2025年11月19日水曜日

11月19日、ZAKⅡにて「ここだけの外食産業ニュース」スタートしました。

 11月19日、産経デジタルのZAKⅡにて「ここだけの外食産業ニュース」の連載スタートしました。

またまたキイストンで連載の枠をいただきました。

検索が簡単に、またAI検索も増えてるのでメディアはほんとにありがたいです。

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株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏登場。

本文より~

熊本から東京、そして、ふたたび熊本へ。「だったら、今だろ」。

「はよ、こっちば手伝わんか!」
農園に遊びに行くと、そんな声が飛んできた。
農園とは、今回ご登場いただいた株式会社ユームスの代表、田尻 秀一郎さんの父が創業した、正確にいうと観光農園。名称は「優峰園フルーツランド」という。
「熊本ではそこそこのスケール」と田尻さん。
田尻さん自身は、熊本を離れ、東京で飲食店を経営し、現在では熊本でも事業を起こしている。
「熊本での事業は震災がきっかけでスタートします。熊本での創業店『テラス TERRACE』は、もともと著名なシェフがお店をオープンする予定だったらしいんです。ただ震災で、その話が流れ、代わりに私が手を挙げ『テラス TERRACE』をオープンしました」。
「なんとか支援をしたかった」と田尻さんはいう。
「私は、熊本をコンセプトにしたお店を東京で展開していましたので、熊本県人のお客様がいらして、『どうする?』なんて話を、お客さんといっしょにしょっちゅうしていたんです」。
「私にできることは限られていましたが、なにか支援できることはないか、と。それにいずれ熊本にも店をだそうと思っていたので。だったら、今だろ、と」。

「優峰園フルーツランド」を離れるまでの話。

話は、田尻さんが農園で走り回っていた頃に移る。
「私がちっちゃかった頃は、『みかん』と『なし』と『ぶどう』をメインに栽培していました。祖父が農家で、父の代で観光農園としてスタートします。農園と言っても、優峰園フルーツランドがあるのは、熊本市内です。都内で暮らす人には、市内というと驚かれるかもしれません。熊本といえばみなさん、阿蘇山をイメージされますが、そっちじゃなくって、島原のほうがちかいです」。
「優峰園フルーツランド」のホームページにあるマップでみると、熊本駅から西に向かっていくところにあった。
「市内ですが、周りは山。自然が残ると言うと聞こえも悪くないですが、今も実家の周りは昔のまま。ただ、一つ、かわったのは、電動付き自転車で子どもたちが坂を上がっていることですね。ぼくたちの頃は、坂がきついから、自転車なんて乗ることができなかった」。
田尻さんが笑うと、どことなく、空気がゆるむ。
じつは田尻さんは、お父様が経営する「優峰園フルーツランド」のあとを一度はついでいる。
「高校生の頃に、今はもう元気なんですが、父が病になって、ふだん、ぼくに何かをしろとは言ったことがない両親が、『フルーツランドをつぐのは秀一郎しかいない』と。それで、いったんつぐには継ぐんですが、じつは3年で弟にバトンタッチしてしまうんです」。
「オレに代わって、『優峰園フルーツランド』を引き継いでくれ」。
田尻さんが弟さんに深々と頭を下げると、兄の気持ちをわかっていたのだろう。「ええばい」という声が降ってきた。
「今はもう、弟の代になって、『いちご』もやっていますし、『釣り堀』や夏は『流しそうめん』をはじめて、人気のスポットになっています」と頬をほころばせる。
「2歳下の弟が入社したのは、私が入社して3年目の時。弟に了承してもらい、父母には、私が宅建免許の取得することと引き換えに、家をでることを許してもらいました」。
<宅建ですか?>
疑問をそのまま口にすると、優峰園フルーツランドでの葛藤が、田尻さんの口をつく。
「ぼくは、優峰園フルーツランドの仕事をしたくて、はじめたわけじゃありません。これが弟とはちがう点です。それに、農園のことになると父が、ふだん何も言わない父が、あれやこれや指示だすんです」。
「ぼくは、わがままっていうんでしょうか、やりたいことでしかエネルギーがでないタチなんです。親父に指図されるまま2年くらいのらりくらりやっていたものの、やっぱりだめで。それで弟が入ってきたのを幸いに、家をでていこうと画策するんです」。
「事業家だった父の背中をみてきたからでしょうね。ちっちゃな頃から独立志向がつよく、農園で、父の下ではたらいたことで、独立への想いが加速したんだと思います。もちろん、親を説得しないといけません」。
「幸い、父も回復していたんで、父と弟で農園の経営に問題ありません。『宅建』という高いハードルを越えたら、『オレの好きにさせて欲しい』とお願いします」。
「どうして宅建かっていうと」と言って、頭をかく。
「理由なく、宅建を取れば独立できるという思い込んでいたんです。一方、2人は高校までのぼくの成績を知っていますからね、まさか合格するとは思ってなかったんでしょう。『わかった、約束だ』って」。
ご両親の予想を裏切り、田尻さんは見事、合格。
「弟に2代目を譲り、晴れてぼくは福岡に向かいます」。
ふるさとからの旅立ち。田尻さん、21歳のとき。

Barとサーフィンと。

「宅建は口実で、無事、取得はできましたが、そっちの分野に進むつもりはありませんでした」と田尻さんは、正直に打ち明ける。
Barではたらく友人の姿に惹かれ、福岡でアパート借り、21歳の暮らしがはじまる。
「ともだちに紹介してもらったBarに行くんですが、2年間はトイレ掃除だと言われて」と苦笑する。
「それでも、お酒をマスターしようと酒屋さんでアルバイトをして、のちにちゃんとBarでもはたらきます。その一方で」。
いったん、言葉をためて「サーフィンに出会うんです」という。
まるでとっておきの一言を放つように。
波に乗ることですべてから開放される。サーフィンは田尻さんに開放感をもたらし、虜にする。
こののち、サーフィンとBarが折り重なって田尻さんの人生を織りなしていく。
「波をもとめて、オーストラリアでも暮らします。向こうではフルーツピッキンのバイトして、あとはサーフィン三昧です」。
帰国した田尻さんは、宮崎で1年間サーフィンしながらお金を貯め、上京することになる。
だが、最初に、降り立ったのは上野。思い描いていた東京とまるでちがった。
「東京っていえば、表参道でしょ。あのイメージが刷り込まれていたんです。それで、実際、表参道に行って、そこにあったBarではたらきます。赤坂のBarでもはたらきました。東京が、ぼくのなかにだんだんと染み込んでくるんです」。
異質で、格好いい東京の街並みが、見慣れた風景となる。
「そのあとですね。これも大きなターニングポイントなんですが、『恵比寿でもつ鍋をやる』という先輩から声をかけてもらって『博多もつ鍋 蟻月』で仕事をはじめました」。
当時、千葉の市原に住んでいた田尻さんは、恵比寿の白金に移り、仕事にどっぷりとつかっていく。
「けっきょく29歳から35歳まで『もつ鍋 蟻月』で勤務します」。
ちなみに、「蟻月」はグルメサイトでもとりわけ高得点の、もつ鍋店だ。
<蟻月を退職され、独立されたわけですね?>
「ええ、そうです。たいへんな道のりのはじまりです」。

あれ? イメージとちがう。

2010年、 田尻さんは、渋谷に「熊本バル うせがたん」をオープンする。「うせがたん」とはかわった名だが、何でも田尻さんだけが知るパワースポットの名とのこと。コンセプトは、熊本だ。
「16坪で、家賃29万円。借り入れ1000万円、自己資金300万円でスタートしました」。
「ぜんせんわかってなかった」と田尻さん。
「蟻月では、一日中、電話が鳴りっぱなしだったもんですから、そのイメージでオープンしたんですが」。
意に反して、客足はまるでのびなかった。
「電話もならない(笑)」
「月商500万円はかたいとふんでいた」と田尻さん。
「しかし、実際には200万円。営業時間ですか、18時から深夜0時です。『蟻月』では、マーケティングなんていらなかったから、広告もわからないです。それで、とにかくランチをはじめようと思って。夜も、昼も、休むこともできません。でも、ランチのおかげで、少しずつ認知いただくようになって」。
7月にオープンし、夜もにぎわうようになったのは10月。3ヵ月は、そこそこ長い。
「初めてですし、不安がないと言えばうそになります。それでも、なんとか軌道にのり、今度は『熊本ラーメン』だと2店舗目をオープンします。しかし、ラーメンはむずかしくって。それですぐに、餃子と麺の居酒屋に切り替えます」。
「とにかくぼくは、プランB」と田尻さん。メインのAじゃなく、サブのB。
「2店舗目も最初は、ラーメン。これがプランAです。でも、Aがだめで、居酒屋というプランBが動きだします。3店舗目も同様で、つぎは高級路線に舵を切ろうとアッパーな和食店をプランAとしてスタートするんです」。
「幸先よく、なだ万出身の料理人を採用できたんです。これで、いけると思ったんですが、彼はしばらくして、著名人に引き抜かれてしまって。それで、こちらもプランBとして、再スタートです」。
<それでも、3店舗、プランBもなかなかやりますね>
「ま、いまだからね。最初に『うせがたん』をオープンした時なんて、奥さんのお父さんが、ともだちを連れて毎晩のように来てくれて、それで、なんとかかんとかって感じだったから。休みもないし。それに、料理長がいなくなったときもきつかったですね。渋谷を歩いていても、ぜんぶ、脱色したようにグレー色なんです」。
<サーフィンのように波に乗るのは簡単じゃない?>
「そうですね。ただぼくのなかには、熊本人というアイデンティティがやはりあるんです。『うせがたん』も、熊本の名物料理である馬肉を食べてもらいたと思ってスタートしたんです。東京という大都会だからこそ、熊本というアイデンティティが光るとも思っていました」。
「しかし、熊本ならなんでもいいってわけじゃない」。プランAは、プランBにかわり、熊本というアイデンティテもまた東京に飲み込まれていく。
「そんななかで起こったのが、熊本地震です」。

・・・続き

株式会社ユームス 代表取締役社長 田尻秀一郎氏

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2025年11月11日火曜日

株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏登場。

本文より~

父との別れと、飲食への本格的な一歩。

今回、ご登場いただいた株式会社サン・ルートの代表、原 光範さんが生まれたのは1988年7月31日。3人兄弟の長男である。
小学生の頃の将来像は、サッカー選手か本屋の主人。
本屋とはめずらしいですね?というと「今もそうなんですが、小さな頃から本が好きで」と原さん。文学少年をイメージしたが、「活発で、気性が多少荒かった」とのこと。
岸壁を作る仕事をされていたお父様は、学校の先生や医者といったかたい職業についた兄弟のなかでは、異端だったのかもしれない。その血を継いでいる。
小学校でサッカーをはじめた原少年は、3年生でサッカーを辞め、中学からはテニス。高校では1年程度、硬式テニス部に所属する。その一方で、レジやガソリンスタンドでアルバイトを経験。
「大学は福岡のFラン大学」とのこと。実家の北九州から福岡の大学に通った。すでにご両親は離婚されていた。
「父と母は、私が小学3年生の頃に離婚。子どもは、3人とも母に連れられ出ました。でも、1キロ程度しか離れていなくって、父とも週に1回程度は会っていました。母とケンカして、父のところに逃げ込んだこともあって、離婚したあとも父とは付かず離れずといった感じで。その父が他界したのが、私が大学3年のときです」。
原さんは大学を辞めて、当時、アルバイトをしていた飲食店に就職する。
経済的な問題を優先してのことだった。
「その時、勤めていた飲食店の上司が事情を知って誘ってくださったんです。今もお付き合いがあるんですが、その後も、ずっとお世話になっています」。サン・ルートの生みの親の1人でもある。
結果として、その誘いが、原さんを飲食に導くことになる。

独立と3人の部下。

「独立志向はあったが、飲食でと決めていたわけではなく、ただ、「漠然と経営者になろうと思っていただけ」と原さんは話す。
実際、就職した飲食店では独立は頭になく、日々の仕事に没頭した。経営者の右腕となって、奔走する日々。「上が抜けていくんで」と原さんは笑うが、実力が評価されて、就職して2年で部長に抜擢されている。
「オープンも多く、刺激もありましたし、部長になったあとも、当然ですが、会社をのばそうと全力投球していました」。
店舗数は3店舗から、11店になった。24歳の若さで、事業を牽引する原さんは、部下の憧れだったのではないだろうか。
「ただ、」と、原さん。
「部長となって、組織の核心にちかづくと、理想とはかけ離れた現実がみえてくるんです。みえてきたのは、人として、商売人として、どうしても受け入れることのできない一線でした」。
原さんは批判するのではなく、去ることを選択する。「恩義もある人でしたから、批判するのはちがうかな」と。それが原さん、24歳のこと。苦悩の末、原さんは退職するのだが、苦悩していたのは原さん1人ではなかった。同年代の部下の3人が「辞める」といいだした。
ほっておくわけにはいかなかった。

サラ金、4人分と、もう一つの苦悩と。

「その3人と、いっしょにスタートしたのが、北九州の小倉にオープンした『うわさの小鉄』です」。
「うわさの小鉄」は、和食ベースの創作居酒屋。初期投資、500万円。42坪で家賃は28万円。
「4人でやるとなると、ある程度のスケールがないと計算が立ちません。リスクは高くなりますが、前職での経験があったもんですから、居抜きで出店コストを抑えればなんとかなるだろうと」。
ただし、資金がない。
「若いし、実績もない。銀行の融資も受けられません。私と共同経営者となる料理長で100万円ずつ。残りは4人、それぞれが消費者金融から50万円ずつ借り入れて。あと100万円は、さきほどいった転職先の社長からお借りした分+色々集めてなんとか500万円を用意することができました。運転資金もなく、すべてギリギリでした」。
資金はなかったが、自信はあった。
「家賃が安いのはロケーションがよくないからです。じつは、今も人通りがありません」と原さん。
人通りがなくても、原さんには広告戦略という、前職で経験済の強力な戦略があった。狙い通り、広告を打った2ヵ月目から予約も増え、月商も800万円をオーバーすることになる。
「やればできると喜ぶというより、サラ金に借りているんで、とにかく、いちばん年下から50万円ずつ返済していきました」。
全員が完済したのは数ヵ月のち。その頃から、共同経営者である料理長と意見が合わなくなる。
「料理長は2人の社員ともぶつかるようになり、けっきょく、話し合って辞めていただくしかなかったです」。
「ぼくたちをとるか、料理長をとるか」と、社員2人に迫られたそうだ。
仲間を大事にする原さんにとっては、これもまた、苦渋の決断。その一方で気になることがある。料理長というキーマンが抜けたことで業績はどうなったんだろう?
「3人で今まで以上に結束するしかありません。料理長がいなくなったからといって業績を落としたくなかったんで役割を再構築して。とにかく、お客様に喜んでいただこうと」。
結果として、1円も業績を落とさなかった。これが、つぎへの弾みと自信となった。2年後の2014年11月「百舌のしわざ」を、おなじ小倉にオープンしている(この時期に、3名のうち一人は独立するために巣立ち、今は人気店のオーナーとなっているそうだ)。
「百舌のしわざ」は「うわさの小鉄」のスケールをさらに大きくして、60坪、120席。コース料理を全面に打ち出し、宴会需要に特化した和食居酒屋としてオープンする。
「百舌のしわざ」は初月から大当たり。いきおいそのままに、翌月には個人事業主から株式会社サン・ルートへと法人化を果している。原さんは20代半ばにして、2店舗の繁盛店を率いる若き経営者となった。
創業メンバーの2人に、新たな仲間が加わり、風景もかわる。
・・・
続き

株式会社サン・ルート 代表取締役 原 光範氏

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2025年11月4日火曜日

株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。

本文より~

神宮前で輝くアメリカンカルチャーの象徴。

グルメ、ファッション、カルチャーがカラフルに交差する神宮前。その一角にある、2007年のオープン以来行列の絶えない店――「THE GREAT BURGER」。
南カリフォルニアをイメージした空間に、アメリカンビーフ100%のパティと自家製天然酵母バンズ。アメリカンテイストなインテリアやグッズに加え、店内表示もほぼ英語のみ。「料理だけでなく、空間すべてを楽しんでほしい」というオーナーのコンセプトが、訪れる客の気分を引き立てる。
その仕掛け人は、株式会社LDFS代表取締役・車田 篤氏。一年の3分の1を渡米で費やし、“アメリカの今”を東京に持ち帰る男だ。

母から受け継いだ舌と鼻、父から受け継いだ感性。

専業主婦だった母は料理上手で、パンもお菓子も日常的に手作り。幼い車田氏は、母と一緒にパンをこねながら自然に料理の基礎と味覚を身につけた。10歳のころ母が喫茶店を開業、車田氏と飲食の絆はすでにこのあたりから芽生え始めていた。
「僕、味覚と嗅覚が異常に鋭いんです。喉を通った時に味が爆発するっていうか。友達には“鼻探知機”って言われてます(笑)。母からの最高の贈り物ですね」。
両親は高校の同級生同士。父は機械製造・販売会社から独立した合理派で、洋画やラジコン飛行機を始め趣味にとことんのめり込む人だった。
そんな父の影響か、子どものころから洋画に触れる機会が多く、ドライブインシアターではハリウッドのスケール感に心を奪われる。カラフルな街並み、自由なファッション、活気あるダイナーの雰囲気──これらの直感的な経験はすべて、自らの店をつくる際の土台になっているという。

迷走と挫折を経て上京。「東京、やべぇ!」

小学校までは野球一筋。中学では軟式テニス部でレギュラーを獲得するも、高校入学後に競技ルールが大幅に変更され、その違和感から帰宅組に。一浪して入った大学も、あまり興味が持てず2年の夏に中退。動物関連の専門校に進むため一旦帰郷するが、入学直前にその学校が倒産、21歳で上京し専門学校に通う。
「友達もいないし“東京コワイ”って思ってたのに、来てみたら『東京、やべぇ!』って(笑)」。
東京の専門学校でも、理想と現実のギャップに悩んだ車田氏は、就職への意欲も湧かず、卒業後はフリーター生活に。自分の未来図を描けずに、日々焦燥感だけが募っていった。

2000年のカフェブームが心に火をつけた。

そんな中、ミレニアムの幕開けと共に“東京カフェブーム”が花開く。その火付け役となったのは、専門学校時代に足しげく通った駒沢公園そばの「バワリーキッチン」だった。
「それまで飲食店と、インテリアやグッズ、カルチャーって言う概念は、ほとんどリンクしてなかったんですよね。それが全部ミックスされているのが“カフェ”で。『こういうの、いいよね。自分もやりたいな』って友達に言ったら、そいつが『やればいいじゃん』って」。
母は専業主婦から自分の店を始めた。父もサラリーマンから独立した。起業は何も特別なことではない。「自分だってやれるんじゃないか」。
アメリカ文化への憧れと自分の理想が心の中でやっと重なった。それからおよそ1年半の間、時給800円で月に450時間は働き、飲食の知識と経験を蓄えていった。
「親に、『店をやってみたい』って相談した時、賛成も反対もされませんでした。これまでのことから、どうせ無理だろうって思ったんでしょうね。これはヤバいって思って、もう一度事業計画を練り直しました」。
ある程度貯金も貯まったところで、再度親に自分の想いを打ち明けた。息子の変化を感じ取った両親は真摯に向き合ってくれた。父親が保証人になり、おかげで資金も調達できた。

原宿の地下15坪からのスタート。

2002年6月6日、原宿・京セラビル地下にカフェ「ease by LIFE」をオープン。15坪で家賃35万円のスケルトン、内装にこだわり開業資金1600万円をほぼ使い切ってしまった。運転資金ゼロでのスタートは想像以上に厳しく、どれだけ働いても一銭も残らなかった。オープン半年で資金はショート寸前、定休日をなくし朝9時から翌朝5時までぶっ通して働くという地獄の日々が始まった。
「朝9時に店に出て、家に帰るのが朝5時みたいな、そんな生活を365日続けました。それでも数万円残るかどうか。給料を払ってるスタッフに、僕が奢ってもらうような状態で」。
店から自宅のある曙橋まで、自転車で約20分。明け方、大型トラックとすれ違うたびに「このまま自転車ごと吸い込まれたら楽になるんじゃないか……」と思ったという。
─ そんなに辛かったのに、なぜ頑張れたんですか?
「やっぱりお客さんの反応ですね。『美味しかった』とか『ご馳走さま、また来ますね』とか、『頑張って下さい』とか。そういう言葉に救われました。仲間もいたし、スタッフもついてきてくれた。そういうのですかね」。
SNSや地図アプリもない時代。ビル地下の店は、その存在が認識されるまで時間を要したが、インターネットの普及に伴い、ブログで店を紹介してくれる人が徐々に増えた。来てくれるお客様の反応はいい。味や空間、接客の良さには自信がある。自分を信じ、仲間を信じて働き続けたことで少しずつ、しかし確実に店の評判は広まっていった。

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2025年10月30日木曜日

株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏登場。

本文より~

父の生き方に憧れた少年時代。

伊藤氏の父は山形県米沢市出身。父とその兄はスポーツ万能で、特に兄はノルディック複合でその才を発揮した。後に兄が競輪選手になったことから、その弟である父も兄と同じ道を選んだ。
兄弟と言えど性格は対照的。早々に鮮烈なデビューを飾った天才肌の兄は、練習嫌いが祟り数年で競輪界を引退。一方、努力家の弟は日々のトレーニングを欠かさなかった。40代前半で多くが引退する競輪競技において、父が50過ぎまで走り続けることができたのは地道な努力の賜物といえよう。
父が長く現役を続けた理由はもうひとつあった。それは愛する妻とその両親を安心させるためだった。山梨県内のスケートリンクでその妻に一目ぼれし、20代半ばで結婚した父。しかし「競輪なんて不安定な職業の男と結婚するなんて」と、彼女の両親に猛反対されたという。
「ならば、子どもが社会人になるまでは何が何でも現役で居続ける」。
それが父の決意だった。
「父は午前中に激しいトレーニングを積んで、午後は休むというスケジュールだったんです。学校から帰るといつも父がいて、毎日キャッチボールしたりお風呂に入ったり。夕食も必ず一緒で、家族団らんの時間を大切にしていました」。
誰にも縛られず、自分の裁量ですべてを決める父の生き方に伊藤氏は憧れていた。
「だからもう、絶対サラリーマンにだけはならないって決めてました」。
父のトレーニングをサポートするため、母は栄養バランスの取れた食事を毎日ふんだんに作った。その影響で伊藤氏は幼いころから多品目の手料理を口にすることができ、舌は肥え、味覚も鍛えられていった。ゆえに、カレーライスもしくは焼きそばだけが鎮座する同級生の食卓には衝撃を受けたという。母の愛情で育まれたこの味覚が後に飲食業で開花する流れは、ある意味必然だったのかもしれない。

「学校辞めたら別れるから」彼女の一言で一念発起。

父と同じ競輪選手を夢見ていた伊藤氏は、自転車競技部のある高校に進むつもりだった。しかしある時、自分の運動神経でプロになるのは無理だと気づき、単願推薦で拓大一高に進学。ラグビー部に入るもルールを覚える間もなく試合に駆り出され、あばら骨を折ってしまう。やがて授業をサボるようになり、遊びやアルバイトに没頭。時には警察のご厄介になることもあったそうだ。
成績不振や出席日数不足がたたり、生徒の96%が進学できるという拓殖大学への道は閉ざされてしまった。生活指導主任教師に「美容師か調理師か自動車整備士か。そのどれかならコネで入れてやる」と迫られ、消去法で調理師を選択。
どうせならコネでいける所ではなく、最難関を一般で受験してみろと進められ、武蔵野調理師専門学校に合格した。
だがやる気のある生徒との差は歴然で、伊藤氏はまた学校をサボりだす。
そんなある日、高校時代から付き合っていた彼女に「これで学校辞めたら別れるしかないから」と最後通牒を突き付けられた。心を入れ替えた伊藤氏は、再び学び舎へと戻る決意をする。
「髪の長さなど校則の厳しい学校だったんで、玄関先で父に坊主頭にしてもらったんです。そのとき思わず号泣しちゃって。今でも時々父にからかわれますよ」。
家族仲のいい伊藤家ならではのエピソードだ。

ホテルからイタリアン、そして「ピアンタ」との出会い。

調理師学校を1年で卒業し、丸の内ホテルに就職。大手企業だけにきちんと休みはとれたが、一日中鍋をかき回しているような単純作業が多く、やりがいを感じられずにいたという。
「自分が一生懸命やっている仕事が、誰かの喜びにつながっている。そういう現場じゃなかったですね」。
将来的に家族との時間を大切にするならホテル勤めは理想的、しかし面白みには欠ける……そう思っていた矢先、イタリアンで独立を図ろうとしている先輩シェフに声をかけられた。入社10か月目、その先輩に引き抜かれる形でホテルを退職。朝から晩まで休みなしの激務に変わったが、お客様の喜びを肌で感じられることは嬉しかった。学びの多い日々をがむしゃらに過ごし、2年後には店のナンバー2にまで昇格。忙しすぎて彼女とは疎遠になってしまったものの、やりがいのほうが大きかったという。
店が代官山から銀座へ移転することになり、準備のため2か月間の休業を言い渡された。その間つなぎのアルバイト先として選んだのが、板橋駅前のビルにあった「ピアンタ」だった。

低迷していた「ピアンタ」を再生。

当時の「「ピアンタ」の経営母体は、かんぽ生命の旅行やツアーを専門に扱う旅行会社。独占営業を背景に売り上げは上々、そこで「レストランでも作ろう」という話が持ち上がった。1997年4月、自社ビルの1階に「ピアンタ」を開業、当初は素人集団による趣味的経営の様相が強く、一等地にもかかわらず月々の売り上げは300万円程度だった。
伊藤氏は店の改善に着手。メニューを一新するなど孤軍奮闘し、売上げが上向き始めた3か月目には「ピアンタ」にとってすでに欠くことのできない人材になっていた。ほどなく再招集をかけてくれた先輩に詫び、こうして伊藤氏は「ピアンタ」とともに歩み出した。
「バイト面接に来た学生に、『最近、このお店って料理長が変わりました?料理が美味しくなったって評判なんですよ』って言われて。あぁ、自分がやってることは間違いじゃないなって実感しました」。
この時、伊藤氏は23歳を迎えようとしていた。

地元のお客様に愛される店づくり。

伊藤氏が現場を完全に掌握してからの「ピアンタ」は月商700万円台と安定、順風満帆の日々が続いた。学生バイトが皆同世代ということもあり、自分たちの働く店を盛りあげようと夜遅くまで熱く語り合った。今も続く「ピアンタという大きなサークルの仲間たち」という社風の下地はこの頃にできあがったそうだ。
「ピアンタ」の代表を兼務する旅行会社の専務を説得した伊藤氏は、23歳で「ピアンタ」2号店をオープンする。2階建ての一軒家で40坪・延べ90席の大型店は大当たりし、月商1200万円を叩きだした。ただ、2号店開設にあたり新たに採用した年配のスタッフたちと歯車がかみ合わず、専門学校時代のクラスメイトに声をかけ人事を刷新。その中で最も親しかった同級生のA氏とともに二人三脚で店を拡大し、25歳で3号店、その2年後に4号店と、順調に出店が進む。
出店にあたり立地へのこだわりは強く、不特定多数が往来する都心の繁華街は避け、地元に根付く店づくりを心がけている。そのおかげで、東日本大震災のときもコロナのときも、「毎日テイクアウトを買いに来るから潰れないでね」と話しかけてくれるコアな常連客を獲得できた。チェーン店に引けをとらない規模にまで成長した現在も、初心を忘れず、その地域に根ざした店を出させて頂くという姿勢は一貫している。

・・・続き

株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏

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2025年10月21日火曜日

THANK合同会社 代表 田邉雄二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”THANK合同会社 代表 田邉雄二氏登場。

本文より~

さらば、日本。アメリカへ、

今回、ご登場いただいたのは「鶏ポタラーメン」で有名、食べログ「ベストラーメン」をはじめ、数々の賞を受賞している「THANK合同会社」の代表、田邉雄二さん。
田邉さんは1980年、東京都の昭島に生まれている。兄、妹と、ご両親の5人家族。お父様は千葉大学出身のエリートで、今も大学でキャリアコンサルタントを務められている。
「小学校は3クラス、中学校は5クラスだったかな」と田邉さん。
「大社長になる」と、小さいながら大きな目標を掲げつつ、サッカーにも打ち込み、ピッチを駆け回った。小学生では市の選抜にも選ばれ、中学生では東京都大会で準優勝を果たしている。
サッカーでは評価されたが、それ以外は。
「それ以外は、問題児で。じつは、高校に進学してからはサッカーまで辞めて、ともだちとつるんでばかりいました」と田邉さんは笑う。
なんでも、ご両親にも迷惑をかけたそうだ。
「母は私を車に乗せて、学校に連行するんです。こっちは、だりぃなぁって思っているのに『卒業しなきゃ』って(笑)」。
今、改めて、田邉さんをみると、やんちゃだった少年の頃の面影はない。むしろ、秀才といったイメージだ。そう思いながら、話のつづきを聞いた。
「高校になってなにかに打ち込むことがなくなります。そんななかで、突然、英語を勉強しようと思い立ったんです」。
<英語?>というと、「ええ」と田邉さん。
「母に『留学したい』と言ったら、反対されるどころか『行っておいで』って」。
さらば日本、話は昭島からニューヨークにとぶ。

ニューヨークの片田舎。

<海外は初めて?>
「初めての海外です。選んだのは、アメリカ、ニューヨーク。語学留学で3ヵ月」と田邉さん。帰国後、1年間、日本で英語を学び、ふたたびニューヨークへ。
「今度は、2年間、ハーキマー・カウンティ・コミュニティカレッジという州立のコミュニティカレッジに入学し、インターナショナルビジネスを専攻して、そのあと、ニューヨーク州立の大学、オールバニ校に編入します」。
これだけ聞くと、国際的なビジネスマンへの道を進んでいるようにみえる。気になるのは、ラーメンとの出会い。
<ところで、どういう縁で、ラーメンの道に?>
「高校1年生のとき、初めて豚骨ラーメンを食べて、大ファンになるんです。もちろん、食べるほう専門で、ラーメンを仕事にするなんて思ってもなかったです」。
「ただ」と田邉さん。
「留学時に、ルームシェアをしていて料理担当だったんです。そのとき、料理にめざめたかもしれません」。
エクアドル人が2人、日本人が3人。ちなみに、このとき出会った日本人の女性が今の奥様である。
「コミュニティカレッジの2年間、ともにルームシェアで過ごして。彼女は、そのあとマンハッタンのファッション系の大学に進みます。私はさきほどいったようにオールバニ校に編入します。オールバニ校もそうですが、ハーキマーも、どちらもマンハッタンから4~5時間はかかる田舎でした」。
ニューヨークの片田舎だそう。「北海道の酪農地帯のようなイメージ」と田邉さん。
その大学を「やりたいことが決まった」と中退。突然、なにかに突き動かされたように、新たな物語が始まる。

彼女の予言。

「アメリカで出会った彼女は、ファッションというやりたいことが決まっていました。それに刺激されたのかもしれません」と田邉さんは、当時を思い浮かべるように目を閉じる。
「私が暮らしていたニューヨークの片田舎は、マンハッタンなどの国際都市とはちがって、アメリカの文化を色濃く残しています。その、アメリカの文化にふれていると、逆に日本の文化を、アメリカ人に教えたくなったんです」。
「日本の文化をアメリカへ」
<その文化が、ラーメンだった?>
「そうなんです。ラーメン=ジャパニーズ・カルチャー、その図式は、もう少しあとで決まるんですが、彼女、つまり、今の奥さんは、私が何をするか決めていない頃から、『雄二はラーメン店をすると思うよ』って言ったらしいんです」。
奥様の予言はよく当たる。
奥様は「いつか2人は結婚する」とも思っていたそうだ。
大学を中退した田邉さんは奥様が住むマンハッタンに移り住み、日本人がオーナーシェフだったレストランで勤務する。
「飲食の経験を積むことはもちろん、アメリカでの永住権を取得するためだった」そう。しかし、9.11が影を落とす。
「9.11は私が学生だった頃のことなんですが、それ以来、永住権取得のハードルが格段に上がりました。3年勤めましたが取得できず、先に帰国していた彼女を追いかけるように帰国します」。
舞台は、ふたたび日本に戻る。

鶏ポタラーメン。

帰国した田邉さんは、有名なラーメン店で勤務を開始する。そのラーメン店がニューヨークに進出することを雑誌をみて知っていたからだ。
「合計3年半、アメリカでも、日本でも仕事をさせていただきました。じつは、今の『鶏ポタラーメン』も、当時のラーメンにインスパイアされています」。
創業は2012年。田邉さん32歳のこと。
「創業店は、大門にオープンします。大門といったら、サラリーマンやOLさんの街です。『鶏パイタン』でいくつもりが、はたらく人をみていると、おせっかいな話、野菜も食べて欲しくなって」。
「からだが喜ぶ」
これがテーマだった。
「それで、無化調はもちろんのことですが、野菜もふんだんに取り入れた、からだが喜ぶ『鶏パイタン×野菜ポタージュ』が生まれたんです」。
「鶏ポタラーメン」は、冒頭の通り、食べログ「ベストラーメン」をはじめ、数々の賞を受賞する。
答えは想像できたが、念のため、原価についてもうかがった。
「ふつうの鶏ガラと比較すると雲泥の差」と笑う。
鶏と10種類の野菜をじっくり煮込んだスープは、化学調味料不使用。
1杯に120gの野菜が溶け込んでいるという。
この贅沢なラーメンが、オープン当初は680円でいただけたというから驚き。2025年6月現在でも、900円と1000円を切っている。ちなみに、〆を楽しむならライスの注文がおすすめ。残ったスープにパルミジャーノチーズがたっぷりのった「チーズライス」を、投入すれば、たちまちチーズリゾットに。1杯で、2度おいしい。
もう少し、オープン時の様子を書く。
まず、大門をチョイスした理由だ。これについて、田邉さんは、単純明快に回答する。「大門は、オフィス街でしょ。オフィス街なら、飲食でも土日が休めるじゃないですか」。
13坪で17席。改修も含め、初期投資700万円、家賃20万円。損益分岐は、200万円弱。
オープンすると、損益分岐点を軽々とオーバーする。
「鶏ポタラーメン」。ネーミングがふるっている。鶏パイタン×野菜ポタージュ、斬新な響きに魅了されるように、メディアがこぞって取材に押し寄せた。「TVだけで20件、雑誌にも多数取り上げられた」と、田邉さん。
「とくに『王様のブランチ』で放映されたときは、大行列ができた」と笑う。
3年目に2号店をお茶の水に、蒲田にも出店し、好きな鎌倉にもオープンした。2025年6月現在、大門店、お茶の水店、蒲田店、そして、鎌倉小町店の4店舗。
「10坪程度ですが、その小さな店に私の思いが、そして今は私だけじゃなく、スタッフみんなの思いが詰まっています」。
コロナ禍の下、時短営業のときには、アルバイトではなく、自身の就業時間を削った。
「コロナがあって、ラーメン1本足打法だけでいいのか、という思いもあって、様々な交流会にも参加するようになり、刺激を受けています」。
スタッフにはベトナム人もいるそう。
「だから、いずれベトナムに彼らといっしょに」と、新たに「世界へ」という文字が頭のなかに浮かんでいるようだ。

・・・続き

THANK合同会社 代表 田邉雄二氏

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2025年10月14日火曜日

株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏登場。

本文より~

「やぶそば」オープンと、高校までの話。

茨城県で育ったお父様(現会長)の鬼澤勲さんは、中学を卒業して上京。ワイシャツ1枚、所持金3000円。「神田藪蕎麦」に住込み、丁稚奉公をはじめる。「神田藪蕎麦」は東京・神田にある創業1880年の老舗。
「いわゆる高度経済成長期の金の卵ですよね。神田藪蕎麦さんで7年間、修業して、7年だから21歳かな、1966年に暖簾分けしていただいて、西荻窪に「やぶそば」をオープンします。母がおかみさんで、父が蕎麦職人。今、広島にいる叔父も、蕎麦職人でした」。
蕎麦職人。
その響きがいい。
今回、ご登場いただいた現社長の登坂さんは、父や叔父だけでなく、店ではたらく蕎麦職人さんたちと、小さな頃から暮らしている。
「お店とお家がつながっているタイプだったから。職人さんたちが遊び相手。父が忙しいぶん、キャッチボールの相手も職人さんたちでした」。
初代社長の父は、2019年に会長に就任し、現在は長女の登坂さんが社長を務めている。父から子へ、ここにももう一つの継承の話があるわけだが、先を急ぐことなく、登坂さんの少女時代のお話をもう少し。
登坂さんが生まれたのは1968年。「やぶそば」オープン後、2年目のことである。1968年といえば高度成長期の真っ只中。子どもたちの数も多く、小学校も40人のクラスが4クラスあったという。
「小学校3年までかな。それは、それは大人しい女の子だったんですよ。でも、父親に似て、私も背が高くてね。いじめっ子を、いじめ返すような少女になっていきます」。
「そのころね、テレビで父が好きだった映画「ゴッドファーザー」を観ていて、父に『潰すなら家族全員だぞ』って言われて、いじめっ子のきょうだいまで、いじめ返したの。そしたら、校長先生に『頼もしいけれどちょっとやりすぎだ』って」。
いじめっ子には恐れられたが、彼女の周りにはいつもともだちがいた。中・高は、軽音楽部で部長も務めている。担当はギターだったそう。
「高校は女子高。そこしか受からなかったから」とあっけらかんに、声にして笑う。
高校ではモテた。バレンタインデーには、チョコが山積みになった。
「私の、宝塚時代ね」とふたたび笑う。

リクルート、そして、ルイ・ヴィトンジャパン。進む、エリート街道。

明治学院大学に進学した登坂さん。
「バブルだったんですよ。ディスコブームっていうかね。私も、大学よりディスコ通いがメインだった」。
ディスコのハイテンポなメロディはバブル時代を象徴する狂想曲だった。
「それからね。リクルートさんに就職するの。初めの2年は希望通り求人広告の営業。でも3年目でテレマーケティングの立ち上げへ志願して異動。『え?』って思うでしょ。だって『蕎麦』と関係がないものね。でも3つ下に弟がいたから、家業は彼に任せて、私は、私でやっていかなきゃって思っていたらね。当時からリクルートさんって男女平等。仕事だって先進的で楽しかった。でもね、1998年にフランスでサッカーワールドカップが開催されたときに退職して、フランスまで観戦に行くんです」。
パリ、シャンゼリゼ通り。ルイ・ヴィトン、カルティエ、ゲラン、ディオールと、高級ブティックが立ち並ぶ。
お買い物も楽しみの一つ。
「でもね。ルイ・ヴィトンに行って、ガッカリするんです。だって、接客が傲慢で感じ悪い。でね、帰国してからもモヤモヤしていて。そんなタイミングで、『ルイ・ヴィトン ジャパン』の募集に出会ってね。電話受付の募集。テレマ経験がある私にぴったりでしょ」。
面接では、フランスでの接客の悪さを口にした。
「接客がひどかったって。言ってから、ああ、やっちゃったって思ったんですが、採用されちゃった」。
リクルートを退社して、ルイ・ヴィトン ジャパンに転職。これが登坂さんの色濃いキャリア。ルイ・ヴィトン ジャパンには1998年に派遣スタッフとして就業し、翌年に正社員に登用されている。
「珍しかったんじゃないかな。派遣から正社員ですもんね。その頃には、フランスでの苦い経験は忘れて、『ルイ・ヴィトン』のファンになって、ぞっこんだったんです」。
150年の歴史と、伝統と革新。
「藪蕎麦に通じるものがあるでしょ。たぶん、そこにも惹かれたんでしょうね。けっきょくね。1999年に正式に入社して、2014年まで勤務していました、クライアントサービスの部門で、主にクレーム処理を担当。その部門でサービスマネージャーを務めていました」。

2014年、杉並藪蕎麥、入社。

場面は少しかわり、「神田藪蕎麦」の話。大正時代に建てられた神田藪蕎麦の建物は「東京都選定歴史的建造物」だったが、2013年に火災で焼失してしまう。
翌年、再建され、現在に至るのだが、その再建された真新しい「神田藪蕎麦」に登坂さんの姿があった。
「杉並藪蕎麥は、弟がつぐ予定だったんですが、からだを壊して仕事から離れなくちゃいけなくなったの。それでね。私にお鉢が回ってきたんです。もちろん、大好きなお店ですから断れなかった。それで、ルイ・ヴィトンを辞めて。ちょうど神田藪蕎麦がリニューアルオープンのとき。私は、杉並藪蕎麥をつぐ決意をして、オープン初日から神田藪蕎麦で奉公をはじめます」。
女将さんから藪蕎麦の歴史を直に教わった。
「ルイ・ヴィトンじゃないですが、100年以上の歴史があり、それこそ、伝統と革新です。その歴史を脈々と受け継いで来られた女将さんから、直接、教えていただいて、藪蕎麦の世界に魅了されていきます」。
ルイ・ヴィトンの創業者は14歳で故郷を離れ、パリに出てきて、「トランク職人」をはじめる。蕎麦とトランク。つくるものはちがうが、職人の精神はおなじ。伝統と革新によってはじめて、歴史がつむがれていくのも、また、おなじかもしれない。
「2014年に、杉並藪蕎麥に入社して、社長になったのは2019年です。当時、コロナだったでしょ。代表者名で申請しないといけないことがたくさんあって、とにかくややこしい。父が細かい申請作業はお前のほうが得意だろ、じゃあ、私がっていう話になったんです。ただ、会長の父も代表権をもっていますので、今は2人代表です」。
2014年に杉並藪蕎麥に入社してからの仕事についてもうかがった。
ホームページの写真を指さしながら、「この『赤坂Bizタワー』の『やぶそば』は2018年1月22日にオープンしたんですが、こちらは、私がゼロから手がけました。阪急うめだ本店やミナモア広島駅ビル店も、私が手がけたお店です」と誇らしげにいう。
「赤坂Bizタワー店」の店内は、竹林に囲まれていたやぶそばが現代風にアレンジされている。オープンキッチンとカウンターも、いかにも今風。「伝統」と「革新」といった二つの言葉がうまく融合している。

・・・続き

株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏

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再登場企画 株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”再登場企画 株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏登場。

本文より~

年商120億円が、8年後の今。

シーシャは、「水タバコ」とも呼ばれるタバコの一種。若者を中心に人気が高まり、「チルする」という言葉も生まれた。「まったりする」という意味なんだそう。
語源は「chill out(チルアウト)」(「冷静になる」「落ち着く」)とのことだ。
今回、8年ぶりの登場となった株式会社FS.shakeの代表取締役、遠藤勇太さん。2021年7月に、前回にはなかった「シーシャ カフェ&バー C.STAND新宿三丁目店」をオープンしている。
2017年にインタビューさせていただいたときは、水炊き鍋の「とりいちず」一本だったが、8年経った現在、2025年では「とりいちず」のほか「シーシャ カフェ&バー C.STAND」をはじめ、「もんじゃ酒場だしや」「博多酒場あいらしか」など複数ブランドを手がけ、全国展開するに至っている。
年商をみれば、違いは明らか。「2017年の、あのときは20店舗くらいで年商も10億円くらいでしたが、今は173店舗で約120億円を見込むまでになっています」とのこと。
コロナ禍を経て、急激に業績を拡大している。

アルバイトで、方向転換。ロボットから、飲食へ。

創業店のオープンまでの話を、前回のインタビューをもとに振り返ってみる。遠藤さんは1983年、島根県の安来市に生まれている。
「親戚も含め、みんなお堅い仕事。飲食に進むことには大反対された」とおっしゃっていた。
理系が好きで、ロボットに興味をもった遠藤さんは「松江工業高等専門学校」に進んでいる。
だが、モンテローザの「白木屋」でアルバイトをしたことで、人生は大きくかわる。ロボットより飲食に興味の針が傾いた。大反対されたのはモンテローザに就職したときのこと。
ただ、しばらくして、モンテローザを退職。そのとき遠藤さんの背中を押したのはお母様。息子の想いをだれよりもご存知だったんだろう。遠藤さんは、好きな料理を極めるため「服部栄養専門学校」へ進学するため、上京した。
料理の道を進んだ遠藤さんは、29歳で起業。2012年、西新宿に、水炊きと焼き鳥をメインにした鶏料理の専門店「とりいちず」をオープンする。
オープン当初こそ苦戦したが、鍋の季節になると徐々に業績がアップ。以来、5年で、20店舗を達成している。
しかも、それから8年で店舗数は8倍に、年商は12倍になっていた。なにが飛躍のカギだったんだろうか?
遠藤さんに尋ねると、予想外の返答だった。
「きっかけは、コロナです」。

コロナ、打ってでるしかない。

「コロナがなければ、年商も30~50億円でとまっていた」と、遠藤さんはいう。
その理由を伺うと、「コロナがきっかけで『とりいちず』以外にもチャレンジしてみようとなったことが、業績アップにつながった」そう。
「焼肉でしょ、エビ居酒屋、白湯ラーメン、とりいちず食堂と、いろいろやりましたね、うまくいきませんでしたが」と笑う。
<だめだったんですか?>
「そうなんです。でも、失敗ばかりじゃなかった。成功もしました。『シーシャ カフェ&バー C.STAND』が、その一つです」。
複数ブランド。その発想が起爆剤になった。
とはいえ、コロナ禍である。
「うちは従業員の希望もあって、全店ではないですが、オープンできるお店はコロナ禍でも営業していました。新ブランドにも挑戦し、C.STANDをオープンしたのは、2021年の7月です」。
コロナ禍での戦い。
身をかがめてやり過ごすか、打ってでるか。
資本が潤沢な会社は前者を選択できるが、そうでなければ打ってでるしかない。経営者には、ギリギリの選択が迫られたときでもある。
結果的には、この打ってでる戦略が功を奏する。「C.STAND」だけでも、今や全国に46店舗。
時流に乗ったと言えば、それまでだが、それ以上に遠藤さんの果敢なチャレンジにこそ、成長の本質がある。
とにかく、アンテナの感度が高く、いいと思えば、ためらわない。「シーシャ」もそうだが、生ビール199円が話題になっていると聞けば、すぐに199円の生ビールを売り出した。
いち早く、目をつけ、その勢いに乗るのがうまい。ただ、ブームに乗るだけではなく、牽引する。
やるとなればエンジンがちがう。ただし、だめだと、わかればすぐに撤退。とにかく、決断が早い。これが、遠藤さんのストロングポイントである。

遠藤さんの視野には、ボーダーがない。

2025年現在、「とりいちず」をはじめ、「C.STAND(シースタンド)」「もんじゃ酒場 だしや / 月島もんじゃ 三日月」「博多酒場あいらしか」「焼き小籠包 火鍋 飲飲酒場 (ヤムヤムサカバ)」などを展開。
M&Aをきっかけにラーメン業態「麺屋音(天翔)」や「串亭(リアルテイスト)」がグループインし、ブランドの幅がさらに広がった。
「業態によって、ロケーションがかわってくる。『とりいちず』と『C.STAND』では、当然、ちがいますし、『串亭』だったら、商業施設もOKです」。
ロケーションといったが、遠藤さんがいうのは、東京だけではない。話が鹿児島に飛んだと思えば、次には大阪の話になる。
鹿児島の話は「C.STAND」が登場して、大阪の話では「もんじゃ酒場 だしや」が登場する。
遠藤さんにはボーダーという感覚がないようだ。「いけそうなら、ベットする」。尽きないエネルギーで次々、領域を拡大している。
業績だけでいうわけではないが、まさに、次世代の飲食のリードオフマンだ。
「来期は180億円超えを見込んでいる」と遠藤さん。
そんな遠藤さんに、一番きつかったのはいつ?と聞いてみた。意外にも、飛躍のきっかけともなったコロナのときという。 どういうことだろう?


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