2025年11月4日火曜日

株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。

 in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社LDFS 代表取締役 車田 篤氏登場。

本文より~

神宮前で輝くアメリカンカルチャーの象徴。

グルメ、ファッション、カルチャーがカラフルに交差する神宮前。その一角にある、2007年のオープン以来行列の絶えない店――「THE GREAT BURGER」。
南カリフォルニアをイメージした空間に、アメリカンビーフ100%のパティと自家製天然酵母バンズ。アメリカンテイストなインテリアやグッズに加え、店内表示もほぼ英語のみ。「料理だけでなく、空間すべてを楽しんでほしい」というオーナーのコンセプトが、訪れる客の気分を引き立てる。
その仕掛け人は、株式会社LDFS代表取締役・車田 篤氏。一年の3分の1を渡米で費やし、“アメリカの今”を東京に持ち帰る男だ。

母から受け継いだ舌と鼻、父から受け継いだ感性。

専業主婦だった母は料理上手で、パンもお菓子も日常的に手作り。幼い車田氏は、母と一緒にパンをこねながら自然に料理の基礎と味覚を身につけた。10歳のころ母が喫茶店を開業、車田氏と飲食の絆はすでにこのあたりから芽生え始めていた。
「僕、味覚と嗅覚が異常に鋭いんです。喉を通った時に味が爆発するっていうか。友達には“鼻探知機”って言われてます(笑)。母からの最高の贈り物ですね」。
両親は高校の同級生同士。父は機械製造・販売会社から独立した合理派で、洋画やラジコン飛行機を始め趣味にとことんのめり込む人だった。
そんな父の影響か、子どものころから洋画に触れる機会が多く、ドライブインシアターではハリウッドのスケール感に心を奪われる。カラフルな街並み、自由なファッション、活気あるダイナーの雰囲気──これらの直感的な経験はすべて、自らの店をつくる際の土台になっているという。

迷走と挫折を経て上京。「東京、やべぇ!」

小学校までは野球一筋。中学では軟式テニス部でレギュラーを獲得するも、高校入学後に競技ルールが大幅に変更され、その違和感から帰宅組に。一浪して入った大学も、あまり興味が持てず2年の夏に中退。動物関連の専門校に進むため一旦帰郷するが、入学直前にその学校が倒産、21歳で上京し専門学校に通う。
「友達もいないし“東京コワイ”って思ってたのに、来てみたら『東京、やべぇ!』って(笑)」。
東京の専門学校でも、理想と現実のギャップに悩んだ車田氏は、就職への意欲も湧かず、卒業後はフリーター生活に。自分の未来図を描けずに、日々焦燥感だけが募っていった。

2000年のカフェブームが心に火をつけた。

そんな中、ミレニアムの幕開けと共に“東京カフェブーム”が花開く。その火付け役となったのは、専門学校時代に足しげく通った駒沢公園そばの「バワリーキッチン」だった。
「それまで飲食店と、インテリアやグッズ、カルチャーって言う概念は、ほとんどリンクしてなかったんですよね。それが全部ミックスされているのが“カフェ”で。『こういうの、いいよね。自分もやりたいな』って友達に言ったら、そいつが『やればいいじゃん』って」。
母は専業主婦から自分の店を始めた。父もサラリーマンから独立した。起業は何も特別なことではない。「自分だってやれるんじゃないか」。
アメリカ文化への憧れと自分の理想が心の中でやっと重なった。それからおよそ1年半の間、時給800円で月に450時間は働き、飲食の知識と経験を蓄えていった。
「親に、『店をやってみたい』って相談した時、賛成も反対もされませんでした。これまでのことから、どうせ無理だろうって思ったんでしょうね。これはヤバいって思って、もう一度事業計画を練り直しました」。
ある程度貯金も貯まったところで、再度親に自分の想いを打ち明けた。息子の変化を感じ取った両親は真摯に向き合ってくれた。父親が保証人になり、おかげで資金も調達できた。

原宿の地下15坪からのスタート。

2002年6月6日、原宿・京セラビル地下にカフェ「ease by LIFE」をオープン。15坪で家賃35万円のスケルトン、内装にこだわり開業資金1600万円をほぼ使い切ってしまった。運転資金ゼロでのスタートは想像以上に厳しく、どれだけ働いても一銭も残らなかった。オープン半年で資金はショート寸前、定休日をなくし朝9時から翌朝5時までぶっ通して働くという地獄の日々が始まった。
「朝9時に店に出て、家に帰るのが朝5時みたいな、そんな生活を365日続けました。それでも数万円残るかどうか。給料を払ってるスタッフに、僕が奢ってもらうような状態で」。
店から自宅のある曙橋まで、自転車で約20分。明け方、大型トラックとすれ違うたびに「このまま自転車ごと吸い込まれたら楽になるんじゃないか……」と思ったという。
─ そんなに辛かったのに、なぜ頑張れたんですか?
「やっぱりお客さんの反応ですね。『美味しかった』とか『ご馳走さま、また来ますね』とか、『頑張って下さい』とか。そういう言葉に救われました。仲間もいたし、スタッフもついてきてくれた。そういうのですかね」。
SNSや地図アプリもない時代。ビル地下の店は、その存在が認識されるまで時間を要したが、インターネットの普及に伴い、ブログで店を紹介してくれる人が徐々に増えた。来てくれるお客様の反応はいい。味や空間、接客の良さには自信がある。自分を信じ、仲間を信じて働き続けたことで少しずつ、しかし確実に店の評判は広まっていった。

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2025年10月30日木曜日

株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏登場。

本文より~

父の生き方に憧れた少年時代。

伊藤氏の父は山形県米沢市出身。父とその兄はスポーツ万能で、特に兄はノルディック複合でその才を発揮した。後に兄が競輪選手になったことから、その弟である父も兄と同じ道を選んだ。
兄弟と言えど性格は対照的。早々に鮮烈なデビューを飾った天才肌の兄は、練習嫌いが祟り数年で競輪界を引退。一方、努力家の弟は日々のトレーニングを欠かさなかった。40代前半で多くが引退する競輪競技において、父が50過ぎまで走り続けることができたのは地道な努力の賜物といえよう。
父が長く現役を続けた理由はもうひとつあった。それは愛する妻とその両親を安心させるためだった。山梨県内のスケートリンクでその妻に一目ぼれし、20代半ばで結婚した父。しかし「競輪なんて不安定な職業の男と結婚するなんて」と、彼女の両親に猛反対されたという。
「ならば、子どもが社会人になるまでは何が何でも現役で居続ける」。
それが父の決意だった。
「父は午前中に激しいトレーニングを積んで、午後は休むというスケジュールだったんです。学校から帰るといつも父がいて、毎日キャッチボールしたりお風呂に入ったり。夕食も必ず一緒で、家族団らんの時間を大切にしていました」。
誰にも縛られず、自分の裁量ですべてを決める父の生き方に伊藤氏は憧れていた。
「だからもう、絶対サラリーマンにだけはならないって決めてました」。
父のトレーニングをサポートするため、母は栄養バランスの取れた食事を毎日ふんだんに作った。その影響で伊藤氏は幼いころから多品目の手料理を口にすることができ、舌は肥え、味覚も鍛えられていった。ゆえに、カレーライスもしくは焼きそばだけが鎮座する同級生の食卓には衝撃を受けたという。母の愛情で育まれたこの味覚が後に飲食業で開花する流れは、ある意味必然だったのかもしれない。

「学校辞めたら別れるから」彼女の一言で一念発起。

父と同じ競輪選手を夢見ていた伊藤氏は、自転車競技部のある高校に進むつもりだった。しかしある時、自分の運動神経でプロになるのは無理だと気づき、単願推薦で拓大一高に進学。ラグビー部に入るもルールを覚える間もなく試合に駆り出され、あばら骨を折ってしまう。やがて授業をサボるようになり、遊びやアルバイトに没頭。時には警察のご厄介になることもあったそうだ。
成績不振や出席日数不足がたたり、生徒の96%が進学できるという拓殖大学への道は閉ざされてしまった。生活指導主任教師に「美容師か調理師か自動車整備士か。そのどれかならコネで入れてやる」と迫られ、消去法で調理師を選択。
どうせならコネでいける所ではなく、最難関を一般で受験してみろと進められ、武蔵野調理師専門学校に合格した。
だがやる気のある生徒との差は歴然で、伊藤氏はまた学校をサボりだす。
そんなある日、高校時代から付き合っていた彼女に「これで学校辞めたら別れるしかないから」と最後通牒を突き付けられた。心を入れ替えた伊藤氏は、再び学び舎へと戻る決意をする。
「髪の長さなど校則の厳しい学校だったんで、玄関先で父に坊主頭にしてもらったんです。そのとき思わず号泣しちゃって。今でも時々父にからかわれますよ」。
家族仲のいい伊藤家ならではのエピソードだ。

ホテルからイタリアン、そして「ピアンタ」との出会い。

調理師学校を1年で卒業し、丸の内ホテルに就職。大手企業だけにきちんと休みはとれたが、一日中鍋をかき回しているような単純作業が多く、やりがいを感じられずにいたという。
「自分が一生懸命やっている仕事が、誰かの喜びにつながっている。そういう現場じゃなかったですね」。
将来的に家族との時間を大切にするならホテル勤めは理想的、しかし面白みには欠ける……そう思っていた矢先、イタリアンで独立を図ろうとしている先輩シェフに声をかけられた。入社10か月目、その先輩に引き抜かれる形でホテルを退職。朝から晩まで休みなしの激務に変わったが、お客様の喜びを肌で感じられることは嬉しかった。学びの多い日々をがむしゃらに過ごし、2年後には店のナンバー2にまで昇格。忙しすぎて彼女とは疎遠になってしまったものの、やりがいのほうが大きかったという。
店が代官山から銀座へ移転することになり、準備のため2か月間の休業を言い渡された。その間つなぎのアルバイト先として選んだのが、板橋駅前のビルにあった「ピアンタ」だった。

低迷していた「ピアンタ」を再生。

当時の「「ピアンタ」の経営母体は、かんぽ生命の旅行やツアーを専門に扱う旅行会社。独占営業を背景に売り上げは上々、そこで「レストランでも作ろう」という話が持ち上がった。1997年4月、自社ビルの1階に「ピアンタ」を開業、当初は素人集団による趣味的経営の様相が強く、一等地にもかかわらず月々の売り上げは300万円程度だった。
伊藤氏は店の改善に着手。メニューを一新するなど孤軍奮闘し、売上げが上向き始めた3か月目には「ピアンタ」にとってすでに欠くことのできない人材になっていた。ほどなく再招集をかけてくれた先輩に詫び、こうして伊藤氏は「ピアンタ」とともに歩み出した。
「バイト面接に来た学生に、『最近、このお店って料理長が変わりました?料理が美味しくなったって評判なんですよ』って言われて。あぁ、自分がやってることは間違いじゃないなって実感しました」。
この時、伊藤氏は23歳を迎えようとしていた。

地元のお客様に愛される店づくり。

伊藤氏が現場を完全に掌握してからの「ピアンタ」は月商700万円台と安定、順風満帆の日々が続いた。学生バイトが皆同世代ということもあり、自分たちの働く店を盛りあげようと夜遅くまで熱く語り合った。今も続く「ピアンタという大きなサークルの仲間たち」という社風の下地はこの頃にできあがったそうだ。
「ピアンタ」の代表を兼務する旅行会社の専務を説得した伊藤氏は、23歳で「ピアンタ」2号店をオープンする。2階建ての一軒家で40坪・延べ90席の大型店は大当たりし、月商1200万円を叩きだした。ただ、2号店開設にあたり新たに採用した年配のスタッフたちと歯車がかみ合わず、専門学校時代のクラスメイトに声をかけ人事を刷新。その中で最も親しかった同級生のA氏とともに二人三脚で店を拡大し、25歳で3号店、その2年後に4号店と、順調に出店が進む。
出店にあたり立地へのこだわりは強く、不特定多数が往来する都心の繁華街は避け、地元に根付く店づくりを心がけている。そのおかげで、東日本大震災のときもコロナのときも、「毎日テイクアウトを買いに来るから潰れないでね」と話しかけてくれるコアな常連客を獲得できた。チェーン店に引けをとらない規模にまで成長した現在も、初心を忘れず、その地域に根ざした店を出させて頂くという姿勢は一貫している。

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株式会社ピアンタカンパニー 代表取締役 伊藤秀樹氏

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2025年10月21日火曜日

THANK合同会社 代表 田邉雄二氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”THANK合同会社 代表 田邉雄二氏登場。

本文より~

さらば、日本。アメリカへ、

今回、ご登場いただいたのは「鶏ポタラーメン」で有名、食べログ「ベストラーメン」をはじめ、数々の賞を受賞している「THANK合同会社」の代表、田邉雄二さん。
田邉さんは1980年、東京都の昭島に生まれている。兄、妹と、ご両親の5人家族。お父様は千葉大学出身のエリートで、今も大学でキャリアコンサルタントを務められている。
「小学校は3クラス、中学校は5クラスだったかな」と田邉さん。
「大社長になる」と、小さいながら大きな目標を掲げつつ、サッカーにも打ち込み、ピッチを駆け回った。小学生では市の選抜にも選ばれ、中学生では東京都大会で準優勝を果たしている。
サッカーでは評価されたが、それ以外は。
「それ以外は、問題児で。じつは、高校に進学してからはサッカーまで辞めて、ともだちとつるんでばかりいました」と田邉さんは笑う。
なんでも、ご両親にも迷惑をかけたそうだ。
「母は私を車に乗せて、学校に連行するんです。こっちは、だりぃなぁって思っているのに『卒業しなきゃ』って(笑)」。
今、改めて、田邉さんをみると、やんちゃだった少年の頃の面影はない。むしろ、秀才といったイメージだ。そう思いながら、話のつづきを聞いた。
「高校になってなにかに打ち込むことがなくなります。そんななかで、突然、英語を勉強しようと思い立ったんです」。
<英語?>というと、「ええ」と田邉さん。
「母に『留学したい』と言ったら、反対されるどころか『行っておいで』って」。
さらば日本、話は昭島からニューヨークにとぶ。

ニューヨークの片田舎。

<海外は初めて?>
「初めての海外です。選んだのは、アメリカ、ニューヨーク。語学留学で3ヵ月」と田邉さん。帰国後、1年間、日本で英語を学び、ふたたびニューヨークへ。
「今度は、2年間、ハーキマー・カウンティ・コミュニティカレッジという州立のコミュニティカレッジに入学し、インターナショナルビジネスを専攻して、そのあと、ニューヨーク州立の大学、オールバニ校に編入します」。
これだけ聞くと、国際的なビジネスマンへの道を進んでいるようにみえる。気になるのは、ラーメンとの出会い。
<ところで、どういう縁で、ラーメンの道に?>
「高校1年生のとき、初めて豚骨ラーメンを食べて、大ファンになるんです。もちろん、食べるほう専門で、ラーメンを仕事にするなんて思ってもなかったです」。
「ただ」と田邉さん。
「留学時に、ルームシェアをしていて料理担当だったんです。そのとき、料理にめざめたかもしれません」。
エクアドル人が2人、日本人が3人。ちなみに、このとき出会った日本人の女性が今の奥様である。
「コミュニティカレッジの2年間、ともにルームシェアで過ごして。彼女は、そのあとマンハッタンのファッション系の大学に進みます。私はさきほどいったようにオールバニ校に編入します。オールバニ校もそうですが、ハーキマーも、どちらもマンハッタンから4~5時間はかかる田舎でした」。
ニューヨークの片田舎だそう。「北海道の酪農地帯のようなイメージ」と田邉さん。
その大学を「やりたいことが決まった」と中退。突然、なにかに突き動かされたように、新たな物語が始まる。

彼女の予言。

「アメリカで出会った彼女は、ファッションというやりたいことが決まっていました。それに刺激されたのかもしれません」と田邉さんは、当時を思い浮かべるように目を閉じる。
「私が暮らしていたニューヨークの片田舎は、マンハッタンなどの国際都市とはちがって、アメリカの文化を色濃く残しています。その、アメリカの文化にふれていると、逆に日本の文化を、アメリカ人に教えたくなったんです」。
「日本の文化をアメリカへ」
<その文化が、ラーメンだった?>
「そうなんです。ラーメン=ジャパニーズ・カルチャー、その図式は、もう少しあとで決まるんですが、彼女、つまり、今の奥さんは、私が何をするか決めていない頃から、『雄二はラーメン店をすると思うよ』って言ったらしいんです」。
奥様の予言はよく当たる。
奥様は「いつか2人は結婚する」とも思っていたそうだ。
大学を中退した田邉さんは奥様が住むマンハッタンに移り住み、日本人がオーナーシェフだったレストランで勤務する。
「飲食の経験を積むことはもちろん、アメリカでの永住権を取得するためだった」そう。しかし、9.11が影を落とす。
「9.11は私が学生だった頃のことなんですが、それ以来、永住権取得のハードルが格段に上がりました。3年勤めましたが取得できず、先に帰国していた彼女を追いかけるように帰国します」。
舞台は、ふたたび日本に戻る。

鶏ポタラーメン。

帰国した田邉さんは、有名なラーメン店で勤務を開始する。そのラーメン店がニューヨークに進出することを雑誌をみて知っていたからだ。
「合計3年半、アメリカでも、日本でも仕事をさせていただきました。じつは、今の『鶏ポタラーメン』も、当時のラーメンにインスパイアされています」。
創業は2012年。田邉さん32歳のこと。
「創業店は、大門にオープンします。大門といったら、サラリーマンやOLさんの街です。『鶏パイタン』でいくつもりが、はたらく人をみていると、おせっかいな話、野菜も食べて欲しくなって」。
「からだが喜ぶ」
これがテーマだった。
「それで、無化調はもちろんのことですが、野菜もふんだんに取り入れた、からだが喜ぶ『鶏パイタン×野菜ポタージュ』が生まれたんです」。
「鶏ポタラーメン」は、冒頭の通り、食べログ「ベストラーメン」をはじめ、数々の賞を受賞する。
答えは想像できたが、念のため、原価についてもうかがった。
「ふつうの鶏ガラと比較すると雲泥の差」と笑う。
鶏と10種類の野菜をじっくり煮込んだスープは、化学調味料不使用。
1杯に120gの野菜が溶け込んでいるという。
この贅沢なラーメンが、オープン当初は680円でいただけたというから驚き。2025年6月現在でも、900円と1000円を切っている。ちなみに、〆を楽しむならライスの注文がおすすめ。残ったスープにパルミジャーノチーズがたっぷりのった「チーズライス」を、投入すれば、たちまちチーズリゾットに。1杯で、2度おいしい。
もう少し、オープン時の様子を書く。
まず、大門をチョイスした理由だ。これについて、田邉さんは、単純明快に回答する。「大門は、オフィス街でしょ。オフィス街なら、飲食でも土日が休めるじゃないですか」。
13坪で17席。改修も含め、初期投資700万円、家賃20万円。損益分岐は、200万円弱。
オープンすると、損益分岐点を軽々とオーバーする。
「鶏ポタラーメン」。ネーミングがふるっている。鶏パイタン×野菜ポタージュ、斬新な響きに魅了されるように、メディアがこぞって取材に押し寄せた。「TVだけで20件、雑誌にも多数取り上げられた」と、田邉さん。
「とくに『王様のブランチ』で放映されたときは、大行列ができた」と笑う。
3年目に2号店をお茶の水に、蒲田にも出店し、好きな鎌倉にもオープンした。2025年6月現在、大門店、お茶の水店、蒲田店、そして、鎌倉小町店の4店舗。
「10坪程度ですが、その小さな店に私の思いが、そして今は私だけじゃなく、スタッフみんなの思いが詰まっています」。
コロナ禍の下、時短営業のときには、アルバイトではなく、自身の就業時間を削った。
「コロナがあって、ラーメン1本足打法だけでいいのか、という思いもあって、様々な交流会にも参加するようになり、刺激を受けています」。
スタッフにはベトナム人もいるそう。
「だから、いずれベトナムに彼らといっしょに」と、新たに「世界へ」という文字が頭のなかに浮かんでいるようだ。

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THANK合同会社 代表 田邉雄二氏

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2025年10月14日火曜日

株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏登場。

本文より~

「やぶそば」オープンと、高校までの話。

茨城県で育ったお父様(現会長)の鬼澤勲さんは、中学を卒業して上京。ワイシャツ1枚、所持金3000円。「神田藪蕎麦」に住込み、丁稚奉公をはじめる。「神田藪蕎麦」は東京・神田にある創業1880年の老舗。
「いわゆる高度経済成長期の金の卵ですよね。神田藪蕎麦さんで7年間、修業して、7年だから21歳かな、1966年に暖簾分けしていただいて、西荻窪に「やぶそば」をオープンします。母がおかみさんで、父が蕎麦職人。今、広島にいる叔父も、蕎麦職人でした」。
蕎麦職人。
その響きがいい。
今回、ご登場いただいた現社長の登坂さんは、父や叔父だけでなく、店ではたらく蕎麦職人さんたちと、小さな頃から暮らしている。
「お店とお家がつながっているタイプだったから。職人さんたちが遊び相手。父が忙しいぶん、キャッチボールの相手も職人さんたちでした」。
初代社長の父は、2019年に会長に就任し、現在は長女の登坂さんが社長を務めている。父から子へ、ここにももう一つの継承の話があるわけだが、先を急ぐことなく、登坂さんの少女時代のお話をもう少し。
登坂さんが生まれたのは1968年。「やぶそば」オープン後、2年目のことである。1968年といえば高度成長期の真っ只中。子どもたちの数も多く、小学校も40人のクラスが4クラスあったという。
「小学校3年までかな。それは、それは大人しい女の子だったんですよ。でも、父親に似て、私も背が高くてね。いじめっ子を、いじめ返すような少女になっていきます」。
「そのころね、テレビで父が好きだった映画「ゴッドファーザー」を観ていて、父に『潰すなら家族全員だぞ』って言われて、いじめっ子のきょうだいまで、いじめ返したの。そしたら、校長先生に『頼もしいけれどちょっとやりすぎだ』って」。
いじめっ子には恐れられたが、彼女の周りにはいつもともだちがいた。中・高は、軽音楽部で部長も務めている。担当はギターだったそう。
「高校は女子高。そこしか受からなかったから」とあっけらかんに、声にして笑う。
高校ではモテた。バレンタインデーには、チョコが山積みになった。
「私の、宝塚時代ね」とふたたび笑う。

リクルート、そして、ルイ・ヴィトンジャパン。進む、エリート街道。

明治学院大学に進学した登坂さん。
「バブルだったんですよ。ディスコブームっていうかね。私も、大学よりディスコ通いがメインだった」。
ディスコのハイテンポなメロディはバブル時代を象徴する狂想曲だった。
「それからね。リクルートさんに就職するの。初めの2年は希望通り求人広告の営業。でも3年目でテレマーケティングの立ち上げへ志願して異動。『え?』って思うでしょ。だって『蕎麦』と関係がないものね。でも3つ下に弟がいたから、家業は彼に任せて、私は、私でやっていかなきゃって思っていたらね。当時からリクルートさんって男女平等。仕事だって先進的で楽しかった。でもね、1998年にフランスでサッカーワールドカップが開催されたときに退職して、フランスまで観戦に行くんです」。
パリ、シャンゼリゼ通り。ルイ・ヴィトン、カルティエ、ゲラン、ディオールと、高級ブティックが立ち並ぶ。
お買い物も楽しみの一つ。
「でもね。ルイ・ヴィトンに行って、ガッカリするんです。だって、接客が傲慢で感じ悪い。でね、帰国してからもモヤモヤしていて。そんなタイミングで、『ルイ・ヴィトン ジャパン』の募集に出会ってね。電話受付の募集。テレマ経験がある私にぴったりでしょ」。
面接では、フランスでの接客の悪さを口にした。
「接客がひどかったって。言ってから、ああ、やっちゃったって思ったんですが、採用されちゃった」。
リクルートを退社して、ルイ・ヴィトン ジャパンに転職。これが登坂さんの色濃いキャリア。ルイ・ヴィトン ジャパンには1998年に派遣スタッフとして就業し、翌年に正社員に登用されている。
「珍しかったんじゃないかな。派遣から正社員ですもんね。その頃には、フランスでの苦い経験は忘れて、『ルイ・ヴィトン』のファンになって、ぞっこんだったんです」。
150年の歴史と、伝統と革新。
「藪蕎麦に通じるものがあるでしょ。たぶん、そこにも惹かれたんでしょうね。けっきょくね。1999年に正式に入社して、2014年まで勤務していました、クライアントサービスの部門で、主にクレーム処理を担当。その部門でサービスマネージャーを務めていました」。

2014年、杉並藪蕎麥、入社。

場面は少しかわり、「神田藪蕎麦」の話。大正時代に建てられた神田藪蕎麦の建物は「東京都選定歴史的建造物」だったが、2013年に火災で焼失してしまう。
翌年、再建され、現在に至るのだが、その再建された真新しい「神田藪蕎麦」に登坂さんの姿があった。
「杉並藪蕎麥は、弟がつぐ予定だったんですが、からだを壊して仕事から離れなくちゃいけなくなったの。それでね。私にお鉢が回ってきたんです。もちろん、大好きなお店ですから断れなかった。それで、ルイ・ヴィトンを辞めて。ちょうど神田藪蕎麦がリニューアルオープンのとき。私は、杉並藪蕎麥をつぐ決意をして、オープン初日から神田藪蕎麦で奉公をはじめます」。
女将さんから藪蕎麦の歴史を直に教わった。
「ルイ・ヴィトンじゃないですが、100年以上の歴史があり、それこそ、伝統と革新です。その歴史を脈々と受け継いで来られた女将さんから、直接、教えていただいて、藪蕎麦の世界に魅了されていきます」。
ルイ・ヴィトンの創業者は14歳で故郷を離れ、パリに出てきて、「トランク職人」をはじめる。蕎麦とトランク。つくるものはちがうが、職人の精神はおなじ。伝統と革新によってはじめて、歴史がつむがれていくのも、また、おなじかもしれない。
「2014年に、杉並藪蕎麥に入社して、社長になったのは2019年です。当時、コロナだったでしょ。代表者名で申請しないといけないことがたくさんあって、とにかくややこしい。父が細かい申請作業はお前のほうが得意だろ、じゃあ、私がっていう話になったんです。ただ、会長の父も代表権をもっていますので、今は2人代表です」。
2014年に杉並藪蕎麥に入社してからの仕事についてもうかがった。
ホームページの写真を指さしながら、「この『赤坂Bizタワー』の『やぶそば』は2018年1月22日にオープンしたんですが、こちらは、私がゼロから手がけました。阪急うめだ本店やミナモア広島駅ビル店も、私が手がけたお店です」と誇らしげにいう。
「赤坂Bizタワー店」の店内は、竹林に囲まれていたやぶそばが現代風にアレンジされている。オープンキッチンとカウンターも、いかにも今風。「伝統」と「革新」といった二つの言葉がうまく融合している。

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株式会社杉並藪蕎麥 代表取締役 登坂 薫氏

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再登場企画 株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”再登場企画 株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏登場。

本文より~

年商120億円が、8年後の今。

シーシャは、「水タバコ」とも呼ばれるタバコの一種。若者を中心に人気が高まり、「チルする」という言葉も生まれた。「まったりする」という意味なんだそう。
語源は「chill out(チルアウト)」(「冷静になる」「落ち着く」)とのことだ。
今回、8年ぶりの登場となった株式会社FS.shakeの代表取締役、遠藤勇太さん。2021年7月に、前回にはなかった「シーシャ カフェ&バー C.STAND新宿三丁目店」をオープンしている。
2017年にインタビューさせていただいたときは、水炊き鍋の「とりいちず」一本だったが、8年経った現在、2025年では「とりいちず」のほか「シーシャ カフェ&バー C.STAND」をはじめ、「もんじゃ酒場だしや」「博多酒場あいらしか」など複数ブランドを手がけ、全国展開するに至っている。
年商をみれば、違いは明らか。「2017年の、あのときは20店舗くらいで年商も10億円くらいでしたが、今は173店舗で約120億円を見込むまでになっています」とのこと。
コロナ禍を経て、急激に業績を拡大している。

アルバイトで、方向転換。ロボットから、飲食へ。

創業店のオープンまでの話を、前回のインタビューをもとに振り返ってみる。遠藤さんは1983年、島根県の安来市に生まれている。
「親戚も含め、みんなお堅い仕事。飲食に進むことには大反対された」とおっしゃっていた。
理系が好きで、ロボットに興味をもった遠藤さんは「松江工業高等専門学校」に進んでいる。
だが、モンテローザの「白木屋」でアルバイトをしたことで、人生は大きくかわる。ロボットより飲食に興味の針が傾いた。大反対されたのはモンテローザに就職したときのこと。
ただ、しばらくして、モンテローザを退職。そのとき遠藤さんの背中を押したのはお母様。息子の想いをだれよりもご存知だったんだろう。遠藤さんは、好きな料理を極めるため「服部栄養専門学校」へ進学するため、上京した。
料理の道を進んだ遠藤さんは、29歳で起業。2012年、西新宿に、水炊きと焼き鳥をメインにした鶏料理の専門店「とりいちず」をオープンする。
オープン当初こそ苦戦したが、鍋の季節になると徐々に業績がアップ。以来、5年で、20店舗を達成している。
しかも、それから8年で店舗数は8倍に、年商は12倍になっていた。なにが飛躍のカギだったんだろうか?
遠藤さんに尋ねると、予想外の返答だった。
「きっかけは、コロナです」。

コロナ、打ってでるしかない。

「コロナがなければ、年商も30~50億円でとまっていた」と、遠藤さんはいう。
その理由を伺うと、「コロナがきっかけで『とりいちず』以外にもチャレンジしてみようとなったことが、業績アップにつながった」そう。
「焼肉でしょ、エビ居酒屋、白湯ラーメン、とりいちず食堂と、いろいろやりましたね、うまくいきませんでしたが」と笑う。
<だめだったんですか?>
「そうなんです。でも、失敗ばかりじゃなかった。成功もしました。『シーシャ カフェ&バー C.STAND』が、その一つです」。
複数ブランド。その発想が起爆剤になった。
とはいえ、コロナ禍である。
「うちは従業員の希望もあって、全店ではないですが、オープンできるお店はコロナ禍でも営業していました。新ブランドにも挑戦し、C.STANDをオープンしたのは、2021年の7月です」。
コロナ禍での戦い。
身をかがめてやり過ごすか、打ってでるか。
資本が潤沢な会社は前者を選択できるが、そうでなければ打ってでるしかない。経営者には、ギリギリの選択が迫られたときでもある。
結果的には、この打ってでる戦略が功を奏する。「C.STAND」だけでも、今や全国に46店舗。
時流に乗ったと言えば、それまでだが、それ以上に遠藤さんの果敢なチャレンジにこそ、成長の本質がある。
とにかく、アンテナの感度が高く、いいと思えば、ためらわない。「シーシャ」もそうだが、生ビール199円が話題になっていると聞けば、すぐに199円の生ビールを売り出した。
いち早く、目をつけ、その勢いに乗るのがうまい。ただ、ブームに乗るだけではなく、牽引する。
やるとなればエンジンがちがう。ただし、だめだと、わかればすぐに撤退。とにかく、決断が早い。これが、遠藤さんのストロングポイントである。

遠藤さんの視野には、ボーダーがない。

2025年現在、「とりいちず」をはじめ、「C.STAND(シースタンド)」「もんじゃ酒場 だしや / 月島もんじゃ 三日月」「博多酒場あいらしか」「焼き小籠包 火鍋 飲飲酒場 (ヤムヤムサカバ)」などを展開。
M&Aをきっかけにラーメン業態「麺屋音(天翔)」や「串亭(リアルテイスト)」がグループインし、ブランドの幅がさらに広がった。
「業態によって、ロケーションがかわってくる。『とりいちず』と『C.STAND』では、当然、ちがいますし、『串亭』だったら、商業施設もOKです」。
ロケーションといったが、遠藤さんがいうのは、東京だけではない。話が鹿児島に飛んだと思えば、次には大阪の話になる。
鹿児島の話は「C.STAND」が登場して、大阪の話では「もんじゃ酒場 だしや」が登場する。
遠藤さんにはボーダーという感覚がないようだ。「いけそうなら、ベットする」。尽きないエネルギーで次々、領域を拡大している。
業績だけでいうわけではないが、まさに、次世代の飲食のリードオフマンだ。
「来期は180億円超えを見込んでいる」と遠藤さん。
そんな遠藤さんに、一番きつかったのはいつ?と聞いてみた。意外にも、飛躍のきっかけともなったコロナのときという。 どういうことだろう?


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続き

株式会社FS.shake 代表取締役 遠藤勇太氏

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2025年10月7日火曜日

株式会社white star(『TANIARASHI』六本木) 代表取締役 山口 俊氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社white star(『TANIARASHI』六本木) 代表取締役 山口 俊氏登場。

本文より~

定位置は、ピッチャー、4番。

100キロ超のストレートが唸る。バッターボックスに立つと、相手ピッチャーは、その威圧感に圧倒される。何しろ体がデカい。バット一閃、高々と舞い上がったボールは外野の頭を超え、転々とする。
ピッチャー、4番。
これは、野球をはじめてから山口さんの定位置だった。お父様は、元関取。山口さんは、お父様に似て小学生6年生で170センチメートルはあったそう。
中学でも当然のように、ピッチャーで、4番。
中学の頃には140キロくらいでていたのかもしれない。
「とにかく、体が大きかったので」と山口さん。
プロのピッチャーは、兎角、我が強い人という印象だったが、山口さんは想像とは違った。
<断トツだったでしょ>と水を向けても、「まぁ、そうですね」とやわらかなトーンで返答。相手をねじ伏せるマウンドの姿と違い、温厚なビジネスマンといった印象だった。
<マウンドの姿とはちがいますね>というと、笑って頷かれたかもしれない。
しかし、今のビジネスの話になればスイッチがかわる。代名詞だった150キロ超えのストレートのようなスピードで、話が進んでいくことになる。
もうおわかりだと思うが、今回、こ゜縁がありご登場いただいたのは、元メジャーリーガーの、ピッチャー、山口俊さんである。

メジャーリーガーを育てた白米。

山口さんの経歴は、様々なメディアで語られているので、簡単に触れることにする。山口さんは、大分の強豪校である「柳ヶ浦高等学校」に進学。1年時から甲子園に出場。ドラフトでは横浜ベイスターズから1巡目で指名され、11年、エース、クローザーとしてマウンドで戦い続ける。
その後、読売ジャイアンツに移籍。移籍2年目にはノーヒットノーランを含む9勝。翌年の2019年にはハーラートップの15勝をあげ、最多勝、最高勝率、最多奪三振、ベストナインのタイトルを総なめ。
その翌年、小学生時代から目標だった大リーガーをめざし、海を渡った。
プロになってからの話はとくに取り上げられていたので、高校生時代の話を少しする。
「野球部は全員、寮生活です。当時のことですから、上下関係はそれなりに厳しかったですね」。
部員数120名。
----寮ではどのような生活でしたか?----
「野球部の寮生活といえば、たいていそうですが、とにかく白米です」。
----白米、ですか?----
「寮に入ると、外界とはシャットダウンされます。朝5時半にはグランドに出て練習。昼練と、5時間目以降も、体育の授業という名の練習です。もちろん、そのあとも練習」。
きりがない練習漬けのなかで、ご飯は楽しみに違いないと思っていたが、そうではないらしい。白米の続き。
「朝飯が1200グラム、昼が800、夜が1800です。メインは少々。これは、全員のノルマです。今のようにプロテインも一般的じゃなかった時代です」。
----つまり、白米?----
「そうです。正月に数日オフがあるんですが、それ以外は、白米との戦いです(笑)」。
あるある話なんだろうが、食が細い球児には、けっこうきつい。
今のように科学的なトレーニングも広く知られていない時代。ピッチャーの山口さんは、とことん投げ込まされた。
土日の練習試合は完投。その翌日にも200~300球投げた、という。当時は、それが当然だった。
試合が終れば、もちろん白米との戦いが始まる。
「高校生の青い春は、ぜんぜんなかったですね」と山口さん。
----つらくなかった?----
「『つらい』とか、そういうのはないですね。高校になると、プロへ行った先輩もいましたから、私のなかでもプロのマウンドで投げることがリアルに想像できるようになってきました。ただ、プロになることが目標だったら違っていたかもしれません。私の場合はもう、プロになることではなく、プロでどうするか、どうアメリカに行くか。望む世界が違っていましたから、つらいという意識はなかったです」。
頭のなかを占めている思いは、「どうすればメジャーの選手がキリキリ舞いする速い球が投げられるのか」。それだけ。だから、山口さんは、黙々と投げ込み、黙々と白米をかきこんだ。
そんな山口さんを、監督や仲間の選手はどうみていたんだろう。プロへ行く選手だと、山口さん以上に確信していたかもしれない。
「やつなら、まちがいない」。
そして、その予想は現実になり、横浜ベイスターズが山口さんを1位で指名する。

マウンドを降りた山口さんの、新たなチャレンジ。

----改めておうかがいします。山口さんは1987年、生まれですね?----
「そうです。大分県の中津で生まれます。私が物心ついた頃には、父はもう関取ではなく、祖父がつくった飲食店を継承していました。今、私が経営する『ちゃんこTANIARASHI』の本店です。こちらの店は今、兄が継承しています」。
-----関取というくらいですから、お父様も大きな体をされていたんでしょうね----
「181センチ、140キロだと言っていましたから関取としては平均だと思いますが、一般的には背も高く、体も大きいほうですよね」。
父に似て、兄弟は2人とも背が高い。3人で連れ立って歩けば、体格だけで山口さん一家だとわかったかもしれない。
----お父様は、有名人だったんでしょうね?----
「う~ん。どうでしょう。中津では、初の関取ですから、それなりだったと思います。ただ、父はそれを自慢することもなかったですし、人に感謝する人ですから。有名人というより、愛されキャラだったんじゃないでしょうか」。
人物評ではないが、山口さんはユニークな尺度の話をする。
「お年玉です。子どもにお年玉がどれだけ渡されるか。それが、親のネットワークを表していると思うんです」。
なるほどな、と。そういう尺度を気にされていると知って、改めて、山口さんの輪郭がクリアになる気がした。
----つながりや人間関係を大事にされるのは昔からですか?----
「そうですね。たぶん、父や母の影響もあると思います。少なくとも、子どもの時も、プロに入ってからも天狗にならないで済んだのは、父母のおかげです」。
ビジネスでも天狗になるとたいてい失敗する。
----ところで、どうして飲食だったんですか?----
「野球を辞めてどうするか、スポーツ選手だけではないですが、セカンドキャリアは多かれ少なかれ、悩むところです。解説者やコーチ、監督、球団のスタッフとなっていく選手もいますが、私は、野球以外の世界で生きていこうと思っていました。メジャーのマウンドにも上がることができて、後悔がなかったといえば嘘になりますが、やりきったという思いをもつことができたからかもしれません」。
----最初から、ちゃんこという発想はあったんですか?----
「いえ、野球以外でどんなビジネスをするか。最初から飲食ありきではなかったんです。ただ、食べることが好きだし、実家は飲食店だし」。
山口さんは、祖父がはじめ、父が育て、今、兄が経営しているちゃんこ鍋を東京で、と。アイデアがわく。
マウンドから降りた山口さんのチャレンジが、そうして始まる。

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株式会社white star(『TANIARASHI』六本木) 代表取締役 山口 俊氏

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2025年9月30日火曜日

株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏登場。

in-職(いんしょく)ハイパー“飲食の戦士たち”株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏登場。

本文より~

小学生で、社長になった少年。

「小学生で、社長になった」と笑うのは今回ご登場いただいた株式会社雷神の代表、加藤裕之さん。1972年というから第二次ベビーブーム。小学生の数も多い。
「今とはぜんぜんちがいますね。子どもの人数は多いから、ぜんぶ競争だし、スマホもゲームもない時代ですから、ゲームだって、みんなでつくって」。
それで、社長ゲーム?
「ゲームというより、ごっこですね。社長ごっこ。なぜか、ぼくがいつも社長だったんです(笑)」。
「社長になりたい」と思ったのは小学生の頃。鉄板焼のお店を経営する父親の影響だそう。加藤さんが小さな頃はとくに商売繁盛。「同業がないのが、よかったんじゃないかな」と加藤さん。
小さなスタッフ、加藤さんは、お客さんに可愛がられた。野球では、1番ショート。小さな「社長」はとにかく足が速かったそうだ。中学から陸上部に所属し、高校では100メートル11秒を記録している。
バイクも速かった。チューニングして性能を高め、毎夜、ツーリングに出かけた。「高校時代は部活、バイト、バイクの4B」と加藤さん。
寝ることもなく、駆けつづけた。
勉強もできなかったわけではない。ただ、本人は「小さな頃から、社長になると決めていたんで大学進学はもともと頭になかった」という。

長野の山にこもった時の、副産物。

高校を卒業してはじめたのは、東洋経済新報社ビル地下のバーのバーテンダー。皿とグラスを洗いながらカウンターの向こうの会話に耳をそばだてた。
「新聞社の人間と上場企業の役員のヒソヒソ話です。今だったら絶対インサイダー情報です(笑)」。
もちろん、このバーに勤めたのは、この情報を狙ってのこと。頭の回転も早く、行動力もある証。
「うちは、父母はもちろん、祖父も祖母もみんな商売人。ぼくも小さな頃から現金で育ってきたでしょ。だからでしょう。子どもの頃から商売人気質だった気がします。だから、いつも社長だったのかもしれませんね」。
「商売人」×「社長」。
大人になると社会のしくみも知るべきだと、「株式に興味をもった」という。
もっとも、このあと東京のど真ん中、八重洲口から離れ、長野の山に籠もる。
「あれは20歳の時ですね。スノボーにハマって、今度は山に住もうと。雪が降ると山に入り、雪がなくなると麓に降りてラーメン店でバイトをします」。
「そのバイトがぼくの修業の一つ」と加藤さん。
「3年くらい山と麓を行き来して。夏の間はずっと、そのラーメン店です。その店でマスターした餃子が今の餃子のベースなんです」。
それにしても趣味のスノーボードやスキーと仕事。山を降りては、バイトと修業。
「3年くらいたって、そろそろ東京に戻らないと、となって。浅草の、ラーメン店で働きはじめます」。

ラーメン店で出会った女性に惹かれて。

「最初は、すごい人がいるなって」。加藤さんがすごい人というのは、そのラーメン店で働いていた2つ年下の女性のこと。
「めちゃくちゃ流行っているラーメン店です。彼女は看板娘っていうか、すごくきれいな人だったんで、お客様にも好かれていて。でも、ただの看板娘じゃないんです。ラーメンを次々と、すごいスピードでつくるんです」。
「尊敬していた」と加藤さんは大真面目に語る。
「はたらいているうちに、だんだんと距離が縮まって。いつだったか、一緒にラーメン店をやろうということになって。資金稼ぎのために深夜トラックに乗るんです」。
奥さんもトラックに?
「そう、1代ずつ2台で」。
思わず、答えを書いてしまったが、その彼女と結婚。加藤さんは2社かけもちで、18時間、はたらいたという。
そうして、結婚と同時に2人の念願のラーメン店がオープンする。もう一つ嬉しいことがあった。
「オープンしてすぐに、息子が生まれたんです」。
さて、なにやらめでたい尽くしだが、オープンした店は、どうだったんだろう。小学校では、ごっこだったが、今度は、リアルな社長業。失敗はしゃれにならない。

雷神ラーメン、オープン。

「貯金をぜんぶつっこみましたから、オープンしたらお金が全く無かった。だから、自転車操業です。業者さんには、その日の売上でお支払いしてね」。
ただ、金がないからといってひるむ加藤さんではない。本人いわく「最初からイケイケだった」そう。
「昔の後輩たちが、先輩が店をオープンするからって、チラシをボランティアで撒いてくれたりして。それも助かりました。いっしょにバイクで走りまわった仲間たちですが、案外、義理堅い(笑)」。
繁盛しましたか?
「おかげさまで」と加藤さん。
イケイケ店主は昼の12時からスタートして、日付変更線を軽々と越え、翌朝7時まで働く。もちろん、無休。
「長野の餃子とラーメン、そして浅草のラーメンをアレンジして。チラシの効果もあったんでしょうか。オープン初日からお客様の入りがハンパなかったです。もちろん、子どもができたばかりで、ワンオペ。それで、ぶっ通しですから、ぶっ倒れたりもしましたね」。
倒れたんですか?
「今思うと、25歳で若かったからできた。とにかく、やればやるほどキャッシュが貯まる。アドレナリンがでまくっていましたから」。
イケイケというものの慎重でもある。
「目標は、無借金経営までもっていこう、と」。
経営の羅針盤は小学生の社長ごっこ、と、父親の背中。
ところで、店名の雷神ラーメンですが、由来は?
「まぁ、思いつきなんです。浅草で修業させてもらっていたんで」と加藤さん。
雷門が、すぐ頭に浮かんだ。
2025年10月には念願の浅草に油そば店がオープンするそうだ。

餃子1本勝負。

ところで、雷神ラーメンだが、今はラーメンの文字はなく、社名も「雷神」である。「20年前に、ラーメンは競争が激しく、劣化しやすいと、ラーメンをやめ、人気だった『餃子』1本に絞ったんです」。
それが、今の卸売メインの事業に進化していく。
「餃子ってね。大手の中華料理店などは自社で製造していますが、それ以外の、たとえば、居酒屋さんやラーメン専門店は、餃子を業者から仕入れられているケースが多いです。ラーメンとちがって餃子はつくるのが難しいし、時間がかかるんです。だから、普通は買うほうがローコスト。もちろん、居酒屋に餃子はなくてもいいんですが、お客様からするとメニューにあったほうがいいでしょ」。
たしかに、あれば注文しちゃいますね。
「そう、そういう餃子のニーズを知っていましたし、ラーメンが長く続かないこともわかっていましたから。『餃子1本』、しかも、卸だと」。
餃子というと長野で修業された時の、餃子ですか?
「そう。長野で山にこもっていた時のバイト先、それに浅草の修業先のエッセンスをプラスして。そして、もう亡くなりましたが祖母といっしょに自宅のキッチンで、それこそ数千回の試行錯誤を繰り返して生まれたんです」。
味付き餃子で、醤油もいらないとか?
「発売当時は、そういう餃子がなかったから、とくにヒットしたんだと思います」。
たしかに、ホームページには「基本的には調味料を何も付けずにお召し上がりいただけます。もし何かお付けになるとすれば酢コショウなどがよく合います」とある。
そういえば、最近、酢コショウで食べる人をみかけることがある。酢醤油とラー油はもう、昭和の固定観念なのかもしれない。
とにかく、雷神餃子である。
餃子に絞って、卸を進めて、今や全国500店舗以上の飲食店に提供しているそう。
「うちは、鮮度が落ちるといけないから基本は小ロットで卸業者に渡しています。長期の保存もオススメしていません。だから、日々注文をいただきます」。
つい最近まで、自社工場で30人以上のパートさんたちで製造していたが、数が追いつかず、今は外部にも依頼しているそう。それだけ、需要がある証。
「まだまだいけるんじゃないでしょうか。餃子の隠れたポテンシャルですね。ラーメンみたいに、やみつきになるような人はいないが、浮き沈みなく、愛されつづける。サイドメニューっていうのがいいんです。脇役のような存在ですが、だからこそあきられず長く愛されるんです」。
長く餃子を売り続けている加藤さんがいうんだから説得力がある。餃子は、ラーメン同様、今やもう、日本の国民食でもある。

株式会社雷神 代表取締役 加藤裕之氏

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2025年9月27日土曜日

BS10、プロ野球中継にて限定で7月末から9月末まで)飲食企業様16社にご対応頂きました。 

BS10プロ野球中継にて、試合後 元野球選⼿の解説者とゲスト⼥性出演者に試⾷コーナーを設け食事を限定16社の飲食企業様より協賛頂きました。(7月末~9月末)。   
キイストンは、そのアテンドをしました。

BS10(https://www.bs10.jp/20241029_bs10/)   2025.1.10開局!
株式会社ジャパネットホールディングス(本社:長崎県佐世保市/代表取締役社長 兼CEO:髙⽥旭⼈) のグループ会社。
BS放送事業を担う株式会社ジャパネットブロードキャスティング(本社:東京都中央区/社長執行役員:佐藤崇充)

協賛企業は以下の通りです
7/26(土):プログレ様
7/31(木):KIWAMI様
8/02(土):鶏ヤロー様
8/07(木):マリノ様
8/09(土):ココロオドル様
8/14(木):ホイッスル三好様
8/21(木):FTG(焼肉ふたご)様
8/23(土):関内産業様
8/30(土):IFREA様
8/31(日):G-vision様
9/04(木):雷神様
9/12(金):オルニ様
9/13(土):長岡商事様
9/15(月):エレガントエース様
9/18(木):店舗ナンバーワンホールディングス様
9/27(土):マックスフーズジャパン様
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戦略型総合人材採用サービス会社キイストン