、進路決定。
「予定通り、突き進むつもりだったんですが、母親が『高校だけは』っていうもんですから、高校には進学して、そして、寿司職人へ、です」。
高校を卒業した阿部さんは、東京行の列車に乗った。

東京へ。修業時代、始まる。

阿部さんが修行先に選んだのは大手寿司チェーン店。12年修行し、目標通り30歳で独立。広尾に「意気な寿し処阿部」をオープンする。
修業時代の手取りは9万円からスタート。22歳からは独立に向け、月10万円を貯蓄した。
修業時代の話。
阿部さんは新宿伊勢丹に6年、六本木に5年、築地に1年、チェーン店だが、そのなかでも高級店を渡り歩いた。
「就業時間は9時から23時だったんですが、私は立ち食いそばを食べて7時に出勤。これが日課でした」。
だれもいない。1日は静寂のなかスタートした。
「でも、おんなじように蕎麦を食べて、1時間くらいあとからやってくる先輩がいて。これが、いじわるな奴で。『まだそこまでしかできてねぇのか』って」。
静寂は毎日、その一言で破られた。
「寿司もにぎらせてくれないからね」と阿部さん。しかし、独立後、そのイヤな先輩を、阿部さんは採用し、今では「専務となって働いてもらっている」という。
「私のあとに独立したんだけど、うまくいかなかった。オープンのときにアドバイスしたこともあって放っておけなかった」と、過去のいきさつを水に流している。
「今のうちの連中にも、おんなじようにキツくあたっているらしいよ。あれは性格なんだろうね」と笑う。
阿部というひとが、混沌としてくる。プラスも、マイナスもない。ただ、ひとを見捨てない。
だから今、様々なバックボーンをもったスタッフが阿部さんの下で職人となって働いている。
多様な人物を採用し始めたのはいつ頃から?とたずねると、しばらく黙ったあと「最初からかな」と言って阿部さんは笑った。

創業と、借金まみれの一番弟子と。

「一言目に、『金を貸してくれ』だったかな」と、オープンからともに働いた一番弟子についても話をしてくれた。
「とにかく30歳で独立と決めていたんで、お金も1000万円程度ためていました。父からも1000万円借りて、兄の口利きで金融機関からも1000万円。ロケーションは広尾で、と決めていたんで、家賃もそれなりでしょ」。
合計3000万円。
しかし、うち270万円をサラ金に返済している。
「前職で私の下で働いていました。私がある日、厳しく叱ると、その日からいなくなった。私が独立してオープンするとき、だれかいないかと探していたらたまたま『奴ならいる』ということになって」。
そして、しばらくぶりに出会った彼は、再会するなり「お金を貸して欲しい」といったそうだ。
「私が辞めさせたわけじゃないけど、引き金を引いたという思いもあったし、やつの顔をみていると放っておけなかったんです」。
問い詰め、聞き出した借金の額が270万円。「借りているサラ金をぜんぶ回って返した」と阿部さん。
当時、その後輩さんは23歳。啖呵を切って、札束を叩き返す阿部さんの横で、泣いていたそうだ。
「お金は、ちゃんと働いて返してくれました。それ以上に彼がいたんで、オープンから満席になるお客様に対応できました」。
2人して、店に寝泊まりした。
「23時にクローズなんですが、ときには2時くらいまでお客さんが帰らない。それから片付けをして、生ビールを1杯ずつ飲んで朝になって私は買い出し、彼も準備をはじめてくれました」。

寿司職人、阿部と、経営者、阿部。

「結婚も30歳の時」と阿部さん。
「お店をつくるのにお金がかかったから披露宴をするお金もなかった。だから、8月にオープンするんだけど、オープン前にお店で披露宴です」。
借金を肩代わりした一番弟子もいたはずだ。
初月は270万円、半年後には500万円をオーバーする。
「利益も残ったけど、経営の勉強はしてこなかったからね。PLもよくわかんない。なんとなく500万円くらいいったらいいだろうって計算機を叩いていたんです」。
2号店は5年後、今度は無借金でオープンしている。
「経費は多少つかったけど、私の給料はスタッフといっしょ。ぜんぶ会社に注ぎ込んでいきました。コロナのときまでずっとそうでした」。
お金より、スタッフとお客様。
経営の軸は「ひとを大事にすること」。
お母様の教えだった。
そんな阿部さんの下には、ひとがこぞってやってきた。だから採用で困ったことはない。
とはいえ、やってくる人は様々だ。
「いろんな奴がいるよね。でも、おんなじ人間だからね」。
現在「意気な寿し処阿部」は、都内に8店舗、80人の社員が阿部さんの下で働いている。
貫かれているのは、経営者、阿部の「人ファースト」の経営の姿勢だ。ちなみに、そんな阿部さんの姿はフジテレビの「ザ・ノンフィクション」で取り上げられている。

・・・続き

有限会社寿し処阿部 代表取締役 阿部 浩氏

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12月10日(水)、産経デジタル“zakⅡ“は店舗ナンバーワンホールディングス様の「パリの一等地に和食惣菜店をオープン」を取り上げました。

12月10日(水)、産経デジタル“zakⅡ“にてキイストンの「ここだけの外食産業ニュース」の連載第3回目は、店舗ナンバーワンホールディングスの三浦社長が悲願だったパリの一等地に和食惣菜店をオープンの記事を掲載しました。

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2025年12月5日金曜日

12月3日(水)、産経デジタル“zakⅡ“にて油そばの新店「油そば雷神 浅草店」のオープンの記事を掲載しました。

12月3日(水)、産経デジタル“zakⅡ“にてキイストンの「ここだけの外食産業ニュース」の連載第2回目、油そばの新店「油そば雷神 浅草店」のオープンの記事を掲載しました。

「油そば雷神」、これからFC増やして行かれます。
こちらの浅草店はもともとは豚丼専門店でしたが、今回思い切って油そばの雷神と雷神餃子で再スタートされました。
浅草雷門といえば、雷神・風神ですからね。


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2025年12月2日火曜日

新たな取り組みに挑戦!  

キイストンの原点は「求人(人材採用)」です。

原点に返り、時代に合わせた求人戦略を構築するため新たな試みに挑戦します。

他社がやってない、他社ではできないことをトライしていきます。

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株式会社ごっつり 代表取締役 西村直剛氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ごっつり 代表取締役 西村直剛氏登場。

本文より~

直剛はじいさん似だから、髷(まげ)が結えなくなるぞ。

青森県は、本州最北端。地図上で東北エリアを観ると、太平洋側、日本海側に分かれて北上する2つの県を1つの県で蓋をしているように映る。
北は津軽海峡、東は太平洋、西は日本海が広がっている。豊かな自然に包まれた、海産物の宝庫でもある。
今回、ご登場いただいた西村さんは、1967年、青森県八戸市に生まれている。
「青森は、にんにくが有名ですが、母の実家があった田子町は、とくに『にんにくの町』として知られています」。
西村さんの母方は、代々、その町の大地主で名主だった。6月下旬。にんにくの収穫期には町内の人たちがあつまり、みなで収穫を行うのは毎年の風物詩だった。
「母は、この青森で小さな旅館をはじめ、ホテル、割烹、ディスコと、次々とビジネスを広げていく、商才ある女性でした。父は、逆に接骨院一筋。スピリチュアルな人で、除霊をお願いされたりしていました」。
ちなみに、お父様はキノコ採りにいった八甲田山で遭難されている。遭難して3日経って発見されたのだが、そのとき「守護霊の存在を感じた」とおっしゃっていたそうだ。たしかに、スピリチュアルである。
兄弟は兄が一人。
「小学1~2年生くらいかな。私がキャッチボールができるようになると、兄が通学路で待ち伏せしているんです。相手をしろってことです」。
小学生の弟にとって、3歳上の兄のボールは強烈だった。グラブを弾けば道の向こうまで取りに行かないといけなかった。
「兄だけが楽しくって。私はつまらない。兄をみつけると逃げ出したくなったほどです」。
だが、そのおかげで野球がうまくなったのは事実。おまけに、からだがでかい西村さんは高学年になると、キャッチャーで4番。怪力だから、バットにボールがあたると外野手の頭を越えた。
野球以外でも、注目されていた。
じつは、相撲大会に出場して負けたことがなかった。
「小学6年生のときに、3つの相撲部屋からオファーがきたんです。『中学を卒業させてやるから、東京に来ないか』って」。
家族会議が開かれた。
「小学生にオファーですよ。あの世界はすごいですね。1979年頃の話です。関取がどんなものか、TVでしか知りません。でも、そりゃお誘いいただくんですからね。関取になれるかもしれないでしょ。どうする? どうしよ? って。話が煮詰まったとき、ばあちゃんが言うんです。『直剛は、じいさんに似ているから、すぐに髷(まげ)が結えなくなるぞ』って」。
父、母、兄が西村さんの顔をみる。
「『たしかに、そうだ』って顔に描いてあるんです。だから、全員一致で、お断りすることになりました」。
家族会議の結果、西村関は生まれなくなったが、かわりに甲子園球児は生まれた。その話は、このつぎの章で。

絵に描いたようなゲッツーで、試合終了。

西村さんは、甲子園の古豪だった八戸高校に進んでいる。県大会の決勝で敗れることが多かったが、西村さんの代には、見事、甲子園出場を果たしている。
相撲部屋から誘いが来た体躯は健在。怪力無双の西村さんだったが、甲子園では先発から外れている。
「怪我がもとで、でれるとすれば、代打。ひとふりの勝負になりました」。実際、9回に西村さんは、バッターボックスに立つ。
「ぼくがバッターボックスに入ると、みんなホームランを期待してたようです。」。
甲子園が声援に包まれる。肩にちからが入る。相手投手の手からボールが放たれる。ワン・ツー・スリー。
「ショートゴロで、絵に描いたようなゲッツーで、試合終了」。
「なんであのとき、ヘッドスライディングをしなかったんだろう。ヘッドスライディングしていたら、絵になっていたのにね」と笑う。
ずうっと怪我ばっかりだった高校野球、試合終了になったが、まだつづきがある。
「毎年、引退試合が行われます。私は、4番DH。1アウトランナー1・2塁、甲子園と全く同じ場面。華々しくレフトスタンドにバットを突き出してホームランを予告します」。
やんややんやの喝采。
「最後の真剣勝負ですが、お祭りでもあったんです。駆け引きなし。ストレートで勝負してくるのはわかっていました」。
初球、相手ピッチャーが渾身のストレートを投げ込む。剛球が、うなりをあげる。西村さんのバットが一閃する。
「あのスリーランは、甲子園でやり残したことを含め、すべて忘れさせてくれた一打でした」。
いまだに酒の席では「あと一球はやかったら同点ホームランだったのに」と言われます。
高校を卒業した西村さんは、気分も晴れて、専修大学に進む。

佐川急便で快走、だが、40代になり、体調を崩し、リタイア。

「かみさんと結婚するまでは、もうむちゃくちゃな遊び人でした」。給料は月100万円オーバー。それが「ひと月でなくなった」というから、当時の様子がおおよそ想像できる。
その一方で、仕事には精をだした。佐川急便のなかでも評価が高く、最終的には上層部のちかくで仕事をするまでになっている。
「でも、ハードな仕事がたたって体調を崩します。救急車にも3回乗った。で、かみさんとも相談して、つぎが決まってなかったんですが、まぁ、結婚してからはお金も貯まっていましたし、いったん静養しようってことになって。それで佐川を辞めて、釣り三昧です(笑)。
釣りですか?
「そうなんです。釣りが大好きで、実は今も釣りの大会に出てて優勝したり。スポーツ紙にも時々取り上げられているんです。あの大魔神佐々木っているでしょ」。
大リーグでも活躍された佐々木主浩さんのことですね?
「そう。佐々木さんも釣りが好きで、プロ級なんです。彼とは先日も日刊スポーツの釣り大会で一緒になって、私が優勝させていただきました。同期で同じ東北ということもあって、話があって。でも、八戸高校知らないって言われました(笑)」。
なんでも甲子園出場校の同期会があるそうで、数年前から西村さんも出席しているそうだ。
「PLコンビは来てないですが。今ではみんないろんな職業に就いていて。おっさんになっての再会も、おつなもんです。交流も広がって。先日もうちの店に作新や帝京、関東一高、東海大甲府などの選手たちが来てくれたりして」。
かつての名プレイヤーたちが、昔話に花を咲かす。
「甲子園のビデオが流れるんです。みんなその映像をみて盛り上がっているのに一人、ムスっとしている奴がいたんで『どうしたんだ?』って聞いたら、『オレ、今映っているあいつにさよなら打たれたんだ』っていうんです。まだ、根に持っているのが面白いでしょ」。
野球。人生のなかで、野球という一つのストーリーが、つながっている。
ところで、飲食は、静養後の話ですよね?
「母親の血もあるし、かみさんも事業をお越し社長をしていたんで、就職してサラリーマンになる選択肢はなかったです。別に飲食でなくてもよかったんですが、たまたま『飲食をやろう』となって」。

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2025年11月25日火曜日

株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏登場。

本文より~

祖父、父、そして。

今回、ご登場いただいたのは、株式会社豚ギャング・MーSTYLEの代表、松永 龍太さん。1994年生まれの31歳(2025年11月現在)。
口調が明瞭で、エネルギッシュ。お父様の若い頃と似ているのかもしれない。松永さんが小学生の頃に、お父様は映画のプロデューサーをされていた。
「最初こそお金の工面に苦労して、トラックの運転手もしてたみたいですが、結構売れっ子のプロデューサーだったみたいです」。
映画のプロデューサーだったお父様が、お祖父様の会社を譲り受けた。生活が好転する。
「祖父は、もともとホンダではたらいていて、ホンダのディーラーのネットワークをつくった一人です。そのうちの一社の社長に就任します」。
「その後、SYMっていう台湾のバイクの貿易事業で起業して独立します。父が引き継いだのは、この会社で、それを縁に、今は中国に飲食店を3店舗オープン。ある飲食店でも、父が大きな役割を果たしています」。
お父様のお年は、57歳。まだまだ現役。今では、親子とも同じ飲食の世界にいるが、資本の関係はない。コロナのときには、「親子ともに打撃を受けた」と笑う。

名門野球チーム。

松永さんは、小学生で野球を始めた。からだが大きく群を抜いていた。中学ではクラブチームで活躍する。先輩の一人は、プロ野球選手となった。「今でも交流がある」という。
「私が所属したクラブチームは、かなりの強豪チームで、トップ選手たちは推薦で甲子園の常連校に進みました。私は、常連校じゃない高校から、おまけのような形で、いったん推薦をいただいたんですが」。
松永さんは、苦笑いする。内申点と、素行の悪さで推薦が取り消された。
「中学生の頃になると、ほめられた話じゃないんですが、野球よりバイクとか、そっちが楽しくなって」。
だから、素行でマイナス評価となる。
「第一志望に通っていたら、もう一度野球をするつもりだったんですが」。
言い訳か、本心か、つぶやくようにいった。
高校でも、遊んだが、「やればできると思っていた」と明かす。
「でも、行けるだろうと高をくくっていた明治がダメで、桜美林は合格したんですが、けっきょく東京ではいちばん偏差値が低いと言われていた多摩大学に進みました」。
アルバイトは、たまプラーザの「ひものや」。飲食以外でも、警備員、コンビニでバイトをした。大学は、つづいたが、アルバイトは別。
「2ヵ月以上、つづいたことがない」と笑う。
「大学も、もともと進学するつもりはなかったんです。父親の『大学に行ったら、免許代を払ってやる』という甘い誘いにのって。じゃぁ、行くかって。だから、授業もでたり、でなかったり」。
「中学くらいから、将来は、父の会社を継ぐと思っていた」と松永さんは明かす。
バイトを転々としながら、車を走らせ、大学生活を謳歌する。そんな松永さんが、大学を卒業して2年経った24歳で独立するとは、だれが想像していただろう。

2ヵ月とつづかないアルバイト。

「大学を卒業して就職したのは、Googleの代理店です。配属は営業でした」。初の営業。天性の才があった。つぎつぎ契約を取ってきた。新人だが、実績はエース級だった。
「特別、なにかをしたわけじゃないんです。ただ、昔から相手が喜ぶことがある程度分かったんです」。
好成績を上げる新人に、上司はきつかった。
「たしかに、先輩にもフォローしてもらっていたんです。ただ、上司いわく、私の成績はすべて、先輩たちの手柄だと。それはない」。
新人離れした業績をあげた松永さんは、社会人になってもやはり半年ももたず、辞表を叩きつけている。
バイトにしろ、Googleの代理店にしろ、まるで辞めるために就職したみたいだと松永さんは笑う。
「2社目は祖父のマネではありませんが、ホンダのディーラーに転職しました。商材はぜんぜんちがいますが、セールスの基本はおなじ。ディーラーでの仕事ははじめてですが、昔からバイクや車が好きでしたから、それもまたいい成績につながったのもしれません」。
ただし、セールスはできても契約書類などのあと処理がよくわからない。「ある時、店長に頭を叩かれたんです。それでイラっときて」。
今度もまた、半年つづかなかった。
履歴書に、まず2つ、社名が載った。
「普通なら、そろそろ真剣に悩むと思うんですが懲りてなかったですね」と松永さん。
いよいよ飲食の世界へと入り込む。
アルバイト時代の先輩が松永さんに耳打ちした。「飲食は儲かるぞ」。

辞めると切った啖呵の未来。

先輩は「ひものや」を運営するサブライムではたらき、同社の独自のシステムを利用して独立されていた。つまり社長である。
大学を卒業して1年。松永さんは23歳だった。「飲食は儲かるぞ」。一言のキャッチフレーズが、心に響く。
社長にもなれる。悪くはない。
「サブライムを辞めるときは先輩のように独立するときだ」と腹をくくる。今までと違って、今度は早ければ、早いほどいい。
「最初の配属は、登戸にあった沖縄料理店でした。営業とはちがいましたが、いい成績を残したと思います」。
普通なら店長に昇格する成績だった。
「でも、そううまくいかないです。いつものことですが(笑)」。
タイミングが悪く「むちゃくちゃ評価が高い30代の人が転職してきた」と松永さん。
それでも店長はオレだろうと思っていたが予想が外れる。
やはり、イラッとした。
「独立したいから店長にしてくれ」と部長に直訴した。
「でも『まだ若い』って言われて。年齢でみるんだったらサブライムに入社した意味もないでしょ。だから『そんじゃ辞めます』って。面談の最中に席を立ったんです」。
頭のなかでは「またやっちまった」と思っていた。肩を落とし、会社をあとにした松永さんの携帯が鳴った。部長だった。
「『神保町の焼鳥屋の店長ならいい』っていうんです」。
「実力を示すには文句なしでした。月商150万円。損益分岐点にもとどかない。立て直しというのは実力がないとできません」。
「やります」。
「辞める」といったおなじボリュームで快諾した。

独立。

神保町の焼鳥店で実績を残した松永さんは店長を経て、サブライムのスキーム通り、独立する。もっとも賭けだった。
「サブライムはこの店をと手を挙げるんですが、私が手を挙げたのは赤字店でした。店長がかわればなんとかなるんじゃないかな、と」。
150万円のセールスがぎりぎりだった。もちろん、赤字。「とにかく、独立したかった。それに焼鳥だったら経験もありましたから12月まで神保町で実績を残し、1月に面談を受けて、2月に独立です」。
業務委託だったが、オーナーだ。
「家賃と、サブライムに支払うお金と合わせ45万円でした。もともと150万円ですから、なんとか業績を上げないといけません」。
松永さんのタレントの一つ。人が寄ってくる。
「特別何かをしたわけじゃないんですが、アルバイトも昔の仲間がやってきてくれて。最初はいろいろいわれたんです。若いですからね。まだ、無理だって」。
外野の声を一蹴する。
赤字店を70~80万円の利益がでるまで伸ばし、1年で3店舗をオープンする。松永さんの力量以外なにものでもない。
「それまでは、言っても小箱だったんですが、そのつぎに150席で家賃100万円の店舗の契約を結んでスタートします。橋本にある沖縄料理でした」。
松永さんは、思い切ってアクセルを踏む。しかし、踏んだときにコロナがスタートする。

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株式会社M-STYLE/株式会社豚ギャング 代表取締役社長 松永龍太氏

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キイストンだからこそ」を追求し続け 飲食業界になくてはならない企業になる 
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2025年11月24日月曜日

株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏登場。

本文より~

高校は、ふたつの山の向こうにあった。

今回、ご登場いただいた株式会社AZismの手塚社長の話を聞いて、興味が出て調べてみた。栃木県塩谷郡塩谷町船生。
高校に通うには、山をふたつ越える。村の人口は、そこそこあったがクラス30人のうち斎藤が12人、手塚が6人と、名字ではなく、昔から今風に下の名で呼び合い、識別していたそうだ。
「小学校だって、校区がめちゃめちゃ広いんです。幸いうちはたまたま学校から近かったから何キロも離れてはいなかったんですが」。
近いと言ってもキロ単位。何しろ隣家との距離が400メートルあった。「回覧板一つもっていくのがたいへんだった」と手塚さんは笑う。
回覧板には「熊がでたので注意」と書かれることもあったそうだ。「熊の被害は聞いたことがないですが、熊も、鹿も普通にいました」。
「もともと船生っていうのは日光東照宮に参拝する際の最後の宿場町だったんです。うちも昔は『万年屋』という屋号の旅籠だったそうです。ただ、徒歩が車になると宿場町は閑散とし、今はみる影もありません。そうそう、先日、行ってみると、中学校はあとかたもなくなっていました」。
山間、中学生になる頃までコンビニ一つなかったが、自然はある。自然を駆け回る少年をイメージして話を聞いていたが、若干、ちがった。
「園児のときに、跳び箱10段を跳んでいました。そんな私をみて、将来オリンピック選手になると、大人たちがさわいでいたのを記憶しています。ただ、小学校にあがってからアトピーに苦労します」。
「爪がのびない」と手塚さんは手をみせる。アトピーで掻きむしったからだ。
「ただ、小学3年生のときですね。漢方薬で、突然アトピーが治ったんです」。
アトピーになり、内向的になっていた手塚さんが変わりはじめたのは、この頃から。ただし、中学に上がり将来なりたいことを聞かれて「仙人」と回答している。
今も世界を旅し、当時から活発で学校のなかで人気者だったお姉様と比較すると、内向的で大人しい。
「姉は、運動神経も抜群だったので、私が中学にあがると手塚の弟が入学してきたと言って、野球部からすぐに声がかかりました」。
山ふたつ越えた高校は、栃木でも有名な進学校。毎年、東大生も数名でている。「宇都宮にでるのが、一般的だったんですが、私は塾の先生に言われるまま宇都宮とは反対の県立大田原高校に進みます。宇都宮だったらまだちかかったんですが、大田原高校には自宅から駅まで車で30分、電車で30分、自転車で30分の行程でした」。
それでも、ちゃんと皆勤賞を取っている。毎年、5月に行われる85km競歩にもかかさず出場している。
「私は飽き性です。中学の野球部も3年になって辞めているし、高校のクラブもそう。勉強も、塾の先生にお尻を叩かれやっていましたが、高校には塾のこわい先生がいないこともあって、ぜんぜんしなくなってしまいました」。
ちなみに、大田原高校の生徒全員が24時間、歩き続けるらしい。なにしろ85キロである。あの、年に1回あるTV番組の目玉企画のマラソンと、そうかわらない。
「でるのは楽しみでした。ただ、3年のとき、この行事の最中に父と母が交通事故に遭ったことを知らされるんです。母は回復しましたが、父は、この事故の4年後になくなります」。
農協に勤めるやさしい父だった。毎日、駅まで車で送ってくれたのも父だった。
手塚さんは淡々と話を続ける。
「私は、帝京大学に進みますが、奨学金(交通遺児育英会)を受けて進学できました。月5万円。ありがたかったです。今では全額完済して寄付する側に回っています」。
これが手塚さんが大学生になるまでの話。

ゲーム好きな青年が味わった、趣味とプロのちがい。

「私が大学を卒業するのは2008年。リーマン・ショック直前ですが、2008年の春ですから、経済は活況で売り手マーケットでした。私も4社受け、4社から内定をいただきました」。
話は手塚さんの就活に進む。
「内定はもらったんですが、今一つ乗り気になれないというか、邪魔くさくって内定者懇親会にも出席しなかったんです。結果、内定辞退となって夏過ぎになっても就職先は決まっていませんでした」。
もともと不精な性格。拘束されるのが苦手なタイプ。
「自分で撒いた種なんですが、夏がすぎるとさすがに焦りだした」と手塚さん。
「社会にでてはたらくことがイメージできなかったような気もします。社会だけでなく、内定をいただいた会社についても、じつは何をするかよくわかってなかった。そんなとき、学生時代に通い続けていたゲームショップの求人と出会ったんです」。
じつは手塚さん、子ども時代からゲームが大好きだった。学生になってもゲームショップに通い続けた。愛着もある。
「そのショップが、AZismが経営する「PAO」だったんです」。
手塚さんは、アルバイトからスタートして、翌年、新卒第一期生として正式に入社する。
「私は新卒募集と勘違いして面接に臨みます。じつは中途入社の募集だったんです。だから、卒業までアルバイトという約束で内定をいただきます。『新卒第一期生』私1人です」。
当時、AZismはゲームショップやカーブスなどを運営していた。AZismについては、現会長、当時、社長の和田さんにご登場いただいた記事<第1070回 株式会社AZism 代表取締役会長 和田敏典氏>をご覧いただくとよく分かる。
さて、新卒第一期生である。「大卒」「新卒」という響きに、会社の期待が高まり、どこかで「嫉妬」もうずまく。
「たしかに、期待は多少あったと思いますが、『仕事できないヤツ』だったから、すぐに期待はしぼみ、嫉妬されるまでもありませんでした」。
大学時代もゲーム三昧。ゲームには詳しかったのでは?と伺うと、「まるで違う世界」とのこと。
「ユーザーと店員は全く違います。ユーザーは好きなゲームに打ち込むでしょ。それだけでいいんです。でも、ショップのスタッフとなると好きなゲームだけとはいきません。ゲームは毎週のように新作がリリースされるんです。これは?と質問され、知らないとはいえません。これが、趣味と仕事のちがいです」。

社長の教えと、バイオハザードと。

「当時の私は最低な社員だった」と手塚さんは苦笑する。趣味とプロのちがいに戸惑いつづけた。
「どうでしょう。2年くらいは、ただショップに立って、接客を繰り返すだけのスタッフでした。正直、転職するのが面倒だったし、当時、ゲームショップの売上は良くはなかったのですが、危機感もありませんでした」。
ただ、あとで知ることになるのだが、じつは当時、会社は火の車だった。
「私が入社する3年くらい前に加盟したカーブスが大苦戦していたそうです。ゲームショップの利益でカバーしていたといいますが、億単位の赤字で、社長の和田も毎週、銀行に呼ばれていたそうです」。
社員総会で、和田さんが、「うちは赤字企業」といって、はじめて苦境を知ったが、ゲームショップのイチ店員にできることは何も無かった。
「もちろん、コントロールできる範囲では、私なりに頑張りました。ゲームは新作と中古で利益がまるでちがうんです。中古のほうが断然、高い。だから、会社の号令もあって中古のセールスにちからを入れました」。
それでも、期待の新卒はいち販売員に過ぎなかった。入社時の期待の星が、会社の業績に大きく関わりはじめたのはいつ頃からだろう?
「当時は、会社も小さかったので、年に1度、社長の和田と、マンツーマンの酒席が設けられていたんです。ある日の酒席で、社長の話に感銘を受け、それを実践したことをお話すると気に入ってくれたのか、そのあとしょっちゅう私だけ飲みに連れて行ってくれたんです」。
期待されると、そのぶん頑張るタイプ。「当時の部長が怖くて怒られたくなかったってこともあるんですが」。このあたりは、中学時代、塾の先生がこわくて勉強した頃と変わらない。
ちなみにどんな話だったんですか?と話をふると、「和田の原体験で、和田流の商売の原点です。和田が電気屋さんで仕事をしていた頃の話。アイロンの話です。聞かれませんでしたか?」
和田さんとのインタビューを思い出し「説明書の話ですね」というと、「そうです。そうです」と言って話をつづけてくれた。
「最初は安いアイロンばかりを勧めていたんですが、ぜんぜん売れない。それで説明書を読みまくって、性能の高いものには高いだけの価値があることに気づいて、そちらを勧めると、高価なそのアイロンがつぎつぎ売れていったって話です」。
その話を聞いた手塚さんは「すぐに実践した」という。「仙人」になろうとしていた頃とはまるでちがう行動力だ。物を売るのではなく、価値を売る。ゲームの価値なら、だれより知っていた。
「バイオハザードってゲームがあるんですが。当時、うちのショップには980円と3980円のふたつがあって、当然、980円のほうが安いんですが、ゲームをする立場からすると、3980円には価格以上の価値があったんです。私自身ゲームが大好きなんで、その価値がわかる。だから、『じゃぁ、社長流で、こっちを勧めてみよう』と。すると和田が言う通り、そちらばかりがバカ売れするんです」。
ショップの売上は面白いように伸びた。当然、社長の和田さんの目にも、面白い存在と映る。
ただ、それを知ってすべてが開花したわけではない。じつは、このつぎ。「漫画喫茶」に異動して、「そこで、人生が変わった」と言っている。
最後にその話を少し。

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株式会社AZism 代表取締役社長 手塚章文氏

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(社長記事やグルメ情報など飲食の情報はキイストンメディアPR事業部まで)